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ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

重大な原発事故が起きてしまった国だからこそ、未来の世界を支援できるよう成熟しよう(質疑応答後半)

2012年11月06日 | 日本とわたし
<4.原子力の技術と輸出>「原発ゼロ社会にすると原子力技術者がいなくなる?」

質問:
ザ・プレスジャパンのSakurai Mayumiと申します。どうぞよろしくお願いいたします。
除染事業について、関連した質問なんですけれども、除染作業に携わった作業員の方、あと、原発作業員の方が、
今後不足されると予想されているんですけれども、不足された場合に、先生はどのようにお考えなのでしょうか?
また、除染作業員とか原発作業員のケアについて、先生はどのようにお考えなのでしょうか?

田坂広志:
これも、この2冊目の本で、そのテーマを取り扱いましたが、あの、なにを申し上げたいかと言いますとね、
今世の中で出ている議論は、少し、ちょっと……錯綜した議論があります。

原発ゼロ社会を目指すと、原子力技術者がどんどんにいなくなってしまう」から、
「原発ゼロに向かうための、いろんな廃炉とかすらができなくなるじゃないか」
「だから原発は必要だ」という、なんかちょっと、論理的には詭弁論になってくるんですが、
この議論に対して、私が明確にこの本で申し上げたのはですね、原発技術者がいなくなることも無ければ、原発技術が必要無くなるという事もないです。

というのはですね、廃炉を仮に今、極めて強い脱原発的な政権が生まれて、「一挙に廃炉にする」と、仮ににしても、
原発の廃炉というのは、やっぱり数10年、最低でも30年かかるものです。
さらには、日本には福島という、原発の事故を起こしたものがありますので、これの廃炉の作業というのは、さらにプラス数十年というオーダーが必要だと思います。
そして、除染についても、賽の河原の石積みのように、永遠と続くわけです。

従ってですね、これもむしろ政府として、「仕方なくやらなければならない技術だ」と思った瞬間に、
技術屋の方は気持ちで言えば、「もう、何とも未来の無い産業だ」という事で去っていきます。
むしろ私はだからこそ、この本で申し上げたのは、
「原子力環境安全産業」と呼ばれるものを政府の方針で、世界でも最も優れた産業として育てるべきだと。
これが私のお答えです。

つまり、これから我々は、原子力という物の持つ負の側面、マイナスの側面も、すべて払しょくしていくための営みを、今からやらなければいけないわけです。
しかも、世界でもいちばん難しい廃炉の技術まで、開発しなければならない立場に立っています。
これは、ある意味では、短期的に言えば非常に辛いことですが、長期的に見れば、世界全体から見れば、必ず求められる技術ですね。
おそらく世界全体、まぁこれからまだまだ増やそう、という国もあります。
たとえば、中国は100基のオーダーで、原発増設の計画、新設の計画がありますが、お分かりのように、日本は黄砂が飛んでくる国です。
従って、日本だけ「脱原発やりました」では、何も話は終わらない。
韓国で事故が起これば、玄海原発で事故を起こすのと同じような被害を受けます。
従って、我々の脱原発という考え方は、いずれ遅かれ早かれ、世界全体の、この原子力の安全性を、まずさらに高めるという事はまず第一歩。
ゆくゆくは、脱原発に向かって、すべての国が向かっていくような事を支援するという、産業と技術が必要になると思います。

したがって、まず日本で、これは全く、必要に迫られて開発する技術でもありますけれど、
単に「やらざるを得ないからやる」という次元ではなく、むしろ、今回の福島の事故を契機として、
世界で最も優れた「原子力環境安全産業」、言葉を変えれば、原子力の負の側面を払拭していく産業を、最高の技術を持った産業として育てていこう、
これを国際的な産業にしていこう、これを海外で、まだ原発推進なり、原発を取り込む国に対して、技術的な支援を産業的な支援としてやっていこう、という方針を打ち出されるべき
です。

それをやれば技術者は、またそこに、一つの大きな使命感を持たれて、頑張っていかれると思いますし、
それは必ず、日本だけではなく、世界にも役に立つ産業になっていくと思います
が。



<原発輸出>
質問:
フリーランスのShimadaと申します。よろしくお願いいたします。
高レベル廃棄物というか、原発が、今の日本、人類の技術では、そもそも無理筋だという中で、たとえば、ベトナムが日本の原発を買いたいと、
日本としては、購入する側がいるならば輸出するという方針だと思うんですけれども、
無理だとわかっていても輸出するという事に関しては、これは、どう倫理的に判断すればいいでしょうか?

田坂広志:
原発の建設の輸出ですね?

Shimada:
はい。

田坂広志:
原発を、海外に輸出するという話ですね、
これは、これから本当に、いろんな議論が出るテーマですね。
「日本が脱原発に向かうんだから、当然、そんな危ないものを、海外に輸出するべきではない」というのも、一つの考え方ですね。

でも、もうひとつの考え方は、じゃあ、日本がそういう事の技術的な提供をしないでですね、ま、どこかの国がですよ、
たとえば、一般論として申し上げますが、かなりいい加減な技術で、いい加減な原発をつくって事故を起こされた時、
「日本が被害を受けるじゃないか」という考え方も、また一理ある
わけです。
従って私は、本当は細やかに、理想論で申し上げればですね、
先程の「原子力環境安全産業」の中に、非常に原発の安全性を高める、もしくは安全な原発技術というものも、私は含みこんでおいて、
それを提供することはありだろう、とは思ってます。

ただし、この議論を、あまり軽々にしたくない理由があります。
それは何故かと言えば、こういう議論を出した瞬間に、
「そうでしょ、だから日本で原発をやらなきゃいけない、やりましょう」というですね、この話に流し込む方が、今はむしろ日本では極めて多いと思うんですね。
従って私は、この話はしばらくは、本当は凍結した状態で、先ほど申し上げたような方向に行くべき。
もっと分かりやすく言えばですね、国民から見て、この政策を出した瞬間に、
「なんだ、結局、輸出とか何とか言いながら、原発存続の政策を密輸入しているのか」と、そう疑われる信頼感の無い政権である限りは、やるべきではない。
逆に、国民から見て、この政権はきちっと信念を持って、しかも、何年もかけて、脱原発に向かって動いてくれるという、そういう政権であれば、
そういう議論をテーブルに乗せて、
「国民のみなさん、こういう考えのもとで、海外に対する支援を行う事を、いかがでしょうか?」という議論は、スタートし得ると思います。
ただし、日本は、政権が実に短期間で代わる国だという事を考えると、あえて申し上げれば、二つの事はしっかりとやっておくべきだと思います。

一つは、脱原発の政策について、本当にその方向で行くんなら、政府はもちろん、その事をしっかりとやってもらいたいですが、
『脱原発基本法』のようなものをしっかりと定めてですね、政権が代わっても、法律的に、そこが縛られているという仕組み。
もう一つは『国民投票』です。
国民投票というのは、今は、日本の制度では、法的にきちっと整備されていませんが、
やはりこの、シングルイシューで、国民に方針を決めていただくという制度を、日本に導入しておかないとですね、
やはり、総選挙のようなものが、シングルイシューで戦う事は、必ずしも健全な形ではありません
私は、こういうテーマについては、国民投票、これは、海外でも、国民投票は随分、原子力に関してやっていますので、
日本も、こういう形で、国民が一つの歯止めを刺しておくという事ができる仕組みを、作るべき
だと思います。

政権が代わっただけで、もしくは総理が代わっただけで、政策が変わるという状態では、わたしは、あまり、あの…危なくて、
そういう政策論について、踏み込んだ議論はするべきではないと思っています。


質問:
フリーランスのHiroseと申します、よろしくお願いいたします。
先生は、五井平和(財団)というところで、何度か講演をされていてですね、
そこで、「原子力という技術体験は、人類にとって不要か?と問われれば、答えは慎重です。
なぜなら私は、人類に与えられるもの全てに意味があり、その意味を深く考えることによって、人類は成長し、成熟していくと思うからです。
その歴史的スケールで見るならば、原子力も、人類に与えられた一つの英知なのでしょう
」というご発言があるのですが、
では、先生がお考えになられる原子力の有効利用、というものがあるとするならば、いったいどういうものなのか、教えていただきたいてもよろしいでしょうか?

