今日は阪神淡路震災から20年の日。
新聞もテレビもそれに関する記事や番組でいっぱいだ。
あの日私は夫の母の家で寝ていた。当時、義母は少し認知症が進んでおり、1人にしておくことがで
きなかったので、夫と私が交代で泊まりに行き、この家にも連れてくるという流れで1週間を
過ごしていた。たまたまあの日は前日から私が泊まっていたのだった。
最初の揺れで飛び起きた。その瞬間、義母が大声で私の名を呼んだ。「大丈夫。ここにいる」と
返事をして玄関の戸を開けに走った。一軒家なのでどこからでも出られるのだけれど、息子が
大学生の時、口を酸っぱくして「まず、玄関のドアを開けなさい」と言っていたので本能的に
行動してしまったらしい。震度3だということだったけれどもっとひどく感じた。
神戸は私の生まれたところだ。父の仕事の関係で小学校に入るまでを過ごした。
大人になって出張で神戸に行ったとき、昔住んでいたところを訪ねたことがあった。
地名が変わっていたのにおおよその見当をつけて行ってみたら昔のまま残っていた。
よくも幼いころに離れたのに覚えていたと自分でも驚いたほどである。
その後、有馬温泉に行ったとき、母を連れて行ってみた。その時も住んでいた借家はそのままで
母は懐かしさのあまり、そのお宅に入っていきそうになったくらいだった。
そしてあの大地震。地震から4年後、母とルミナリエを見に行き、再び昔住んでいたところを
訪ねてみた。新しい家が立ち並んでいて、もう昔の面影はなくなっていた。
義母も母も今はもういない。
震災で失われた多くの命を思いながら、今日は静かに過ごしたい。
新聞もテレビもそれに関する記事や番組でいっぱいだ。
あの日私は夫の母の家で寝ていた。当時、義母は少し認知症が進んでおり、1人にしておくことがで
きなかったので、夫と私が交代で泊まりに行き、この家にも連れてくるという流れで1週間を
過ごしていた。たまたまあの日は前日から私が泊まっていたのだった。
最初の揺れで飛び起きた。その瞬間、義母が大声で私の名を呼んだ。「大丈夫。ここにいる」と
返事をして玄関の戸を開けに走った。一軒家なのでどこからでも出られるのだけれど、息子が
大学生の時、口を酸っぱくして「まず、玄関のドアを開けなさい」と言っていたので本能的に
行動してしまったらしい。震度3だということだったけれどもっとひどく感じた。
神戸は私の生まれたところだ。父の仕事の関係で小学校に入るまでを過ごした。
大人になって出張で神戸に行ったとき、昔住んでいたところを訪ねたことがあった。
地名が変わっていたのにおおよその見当をつけて行ってみたら昔のまま残っていた。
よくも幼いころに離れたのに覚えていたと自分でも驚いたほどである。
その後、有馬温泉に行ったとき、母を連れて行ってみた。その時も住んでいた借家はそのままで
母は懐かしさのあまり、そのお宅に入っていきそうになったくらいだった。
そしてあの大地震。地震から4年後、母とルミナリエを見に行き、再び昔住んでいたところを
訪ねてみた。新しい家が立ち並んでいて、もう昔の面影はなくなっていた。
義母も母も今はもういない。
震災で失われた多くの命を思いながら、今日は静かに過ごしたい。