<4.原子力の技術と輸出>「原発ゼロ社会にすると原子力技術者がいなくなる?」
質問:
ザ・プレスジャパンのSakurai Mayumiと申します。どうぞよろしくお願いいたします。
除染事業について、関連した質問なんですけれども、除染作業に携わった作業員の方、あと、原発作業員の方が、
今後不足されると予想されているんですけれども、不足された場合に、先生はどのようにお考えなのでしょうか?
また、除染作業員とか原発作業員のケアについて、先生はどのようにお考えなのでしょうか?
田坂広志:
これも、この2冊目の本で、そのテーマを取り扱いましたが、あの、なにを申し上げたいかと言いますとね、
今世の中で出ている議論は、少し、ちょっと……錯綜した議論があります。
「原発ゼロ社会を目指すと、原子力技術者がどんどんにいなくなってしまう」から、
「原発ゼロに向かうための、いろんな廃炉とかすらができなくなるじゃないか」
「だから原発は必要だ」という、なんかちょっと、論理的には詭弁論になってくるんですが、
この議論に対して、私が明確にこの本で申し上げたのはですね、原発技術者がいなくなることも無ければ、原発技術が必要無くなるという事もないです。
というのはですね、廃炉を仮に今、極めて強い脱原発的な政権が生まれて、「一挙に廃炉にする」と、仮ににしても、
原発の廃炉というのは、やっぱり数10年、最低でも30年かかるものです。
さらには、日本には福島という、原発の事故を起こしたものがありますので、これの廃炉の作業というのは、さらにプラス数十年というオーダーが必要だと思います。
そして、除染についても、賽の河原の石積みのように、永遠と続くわけです。
従ってですね、これもむしろ政府として、「仕方なくやらなければならない技術だ」と思った瞬間に、
技術屋の方は気持ちで言えば、「もう、何とも未来の無い産業だ」という事で去っていきます。
むしろ私はだからこそ、この本で申し上げたのは、
「原子力環境安全産業」と呼ばれるものを政府の方針で、世界でも最も優れた産業として育てるべきだと。
これが私のお答えです。
つまり、これから我々は、原子力という物の持つ負の側面、マイナスの側面も、すべて払しょくしていくための営みを、今からやらなければいけないわけです。
しかも、世界でもいちばん難しい廃炉の技術まで、開発しなければならない立場に立っています。
これは、ある意味では、短期的に言えば非常に辛いことですが、長期的に見れば、世界全体から見れば、必ず求められる技術ですね。
おそらく世界全体、まぁこれからまだまだ増やそう、という国もあります。
たとえば、中国は100基のオーダーで、原発増設の計画、新設の計画がありますが、お分かりのように、日本は黄砂が飛んでくる国です。
従って、日本だけ「脱原発やりました」では、何も話は終わらない。
韓国で事故が起これば、玄海原発で事故を起こすのと同じような被害を受けます。
従って、我々の脱原発という考え方は、いずれ遅かれ早かれ、世界全体の、この原子力の安全性を、まずさらに高めるという事はまず第一歩。
ゆくゆくは、脱原発に向かって、すべての国が向かっていくような事を支援するという、産業と技術が必要になると思います。
したがって、まず日本で、これは全く、必要に迫られて開発する技術でもありますけれど、
単に「やらざるを得ないからやる」という次元ではなく、むしろ、今回の福島の事故を契機として、
世界で最も優れた「原子力環境安全産業」、言葉を変えれば、原子力の負の側面を払拭していく産業を、最高の技術を持った産業として育てていこう、
これを国際的な産業にしていこう、これを海外で、まだ原発推進なり、原発を取り込む国に対して、技術的な支援を産業的な支援としてやっていこう、という方針を打ち出されるべきです。
それをやれば技術者は、またそこに、一つの大きな使命感を持たれて、頑張っていかれると思いますし、
それは必ず、日本だけではなく、世界にも役に立つ産業になっていくと思いますが。
<原発輸出>
質問:
フリーランスのShimadaと申します。よろしくお願いいたします。
高レベル廃棄物というか、原発が、今の日本、人類の技術では、そもそも無理筋だという中で、たとえば、ベトナムが日本の原発を買いたいと、
日本としては、購入する側がいるならば輸出するという方針だと思うんですけれども、
無理だとわかっていても輸出するという事に関しては、これは、どう倫理的に判断すればいいでしょうか?