田坂広志:
あの、その発言は、もちろん今も、同じ考えです。
むしろですね、原子力については私は、仮にここで、人類全体が脱原発に向かったとしてですね、
仮に、300年先に何かのまた、人類全体が置かれている環境の変化が起こった時に、
人類の英知からすれば、原子力というものはですね、その気になれば技術としては、私はそれほど難しくない回復なり、また、再利用ができると思っている
んです。

ただですね、私が今の時代に、非常に強く、原子力のイージーな推進に反対する理由は、先ほど申し上げた、人為的組織的制度的文化的な問題が解決できないからです。
もっと分かりやすく言えば、この、非常にリスクの高い技術体系を、見事に使いこなして見られるほどですね、人類というのは、本当にかしこい社会を作っているのか?と。
この根本的な問いが、今あります。
少なくても福島を見て、私は人類社会というのは、これはもう具体的に見ても、いまの行政の在り方も産業の在り方も、資本主義のあり方も含めて、
私は、この極めて巨大なリスクを持った技術体系を、使いこなせるほどには賢くない。
ただしその事を持って、「この原子力という技術が、人類の未来永劫、全く意味を持たないか?」と問われれば、「それは分からない」としかお答えしようがないです。
従って、具体的な方策・運用云々という文脈のところの発言ではありません。


<5.核武装>「『プルトニウムを減らすために大間を稼働しなければいけない』は詭弁」

<余剰プルトニウム>
質問:
AP通信の山口と申します。
核燃料サイクルを維持する理由のもう一つとして、外国からのプレッシャーというか、アメリカの意向が反映されている、という議論があったんですけれども、
核セキュリティーの観点から、余剰プルトニウムをためないために、原発で燃やし続ける必要がある、という議論があることについて、どういうふうにお考えになりますか?

田坂広志:
これもね、最近日本が脱原発に行くと、「アメリカとの関係がおかしくなる」とかですね、
「核不拡散について、非常に問題が大きいんじゃないか」とか、いろいろおっしゃる方がいますが、
実は、あまり一貫した、筋の通った議論というのは、拝見したことがないんですね。
なんとなく、気分として語られている方が多いような気がします。
むしろ、この手の話は、表層的な議論よりも、本質論で見つめた方がすっきりしていますね。

「核不拡散」という事の一つの意味は、当然のことながら、「日本は核武装はしません」とか、「核兵器に転用することはありません」という事のもとで、再処理まで、核燃料サイクルまで認めてもらっている訳ですね。
したがって、この議論は、私は少し詭弁だと思っています。

日本はプルトニウムが、もうある。
「これは、燃やして無くさないと、日本は核武装するんじゃないか」と思われる。
「したがってこれは、燃やさなきゃいけない」
そうすると、「大間のようなプルサーマルの原発を稼働しなきゃまずい」
もしくは、「再処理工場と高速増殖炉を、核燃料サイクルを維持しなきゃダメだ」という、
これは極めて、私は詭弁だと思います。
それをやってもプルトニウムはまた次に出てきますから、グルグル無限に続くような話になってしまいます。

そうではなくて、もし本当に、脱原発の方向に向かうのであれば、もう今すでに存在している、40何トンかのプルトニウムについてはですね、
わたしは、国際的な査察にゆだねるような新たな政策論を、世界的に提唱するべきだと思います。
つまり日本は、これについてはもう全く「核兵器への転用はいたしません」と、
従って、世界的な、しっかりとした管理のもとで、使わないような仕組み制度を受け入れます、という事でやるべきで、
場合によってはそれを、国際的な機関で、空間的にも、別の場所に持っていくことはあり得るかもしれません。
で、それがすぐにできるわけではないですが、そういう姿勢を、政策的に一挙に示す、という事ですね。
つまり、そういう姿勢を、日本が明確に、世界に対して示すという事で、まず国際的な信頼を得るいうことで、
そこをごちゃごちゃやっていると、「怪しげだ」と思われる
と思います。

ただ、あの……日本ではやっぱり、プルトニウムだとか、再処理というものを、ごく少数かもしれませんが、
日本での核武装、潜在的核武装はやっておくべきだ、という論者の方もいらっしゃいます
ので、
こういう方々からすれば、むしろ再処理技術、濃縮技術そしてプルトニウム、こういうものは何らかの理由を付けて、日本にずっと置いておきたいという考えがあることも、一面の事実かとは思います。
このあたりはまた、非常に難しい、政治的な議論になってくると思います。


<6.原子力規制委員>「何を言うよりも大切なことがある。誰が言うかだ」

質問:
ロイター通信Maedaと言います。
原子力規制委員会というのが発足して、もう2カ月経って、実際に今度は、再稼働に向けての安全性を見るという事で、
地層の部分の調査、今日は、大飯にみなさん、パネルの方々が行ってらっしゃるんですけれども、
そちらの方向にどんどん、つまり、安全であることを確認して、安全でないものと安全であるものを分けると、いうような形に、今原発の政策の在り方がなってきていると思うんですけれども、
このまま行っていいのかな?という素朴な疑問がありまして、かなり、今回の原子力規制委員会は、法的には力を持っていると思うんですね。
なので、そこを誰が、どのようにコントロールできるのかな?
その、最終処分場の問題は、原子力規制委員会で、議論するものではなくなってますので、その部分をどういうふうに、現実の原子力発電というものとつなげていったらいいのかな、
ちょっとわからないので、もしご意見があったらお願いします。


田坂広志:
あの、いずれにしても、原発を、たとえば再稼働するとかしないという事はですね、どこかの組織なり、何かの公的機関が決めざるを得ないのは事実ですね。
仮に止めたにしても、「誰が決めたのか?」という問題になってきますので、
その意味においては私は、原子力規制委員会が、ある役割を果たすことは当然あり得るんだ、と思います。
で、むしろ問題はですね、国民の納得感だと思うんです。
これはどうしてか?というとですね、仮にですけれど、今みなさんが、原発に対して、非常に疑問を持っている方で、皆さんがたとえば、この中で誰か一人を選ぶ。
この人はもう本当に、頭が下がる位に、国民の命と安全の観点からだけ判断する人だ、という信頼があったらですね、
仮にその方が、「とはいってもみなさん、全体のエネルギー状況を考えた時、これについては安全を徹底確認しました。
だから、これは例外的に、まずはこの稼働を認めて下さい」と言った時の受け止め方とですね、
なんかよく分からないけれども、どうしてあの人が選ばれたの?となってですね、その人が同じ事を、同じ文脈で言った時の受け止め方が、違うんだと思うんですね。

これは、人間心理で、「何を言うよりも大切なことがある。誰が言うかだ」という名言がありますが、
同じ事を言っても、あの人が言うとなんか信用できない。この人だったらなんか信用できる、といった世界は、現実にあります。
これは、誰かを固有名詞的に、誰かを批判している訳ではありません。

そもそも、原子力規制委員会のメンバーが、本当に適任かどうかというような議論を、私が決めつける立場にはありません。
むしろ、この方々が選ばれるプロセスが、なぜあのような形を取ってしまわれたのか?が、わたしには、残念です。
私が逆に、あの委員の立場だったとしても、あの、首相指名というような形は、止めていただきたい
逆に、選定のプロセスから、広報の段階から、国民的な討議にかけて、いろんな情報もオープンにして、
まさにパブリックコメントなんかも受けた中でですね、最後に、ある部分、国民の意見も反映した形で選ばれていくような、
そして、国会同意人事をとられれば、納得感がもう少し高まる
わけですね。
どこまで高めるかというのは、この後、細やかな議論があり得ますけれども、
少なくとも今のやり方だと、
「この人達は、政府から見て信頼できる人だ」「経歴調べても、ほんとにちゃんとした人だ」「いろいろヒアリングしたけれども、原発についてはしっかりしたものを持ってる」
もうその通りなのかもしれませんが、原子力の問題の、ほとんどすべての問題は、パブリックアクセプタンスの問題です。
国民が、それを受容するかどうか?納得するかどうか?
これは特に、放射性廃棄物使用済燃料の問題は、全ての問題は、パブリックアクセプタンスの問題
です。

