生涯と著作
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「エドガー・ライス・バローズ」の記事における「生涯と著作」の解説
1875年9月1日 アメリカ合衆国イリノイ州シカゴで誕生。4人兄弟の末子。父は工場経営者で、元大尉(旧北軍に所属)。軍人気質であり、厳しい性格だった。 少年期 父の指示により、軍人養成学校に入学するが、退学する。ウエストポイント陸軍士官学校へも入学できず、軍人になる事を諦める。父の会社の事務員、騎兵隊員、会計係などの職を転々とする。 最終学歴はミシガン・ミリタリー・アカデミー(軍事教育を重視する私立高等学校)。卒業後、第7騎兵隊に入隊し、アリゾナ州フォート・グラントに配属された。 1900年 10年の交際を経て、エマ・ハルバートと結婚する。 この時期、鉱山師、鉄道保安官、速記屋、セールスマンなどに転職。広告代理店などの事業も行ったが、全て長続きしていない。 1911年 オール・ストーリーズ・マガジン社に送った小説原稿『デジャー・ソリス、火星のプリンセス』(Dejah Thoris, Princess of Mars) の前半がトーマス・ニューウェル・メトカーフに気に入られ、採用となる。 1912年 2月から6月にかけて、「オール・ストーリー」に処女作『火星の月の下で』(Under the Moons of Mars、後に『火星のプリンセス』と改題)が連載される。原稿料は400ドル。 第2作『トーンの無法者』 (The Outlaw of Torn 未訳)を書き上げるが、雑誌社に掲載を断られる。この作品は13世紀のイギリスを舞台にした歴史小説でアクションシーンも多い。なお、グレイストーク卿(ターザンの先祖)が登場するシーンがある。 10月、第3作『類猿人ターザン』(ターザン・シリーズの第1作)掲載。原稿料は700ドル、とバローズは記憶している。 1913年 2月、父が死亡。13日後、第3子が誕生。 『ターザンの復讐』(シリーズ第2作)が、オール・ストーリーに掲載を断られる。ライバル誌のニュー・ストーリーに売り込み、1000ドルで採用され、6月号から掲載される(全7回)。 これをきっかけに、人気大衆小説家としての地位を確立し、貧困生活から脱出。以後、精力的に創作活動に従事する。 1914年 初の単行本である『類猿人ターザン』が刊行。 時期不明 第一次世界大戦(1914年-1918年)に陸軍少佐として応召。 1916年~1924年 火星シリーズ、ターザン・シリーズなどで成功するも、「荒唐無稽な話しか書けない」と批判される。恋愛小説、現代小説を手がける(#未訳)が、売れ行きは芳しくなく、以後は冒険小説・SF小説に絞る。 1917年 『火星のプリンセス』出版。単行本としては5冊目に当たる。 カリフォルニア州サンフェルナンド谷に土地を購入、豪邸を建ててランチョ・ターザナと命名。後にバローズを称え、この土地は正式にターザナと命名された。 1930年 『火星の秘密兵器』がブルー・ブック・マガジンに掲載。火星シリーズ、ターザン・シリーズ、ペルシダー・シリーズ他の諸作品で流行作家として地位が確立しており、原稿料は8000ドル(処女作の20倍)に跳ね上がった。 1935年 最初の妻と離婚。 1939年頃 ハワイを訪れるようになり、以後、何度も足を運ぶ。 1941年 2番目の妻と離婚。 真珠湾攻撃を目撃。現地の新聞社に何度も投稿した。 1944年頃 従軍記者として第二次世界大戦に参加。以後、創作活動を中断する。 ロサンゼルス・タイムズの特派員に志願。B-29の爆撃にも参加。 マリアナ作戦に特派員として参加。 1950年3月19日 カリフォルニア州エンシーノで心臓病のため死去。この時点での単行本は60冊。
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生涯と著作
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「ムヒーッディーン・マグリビー」の記事における「生涯と著作」の解説
マグリビーの全名は、ムヒー・ミッラ・ワッディーン・ヤフヤー・ブン・ムハンマド・ブン・アビーッシュクル,アルマグリビー,アルアンダルスィー(アラビア語ラテン翻字: muḥyī-i-milla-wa-d-din yahyā b. muḥammad b. abī-sh-shukr al-maghribī al-andalusī)という。ハキーム・マグリビー(حكيم المغربي)の尊号、アブル・ファトフ(ابوالفتح)のクンヤが知られている。 ニスバなどからアンダルス生まれとされる。ナスィールッディーン・トゥースィーと共に研究するためにイラン高原北西部のマラーガへ行き、そこで天文台(アラビア語版、英語版)の設立に携わった。専門は天文学と数学であり、とりわけ三角法に関する研究で知られる。著作は、『メネラオスの定理についての書』や『正弦の計算に関する小論』などがある。なお、サイイド・ブン・ターウース(アラビア語版、英語版)、ムハッキク・ヒッリー(アラビア語版、英語版)、イブン・マイサム・バハラーニー(アラビア語版、英語版)と同時代人である。
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生涯と著作