田坂広志:
原発の建設の輸出ですね?
Shimada:
はい。
田坂広志:
原発を、海外に輸出するという話ですね、
これは、これから本当に、いろんな議論が出るテーマですね。
「日本が脱原発に向かうんだから、当然、そんな危ないものを、海外に輸出するべきではない」というのも、一つの考え方ですね。
でも、もうひとつの考え方は、じゃあ、日本がそういう事の技術的な提供をしないでですね、ま、どこかの国がですよ、
たとえば、一般論として申し上げますが、かなりいい加減な技術で、いい加減な原発をつくって事故を起こされた時、
「日本が被害を受けるじゃないか」という考え方も、また一理あるわけです。
従って私は、本当は細やかに、理想論で申し上げればですね、
先程の「原子力環境安全産業」の中に、非常に原発の安全性を高める、もしくは安全な原発技術というものも、私は含みこんでおいて、
それを提供することはありだろう、とは思ってます。
ただし、この議論を、あまり軽々にしたくない理由があります。
それは何故かと言えば、こういう議論を出した瞬間に、
「そうでしょ、だから日本で原発をやらなきゃいけない、やりましょう」というですね、この話に流し込む方が、今はむしろ日本では極めて多いと思うんですね。
従って私は、この話はしばらくは、本当は凍結した状態で、先ほど申し上げたような方向に行くべき。
もっと分かりやすく言えばですね、国民から見て、この政策を出した瞬間に、
「なんだ、結局、輸出とか何とか言いながら、原発存続の政策を密輸入しているのか」と、そう疑われる信頼感の無い政権である限りは、やるべきではない。
逆に、国民から見て、この政権はきちっと信念を持って、しかも、何年もかけて、脱原発に向かって動いてくれるという、そういう政権であれば、
そういう議論をテーブルに乗せて、
「国民のみなさん、こういう考えのもとで、海外に対する支援を行う事を、いかがでしょうか?」という議論は、スタートし得ると思います。
ただし、日本は、政権が実に短期間で代わる国だという事を考えると、あえて申し上げれば、二つの事はしっかりとやっておくべきだと思います。
一つは、脱原発の政策について、本当にその方向で行くんなら、政府はもちろん、その事をしっかりとやってもらいたいですが、
『脱原発基本法』のようなものをしっかりと定めてですね、政権が代わっても、法律的に、そこが縛られているという仕組み。
もう一つは『国民投票』です。
国民投票というのは、今は、日本の制度では、法的にきちっと整備されていませんが、
やはりこの、シングルイシューで、国民に方針を決めていただくという制度を、日本に導入しておかないとですね、
やはり、総選挙のようなものが、シングルイシューで戦う事は、必ずしも健全な形ではありません。
私は、こういうテーマについては、国民投票、これは、海外でも、国民投票は随分、原子力に関してやっていますので、
日本も、こういう形で、国民が一つの歯止めを刺しておくという事ができる仕組みを、作るべきだと思います。
政権が代わっただけで、もしくは総理が代わっただけで、政策が変わるという状態では、わたしは、あまり、あの…危なくて、
そういう政策論について、踏み込んだ議論はするべきではないと思っています。
質問:
フリーランスのHiroseと申します、よろしくお願いいたします。
先生は、五井平和(財団)というところで、何度か講演をされていてですね、
そこで、「原子力という技術体験は、人類にとって不要か?と問われれば、答えは慎重です。
なぜなら私は、人類に与えられるもの全てに意味があり、その意味を深く考えることによって、人類は成長し、成熟していくと思うからです。
その歴史的スケールで見るならば、原子力も、人類に与えられた一つの英知なのでしょう」というご発言があるのですが、
では、先生がお考えになられる原子力の有効利用、というものがあるとするならば、いったいどういうものなのか、教えていただきたいてもよろしいでしょうか?
