人生論
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1970年代後半、濟州島旅行を契機に李は、人生に対する哲学的関心を具体化していく。その結果物が1980年代・90年代の思惟を経て2014年に発表された『人生の構造』である。この本で李は、「5W1H」の原則に法って、「人生」という大いなる哲学的主題に挑む。「生の主体—我々は誰として生きるのか」、「生の時間—我々は何時を生きるのか」、「生の場所—我々は何処で生きるのか」、「生の内容—我々は何をして生きるのか」、「生の性格—我々はどんな人生を生きるのか」、「生の理由—我々は何故生きるのか」。多少図式的な感じを与えるが、それは、李が「新しい哲学-常識の哲学-親近な哲学-易しい哲学-接近可能な哲学-親切な哲学-ソフトな哲学-愛の哲学-暖かい哲学-優しい哲学-文化としての哲学」を志向するからである。しかし、このようなソフトな形式の反面には、「総合哲学-第一哲学-究極哲学」としての「哲学的人生論」ないし「人生の現象学」を樹立しようとする学問的志向が構えている。ここで李が言及しているのは、言語論(「精神的大気-教養の大気-人文的大気」としての「質的言語」の提供)、意味論(生の動力としての意味)と、「世界論」(“「世界」とは、我々人間たちが誕生と共にその中に投げ込まれる、そこで育ち、そこで成熟し、様々な現実的人間関係や利害関係の中で熾烈に競争しながら、勝ち、負け、奪い、奪われ、成し、逃し、そんな中で様々な喜怒哀楽を経験しながら、生きてはやがてそこから去っていくことになる、生老病死の現場、或は舞台、索漠で殺伐とした所、しかし時にはその何処よりも暖かく美しくなりうる所、家庭と学校と職場と国家を構えている所、友と敵とが一緒にいる所、素晴らしい自然と汚いごみの山が一緒にある所、面白くて下らない所、あちこちにあれこれの幸福が宝のように散らかっており、またあれこれの不幸が地雷のように埋まっている所、なのである。まさしくそういう所が、我々がその中で生きている真の意味での「世界」、「世」なるものである。”)である。
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人生論
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東浩紀は、『弱いつながり』の序文にあたる「はじめに」において、次のように説いている。 ぼくたちは環境に規定されています。「かけがえのない個人」などというものは存在しません。ぼくたちが考えること、思いつくこと、欲望することは、たいてい環境から予測可能なことでしかない。あなたは、あなたの環境から予測されるパラメータの集合でしかない。……しかしそれでも、多くのひとは、たったいちどの人生を、かけがえのないものとして生きたいと願っているはずです。……ここにこそ、人間を苦しめる大きな矛盾があります。……それは哲学的に言えば「主観」と「客観」……の違いということになりますが、……みないちどは感じたことがある矛盾ではないかと思います。その矛盾を乗り越える……有効な方法は、ただひとつ。……環境を意図的に変えることです。 — 東浩紀、『弱いつながり』、幻冬舎、2014年、「はじめに」、9~11頁 東は、『弱いつながり』において、「観光客」という概念を提出し、「観光客」という生き方を提案する。人間は、環境の産物に過ぎない。Googleが、その人物の過去の検索履歴や閲覧履歴から、思考や行動を予測しているように、その人物の人生は環境から予測可能であり、その上、その環境に閉じ籠もっている限り、その人物は、その環境の規定から外れた人生に移行することができない。そこで、東は、「観光客」として旅に出ることで環境を意図的に変え、「非日常」たる観光のなか、自分が「村人」として暮らしている「日常」では得ることのできないノイズに晒され、新しい検索ワードを得ることを説く。「観光客」になることによって、自分が自分の属する場所の「村人」であることを忘れないながらに、しかし「村人」であることから一時的に自由になることができる。「観光客」は「旅人」でもない。ある一箇所に留まる「村人」と、留まることなく移動する「旅人」と、その二つの間を「無責任に」往復する人間を、東は「観光客」と定義する。そして、その旅にも決して過剰な期待はせず、あくまでも偶然性に身を委ねることを説く。 東浩紀の哲学は先述のように二元論を基礎としている。『存在論的、郵便的』では「郵便空間」と「誤配」の概念、二つの超越論性について説かれ、『動物化するポストモダン』では二つの原理にかかわる「動物化」について説かれ、『一般意志2.0』では「人間的公共性」と「動物的公共性」について説かれた。人生論と明記された『弱いつながり』では、東が旅先で思索した人間についての考察を軸に話を進めながら、「記号」と「記号にならないもの」、「言葉」と「モノ」、「必然性」と「偶然性」、「強い絆は計画性の世界」と「弱い絆は偶然性の世界」等々の二項対立が書き出されていき、その間を移動する存在として「観光客」が説かれる。その要所要所では、先行する著書に説かれた哲学の問題意識とのかかわりを説明している。東は「弱さ」や「偶然性」の大切さを確認した上で「偶然性に身を曝せ」と書いている。記号のみによって作られているインターネットへの接続を維持したまま、観光旅行という形で一定以上の時間をかけて体を移動させ、記号にならないものに触れよう、という『弱いつながり』の内容は、そのための行動について述べているものである。また、ある親からある子が生まれる偶然性について語り、人生の基礎にある偶然と、弱い絆としての親子関係についても述べられている。 『弱いつながり』の思想について、紀伊國屋じんぶん大賞受賞時の次のようなコメントを発表している。 本書でぼくが訴えたかったのは、ひとことで言えば、「哲学とは一種の観光である」ということです。観光客は無責任にさまざまなところに出かけます。好奇心に導かれ、生半可な知識を手に入れ、好き勝手なことを言っては去っていきます。哲学者はそのような観光客に似ています。哲学に専門知はありません。哲学はどのジャンルにも属しません。それは、さまざまな専門をもつ人々に対して、常識外の視点からぎょっとするような視点を一瞬なげかける、そのような不思議な営みです。ソクラテスの対話編には、哲学のそんな本質がすでに明確に刻まれています。……(中略)…… 哲学は役に立つものではありません。哲学はなにも答えを与えてくれません。哲学は、みなさんの人生を少しも豊かにしてくれないし、この社会も少しもよくはしてくれない。そうではなく、哲学は、答えを追い求める日常から、ぼくたちを少しだけ自由にしてくれるものなのです。観光の旅がそうであるように。 — 東浩紀、紀伊國屋じんぶん大賞2015受賞コメント
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