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ローマ貴族の家系に生まれ、幼くして孤児となり貴族シュンマクスに養われる。アテナイに留学し、帰国後は「水晶と象牙で飾られた書斎」で研究生活を送る。この前後に恩人シンマクスの娘の1人ルスティキアナ(姉妹にガッラ(聖人。550年に没)とプロバの2人)と結婚している。時のイタリア支配者、東ゴート王国のテオドリック王に仕官し、貨幣制度の改革などに関わる。次第に高位に昇り、510年には西ローマ帝国の執政官となる。522年には彼の息子2人も執政官となるほど王の信任を得ていたが、かつての執政官アルビヌスの反逆に与したという嫌疑でパヴィアに投獄され、処刑された。獄中で韻文混じりの散文で『哲学の慰め』(De consolatione philosophiae)を書き、慰めを古代哲学に求めている。 ボエティウスの思想の根幹はプラトンとストア派にあり、理性により感情と外界の障害を克服しようとする。彼はアリストテレスの論理学をラテン語に翻訳し、これが中世のアリストテレス研究の端緒となった。また、アリストテレスにはじまる修辞学上のトポスの概念を確立して、中世のみならず20世紀、21世紀における議論学にも重要な影響をあたえた。ニコマコス、エウクレイデス、アルキメデス、プトレマイオスなどの著作も訳出しギリシア哲学・科学の紹介者として中世思想にも大きな影響を与えている。『三位一体論』(De trinitate)、『カトリック信仰論』(De fide catholica)、『エウティケスとネストリウスとを駁して』(Contra Eutycken et Nestorium)などの護教のための論文もある(偽書との説あり)。アリウス派の王に殺されたため、中世では教父の一人のような扱いを受け、「最初のスコラ哲学者」と評されることもある。 また彼は『音楽綱要』(De institutione musica、『音楽教程』)全5巻を著し、プトレマイオスの音階論を踏襲しながら、古代ギリシアの音楽論を伝承した。彼はこの本の中で、音楽を「世界の調和としての音楽(ムジカ・ムンダーナ)」「人間の調和としての音楽(ムジカ・フマーナ)」「楽器や声を通して実際に鳴り響く音楽(ムジカ・インストゥルメンターリス)」に分類している。この本は中世ヨーロッパにおいて広く影響を及ぼした。 アラビア式の記数法を初めてヨーロッパに紹介したとされる。
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生涯と著作
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ベロッソスが誕生したのはアレクサンドロス大王がバビロンを支配していた時期(紀元前330年 - 紀元前323年)か、あるいはそれ以前で、上限はおおよそ紀元前340年である。彼のアッカド語での本来の名前はベルレウシュ(Bel-re-ušu, 「マルドゥクは我が牧者」の意)であると考えられている。「ベロッソス」は彼の名のいくつかあるギリシア語表記のうちの一つである。ウィトルウィウスの『建築について』によると、ベロッソスはセレウコス朝に仕えた後、小アジア沖のコス島でエジプト王庇護のもと占星術学校を開いたらしい。しかしながら、現代の学者たちは、セレウコス朝に仕えた人間が後半生でプトレマイオス朝エジプトに行けたのかどうか疑問だとしている。没年は未詳である。
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生涯と著作
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「シメオン・メタフラスト」の記事における「生涯と著作」の解説
シメオン・メタフラストはビザンティンの聖人研究者の中で最もよく知られた人物である。学界はメタフラストの生きていた時期について、9世紀から14世紀の間で大きく意見が分かれていたが、こんにちでは大体10世紀後半に生きていたであろうということに落ち着いている。 他にメタフラストの執筆によるとされる聖人達の生涯について大きな論点があったが、これはギリシャの月課經の比較研究によって解決されている。メタフラストによる月課經は1年の12ヶ月分の聖人の生涯の集成であり、類似したものの中でも認識が容易であり、150の別々の断片から成っている。これらの中にはより古い集成からとられたものもあれば、後に付け加えられたものもある。 他に、シメオン・メタフラストの作と伝えられるものとして、年代記、カノンの集成、手紙、詩、ほか多くのあまり重要でない著作がある。彼の名は特に月課經で広く知られるようになった。メタフラスト本人の生涯の詳細については、あまりよく分っていない。 正教会は彼を聖人として崇敬している。記憶日は11月9日(ユリウス暦使用教会で。修正ユリウス暦使用教会では10月28日)。時課で用いられる月課経に、メタフラストへの崇敬が含まれている。他にも多くの正教会の奉神礼における祈祷文が彼の作に帰せられている。日本正教会で用いられている領聖預備規程・領聖感謝祝文にも、メタフラストによる祈祷文が含まれている。
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