田坂広志:
あの、その発言は、もちろん今も、同じ考えです。
むしろですね、原子力については私は、仮にここで、人類全体が脱原発に向かったとしてですね、
仮に、300年先に何かのまた、人類全体が置かれている環境の変化が起こった時に、
人類の英知からすれば、原子力というものはですね、その気になれば技術としては、私はそれほど難しくない回復なり、また、再利用ができると思っているんです。
ただですね、私が今の時代に、非常に強く、原子力のイージーな推進に反対する理由は、先ほど申し上げた、人為的組織的制度的文化的な問題が解決できないからです。
もっと分かりやすく言えば、この、非常にリスクの高い技術体系を、見事に使いこなして見られるほどですね、人類というのは、本当にかしこい社会を作っているのか?と。
この根本的な問いが、今あります。
少なくても福島を見て、私は人類社会というのは、これはもう具体的に見ても、いまの行政の在り方も産業の在り方も、資本主義のあり方も含めて、
私は、この極めて巨大なリスクを持った技術体系を、使いこなせるほどには賢くない。
ただしその事を持って、「この原子力という技術が、人類の未来永劫、全く意味を持たないか?」と問われれば、「それは分からない」としかお答えしようがないです。
従って、具体的な方策・運用云々という文脈のところの発言ではありません。
<5.核武装>「『プルトニウムを減らすために大間を稼働しなければいけない』は詭弁」
<余剰プルトニウム>
質問:
AP通信の山口と申します。
核燃料サイクルを維持する理由のもう一つとして、外国からのプレッシャーというか、アメリカの意向が反映されている、という議論があったんですけれども、
核セキュリティーの観点から、余剰プルトニウムをためないために、原発で燃やし続ける必要がある、という議論があることについて、どういうふうにお考えになりますか?
田坂広志:
これもね、最近日本が脱原発に行くと、「アメリカとの関係がおかしくなる」とかですね、
「核不拡散について、非常に問題が大きいんじゃないか」とか、いろいろおっしゃる方がいますが、
実は、あまり一貫した、筋の通った議論というのは、拝見したことがないんですね。
なんとなく、気分として語られている方が多いような気がします。
むしろ、この手の話は、表層的な議論よりも、本質論で見つめた方がすっきりしていますね。
「核不拡散」という事の一つの意味は、当然のことながら、「日本は核武装はしません」とか、「核兵器に転用することはありません」という事のもとで、再処理まで、核燃料サイクルまで認めてもらっている訳ですね。
したがって、この議論は、私は少し詭弁だと思っています。
日本はプルトニウムが、もうある。
「これは、燃やして無くさないと、日本は核武装するんじゃないか」と思われる。
「したがってこれは、燃やさなきゃいけない」
そうすると、「大間のようなプルサーマルの原発を稼働しなきゃまずい」
もしくは、「再処理工場と高速増殖炉を、核燃料サイクルを維持しなきゃダメだ」という、
これは極めて、私は詭弁だと思います。
それをやってもプルトニウムはまた次に出てきますから、グルグル無限に続くような話になってしまいます。
そうではなくて、もし本当に、脱原発の方向に向かうのであれば、もう今すでに存在している、40何トンかのプルトニウムについてはですね、
わたしは、国際的な査察にゆだねるような新たな政策論を、世界的に提唱するべきだと思います。
つまり日本は、これについてはもう全く「核兵器への転用はいたしません」と、
従って、世界的な、しっかりとした管理のもとで、使わないような仕組み制度を受け入れます、という事でやるべきで、
場合によってはそれを、国際的な機関で、空間的にも、別の場所に持っていくことはあり得るかもしれません。
で、それがすぐにできるわけではないですが、そういう姿勢を、政策的に一挙に示す、という事ですね。
つまり、そういう姿勢を、日本が明確に、世界に対して示すという事で、まず国際的な信頼を得るいうことで、
そこをごちゃごちゃやっていると、「怪しげだ」と思われると思います。
ただ、あの……日本ではやっぱり、プルトニウムだとか、再処理というものを、ごく少数かもしれませんが、
日本での核武装、潜在的核武装はやっておくべきだ、という論者の方もいらっしゃいますので、
こういう方々からすれば、むしろ再処理技術、濃縮技術そしてプルトニウム、こういうものは何らかの理由を付けて、日本にずっと置いておきたいという考えがあることも、一面の事実かとは思います。
このあたりはまた、非常に難しい、政治的な議論になってくると思います。
<6.原子力規制委員>「何を言うよりも大切なことがある。誰が言うかだ」
質問:
ロイター通信Maedaと言います。
原子力規制委員会というのが発足して、もう2カ月経って、実際に今度は、再稼働に向けての安全性を見るという事で、
地層の部分の調査、今日は、大飯にみなさん、パネルの方々が行ってらっしゃるんですけれども、
そちらの方向にどんどん、つまり、安全であることを確認して、安全でないものと安全であるものを分けると、いうような形に、今原発の政策の在り方がなってきていると思うんですけれども、
このまま行っていいのかな?という素朴な疑問がありまして、かなり、今回の原子力規制委員会は、法的には力を持っていると思うんですね。
なので、そこを誰が、どのようにコントロールできるのかな?
