書家として
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はやくから能書家として知られ、日下部鳴鶴、中林梧竹と並ぶ明治の三筆の一人と称される。初め中沢雪城に師事して菱湖流を学んだが、明治政府出仕後は旧習を脱して、顔真卿の書を基盤とした雄渾な書風へと転じている。さらに1880年(明治13年)に来日した楊守敬から六朝書法を学び独自の書風を確立する。各体をよくし、特に行草書は瀟洒な風をなしている。とくに閑職となってからは各地に旅行し多数の揮毫作品が伝わる。また日下部鳴鶴と同様数多くの石碑の文字を書いており、現在も全国に250基以上の碑が残っている。 また、甲賀市水口歴史民俗資料館(甲賀市水口町水口)に「巖谷一六・小波記念室」があり、近年明治4年から12年にかけての自筆日記や、没後編纂された『一六遺稿』未収録の漢詩文稿が収蔵され、それぞれ翻刻公刊された。
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書家として
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書家としても名があり、現存する書跡には以下のものがある。 一品経和歌懐紙 熊野懐紙 平安時代から鎌倉時代初期の古筆類は、伝称筆者は多いものの確実なものが少ない中で、この2つの書跡はともに署名があり、筆者の確実な自筆詠草である。
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書家として
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書家としても著名で、米芾・黄庭堅・蔡襄とともに宋の四大家と称される。蘇軾ははじめ二王(王羲之と王献之)を学び、後に顔真卿・楊凝式・李邕を学んだ。代表作に、「赤壁賦」(せきへきのふ)・『黄州寒食詩巻』などがある。『黄州寒食詩巻』(こうしゅうかんじきしかん、『寒食帖』(かんじきじょう)とも)は、元豊5年(1082年)47歳のとき、自詠の詩2首を書いた会心の作で、この2首は何れも元豊5年春、寒食節(清明節の前日)を迎えたときの詩である。縦33cmの澄心堂紙に行書で17行に書いたもので、「年」・「中」・「葦」・「帋」の字の収筆を長くして変化を出している。落款はないが、黄庭堅の傑作といわれる跋(『黄州寒食詩巻跋』)があり、両大家の代表作をあわせ見ることができる貴重な作品である。
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書家として
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晩年は素軒の号で書家として活躍。日本書道会幹事長、書道奨励会会頭、選書奨励会審査長などを務めた。 行書を得意とし各地に筆跡が残されている。石碑も多くを手がけ、京都霊山護国神社の木戸公神道碑、上宇野令香園の毛利公神道碑といった勅撰碑のほか、全国で40基ほどを確認できる。 同じ長州出身の書家、杉聴雨、長三洲と合わせて「長州三筆」と呼ぶことがある。「明治の三筆」の一人に数える文献もあるが「明治の三筆」と言えば日下部鳴鶴・中林梧竹・巖谷一六の3人を数えるのが一般的。
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書家として
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「阿波の頼山陽」とも「幕末阿波の三筆」とも称される秋邨は、四書五経など中国の古典を学んでいたが、自作の漢詩も数多く作り、それを何度も書にしている。その書は和様的特質にあふれ、明朗で親しみやすく、華やかさがあり詩情豊かで精彩に満ち、春風駘蕩の雅風を漂わせている。当時よりその書は評価が高く、多くの人々に求められた。酒を好んだ秋邨には、酒席で求められて書いた「余酔の書」も多く残っている。 絶筆と言われる書は「列樹蒼茫晩 餘霞明一川 碧天飛鳥尽 山影臥春田」で、「連なる木々も夕闇に包まれ暮れていく。消え残った春霞も一筋の川のように明るさを残している。青空を自由に飛んでいた鳥たちもどこかに去り。山影は、のどかな春の田に臥すように暗い影を投げかけている。」という意味の五言絶句である。自然界の事象を鋭い感性で確りとらえた秋邨らしいスケールの大きい作品であるが、一方で庚午事変により血気盛んな若い阿波藩士達が数多く処刑、処罰されていく時世を痛恨の思いで案ずる秋邨の心情が込められており、胸に迫るものがある。この書は、阿波で最高の書として朝日新聞に昭和40年代に紹介された。