従って政府は、こういう国民の納得と了解、信頼を得るという事についての手順論を、もっと成熟するべきです。

今は、私から見ると、相当荒っぽいやり方をされているように見えます。
これは、残念ながら、そう言わざるを得ないと思います。

↑以上、転載おわり


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重大な原発事故が起きてしまった国の、国民一人一人に課された重責(質疑応答前半)

2012年11月06日 | 日本とわたし
前回記事の続きです。
これも同じく、きーこさんが文字起こしをしてくださっています。
↓以下、転載はじめ

<1.望まない被ばく>「今後何十年と極めて重い心の重荷を背負う事になる」田坂広志氏11/2自由報道協会記者会見(内容書き出し)
2012年11月2日 自由報道協会主催
田坂広志氏 質疑応答より(音声)

質問:
放射能の人間に対する影響,という問題なんですが、今現在、肉体的・精神的両面にわたって、様々な苦悩、苦痛というものがある、という事が伝わってきています。
低線量被ばくとか、内部被ばく被害、そういうものが、公には認められていない現状がありまして、
避難勧奨地域というような形で、線量が高いという事も認められない状態のまま、汚染地域にいる福島の人達、
それから、福島以外の東京にも、そのような場所がありますが、そういう人たちの苦悩、それを救う道、というのはあるんでしょうか?
その辺をお聞きしたいです。

田坂広志:
これも本当に深く、大切なご質問だと思うんですね。
で、あの、これほど多くの方が、いろいろな検討をされて、なかなかに、あの…
福島の方々を始めですね、被害を受けられた方々の苦しみというものが、なくならない訳ですから、
何かうまい妙案があるという事は、当然申し上げられない訳です。

ただ、一つ私は、政府と行政が、しっかりと理解すべきことがあると思っています。
つまり、その苦悩というものが存在し、それがどういうものなのか?という認識が、私は残念ながら「甘い」と思います。

というのはですね、
この福島で、放射性物質が環境中に広まって、量のレベルは、高は別としても、
「被ばくをされた方々の被害とは、一体何なのか?」という事がですね、極めて狭い範囲でしか、議論されていないんですね。

それは何なのか?と言うと、基本的には、健康的被害というレベルでしか、議論されない訳です。
健康的被害というのは、分かりやすく言えば、
「これ位、なんミリシ-ベルト浴びたから、これ位浴びると、将来どの位癌になる可能性があるか」とかですね、
もしくは、「基準から見て十分に低い」とか、基準から見て「無視していいレベル」だとかという、いろんな議論があるわけです。
この議論の基本は、どこまでも、「健康被害は起こりませんよ」とか、「いや起こるんじゃないか」というところで議論している訳です。

ところがですね、実は、福島の方々の受けている被害というのは、もちろん、この後、健康被害が出るかでないか、これはもう本当に、
このあと我々は、本当に祈るような思いで、見守ることになるわけですけが、
実は、健康被害だけではないんです。
心理的被害があるという事を、私はずっと申し上げているんです。

それはどういう事か?と言うとですね、
基準値より下であろうがなんであろうが、自分の意図せざる、そして全く、受け入れるつもりなど全くない被ばくを受けた方にとってですね、
それから後の何十年というのは、極めて重い、心の重荷を背負う事になる
んです。

この意味が分かる方が、残念ながら、行政の方に少ないような気がします。
政治家の方にも、少ないような気がします。

むしろ、
「今基準以下なんだからそんなに騒がない方がいい」
「これ位の基準では、発がんは起こらないよ」と、
「さぁ、大丈夫なんだ」って、
「あんまりそういう事を言うもんじゃない」という、こういう議論があります。

一面の、一つの考えではあるんですけれども、私のささやかな経験を、あえて申し上げます。

私は若いころ、自分自身が意図して、つまり、自分が求めて、原子力の研究に携わった人間です。
そして私は、研究者の時代はずーっと、放射性物質を扱っています。
ただし、放射線管理の手帳も持ち、毎日きちっと線量を測りですね、
そして、管理区域と呼ばれるしっかりと管理されたところで、性質もよく分かった放射性物質を扱って、何がしかの被ばくをしています。

これも、国内法の基準と、ICRPの基準から見ても、十分に無視できるほどの、無視とは言いませんけれども、許容できるレベルの被ばくです。
そして私は、その分野の専門家です。
放射線健康管理学を、つまり、放射線管理をやるのを専門にした人間ですから。
その専門家の立場で、私は若い頃に被曝をして、実はそれから10数年たって、放射線被ばくが原因となっても起こり得る病気、
大体お分かりになると思いますが、……に罹ったんですね。
その瞬間に、私はやっぱり……ものすごい辛い……心の、その、苦しみの経験があるんです。

私は誰よりも、そういう被ばくが、どれ位人体に影響を与えるかについては、良く、一番よく分かっている人間です。
そして、その理性の方は、
「これ位の被ばくで、そんな病気になる筈はない」という事も分かるし、「それが起こるとしても、確率は非常に低い」と思うんです。
でも、現実に病気になった瞬間には、やっぱり人間というのは、「あれが原因じゃないか」、と思って苦しむんです。

しかし、私の場合は自分で、その……分かって被ばくした人間です。
しかも管理区域で、放射線現場で、線量までしっかり確認した人間ですよね。

福島の方は、全く管理などされていない、突然放出された、量も分からない放射性物質で、自分で意図せず、好むことを全く、好んでやったわけではないんです。
むしろ、逃げようと思って、被ばくしてしまっている
わけです。

どれ位被ばくしたかの記録も残ってない。
ただ、被曝したという事だけが、非常に明瞭に出てくる。

それを、いっくら基準値から見て、「これ位ですから大丈夫です」と言われてもですね、
もちろんそれは、しっかりと示して差し上げるべきだと思いますよ。
きちっと分かっている情報は、伝えて差し上げるべきだし、それが医学的に見て、どれ位のリスクかは、それも正確に伝えて差し上げるべきですが、
間違っても、「あなた、基準値がこれ位だから、発がんの確率は非常に低いですから心配しなくてもいい」と言って済ませられる話では、本当は無いんです。

どうしてか?と言えば、我々ここにいらっしゃる方も含めて、これから数十年間の間に、3人に1人は、あの……癌になられる訳ですね。
あの……癌で亡くなられる訳です。
そうするとですね、皆さん考えてみて下さい。
今、無用の被ばくをされて、そして、「基準値以下ですよ」と言われたとしてもですね、何十年か先に癌になった時に、人間は必ず、その事で苦しみます。
もちろん、みなさんレントゲンも受けていらっしゃいますから、被ばくで言えば、そっちの方が多いかもしれませんが、
人間の心理というのは、自分で受け入れたリスクについては、比較的心が許容してしまうんです。
でむしろ、仮に、私が突然皆さんに、ある状態で被爆をね、するような状況にしてしまった時に、
「俺はこんな被ばくはしたくなかった」という思いがあるときは、一番辛いです。

やはり、人間ってそういうものですよね。
自分で受け入れたリスクの結果、出てきたものというのは、比較的、人生の中で、心が受け入れることができるんですが、
受け入れたくなかったものが、自分にリスクをもたらしたのではないか?健康被害になったのではないか?と思う時の苦しさ、というものがあります。

もちろん、この事を申し上げたからと言って、解決策を申し上げている訳ではないんです。
ただですね、私はやはり、「福島の方々の、まさにこの苦しみという事に対してどう思うか?」という質問を頂いたとすればですね、
まず、その心の苦しみ、心理的な被害というものを、深く受け止めるというところから、行政はスタートするべきだと思います。
これは、今のご質問に対する一番大切な私のお答えです。


<2.放射性廃棄物>「国民の意識の成熟が問われる問題」

質問:
今伺ったように、原発ゼロ社会とは、選択の問題ではなく、不可避の現実であるという、そういう事実の前で、これから日本は、何をしなければいけないんでしょうか?
高レベル放射性廃棄物、使用済み燃料というのを、どうしたらよろしいんでしょうか?

