イタリアの攻撃、そしてコンパス作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 15:05 UTC 版)
「リチャード・オコーナー」の記事における「イタリアの攻撃、そしてコンパス作戦」の解説
詳細は「コンパス作戦」を参照 1940年6月10日、イタリアがイギリスとフランスに宣戦布告すると、オコーナーは直ちに西方砂漠軍(英語版)司令官に任命された。エジプトからイタリア軍を追放し、スエズ運河及びイギリスの利益を守るため、エジプト・イギリス軍(英語版)司令官のヘンリー・ウィルソン(英語版)中将から任された職である。 9月9日、イタリアのエジプト侵攻が開始された。9月13日、イタリアのロドルフォ・グラツィアーニ元帥率いる師団はリビア国境を越え、エジプトを約96キロ(60マイル)進軍してシディ・バッラニ(英語版)に到着した。供給が不足していたこともあり、彼はそれ以上の進軍を取りやめてシディ・バッラニでの停止を決断した。ムッソリーニはこの決定に激怒したが、ピエトロ・バドリオ元帥の承認もありこの地に留まることとなった。オコーナーはこの時、反撃の準備をしていた。彼の下には第7機甲師団(英語版)とインド第4歩兵師団(英語版)が配属されており、エジプトに派兵されていた本国と連邦合わせた兵力は約3万6千人に上っていた。一方のイタリア軍はその5倍もの兵力を有しており、さらに数百両の戦車や火砲、大規模な空軍支援も整えていた。オコーナーをはじめイギリスは数量でこそイタリアに劣っていたが、第7機甲師団や新たに編成された長距離砂漠挺身隊は小規模な攻撃縦隊を形成してこれを送り込み、イタリア軍に絶え間なく攻撃を与えることで混乱に陥れている(これが後の特殊空挺部隊へ発展することとなる)。王立空軍と王立海軍は共にこれを支援し、イタリアの防衛拠点や飛行場、後方地域に砲撃や爆撃を実施した。 11月中、オコーナーは大規模な部隊を率いた功績を評価されて臨時中将に昇進した。 12月8日、イギリスはコンパス作戦を発動し、イタリアへ反攻に出た。オコーナーの3万1千人の兵士と275両の戦車、120門の火砲からなる比較的小規模の部隊は、王立空軍と王立海軍による巧みな支援の下、海岸付近のシディ・バッラニに留まっていたイタリアを防衛線の隙間を突いて撃ち破った。西方砂漠軍は、砂漠と海岸の間を縫うように敷かれたイタリアの後方地帯を切断し、防衛拠点を孤立させた。その後拠点を占領している。イタリアの銃器はマチルダII歩兵戦車に歯が立たず、砲弾はマチルダIIの重装甲に弾かれるだけであった。12月中旬までにイタリア軍はエジプトから追放され、3万8千人にも上る捕虜と、備蓄された多くの資材や装備が残された。 西方砂漠軍は混乱したグラツィアーニの残党勢力を追いかけ、イタリア領リビアへ攻撃を仕掛ける前に一時休息をとった。その際、中東駐留軍最高司令官のアーチボルド・ウェーヴェルから、イタリア領東アフリカ侵攻の先頭へ置くためにインド第4歩兵師団を下げるよう要請された。その結果、インド第4歩兵師団は経験の浅いオーストラリア第6師団(英語版)に取って代わられたが、この師団は逞しくはあったものの砂漠での戦闘を想定した訓練を積んでいなかった。古参部隊の撤退があったにもかかわらず、イタリアへの攻撃は最小限の遅延で留められ、継続された。12月の終わりまでにオーストラリア師団はバーディア(英語版)を包囲し、4万人以上の捕虜と400門の銃器とともにこの地を占領している。 1941年1月初頭、西方砂漠軍は第13軍団(英語版)に再編された。1月9日にイタリアへの攻勢が再開され、1月12日にはイタリアの防衛拠点であるトブルクの要塞港を包囲した。1月22日にトブルクは陥落し、2万7千人のイタリア人捕虜とともに貴重な食料や物資、武器などを獲得した。なお、トブルクが陥落したことで第13軍団は中東駐留軍最高司令官であるウェーヴェル直属の部隊となったため、エジプト駐留軍司令部を指揮系統から外すことになった。1月26日にはリビア東部に残留していたイタリアの師団が、海岸沿いである北西に向かって退却し始めている。オコーナーは機甲部隊を南西部の広大な砂漠へ向かわせ、歩兵は海岸を北上させて速やかにこれを追走し、分断した。第4機械化旅団(英語版)の軽機甲部隊は、退却するイタリアの軍勢を先回りした2月5日にベダ・フォム(英語版)に到着し、主要な海岸沿いの街道と彼らの退却路を阻害した。2日後、封鎖を突破するために行った試みが失敗したこと、イギリスの歩兵部隊にリビア北部のベンガジで圧倒されたことなどがイタリア軍の士気を削いだ上に疲弊を招いたため、イタリアは無条件降伏した。オコーナーとエリック・ドーマン=スミス(英語版)はウェーヴェルに対し、「狐は公然と殺された...」と返電している。 2ヶ月間で第13軍団(西方砂漠軍含む)は800マイル (1,300 km)以上を進軍した。イタリア軍の10コ師団を壊滅させ、13万人を捕虜にとり、400両の戦車と1,292門の火砲を撃破した。イギリス側には500人の死者と1,373人の負傷者が出ている。この功績により、オコーナーはバス勲章ナイト・コマンダーに列せられた。
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