その、最終処分場の問題は、原子力規制委員会で、議論するものではなくなってますので、その部分をどういうふうに、現実の原子力発電というものとつなげていったらいいのかな、
ちょっとわからないので、もしご意見があったらお願いします。
田坂広志:
あの、いずれにしても、原発を、たとえば再稼働するとかしないという事はですね、どこかの組織なり、何かの公的機関が決めざるを得ないのは事実ですね。
仮に止めたにしても、「誰が決めたのか?」という問題になってきますので、
その意味においては私は、原子力規制委員会が、ある役割を果たすことは当然あり得るんだ、と思います。
で、むしろ問題はですね、国民の納得感だと思うんです。
これはどうしてか?というとですね、仮にですけれど、今みなさんが、原発に対して、非常に疑問を持っている方で、皆さんがたとえば、この中で誰か一人を選ぶ。
この人はもう本当に、頭が下がる位に、国民の命と安全の観点からだけ判断する人だ、という信頼があったらですね、
仮にその方が、「とはいってもみなさん、全体のエネルギー状況を考えた時、これについては安全を徹底確認しました。
だから、これは例外的に、まずはこの稼働を認めて下さい」と言った時の受け止め方とですね、
なんかよく分からないけれども、どうしてあの人が選ばれたの?となってですね、その人が同じ事を、同じ文脈で言った時の受け止め方が、違うんだと思うんですね。
これは、人間心理で、「何を言うよりも大切なことがある。誰が言うかだ」という名言がありますが、
同じ事を言っても、あの人が言うとなんか信用できない。この人だったらなんか信用できる、といった世界は、現実にあります。
これは、誰かを固有名詞的に、誰かを批判している訳ではありません。
そもそも、原子力規制委員会のメンバーが、本当に適任かどうかというような議論を、私が決めつける立場にはありません。
むしろ、この方々が選ばれるプロセスが、なぜあのような形を取ってしまわれたのか?が、わたしには、残念です。
私が逆に、あの委員の立場だったとしても、あの、首相指名というような形は、止めていただきたい。
逆に、選定のプロセスから、広報の段階から、国民的な討議にかけて、いろんな情報もオープンにして、
まさにパブリックコメントなんかも受けた中でですね、最後に、ある部分、国民の意見も反映した形で選ばれていくような、
そして、国会同意人事をとられれば、納得感がもう少し高まるわけですね。
どこまで高めるかというのは、この後、細やかな議論があり得ますけれども、
少なくとも今のやり方だと、
「この人達は、政府から見て信頼できる人だ」「経歴調べても、ほんとにちゃんとした人だ」「いろいろヒアリングしたけれども、原発についてはしっかりしたものを持ってる」
もうその通りなのかもしれませんが、原子力の問題の、ほとんどすべての問題は、パブリックアクセプタンスの問題です。
国民が、それを受容するかどうか?納得するかどうか?