田坂広志:
これも本当に、重要なご質問なので、少し丁寧に申し上げるとですね、これは直ちに、非常に難しい現実に直面する訳です。

たとえば、先程の、学術会議の提言をふまえて、「その通りだ」と考えて「長期貯蔵をやろう」と、もしくは、「暫定保管」という言葉も同じなんですけれど、
で、そこまでは、仮に政府が方針を定めることはできる、とは思うんです。やろうと思えば。
問題はその、「長期保存の施設をどこにつくるか?」なんです。
「暫定保管施設」を
これはもう、極めて大きな現実的な問題に、すぐに直面します。

つまり、一般政策論としては、長期保存します、100年でもやりますという事は、簡単に言えるんですが、
じゃあ、どの地域に作るか?となった時に、皆さんは今もうすでに、がれきの搬入ですらですね、日本全国の地域の方々が、やはり非常に抵抗がありますね。
この抵抗を感じる方々に、特に私は、被害があると申し上げるつもりはないんですけれども、
誰といえども、自分たちの地域に、放射性物質で汚染された可能性があるものが持ち込まれることは、がれきですら、やはり非常に、心理的な抵抗があるのが現実です。
ただ、放射性廃棄物の専門家の目で見れば、がれきはその中でも、本当に軽微なものですね。
ほとんど汚染の無いものも含まれている訳ですから。
ところが、それですら、これほど強い、社会的な拒否の気持ちが動く。
これから出てくる放射性廃棄物というのは、もっともっと、大変な放射性廃棄物が出てくる訳です。
たとえば、福島で汚染水を処理すると、極めて高放射能の廃棄物が、今どんどん溜まっています。
あの解体をやると、外側の解体した建屋も、汚染は結構していると思います。
いや、それ以上に、最後の本丸の福島の原発、メルトダウンを起こした3つの原発というのは、
そのまま、世界に存在する高レベル廃棄物の中で、最も扱いにくい、厄介な高レベル廃棄物です。
それが、いずれ出てきます。

そして、今ご質問の、使用済み燃料。
こういうものが、もっと非常に危険度の高いものが、貯蔵に向かう訳です。
もう一回申し上げますが、一番軽微なものも、貯蔵施設ですら今、日本中で受け入れるところがなかなか無い。
その事で、政策が行き詰る。

私は「パンドラの箱を開けてしまった」と、最初の本で申し上げましたが、
これは誇張ではないです。
パンドラの箱を開けてしまったがゆえに、これから次々と、難しい問題が飛び出してきます。
それが、この放射性廃棄物の処分以前に、貯蔵の場所すら見つからないという問題が、これから次々と出てきます。
この問題にどう処するか、という事ですね。

あの、あえてもう一言付け加えれば、これは、解決策というのは、政府が強権を発動して、「どこどこの地域」とやるわけにはいかない。
これはおそらく、政策論的にはですね、一度、国民的な議論に、しっかりと付するしかないと思います。

つまり、我々は、放射性廃棄物が近くに貯蔵したりする事は、やっぱり誰といえども抵抗がありますが、
本当は、我々がこうやって電力を使ってきた結果として、生まれているものでもあります。
もちろん、
「原発推進は、政府が勝手にやったんだろう」とか、「電力が勝手にやったんだろう」という心情を、持たれる方もういらっしゃるかもしれませんが、
現実に、社会全体として、原発を進めることによって生まれてきた廃棄物ですから、
国民全体として、この、最後の貯蔵という負担を、どう分かち合うかという議論からはじめないと、あの、なにが起こるか?と言えば、今存在しているところから動かせない。
従って、存在しているところが貯蔵場所、最悪の場合は、処分場所になって行く、というような話になっていってしまうと思います。

その事も含めて、先程、国民の意識の成熟が問われる問題が、今目の前にある、と申し上げた訳です。


質問:
プレジデン社の石井と申します。
時間の猶予はどれ程ありますか?という質問です。
どこに貯蔵するか、国民的議論に付するしかないと、先程、田坂先生はおっしゃいました。
その議論によって、どこに貯蔵するという事を決めるまでの、時間的な余裕というのは、我々に果たして、どの位あるのか?という、
時間的余裕というものがどれ位あるのかという事に関して、お伺いしたいと思います。

田崎広志:
これも、いいご質問だと思います。
あの…ただ、まず理解すべきは、今ですね、行政とか政策が動かない理由は何か?という事から申し上げたいと思うんですが、
政策がうまく動かない理由というのは、その…原子力に於いて、最も大切なものは何か?という事を、行政が理解していないからです。
たとえば行政の方に、「原子力にとって大切なものは何ですか?」と聞くと、必ず二つの事をおっしゃいます。
安全です」。そして「安心です」と。
確かにその通りなんですが、実はもっと大切なものがあります。
信頼」ですね。

つまり、どれほど日本の行政が、もしくは私が仮に、「みなさん安全ですから、そして安心して下さい」って言っても、
この行政、もしくはそれを言っている識者の田坂が信用できないとなればですね、信頼できないとなった瞬間に、物事は一歩も動きません。
つまり、これを裏返して言うとですね、政府としてある期間、「国民のみなさん、今政策を進めていますのでお待ちください」という事が言えれば、この期間は、多少取れます。
ところがですね、この政府に対する信頼が無いとですね、地元住民の方からすれば
「今すぐ何とかしろ」「すぐに持ってけ、撤去しろ」という、このたぐいの、やはり非常に厳しい反応が出てくる可能性が、非常に高くなります。
従って、私はもう1年半前から申し上げているのは、「今、行政が絶対にやらなければならない事は、信頼の回復だ」と、「これ抜きには一歩も進まない」と申し上げてiます。

いまの石井さんのご質問に対して、少し違った角度のお答えになってしまうかもしれませんが、
たとえば私が、行政の責任者で、「この貯蔵施設を作るのに、10年はやはり必要だ」と、仮に思ったとしてもですね、
問題はその、10年待っていただけるか?という事なんです。
それを、本当にお願いして、国民なり地域の住民の方に、「こういう手順で進めていきますので、10年間お待ちください」
これは仮に、30年でも結構です。
それを納得していただくためには、この政府は、
「責任を持ってこの約束を守る」とか、「言っていることに裏と表が無い」とか、「国民の命と安全を一番重視して考えてくれている」と、
これは、「間違っても産業界の意向に沿って、虜となって動いている訳ではない」という事が、しっかりと理解された時に、
こういう国民、もしくは住民の方々との話し合いが、比較的円滑に進む可能性があるわけです。

したがって、とは言っても、100年というオーダーで、私は当然ないと思いますから、10年とか30年とかというオーダーの中で、
どれ位、地域の住民、そして国民との行政の間で合意ができるか、このあたりがポイントであろう、と思います。

ただし、福島の原発の廃炉だけでも、私は、30年でもとても無理、あれは、普通の廃炉とは全く違う概念ですので、高レベル廃棄物のかたまりをどうするか?という問題ですので、
その問題だけ見ても数十年、50年近い歳月は、最初から覚悟せざるを得ないです。

どこまでの猶予という意味が、テーマごとに違ってきますけれども、そのことを付け加えておきたいと思いますが。


質問:
東電株主代表訴訟のHorie Tetsuoと申します。
今まで、原発推進という事でやっていけば、推進すれば、自然に止まるだろうというような事で、
さきほど、最初にありましたように、使用済み燃料をどう処理するか、この事の論議というものが出てくれば、自然的に原発は止まるだろうというふうな話しがありましたけれども、
問題は、この使用済み燃料をどうするか?という、この論議をどうやってやって、その遡上に乗せるのか?
国民的論議にするのか?という事は、「なかなか今の状態の中ではない」というふうに思っておりますので、
たとえばですね、「東京に使用済み燃料を持ってくる」とかというような、極端な意味で、
「推進する意味でこういう事が必要ですよ」というふうな何かテーゼ的なものを、何か案があって、論議を巻き起こすものっていうんですか?
そういうものが何か、こう、お考えになる部分というものは無いでしょうか?