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1961年日展特選、1981年日展内閣総理大臣賞。1985年「万葉・秋雑歌」で日本芸術院賞。日展顧問、日本書芸院最高顧問、読売書法会最高顧問、京都書道作家協会会長。蒼遼会を主宰。1993年京都市文化功労者、2006年日本芸術院会員、2010年文化功労者。2018年8月25日午前6時55分、肺炎のため、京都市内の病院で、死去。満94歳没。叙従四位、旭日中綬章追贈。
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1980年日展初入選。1992年日展特選受賞(1998年2度目の特選受賞)。2003年現代書道二十人展 (朝日新聞社主催) メンバーに選ばれる(以降連続出品)。2007年平成十八年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。同年日展審査員初就任。2008年「良寛春秋」で日展会員賞受賞。2015年大東文化大学特任教授就任。2021年3月まで勤める。2016年「墨染」で改組新第三回日展内閣総理大臣賞受賞。2018年「かつしかの里」で日本芸術院賞受賞。2019年市川市文化振興財団理事就任。同年大東文化学園栄誉章受章。2020年市川市文化振興財団理事長就任。2022年書道団体・蛙園会を創立する。同年日本書芸院理事長就任。
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書道に造詣が深く、はじめ木除草堂、後に雨堂と号した。若き日の山口蒼輪にも書を教えたほか、1914年(大正3年)10月、井口良一、青沼尚、小里頼永、石川源司、志賀正人、三村寿八郎、牧伊三郎、藤岡亀三郎、武野光江ら20余名の同志と書道研究のため文硯会を興し各派の書道について研究し、松本盆地(松本、安曇野地域)における書道界に寄与した。 大王わさび農場内にある初代深澤勇市の頌徳記念碑は小穴喜一の筆。 中国に渡航して書の研究をしており小穴文庫には中国で収集された資料が少なからず含まれている。 書道の他にも小穴弓左衛門と号して弓道をし、謡曲、易学、囲碁にも造詣が深かった。昭和13年刊行の松本近郊囲碁鑑の番付には行司の1人として掲載されている。
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書家として
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書家として日本や中国の古筆、名筆を研究し、美しく気品ある仮名を追求、独自の書風を打ち立てて斯界の発展に大きな貢献をしてきた。1950年に日展初入選。1975年からは日本書芸院理事、1984年からは読売書法会理事に就くなど、日本の書の発展に大いに貢献した。▼岡山を拠点に朝陽(あさひ)書道会を創設した内田鶴雲に師事。鶴雲の師が仮名書の大御所、安東聖空であったことから、聖空譲りの「元永本古今集」の書風をしっかり身につけた後、「一条摂政集」「高野切」「針切」「香紙切」など古筆の森に分け入り、王朝の雅を手中に収めた。▼現代の仮名書を代表するまでになりえたのは、一方で戦後の仮名書家たちが追い求めた大字仮名にも新境地を開いたからである。 — 読売新聞社、読売人物データベース 2006年(平成18年)、文化功労者に選ばれた際には「かな書は文字としての意味を伝えるだけでなく絵画のような造形美を探求するもの。墨と筆の日本の文化です。書は私のすべて。後世にいい作品をのこすため全力投球する」と述べた。晩年になっても日本美術展覧会の顧問をはじめ、日本書芸院の最高顧問や、読売書法会の最高顧問など、多くの団体の役職を務めた。2017年2月、岡山県倉敷市の病院にて死去した。
