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天龍源一郎

登録日:2012/09/10(月) 22:41:26
更新日:2024/09/29 Sun 00:54:20
所要時間:約 10 分で読めます





◆天龍源一郎

天龍(てんりゅう)源一郎(げんいちろう)」は1950年2月2日生まれの日本の男性プロレスラー。
本名嶋田源一郎。

僅か13歳で角界に入った後に、プロレスに転向して76年に全日本プロレスに入団。
以降、全日本プロレス、退団後にWARを率いて外敵参戦した新日本プロレスの二大メジャーでタイトルを獲得し、
フリーとなった後もインディーにも参戦する等、実に幅広い戦場で戦って来た。

また、普通は年齢を重ねれば徐々に第一線を退いて行くのが世の常なのだが、
天龍の場合は己の身一つを商売道具に40代、50代をフリーの超大物としてプロレス界を渡り歩いてみせた。

05年には、絶対に接点を持つ事は無いと思われて(思い込まれて)いたNOAHに参戦。

主戦場としていたハッスル!消滅後には暫く成りを潜めていたが、2010年から自分が主催する興行「天龍プロジェクト」を開始している。

その、余りにも長期に渡る活動から現在は「ミスタープロレス」「生きる伝説」「昭和の怪物」と呼ばれる事が多いが、全日本プロレスからWAR時代は「風雲昇り龍」が代表的なニックネームだった。



【略歴】

福井県勝山市出身。
勝山市立北郷小学校卒業後、勝山市立北部中学校へ入学するも、大相撲への入門が内定したことから中学2年の時に墨田区立両国中学校へと転校した。
プロレス好きでも知られる落語家の三遊亭園楽(楽太郎)師匠は当時の同級生である。
1963年12月、二所ノ関部屋に入門。
天龍の四股名で1973年1月場所から幕内に16場所在位し西前頭筆頭まで上り詰めるが、1975年に師匠の死去に端を発する部屋の後継問題(押尾川事件)に巻き込まれる。

この事件により廃業しプロレスラーへの転向を決意し、ジャイアント馬場の全日本プロレスに76年に入団。

ジャンボ鶴田に続くスター候補としてエリート待遇を受けるも、不器用で相撲の動きが染み付いていた天龍は苦悩の時代を過ごす。

しかし、80年代に入り頭角を現し始めた天龍は、84年に電撃参戦した長州力との抗争を通じて感情を全面に押し出した戦い方を確立。
この頃、必殺のパワーボムも完成させている。


87年に長州の電撃離脱により人気低迷に見舞われた全日本だが、天龍は「天龍革命」を掲げて新たな熱を呼び込む。

ライバル鶴田との「鶴龍対決」は、新たなる全日本の名物となり、後に「四天王プロレス」を生み出す礎になったと言われている。
また、「組みながら競い合う」をコンセプトにした阿修羅・原との「龍原砲」タッグは全日本の一時代を築いた。

名実共に全日本を支える存在になった天龍だが、89年に師匠ジャイアント馬場から勝利を収めた後、黒船SWSにまさかの電撃移籍。
この頃に提携を結ぶWWF(WWE)に進出しレッスルマニア12にも参戦する等もしているが、SWSは僅か2年で崩壊。

新団体WARのエースとなった天龍は93年より盟友長州の計らいで新日本プロレスに参戦し、長州、橋本蝶野、更にはアントニオ猪木をも撃破。
一躍、日本マット界の頂点に立つ。

WARが活動停止すると98年よりフリーに転身。

新日本の他、インディー団体や“ミスター女子プロレス”神取忍とも戦い話題を集めた。

99年には武藤を破ってIWGPヘビー級王者になり、ベイダーに続く史上2人目、日本人初の三冠&IWGP獲得。
また世界タッグ&IWGPタッグも獲得している事から史上初のを含めて新日、全日のシングル、タッグ王座全制覇と言う偉業を成し遂げた。

00年に三沢らの大量離脱により古巣全日本が崩壊の危機に陥ると一時的に帰還を果たし、三冠ヘビー級王座を奪取。
かつての愛弟子、川田利明との再会マッチを制する等、天龍なりのけじめを付けた。