田坂広志:
これもいいご質問を頂きましたので、やはりお答しますが、
さきほど申し上げたように使用済み燃料というのは、一回、「国民一人一人の問題なんだ」というようなですね、その意識の流れを作らないと
なんか、「うちはとにかく引き受けたくない」とみんなが言いだすとですね、
たまたま、今存在している地域に、ずっと押し付けることになる」という、これはやはり、やるべきではないんですね。
「東京に使用済み燃料」というのは、なかなか刺激的な言葉ですが、そこまで明瞭な言い方でないにしても、
我々が、電力の恩恵によくした結果、発生している使用済み燃料については、
電力の消費の量に、過去の、消費の量で、ある意味案分した形で、正確に言うと、原発に依存した電力の消費の量に案分した形で、
「それぞれの地方自治体が、責任を持って対応すべき
だ」というような政策論は、私はあり得ると思います。

ただしそれは、間違っても、全ての県が具体的に何本ずつ持つ、という事ではありませんが、
そういう政策論から始まって、それぞれの自治体が、じゃあ、その使用済み燃料を、最終的にどうするか?ということで、
地方自治体ごとの、またいろんな議論をしていただくというプロセスを、私は一回やるべきだ、と思います。

そうしないと、たまたま受け入れてない県だけは、都道府県は、「うちはとにかく受け入れたくない」の1点張りで行けば、この話は非常にイージーに、その県にとっては解決できますので、
従って、場合によっては法律制度的に、使用済み燃料については、全ての恩恵をよくした国民、そして自治体が
責任を持って、その最終的な貯蔵なり、処分の問題を検討する、というような考え方を出すことは、私は考え方として、「あり」だと思います。
ただし、それを今直ちにやることは、相当なパニックになりますので、あくまでも、政策論的な基本的な考えとして、申し上げておきます。

もうひとつはですね、もっと具体的なレベルで申し上げると、この今の原子力委員会そのものを、今後どうしていくか?
原子力安全委員会は規制委員会に変わりましたので、とりあえずはひとつ区切りがついていますが、
原子力を推進する立場の原子力委員会が、今後どういう組織になっていくか?無くなるか?という議論が出てきます。

このあたりの文脈の中で、是非メディアの方にお願いしたいのは、
「原子力の推進計画」と呼ばれるものの中に、必ずこの使用済み燃料の最終処分を含めたものを持って、推進なり利用計画と呼ぶんだという事を、常識として広げていただきたい、という事です。

今までは、その部分だけは、「地層処分やります」の1行で終わりですので、それに対して、真っ向おっしゃっていただいたのが、学術会議。
これは、明確な国の機関です。
正確には、公的なオーソリティーですね。
そして、この方々は、政府からの正式の諮問に応じてですね、報告書を提出したわけですから、
これは、どこかの学者の方々が集まって、なんとなく私的研究でやったわけではありませんから、
これを、正面から政府が受け止めて、「地層処分ができない」という前提で、「どうするんですか?」という事を、
今後の原子力を仮にしばらく利用するにしてもですね、その計画の中に入れるべきだと。
入って無いものは、計画とは呼ばないと。
この、国民的な議論を起こさせることかと思います。


<3.立地自治体>「地元の経済的自立を図るための政府の支援」

質問:
赤旗日曜版記者の三浦と申します。
使用済み核燃料の問題が、もう解決できないという事であると、
六ヶ所の再処理工場はですね、当然、すぐに注視するべきだという結論になるかと思うんですが、そこら辺はいかがお考えでしょうか?

田坂広志:
これも重要な、今回の政策論の中で話題になった事ですね。
まず、原発ゼロ社会がやってくる。
したがって、原発ゼロに向かって、どう、社会に対するインパクトを最小にしながら、それを受け入れていくか?という話ですから、
元より、再処理工場は、核燃料サイクルそのものも必要ない
従って、再処理工場は止めるべきだというのは、ご指摘の通りだと思います。

で、あえて、二つの事を申し上げたいと思います。
これが結局、そうは言っても、しばらく再処理工場の存続を認めるような形になっていく理由は、
分かりやすく言えば、青森県の地元の方々、行政の方々が中心ですが、やはり、そこのお考えが強くあると思うんですね。
分かりやすく言えば、「核燃料サイクルを止めるんであれば、青森県が貯蔵している六ヶ所村の使用済み燃料を、全部持って帰ってくれ」と。
これは、決して異常なことはおっしゃっていない、と思うんですね。
もともと「再処理をして核燃料サイクルをやりますから、ここは最終処分場にするわけではありません」と、
「ただただ貯蔵するための場所でもありません」「再処理をするための、まさに保管施設としてお願いしています」という事は、歴然たる事実ですから、
この青森県の方がおっしゃるこの考え方は、もちろん間違っていない訳です。
ただですね、現実にこの使用済み燃料を、全てのサイトに戻すか?
今、全ての原発の、使用済み燃料の貯蔵プールの満杯率が、平均7割ぐらいまで来ていますね。
もうこのまま、全部再稼働に向かったら、実は、後6年位で満杯になる、と言われているわけです。

ですから、この状況の中で、青森県がそういう事をおっしゃった状況でですね、おそらく政府としては、非常に苦渋の決断をせざるを得なかったと思うんですね。
で、あえてもうひとつ申し上げれば、その青森県のお立場というのは、これは結構重要な問題なので、率直に申し上げますが、
ここまで原発立地自治体、もしくは原子力施設立地自治体というのは、電源三法交付金というものが、かなり潤沢に落ちているわけです。
もちろん、リスクと引き換えに受けた、という面がありますから、それはそれで一つの政策判断だったんですが、
その施設がなくなるという事は、その地元の利益の観点から見て、やはり受け入れがたいという心理が今、世の中にずーっとあるわけですね。
それを象徴するのが、たとえば大飯の再稼働の時に、
おおいの町と隣の小浜市で調査をやると、再稼動賛成反対でやると、ご存じのように、おおい町は8割が賛成、2割が反対
すぐ隣の小浜市になると、ほとんど距離も変わらないんですが、これは2割が賛成、8割が反対ですね。
これに象徴されるように、地元への電源三法交付金というものが存在して、これにやっぱり依存して、経済が成り立っている地域ですから、
ここで施設を止めることは、いかにも耐えがたい
この心理というものを、我々は、行政の観点から、私はしっかりと把握、理解するべきだと思います。
従って、私が政府に提言したのは、「脱原発交付金」に切り替えるべきだと。
つまり、地元から突然、経済的ななにかをですね、支援を取り払ってしまうというのは、少しやはり、極端な行政になってしまいます。
従って、原発、原子力施設を推進することによって、地元が恩恵を受けるという形は持たれませんが、
「脱原発に向かっての何年間かの期間限定で、地元への交付金は差し上げます。従って、その交付金を使って、地元の経済的自立を可及的速やかに図って下さい。
そのための支援は、政府として全面的にします」
という政策論と抱き合わせでないと、
「核燃料サイクル辞めました。再処理工場やりません。この地域ストップします。従って交付金は落ちません」という事では、当然地元は、非常に強い抵抗を示してくる。
その抵抗の仕方は、今申し上げたように、論理としては、非常にすっきりとしている論理ですね。
ですから、そこの裏の舞台まで考えるとですね、少し深い政策論が求められるかと思います。
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今この時点に於いて『原発ゼロ社会』というのは、政策的な選択問題ではなく不可避の現実!どーん!

2012年11月06日 | 日本とわたし
こちらがサンディの置き土産に四苦八苦している間に、きーこさんが、彼女としてはいつも通りなんやろうけど、
ものすごい量(何万字にも及ぶ大変な量)の文字起こしをしてくれてはった。
それを、ちょこちょこと、細切れに時間を見つけては読みながら、これは絶対に、ここにも残させてもらいたいと思た。
彼女の労力を厭わない正義感と、真実を伝えたいという意思の強さには、ほんまに心から感動するし、深く感謝してる。
きーこさん、ありがとう!