これは特に、放射性廃棄物使用済燃料の問題は、全ての問題は、パブリックアクセプタンスの問題です。
従って政府は、こういう国民の納得と了解、信頼を得るという事についての手順論を、もっと成熟するべきです。
今は、私から見ると、相当荒っぽいやり方をされているように見えます。
これは、残念ながら、そう言わざるを得ないと思います。
↑以上、転載おわり
質問:
ザ・プレスジャパンのSakurai Mayumiと申します。どうぞよろしくお願いいたします。
除染事業について、関連した質問なんですけれども、除染作業に携わった作業員の方、あと、原発作業員の方が、
今後不足されると予想されているんですけれども、不足された場合に、先生はどのようにお考えなのでしょうか?
また、除染作業員とか原発作業員のケアについて、先生はどのようにお考えなのでしょうか?
田坂広志:
これも、この2冊目の本で、そのテーマを取り扱いましたが、あの、なにを申し上げたいかと言いますとね、
今世の中で出ている議論は、少し、ちょっと……錯綜した議論があります。
「原発ゼロ社会を目指すと、原子力技術者がどんどんにいなくなってしまう」から、
「原発ゼロに向かうための、いろんな廃炉とかすらができなくなるじゃないか」
「だから原発は必要だ」という、なんかちょっと、論理的には詭弁論になってくるんですが、
この議論に対して、私が明確にこの本で申し上げたのはですね、原発技術者がいなくなることも無ければ、原発技術が必要無くなるという事もないです。
というのはですね、廃炉を仮に今、極めて強い脱原発的な政権が生まれて、「一挙に廃炉にする」と、仮ににしても、
原発の廃炉というのは、やっぱり数10年、最低でも30年かかるものです。
さらには、日本には福島という、原発の事故を起こしたものがありますので、これの廃炉の作業というのは、さらにプラス数十年というオーダーが必要だと思います。
そして、除染についても、賽の河原の石積みのように、永遠と続くわけです。
従ってですね、これもむしろ政府として、「仕方なくやらなければならない技術だ」と思った瞬間に、
技術屋の方は気持ちで言えば、「もう、何とも未来の無い産業だ」という事で去っていきます。
むしろ私はだからこそ、この本で申し上げたのは、
「原子力環境安全産業」と呼ばれるものを政府の方針で、世界でも最も優れた産業として育てるべきだと。
これが私のお答えです。
つまり、これから我々は、原子力という物の持つ負の側面、マイナスの側面も、すべて払しょくしていくための営みを、今からやらなければいけないわけです。
しかも、世界でもいちばん難しい廃炉の技術まで、開発しなければならない立場に立っています。
これは、ある意味では、短期的に言えば非常に辛いことですが、長期的に見れば、世界全体から見れば、必ず求められる技術ですね。
おそらく世界全体、まぁこれからまだまだ増やそう、という国もあります。
たとえば、中国は100基のオーダーで、原発増設の計画、新設の計画がありますが、お分かりのように、日本は黄砂が飛んでくる国です。
従って、日本だけ「脱原発やりました」では、何も話は終わらない。
韓国で事故が起これば、玄海原発で事故を起こすのと同じような被害を受けます。
従って、我々の脱原発という考え方は、いずれ遅かれ早かれ、世界全体の、この原子力の安全性を、まずさらに高めるという事はまず第一歩。
ゆくゆくは、脱原発に向かって、すべての国が向かっていくような事を支援するという、産業と技術が必要になると思います。
したがって、まず日本で、これは全く、必要に迫られて開発する技術でもありますけれど、
単に「やらざるを得ないからやる」という次元ではなく、むしろ、今回の福島の事故を契機として、
世界で最も優れた「原子力環境安全産業」、言葉を変えれば、原子力の負の側面を払拭していく産業を、最高の技術を持った産業として育てていこう、
これを国際的な産業にしていこう、これを海外で、まだ原発推進なり、原発を取り込む国に対して、技術的な支援を産業的な支援としてやっていこう、という方針を打ち出されるべきです。
それをやれば技術者は、またそこに、一つの大きな使命感を持たれて、頑張っていかれると思いますし、
それは必ず、日本だけではなく、世界にも役に立つ産業になっていくと思いますが。
<原発輸出>
質問:
フリーランスのShimadaと申します。よろしくお願いいたします。
高レベル廃棄物というか、原発が、今の日本、人類の技術では、そもそも無理筋だという中で、たとえば、ベトナムが日本の原発を買いたいと、
日本としては、購入する側がいるならば輸出するという方針だと思うんですけれども、
無理だとわかっていても輸出するという事に関しては、これは、どう倫理的に判断すればいいでしょうか?