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この節には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字(崔子玉座右銘の「崔瑗」の2文字目は王偏に爰)が含まれています(詳細)。 書は在唐中、韓方明に学んだが、唐の地ですでに能書家として知られ、殊に王羲之や顔真卿の書風の影響を受け、また篆書、隷書、楷書、行書、草書、飛白のすべての体をよくした。日本では入木道の祖と仰がれ、書流は大師流と称された不世出の能書家である。真跡としては次のものがある。 聾瞽指帰(ろうこしいき) 『三教指帰』の初稿本に当るもので、2巻存し、入唐前、延暦16年24歳頃の書といわれる。書はやや硬いが筆力があり、後の『風信帖』に見られる書風とは異なる。金剛峯寺蔵。国宝。『聾瞽指帰』から『三教指帰』への改訂については三教指帰#「聾瞽指帰」から「三教指帰」へを参照のこと。 灌頂歴名(かんじょうれきめい) 弘仁3年から弘仁4年にかけて、空海が高雄山寺で金剛・胎蔵両界の灌頂を授けた時の人名を記録した手記である。処々書き直しているが、筆力、結構ともに流露している。神護寺蔵。国宝。 風信帖(ふうしんじょう) 詳細は「風信帖」を参照 国宝指定名称は『弘法大師筆尺牘(せきとく)』。空海が最澄に送った書状3通を1巻にまとめたもので、1通目の書き出しの句に因んで『風信帖』と呼ばれる。もとは5通あったが、1通は盗まれ、1通は豊臣秀次の所望により、天正20年献上したことが巻末の奥書きに記されている。現存の3通は、いずれも行草体の率意の書で、空海の書として『灌頂歴名』とともに絶品とされる。年号は不詳であるが、弘仁3年頃とされている。1通目は、9月11日付で「風信雲書」の書き出し。書風は謹厳である。2通目は、9月13日付で「忽披枉書」の書き出し。書風は精気があり、また情緒もある。3通目は、9月5日付で「忽恵書礼」の書き出し。流麗な草書体である。全体は王羲之の体である。東寺蔵。 崔子玉座右銘(さいしぎょく ざゆうめい/ざうめい) 後漢の崔瑗の『座右銘』100字を草書で2、3字ずつ、数十行に書いたものである。もとは白麻紙の横巻で高野山宝亀院の蔵であったが、今は同院に冒頭10字が残るだけで、ほかは諸家に分蔵され、100字中42字が現存する。字径が12cm - 16cmもあるので古筆家は『大字切』(だいじぎれ)と称している。 空海を含む讃岐の佐伯氏は、書と深く関わりを持っていた一族であったと考えられている。空海の門人で同じ佐伯氏の出身である実慧は若い頃に同じ一族と思われる讃岐国多度郡出身の佐伯酒麻呂らに儒学を学んだとされているが、実は酒麻呂は空海の実弟であり、彼とその一族が平安時代前期において、長期に渡って書博士の地位を占めていた事が『日本三代実録』に記されている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/10 14:08 UTC 版)
現存する書蹟に以下のものがある。 『孝経』 孝経の全文を草書で書いたもので、賀知章の署名はないが、末尾に「建隆二年(961年)冬重粘表賀監墨蹟」と小楷で書かれていて、古来賀知章の真蹟と伝えられる。江戸時代中期に日本に舶載され、近衛家熙の収蔵するところとなり、久しく近衛家にあったが、明治のはじめに皇室に献納されて御物となった(現在は三の丸尚蔵館蔵)。書風は王羲之風の重量感があり、切れ味も鋭い。概して用筆勁利、しかも秀麗洒脱である。 『隔日不面帖』 『東陽帖』 『敬和帖』
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1990年に当時のローマ教皇・ヨハネ・パウロ二世と接見し、手島右卿の書を献上する。
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書家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/13 22:26 UTC 版)
書家としても名があり、現存する書跡には次のものがある。 多賀切 和漢朗詠集の写本の断簡。現在70葉ほどが残る。下巻末にあたる部分の断簡(陽明文庫蔵)に、本文と同筆で「永久四年(1116年)孟冬二日、扶老眼点了、愚叟基俊」と二行の奥書きがあり、さらに別筆で「おなじとし月によみはてつ」と記されている。このように年代と筆者が明記された書跡は、現存するおびただしい平安時代の遺品の中でも稀である。 山名切新撰朗詠集
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