↓以下、転載はじめ

田坂広志氏11/2自由報道協会会見(内容書き出し)
自由報道協会
[日時] 2012年11月2日(金)15時30分(14時30分 受付開始)
[会見者] 田坂広志氏
[テーマ] 今後の原子力の課題について

この会見を、偶然Liveで見ました。
田坂広志教授を、初めて知りました。
その内容は、簡潔明瞭で、非常に分かりやすく、事実が見つめやすいものでした。
『原発ゼロ』ということは、それを誰かが選択する以前に、避けようのない現実であるという田坂先生のお話は、
今、原発が無ければ困るという人にも、即廃炉と言う人にも、
みんながきっちりと理解しておかなければならない事実なのだ、と思いました。

音声を取りましたので、そこから書き出しました。


田坂広志氏:
私もまず最初に、自由報道協会の方に、お礼を申し上げたいと思います。
私自身、あんまりこういうところにしゃしゃり出てくるような、話をなんですけれども、
今、日本で、原子力の話が、いろんな形で言われている訳ですが、
ほぼ、わたしの目で見る限り、極めて重要なことは、あまり議論されていない、という印象があります。
メディアの方には、一人一人、いろいろとお話をするようにしているんですが、
やはり、何かの理由があるのかもしれませんが、原子力の問題で、根本の問題に触れないような論調が多いように思われます。

そんな事を感じていました矢先に、自由報道協会の方から、こういう場を使って何かのメッセージを出したらどうかという、そんなお誘いをいただきましたので、
本当に感謝を申し上げながら、この場を務めさせていただくことにいたします。

私の経歴などについては、今ご紹介を、少し身に余るようなご紹介も含めて頂きましたので、本題に入ってまいりたいと思います。

で、私自身の経歴で、もう一回だけ、申し上げておきたいのは、
私は、原子力の、いわゆる原子力ムラと言われるところを、ま、20年間歩んだ人間です。

これはもう、隠しようのない、現実の私の経歴になって残っていることですので、
1970年に大学に入り、71年から原子力工学科に進学を決め、そして、後に国立研究所に、アメリカの国立研究所に行くこともあり、勤める事もありましたが、
民間企業での、いろいろな原子力のプロジェクトにも携わって、91年にその世界から、ま、離れたわけです。

離れた訳というのは、決して、原子力について極めて強い批判を感じたからではない、これも、正直に申し上げておきます。

むしろ、自分のやるべきことはもうやった。
後輩の皆さんが、本当に優秀な方々がいらっしゃるので、これからは、世界で最も安全な原子力を実現してもらいたい、という気持ちを持ち、
同時に私自身、それ以外の、自分で取り組んでみたいシンクタンクという、やりがいのある仕事がありましたので、そちらに向かったわけです。
これが、91年ごろですね。

そしてこの、20という数字に意味があるのか分かりませんが、20年、原子力ムラで勤めた人間が、働いた人間が、
20年離れて、2011年、何故かまた、原子力の世界に戻ることになってしまった
わけです。

私は、この事故が無ければ、かりにそれなりの高い立場、たとえば、原子力委員長とか、そういう立場でお誘いいただいたとしても、戻る事はなかった人間かと思います。

ただ、あの3月11日の事故の後、一人の市民として、まずはあの事故を見ながら、
「なぜ、SPEEDIが動かないか?」
実は、SPEEDIのような、環境安全に関わるシュミレーションは、私の専門でもありましたので、
あのSPEEDIを解するために、ま、国費を何百億円も使い、何年もの歳月を使って作ったものが、
一番必要な時に動かない、という現実
も見ながら、
本当に、福島の方々の事にも、やはり、これはどうなっていくんだろうか?という思いながら、
外から、政府に対しては、いくつかの提言をしておりましたが、
結局、29日、内閣官房参与として政府の仕事を手伝う、というよりももう、東京電力と経産省、保安院そして官邸、
この方々と、この事故対策に取り組む、という日々が始まったわけです。

で、5カ月と5日勤めて、内閣総辞職とともに、内閣官房参与を辞任する事になりましたが、
5か月の前半は、やはりこの事故対策、やはり事故対策だけではもう、私自身が進めるべきことは十分ではない。
原子力行政の改革にも取り組むことになり、さらには、原子力政策、現在話題になっている、原子力脱原発依存という、こういう政策論にも関わることになったわけです。

で、まぁ、こういう立場の人間ですので、原子力ムラの裏も表も、率直に申し上げればよく分かっております。

その意味では、何か、運命的にこの世界に戻って、原子力行政と原子力産業の改革という事を、論じざるを得なくなった時に、
かつて私が見てきたことが、何かの意味があるんだろうと思って、今、ささやかな活動をしております。

とはいえ、僕の経歴は、もう十分にご理解いただいたと思うので、
実は、今日申し上げたい事、時間さえあれば、もう、いくつもありますが、
今日はたった一つ、是非とも、多くの国民の方々に伝えていただきたい事を中心に、お話をしたいと思います。

最初に、結論を申し上げます。

よくこの間に、政府が、原発ゼロ社会30年代、という事も述べて、いろんな意見を、批判もあるようですが、
いずれにしても、原発ゼロ社会を目指す、というビジョンを出したわけです。

で、この原発ゼロ社会、というものについての論調がですね、
今回、閣議決定がされなかった事がどうか、という次元の話はさておいてですね、
私が一番気になるのは、原発ゼロ社会は、みなさん選ぶんですか?という論調が、今非常に広がっています。
特に、原発を推進する、という立場の方々から、
「原発ゼロ社会などを選んだら、この国の経済はおかしくなりますよ」
「電力料金は2倍になるし、雇用も減るし、海外に企業が行ってしまいますよ」みたいな事をおっしゃいます。
この議論が正しいかどうか?という事をも、ま、あるんですけれども、


それ以前に、私が一番申し上げたいのは、
今この時点に於いて、原発ゼロ社会というのは、政策的な選択の問題ではありません。
つまり、ゼロ社会を選ぶんですか?選ばないんですか?という、選択問題ではありません。
これは、不可避の現実だ、という事
を申し上げています。

つまり、立場が推進であろうが反対であろうが、なんであろうが関係なくやってくる、
もう避けることができない現実
になっているんだ、という事を、一人でも多くの国民の方に、理解していただきたいと思います。

先ほど申し上げたように、私は、原子力の世界を歩んだ人間です。
特に、感情的に、原子力をつぶしたいと思っている人間でもありません。

ただですね、専門家として、今現実のこの状況を見た時に、
もう原発は、推進反対に関係なく、必ず止めざるを得なくなっている状況になっている、という事を、まず、直視するべき
だと思います。

よく、原発脱原発の議論に対して、「そういう非現実的な話はおかしい」という方がいらっしゃいますが、
いったい誰が非現実的であるか?という事も、少し考えてみる必要がある
と思います。

今、全ての国民、そして政治家、官僚、財界の方が、直視しなければいけない現実を見ていないのは、
むしろ、もしかしたら、財界の方や行政の方
ではないのかという印象が、私の中にはあります。

その事を申し上げたうえで今から、短い時間ですので、ポイントを申し上げたいと思います。

「原発の未来をめぐる7つの誤解」と、あえてつけさせていただきました。

第一の誤解。
この話は、今要点を申し上げましたが、ここに書いてあるのは、誤解の認識です。
私の認識ではありませんが、よくこういう言葉を聞きます。

「福島の経験に学び、原発を、世界でも最高の安全を実現しよう」と。
そうすれば、原発は再稼働をし、今後も使っていける、というような論調ですね。

もしくは、こういう言葉もよく聞きます。

「最近の原発は、最高の安全対策が行われているんですよ」と。
「福島で原発事故を起こしたけれども、あれはまあ、車に例えて言えば、T型フォードのような古いタイプですよ」と。
「今の世界の原発、日本の原発最新鋭のものは、フェラーリのように、最先端の技術が使われていますよ」
ということが、よく言わます

この事をもって、先ほど申し上げたように、
福島の経験に深く学んで、最高の原発をつくっていけば、「いやこれは使っていけるんだ」という論調があります。

ただ、ここでですね、深く見つめておくことがあります。

「そもそも、原発の安全性とは何か?」という事ですね。

というのは、よく総理も、海外などのいろいろな場で、国際的な会合の場で、
「世界でも、最高水準の安全性を実現する」というような事をおっしゃいます。
で、その考えは、全く私も賛成です。

ただですね、ここで言う安全性の意味を、すこーし誤解されているように思います。
原発の安全性というのは、技術的な安全性だけではないんですね。

つまり、
津波対策はしっかりやりました。
さらには、電源喪失についても、ちゃんとバックアップをやりましたということをもって、
「原発の安全性は、極めて高いレベルになりました」ということは、実は、一面にしか過ぎない
わけです。