03年には新日本を離脱した長州のWJに参加。
長州との連続シングルマッチを予告するも、両者の体調不良により頓挫……混乱の中でWJ自体が崩壊してしまった。

05年に三沢光晴以下、元全日本プロレスの人間が設立していたNOAHにまさかの参戦。
しかし遺恨があると思い込んでいたのはファンの方で、天龍はプロレス界の重鎮としての存在感を存分に発揮した。

そして、DRAGON GATEの後見人になる他、多くの芸能人も参加した虚々実々のファイティングオペラ「ハッスル!」を主戦場とする。
元々インディーのメチャクチャなプロレスにも適応していた天龍だったが、06年から翌年6月までは高田モンスター軍を追われるまでベビーフェイスであるハッスル軍や坂田亘率いる坂田軍団を苦しめ、07年7月の静岡大会からはハッスル軍に正式加入して興行を盛り上げるも09年に活動停止。モンスター軍に加わっても卑怯な事をせず、古き良き男らしさ溢れるファイトとマイクパフォーマンスで観客の支持を維持した。

主要な参戦場所を失った天龍は暫くプロレスから離れていたものの、
遂に60代に入った2010年より「天龍プロジェクト」を掲げ、プロレスの未来に繋がる活動を目指し活動をしていた。

しかし、2015年長年に渡り付き添ってきた夫人の闘病生活を支える為に引退を表明。
1年に渡る引退ツアーを行い、グレート小鹿といった盟友からインディーの若手、更には女性の里村明衣子、赤井沙希と幅広い世代の選手と対戦した。

そして、2015年11月15日。
超満員札止めとなった両国国技館でなんと親子以上の年齢差がある時のIWGPヘビー級王者のオカダ・カズチカと対戦。
当然ながらかたや現役バリバリの王者オカダ、かたや既にロートルの天龍では実力差は歴然であり、一方的に天龍が痛めつけられ敗北。
しかし、オカダの攻撃を全て受け止める天龍の姿に、場内は感動に包まれ、これまでプロレス界を支えてきた重鎮にオカダは最大限の敬意を表して、試合終了後には起き上がれない天龍に対して深々と頭を下げて送り出した。
この壮絶な引退劇は翌日のニュース番組に取り上げられるなど日本中にかつてない衝撃を与え、同年度のプロレス大賞年間最高試合(ベストバウト)を受賞した。*1

現在はタレント活動の傍ら、引退以降休止していた天龍プロジェクトを再開。夫人に先立たれる、病魔に倒れるなど不幸があったものの、プロレス界の活性化のため精力的に活動を続ける。

【人物】

タイプ的には“非常に”不器用なレスラーではあるが、
感情や気迫を真正面からぶつける戦い方と、多少の技術の差など無意味な物にしてしまう当たりの強さにより日本マット界の頂点に昇り詰めた不屈の男である。
上記の幅広い活動を見れば解る様に、BI(馬場、猪木)を筆頭に鶴田、藤波、長州、闘魂三銃士全日本プロレス四天王と云う、
日本マット界のトップ中のトップ……真の一流と呼ばれた全員から勝利を収めた経験を持つのは天龍のみである(BIは全盛期の対戦では無いにしろ)。

最大のライバルと言えるのは矢張りジャンボ鶴田で、天龍は全日本から離れて後もジャンボと戦う事を常に想定してトレーニングを積んでいたと云う。

無骨で不器用にもかかわらず思い切りが良い性格で。ぶっつけ本番で自らのキャラクターに合わない意外性の技を繰り出す事もあった。

性格的には非常に面倒見の良い親分、兄貴分的な気質。
テリー・ファンクは「馬場に次ぐ全日本のリーダー」と公言していた。
しかし、グレート・カブキの自伝によれば1980年後半頃から鶴田と共に全日本の看板選手になったにもかかわらず、
本人のギャラは全然上がらない上に可愛がっていた川田や冬木といった若手も全然ギャラが上がらず、
その上馬場の異常なまでの鶴田偏愛から確執が生まれてしまいSWS移籍に至ったことが記されている。

この時三沢や川田らも天龍の退団にはかなり迷ったらしく

三沢「(天龍から)直接声がかかっていれば行っていた」

川田「(ノアへの大量移籍の時に残留した際に)あの時(SWS)の方がよっぽど(移籍するか)迷った」

と2人とも言っている。
事実天龍は三沢に「酒の席の上の冗談」という形で誘った事があった。

また2000年代以降はフリーとして様々な団体を渡り歩いたこともあり、人脈も広く引退試合となった両国国技館の興行では、
新日本、全日本、ノアのメジャー団体を始めインディー団体や女子プロレスまで様々な試合が提供された事からもうかがえる。