田坂広志:
原発の建設の輸出ですね?
Shimada:
はい。
田坂広志:
原発を、海外に輸出するという話ですね、
これは、これから本当に、いろんな議論が出るテーマですね。
「日本が脱原発に向かうんだから、当然、そんな危ないものを、海外に輸出するべきではない」というのも、一つの考え方ですね。
でも、もうひとつの考え方は、じゃあ、日本がそういう事の技術的な提供をしないでですね、ま、どこかの国がですよ、
たとえば、一般論として申し上げますが、かなりいい加減な技術で、いい加減な原発をつくって事故を起こされた時、
「日本が被害を受けるじゃないか」という考え方も、また一理あるわけです。
従って私は、本当は細やかに、理想論で申し上げればですね、
先程の「原子力環境安全産業」の中に、非常に原発の安全性を高める、もしくは安全な原発技術というものも、私は含みこんでおいて、
それを提供することはありだろう、とは思ってます。
ただし、この議論を、あまり軽々にしたくない理由があります。
それは何故かと言えば、こういう議論を出した瞬間に、
「そうでしょ、だから日本で原発をやらなきゃいけない、やりましょう」というですね、この話に流し込む方が、今はむしろ日本では極めて多いと思うんですね。
従って私は、この話はしばらくは、本当は凍結した状態で、先ほど申し上げたような方向に行くべき。
もっと分かりやすく言えばですね、国民から見て、この政策を出した瞬間に、
「なんだ、結局、輸出とか何とか言いながら、原発存続の政策を密輸入しているのか」と、そう疑われる信頼感の無い政権である限りは、やるべきではない。
逆に、国民から見て、この政権はきちっと信念を持って、しかも、何年もかけて、脱原発に向かって動いてくれるという、そういう政権であれば、
そういう議論をテーブルに乗せて、
「国民のみなさん、こういう考えのもとで、海外に対する支援を行う事を、いかがでしょうか?」という議論は、スタートし得ると思います。
ただし、日本は、政権が実に短期間で代わる国だという事を考えると、あえて申し上げれば、二つの事はしっかりとやっておくべきだと思います。
一つは、脱原発の政策について、本当にその方向で行くんなら、政府はもちろん、その事をしっかりとやってもらいたいですが、
『脱原発基本法』のようなものをしっかりと定めてですね、政権が代わっても、法律的に、そこが縛られているという仕組み。
もう一つは『国民投票』です。
国民投票というのは、今は、日本の制度では、法的にきちっと整備されていませんが、
やはりこの、シングルイシューで、国民に方針を決めていただくという制度を、日本に導入しておかないとですね、
やはり、総選挙のようなものが、シングルイシューで戦う事は、必ずしも健全な形ではありません。
私は、こういうテーマについては、国民投票、これは、海外でも、国民投票は随分、原子力に関してやっていますので、
日本も、こういう形で、国民が一つの歯止めを刺しておくという事ができる仕組みを、作るべきだと思います。
政権が代わっただけで、もしくは総理が代わっただけで、政策が変わるという状態では、わたしは、あまり、あの…危なくて、
そういう政策論について、踏み込んだ議論はするべきではないと思っています。
質問:
フリーランスのHiroseと申します、よろしくお願いいたします。
先生は、五井平和(財団)というところで、何度か講演をされていてですね、
そこで、「原子力という技術体験は、人類にとって不要か?と問われれば、答えは慎重です。
なぜなら私は、人類に与えられるもの全てに意味があり、その意味を深く考えることによって、人類は成長し、成熟していくと思うからです。
その歴史的スケールで見るならば、原子力も、人類に与えられた一つの英知なのでしょう」というご発言があるのですが、
では、先生がお考えになられる原子力の有効利用、というものがあるとするならば、いったいどういうものなのか、教えていただきたいてもよろしいでしょうか?