本当の原発の安全性というのは、人的・組織的・制度的・文化的安全性の事です。

これは、是非、皆さんのような報道の立場に立たれる方に、是非、世の中の常識として広めていただきたい、と思うんです。

というのはですね、世界の原子力施設の事故というのは、私も専門ドクター論文を書くなかで、これは随分学びました。
世界の原子力の事故の大半は、その原因は、ほとんどがヒューマンエラーなんですね。
一番最初の人身事故と言われる、アイダホホールズのS1事故も含めて、人間のヒューマンエラーです。

このヒューマンエラーというのは、人間のミスだという事で、すぐに、まぁ
「だったら、人災の訓練、スタッフの訓練をちゃんとやろう」みたいな話になる面もあるんですが、
実は、ヒューマンエラーと言われるものは、その背後に、もっと広い問題が横たわっています。
これを私は、人的組織的制度的文化的要因と呼んでいます。

で、一つの分かりやすい例を申し上げると、分かりやすいというには、少し辛い例なんですが、
JOCの臨界事故があったわけです。
これはもう、皆さんご存じのように、東海村で臨界事故が起こった。
この施設で事故が起こった時、わたしは、東京で仕事をしてたんですけど、
ある会合にあったんですが、この事故の情報が届いた。
「東海村のウラン転換工場で、臨界事故が起こった」
聞いた瞬間に、私はこう申し上げたんです。
これはもう、忘れもしないですけれども、そこにいらした会合のメンバーに
「これは誤報です」と。

私は、実は、ウラン転換工場と同じタイプの工場で、働いていましたので、その工場の設計についても、よく分かっております。
したがって、周りの方に申し上げたのは、
「これは誤報です。
あの手の施設はもう……たとえば、作業員が、右に回すべきバブルを左に回したとか、その程度の事で事故が起こらないように、
臨界事故など絶対に起こらないように、そういう設計がなされているんです。
だから……臨界事故というのは誤報です」と申し上げた。

ところが……事実はご存じのように、実は、臨界事故が起こっていた訳です。

それをよく調べてみると、これも私は驚いたんですが、
ウラン溶液は、本来、タンクからタンクへ、パイプで送液しなければならないものをですね、
作業を急いだ作業員が、何故かバケツで汲みあげて、注ぎ込んだ
訳です。
その瞬間に、チェレンコフが見えた、といいますから、紫色の光が見えた。
これが見えた方は、本当にお気の毒ですが、数時間で死亡します。
その死に方も、人間の死に方としては一番辛い、全身の細胞が崩壊するような形で、亡くなっていく
わけです。

で、この悲劇については、論じる場面ではありませんが、
何が問題か?と言えばですね、この作業員は、確かにエラーをしたわけです。
でも、この事が、先ほどの人的組織的制度的文化歴問題に、必ず繋がります。

単に、「この作業員がミスをしてしまった、残念だな」では終わらない。
そもそも、この作業員に対する教育訓練は、どうなっていたのか?
さらには、監督責任者はどこにいたのか?という、人的組織的な問題になります。
さらには、何故作業員が、これほど急がなければならないほど、そういう、雇用制度の問題は無かったのか?
制度面ですね。
職場の安全文化はどうだったのか?
こういう問題があるわけです。

したがって、皆さんに、是非お願いしたいのは、この福島の事故もですね、どうも世の中、この1年半見ていると、
「安全か安全でないか?」という事を論ずるときにですね、
実は、反対派の方も含めてですね、技術的な面のところで議論することが多いんです。

たとえば、「電源対策はちゃんとできているか?」
これはもう、重要ですよ、もちろん。
「津波対策は十分か?」
これも非常に重要ですが、本当はもうひとつ、非常に強い質問をしなければならないんです。

あれから1年半たって、あの福島の事故を起こした、
人為的組織的制度的文化的要因については、本当にきちっとこの解決策を取られたんですか?
ということですね。

これは、国会事故調査委員会が、福島の事故は人災だったという事を、ハッキリと指摘していますね。

この人災というのも、どこかの政治家が一人、何か間違った判断をした、という次元の話だけではないと思いますね。
むしろ、官僚機構、本来、こういう場面で動くべき官僚機構が、ちゃんと機能しなかった。
SPEEDIもそうですね。
それ以外にも、いろいろと問題がありますが、これを、誰か個人を攻めろ、という意味ではなく、
組織全体の持つ、「なぜ、安全が求められる場面で、その機能が果たせなかったのか?」という事に、メスを入れなければならない。
にもかかわらず、今なにが起こっているか?というと、

みなさん、1年半たって、原子力行政の改革って、何が行われたんでしょうか?
それ以前に、そもそも、「組織のここに問題があった」という事がですね、どれほど行われたのか?という事を、やはり論ずるべきだと思うんです。

たとえばですね、国会事故調査委員会が、「規制当局は、電気事業者の虜になっていた」ということを、かなり率直に指摘された訳です。
これは、私も、原子力ムラに長くいた人間として、あの……その通りだと思います。
あの……これは事実ですね。
そして、国民の多くも「もう、それはそうだろう」と思っているわけです。

では、その虜となった原子力規制組織が、今、どう変わったか?という事を、見つめてみたいんですけれど、

おそらく行われたことは、原子力規制委員会がメンバーが新たに選任され、組織としての看板が変わっただけのことだろう、と思いますね。

その下にある、原子力規制庁については、スタッフの8割は、原子力安全保安院です。
それがそのまま、スライドしてきているわけです。
つまり、原子力保安院が虜になっていた、という文化的な問題があったとすればですね、
それが、そのスライドしてきた組織は、何を持って、この虜となっていたその構造が変わったのか?
というところに対するメスが、入っていない
んですね。

ただその時に、行政の側の説明は、たった一言で、「ノーリターンルールを導入した」と言っています。
つまり、
「元の経産省、保安院には戻れない。
そのルールで、みんな骨をうずめる形で、新しい規制庁の方へ行っていますので、
「みんなそこで、心を入れ替えて頑張るでしょう」
という事を言っているわけです。

これも100%信じることが、なかなか難しい面があるんですが、
この論理ですら、最後に法案が通る時に、たった一行入ってきてしまったわけです。
「5年間の猶予条項」ですね。
つまり、これから5年間は、元に戻れる。元の組織に戻れる、という条項が入ってきてしまっているわけです。

私はこれは、最後の最後まで反対したんですが、入ってきてしまいました。
これがなにを意味しているか?

みなさん、一つの組織を、魂込めて、みんな心を入れ替えて、作り上げなければいけない。
その文化を、ゼロからつくらなきゃいけない、その最初の5年間が、これは我々が、その立場で同じ思いになると思うんです。
誰といえども、本省で出世することを、みんな求めて、王道を歩むことを求めて、省庁に入ってきたわけですから、
そこから外れて、ノーリターンと言われることは辛い。
戻れるとなれば、常に、本省の方を意識しながら仕事をするのは、人の心のこだわりではないでしょうか。

そう考えるならば、こういう、行政の改革のように見えること
私は、「本当の改革なんだろうか?」という事を、言わざるを得ないんです。

そして、原子力行政、原子力産業、ま、産業の何が変わったのか?というのは、
今日は時間がありませんので、一応考えていただきたいと思います。

東京電力は、半分国有化されたような状態になっただけ、それ以外は、何も変わっていない訳です。
従って、今について申し上げました。


2番目の誤解
後は、本当に手短に申し上げたいと思いますが、
原子力規制の改革を行い、絶対に事故を起こさない、安全な原発を開発すれば、原発の利用を進めていくことができるという、この言葉がよく語られます。

先程の問いをもう一度、
「原発の安全性とは、一体何なんでしょうか?」

これは、原発の安全性とは、原子炉の安全性の事だけではない訳です。
原発の安全性とは、今日本で取っている政策である、核燃料全体の安全性の事ですね。

そして、核燃料サイクル全体の安全性というのは、再処理工場と、高速増殖炉の安全性の事だけでもないんですね。

これもよく、反対の方も、ちょっとここでストップしてしまう方もいらっしゃるんですけれど、
増殖炉が安全であることは大前提ですが、
仮に、再処理工場も原発も高速増殖炉も、絶対に事故を起こさないものができたとしても、全く問題は解決していません。

