仏道修行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:41 UTC 版)
延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず19歳を過ぎた頃から山林での修行に入った。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著し、俗世の教えが真実でないことを示した。この時期より入唐までの空海の足取りは不詳。『大日経』を初めとする密教経典に出会い、中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした。 この時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かっている。『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで求聞持法を修めたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできたと記されている。このとき空海は悟りを開き、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗った。求聞持法を空海に伝えた一沙門とは、旧来の通説では勤操とされていたが、現在では大安寺の戒明ではないかとの異説も立てられている。戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した『釈摩訶衍論』の請来者である。 空海の得度に関しては、延暦12年に、20歳にして勤操を師とし和泉国槇尾山寺で出家したという説、あるいは25歳出家説が古くからとなえられていたが、延暦23年、遣唐使が遭難し来年も遣唐使が派遣されることを知ったとされる、入唐直前31歳の延暦23年(804年)に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されている。太政官譜では延暦23年(804年)4月7日出家したと記載する。空海という名は太政官譜が初出である。鎌倉時代成立の『御遺告』には私度僧として無空とも名乗ったともある。
※この「仏道修行」の解説は、「空海」の解説の一部です。
「仏道修行」を含む「空海」の記事については、「空海」の概要を参照ください。
- 仏道修行のページへのリンク