また元力士と言う事もあって非常にカネ払いも豪勢であり、

  • 付き人時代の小川良成は、巡業先での食事代を払ってもらうだけでは無く、全日本の給料(推定5万円)の何倍も天龍から小遣いを貰っていた。

  • 新日に移籍する越中に対して、移籍を認めない馬場への説得に同行した上に、餞別につかみきれないほどの一万円札を越中のポケットにねじ込んだ。

  • 飲み屋で飲んだ際、「俺が全部払うよ!」と宣言。ところが店員が持ってきた会計を見て
    天龍「こんなはずないよ。もう1度やり直してくれ」
    店員「???」
    と押し問答が続き、店長「お客様、申し訳ありませんがお会計は間違っていないようです…」
    天龍「何を言ってる。俺は全部支払うんだ。だから俺達のテーブルだけじゃなくて、この店にいるお客さん全員のお会計だよ!
    店長以下一同「!?工エエェ(゚〇゚ ;)ェエエ工!?」

と話には事欠かない人である。


【得意技】

●パワーボム
最大の代名詞で、この技を使い天龍は幾多のトップレスラーを葬った。
天龍の場合は叩きつけた後の押さえ込みを重視した、よりフィニッシュに特化した使い方をしていたと云う。

●53歳
初期型は垂直落下式のジャックハマーだったが、後には垂直落下式ブレーンバスターかノーザンライトボムか良く解らない技になった。
威力は高く、パワーボムが加齢により十分な威力を発揮出来なくなって以降の必殺技となった。

●ラリアット
天龍は左腕で浴びせ倒す様に使う。
威力は高く、フィニッシュに使われる機会も多い。
「天龍革命」時代には阿修羅・原とのサンドイッチ・ラリアット(所謂クロス・ボンバー)も話題になった。

●天龍チョップ
所謂逆水平チョップだが、元祖の力道山同様に相撲時代の張り手を応用した天龍のチョップは重く、強烈である。
場合によっては喉元に入れる事もありえげつなさは十分。
その威力は50代にして対戦した同技の第一人者である小橋建太に「いい加減にしろ」と言わしめた程。

●グーパンチ
所謂ゲンコツ。
スピードがある訳でも無ければ格闘技に由来する打ち方でも無いが、とにかく痛さが伝わるオヤジのゲンコツである。
……何故かあまり反則は取られません。

●顔面蹴り
うつぶせの相手の顔面を無造作に脛で蹴る。
見た目以上に危険でKOされた選手もいる。
愛弟子の川田がパワーボムと共に継承していた。

●延髄斬り
アントニオ猪木の得意技だが、天龍は聞いただけのこの技を独特の形で会得。
同型の延髄は田上明が継承している。

●DDT
同技を最初に日本に持ち込んだが、オリジナル技と称した上に技名を「デンジャラス・ドライバー・テンリュー」と訳した為に後に混乱が生じる事になった。

●ダイビングエルボードロップ
天龍の場合は背面を向いてコーナーに昇り、そのまま背中をマットに向けたまま落下すると云う独特の形であった。
矢張りオリジナルでは無く、米国修行から持ち帰った技である。

●WARスペシャル
尻餅を着いた相手の背後から両腕を逆閂に極める技(マンチュリアン・ロック)。
裏は羽根折り固めに近い形になる。





【余談】

プロレス界最強の酒豪である……と言われていたが、力道山に早飲みを鍛えられた猪木には勝てなかった様である。

※力士時代は美男力士として有名で、全日本時代にも色白の見た目であったが、全日本以降は赤銅色に日焼けした肉体がトレードマークになった。

※50代になってから使用し始めた新必殺技の“53歳”は、開発当初は現実に年齢を取るのとは逆に技名を一つずつ若返らせる予定であると公言していたが、
結局は“53歳”のままで今に至っている。





追記・修正……俺のはガッチリ押さえ込んだら返せないよ。

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最終更新:2024年09月29日 00:54

*1 ちなみにその年のMVP(=最優秀選手賞)を獲得したのはオカダだが、最後までその座を争ったのも天龍だった。