田坂広志:
あの、その発言は、もちろん今も、同じ考えです。
むしろですね、原子力については私は、仮にここで、人類全体が脱原発に向かったとしてですね、
仮に、300年先に何かのまた、人類全体が置かれている環境の変化が起こった時に、
人類の英知からすれば、原子力というものはですね、その気になれば技術としては、私はそれほど難しくない回復なり、また、再利用ができると思っているんです。
ただですね、私が今の時代に、非常に強く、原子力のイージーな推進に反対する理由は、先ほど申し上げた、人為的組織的制度的文化的な問題が解決できないからです。
もっと分かりやすく言えば、この、非常にリスクの高い技術体系を、見事に使いこなして見られるほどですね、人類というのは、本当にかしこい社会を作っているのか?と。
この根本的な問いが、今あります。
少なくても福島を見て、私は人類社会というのは、これはもう具体的に見ても、いまの行政の在り方も産業の在り方も、資本主義のあり方も含めて、
私は、この極めて巨大なリスクを持った技術体系を、使いこなせるほどには賢くない。
ただしその事を持って、「この原子力という技術が、人類の未来永劫、全く意味を持たないか?」と問われれば、「それは分からない」としかお答えしようがないです。
従って、具体的な方策・運用云々という文脈のところの発言ではありません。
<5.核武装>「『プルトニウムを減らすために大間を稼働しなければいけない』は詭弁」
<余剰プルトニウム>
質問:
AP通信の山口と申します。
核燃料サイクルを維持する理由のもう一つとして、外国からのプレッシャーというか、アメリカの意向が反映されている、という議論があったんですけれども、
核セキュリティーの観点から、余剰プルトニウムをためないために、原発で燃やし続ける必要がある、という議論があることについて、どういうふうにお考えになりますか?
田坂広志:
これもね、最近日本が脱原発に行くと、「アメリカとの関係がおかしくなる」とかですね、
「核不拡散について、非常に問題が大きいんじゃないか」とか、いろいろおっしゃる方がいますが、
実は、あまり一貫した、筋の通った議論というのは、拝見したことがないんですね。
なんとなく、気分として語られている方が多いような気がします。
むしろ、この手の話は、表層的な議論よりも、本質論で見つめた方がすっきりしていますね。
「核不拡散」という事の一つの意味は、当然のことながら、「日本は核武装はしません」とか、「核兵器に転用することはありません」という事のもとで、再処理まで、核燃料サイクルまで認めてもらっている訳ですね。
したがって、この議論は、私は少し詭弁だと思っています。
日本はプルトニウムが、もうある。
「これは、燃やして無くさないと、日本は核武装するんじゃないか」と思われる。
「したがってこれは、燃やさなきゃいけない」
そうすると、「大間のようなプルサーマルの原発を稼働しなきゃまずい」
もしくは、「再処理工場と高速増殖炉を、核燃料サイクルを維持しなきゃダメだ」という、
これは極めて、私は詭弁だと思います。
それをやってもプルトニウムはまた次に出てきますから、グルグル無限に続くような話になってしまいます。
そうではなくて、もし本当に、脱原発の方向に向かうのであれば、もう今すでに存在している、40何トンかのプルトニウムについてはですね、
わたしは、国際的な査察にゆだねるような新たな政策論を、世界的に提唱するべきだと思います。
つまり日本は、これについてはもう全く「核兵器への転用はいたしません」と、
従って、世界的な、しっかりとした管理のもとで、使わないような仕組み制度を受け入れます、という事でやるべきで、
場合によってはそれを、国際的な機関で、空間的にも、別の場所に持っていくことはあり得るかもしれません。
で、それがすぐにできるわけではないですが、そういう姿勢を、政策的に一挙に示す、という事ですね。
つまり、そういう姿勢を、日本が明確に、世界に対して示すという事で、まず国際的な信頼を得るいうことで、
そこをごちゃごちゃやっていると、「怪しげだ」と思われると思います。
ただ、あの……日本ではやっぱり、プルトニウムだとか、再処理というものを、ごく少数かもしれませんが、
日本での核武装、潜在的核武装はやっておくべきだ、という論者の方もいらっしゃいますので、
こういう方々からすれば、むしろ再処理技術、濃縮技術そしてプルトニウム、こういうものは何らかの理由を付けて、日本にずっと置いておきたいという考えがあることも、一面の事実かとは思います。
このあたりはまた、非常に難しい、政治的な議論になってくると思います。
<6.原子力規制委員>「何を言うよりも大切なことがある。誰が言うかだ」
質問:
ロイター通信Maedaと言います。
原子力規制委員会というのが発足して、もう2カ月経って、実際に今度は、再稼働に向けての安全性を見るという事で、
地層の部分の調査、今日は、大飯にみなさん、パネルの方々が行ってらっしゃるんですけれども、
そちらの方向にどんどん、つまり、安全であることを確認して、安全でないものと安全であるものを分けると、いうような形に、今原発の政策の在り方がなってきていると思うんですけれども、
このまま行っていいのかな?という素朴な疑問がありまして、かなり、今回の原子力規制委員会は、法的には力を持っていると思うんですね。
なので、そこを誰が、どのようにコントロールできるのかな?
その、最終処分場の問題は、原子力規制委員会で、議論するものではなくなってますので、その部分をどういうふうに、現実の原子力発電というものとつなげていったらいいのかな、
ちょっとわからないので、もしご意見があったらお願いします。
田坂広志:
あの、いずれにしても、原発を、たとえば再稼働するとかしないという事はですね、どこかの組織なり、何かの公的機関が決めざるを得ないのは事実ですね。
仮に止めたにしても、「誰が決めたのか?」という問題になってきますので、
その意味においては私は、原子力規制委員会が、ある役割を果たすことは当然あり得るんだ、と思います。
で、むしろ問題はですね、国民の納得感だと思うんです。
これはどうしてか?というとですね、仮にですけれど、今みなさんが、原発に対して、非常に疑問を持っている方で、皆さんがたとえば、この中で誰か一人を選ぶ。
この人はもう本当に、頭が下がる位に、国民の命と安全の観点からだけ判断する人だ、という信頼があったらですね、
仮にその方が、「とはいってもみなさん、全体のエネルギー状況を考えた時、これについては安全を徹底確認しました。
だから、これは例外的に、まずはこの稼働を認めて下さい」と言った時の受け止め方とですね、
なんかよく分からないけれども、どうしてあの人が選ばれたの?となってですね、その人が同じ事を、同じ文脈で言った時の受け止め方が、違うんだと思うんですね。
これは、人間心理で、「何を言うよりも大切なことがある。誰が言うかだ」という名言がありますが、
同じ事を言っても、あの人が言うとなんか信用できない。この人だったらなんか信用できる、といった世界は、現実にあります。
これは、誰かを固有名詞的に、誰かを批判している訳ではありません。
そもそも、原子力規制委員会のメンバーが、本当に適任かどうかというような議論を、私が決めつける立場にはありません。
むしろ、この方々が選ばれるプロセスが、なぜあのような形を取ってしまわれたのか?が、わたしには、残念です。
私が逆に、あの委員の立場だったとしても、あの、首相指名というような形は、止めていただきたい。
逆に、選定のプロセスから、広報の段階から、国民的な討議にかけて、いろんな情報もオープンにして、
まさにパブリックコメントなんかも受けた中でですね、最後に、ある部分、国民の意見も反映した形で選ばれていくような、
そして、国会同意人事をとられれば、納得感がもう少し高まるわけですね。
どこまで高めるかというのは、この後、細やかな議論があり得ますけれども、
少なくとも今のやり方だと、
「この人達は、政府から見て信頼できる人だ」「経歴調べても、ほんとにちゃんとした人だ」「いろいろヒアリングしたけれども、原発についてはしっかりしたものを持ってる」
もうその通りなのかもしれませんが、原子力の問題の、ほとんどすべての問題は、パブリックアクセプタンスの問題です。
国民が、それを受容するかどうか?納得するかどうか?
これは特に、放射性廃棄物使用済燃料の問題は、全ての問題は、パブリックアクセプタンスの問題です。
従って政府は、こういう国民の納得と了解、信頼を得るという事についての手順論を、もっと成熟するべきです。
今は、私から見ると、相当荒っぽいやり方をされているように見えます。
これは、残念ながら、そう言わざるを得ないと思います。
↑以上、転載おわり