なぜなら、核燃料サイクルを実践するための、最大の課題というのは、高レベル廃棄物と使用済み燃料の最終処分だからです。

そして、これはもう昔から、トイレ無きマンションという批判が、投げかけられてきたわけです。

で、実は、私自身の経歴は、1971年に原子力工学を選び、そして原子力の専門を選ぶ時に、テーマとして選んだのは、
周りの優秀な友人たちはみな、高速増殖炉とか再処理工場、再処理施設、さらには核融合を選んでたんですが、
わたしは少し違った視点から、高レベル廃棄物の最終処分の問題を選びました。

その理由は、あの~、今となっては懐かしい自分の姿ですが、原子力の未来に夢を抱いていた、一人の若い研究者として、
原子力を実現するために、一番大きなネックになるのは、結局、このゴミが捨てられない、廃棄物の処分ができないんだ、という事を考えて、
この問題に取り組んで、ドクター論文の、高レベル廃棄物の最終処分、というものを研究したわけです。
そして、のちに、民間企業に出ても、政府の外郭団で、この研究を、現場での臨床実験もやりました。

いわゆる、堀野辺とか、そういう名前が上がるような場所ですね。
そして、アメリカの国立研究所に行って、世界でも最も有名な、高レベル廃棄物の処分研究、
処分プロジェクト、ユッカマウンテンプロジェクトにも、メンバーとして参加しました。

日本でも、低レベル廃棄物は、六ヶ所村でも、処分施設はその設計、安全審査にも携わりました。

言わば、放射性廃棄物の専門家としての20年間を歩んだわけですが、あのー、この問題は、いまだに解決していません。


というのはですね、■3番目の誤解ですが、
こういう議論になると、推進される側の方は、これはかつての私もそうですが、
「高レベル廃棄物は、地層処分ができるだろう」と。
国の計画も、今は再処理工場で、使用済み燃料を、全部ガラス固化体へと、
ま、廃棄物をしっかりと固めて、それを、30年から50年貯蔵したうえで、これを地下深くに、今は300メートルより深いという事になりました。
私の頃は、1000メートルよりも深い、という数字だったんですが、いつのまにか、300メートルになっていますが、

「深い、安定な、地下水の移動の少ない岩盤中に、埋めればいいんだ」という事を言う訳です。
今の政策も、公式にはこうなっています。

ところがですね、私がずーーっと、研究者として格闘し続けたテーマは、
10万年の安全を、どのようにして証明するか?という事です。

この、10万年の安全というのは、これもみなさん、よく聞かれると思いますが、
使用済み燃料というのは、何を持って、10万年と言われるか?と言えば、

もともとは、ウラン鉱床を地下深くから掘り出してきて、それを燃やしてすごい放射能になる。
それを最後、地面の深くに埋めるとすれば、元のウラン鉱床と同じくらいの毒性にまで減衰すれば、これで安全と言えるのではないか?
比較的理解しやすい考え方ですが、この考えに基づくと、10万年かかります。
高(低?)レベル廃棄物の場合には、数万年です。

いずれにしても、現在の科学ではこれは証明できない、というのが、私の20年間の研究で、悩み続けたことです。

で、ところがですね、もうひとつのセプテンバー・イレブンと、私が呼んでいるんですが、
今年の9月11日に、皆さんもご存じのように、日本学術会議が提言書を出したわけです。

これは、正式な報告書を、原子力委員会に出したわけです。
で、日本でも最高の権威が、三つの事をおっしゃったわけです。

「日本において、地層処分を行う事は、適切ではない」とハッキリおっしゃったわけです。

その理由は、先ほど申し上げた、現在の科学では、10万年の安全は証明できないという、
これは、あの、原子力を推進するために、このテーマに取り組んできた一人の人間が、正直に申し上げれば、
「おっしゃるとおりです」
これはもう、正鵠を得た指摘、としか言わざるを得ないのです。

この事については、NHKがしばらく前に、クローズアップ現代で、非常に分かりやすく、この事を解説されていたと思いますが、
たとえば、今まで、地層処分ができるという論理は、地図を広げて、活断層がない地域を全部マッピングして、
活断層の無い地域がこれ位あるから、そこに埋めれば大丈夫だ、という論をしていたんですが、
実は、活断層が無いところでも地震が起こった、という事を、NHKは、あの番組で示しました。

そして、地下水の速度が非常に遅い、ということを論拠としていた地層処分ですが、
これも福島ですか、地下水がある、地震が起こった後にもう、毎分4リットル出て、1年半たっても地下水が止まらない、という状況まで紹介していましたが、
分かりやすく言えば、まだ、現代の科学で分からないことが沢山ある、という事を、分かりやすく説明されたと思うんですね。

その事を持って、学術会議第一の提言ですが、

第二の提言は、したがって、地層処分はするべきではないし、出来ない。
従って、数十年から、数百年です。
こちらの数字の方が、重いと思います。
そして、現実には、こちらの数字の方が、我々が直面する問題になると思いますが、
暫定保管をするべきだと、つまり、長期貯蔵をするべきだ、という事を指摘したわけです。
これも論理、必然的に、そのような話だろうと思います。

で、実は、世界の主要国の政策を、みなさんご覧になると、
アメリカもドイツもフランスもイギリスもカナダも、どこも、一応地層処分をやるという建前で、政策はつくられていますが、
よく読まれると、その手前のところに、長期貯蔵ができるような政策論になっています。
フランスの場合には、可逆的処分なんていう言葉を使っていますが、分かりやすく言えば、いつでも取り出せる。
貯蔵ですよね。
ですから、どの国も、処分ができなくなるという事を想定しつつ、公式には認めず、
ただし、いざ、もう処分ができずに、長期貯蔵が永遠と続く場合にも、数百年位はできるような体制に入っているのが現実
です。

ただし、日本は、学術会議がそれを、堂々と明確に指摘されたというところが、ある意味では一つ、世界から注目される部分かと思います。


で、3番目の提言が従って、長期貯蔵をせざるをえなくなるとすれば、捨て場所の無いゴミがどんどん出るわけですから、総量規制をするべきだ。
これも、もう常識の範疇だと思います。

捨て場所が見つからないのであれば、とにかく、ゴミをどんどん出すわけにはいかない。
従って、いま1万7000トン存在するといわれる使用済み燃料を、仮にですけど、2万トンとか、仮に仮に3万トン、
で、もう打ち止めにする、という事をやらざるを得ないわけです。

そうすると、当然のことですが、総量規制を行わざるを得ないという事は、
「原発に依存して、電力を供給していく」。要するに、原発を稼働させるという事は、この一点からの理由で、限界がやってくるという事です。

従って、最初に申し上げた、
原発に依存しない社会、もしくは原発ゼロ社会というものは、政策的な選択の問題では、もはや無くなっています。
これは、『不可避の現実』と言わざるを得ない
です。

で、一言付け加えれば、
廃棄物の方策の問題をまっとうに考えずに、工場を操業しているのは、原子力産業だけではないでしょうか。


後はもう、ほとんど一言だけで申し上げますが、今申し上げたのは、もう一度言葉で申し上げれば、
「選択するか否か?」だというのは、選択の問題ではない。
これは、「依存できない社会がやってくる」ということ
ですね。

で、もう一つだけ付け加えておくと、■5番目の誤解というのは、
ここまで議論しても尚、

「いや、でも、例の消滅処理とかというのがあるそうじゃないですか」
「高レベル廃棄物は、原子炉の中で燃やすことができるそうじゃないですか」
「なくなるまで燃やしてしまえばいい」
「もしくは、宇宙処分というのがあるそうじゃないですか」

これも、私も、20年研究し続けました。
「宇宙処分」はまず、あの瞬間に、宇宙処分は無理だ、というのが世界の常識になりました。
チャレンジャーの爆発です
ね。

それから、「消滅処理」というのは、原子炉の中で燃やし続けるという事で、わりと素人の方は簡単に、「それができるそうじゃないですか」とおっしゃいますが、
大きく二つの問題があります。
ひとつは、エネルギーバランスがそれでとれるんですか?
それから、コストはどれくらいかかるんですか?

という問題。
これは、相当重い問題だと思いますが、それ以上に重い問題は、

消滅処理は……、これもちょっと長い時間がとれませんので、一言で申し上げれば、

原理的に重元素、重くて半減期の長いものを、中性子をぶつけて、これを、軽くて半減期の短い元素に変える、という概念なんですが、
じつは、核物理学で研究をすると、この中性子を当てて壊れた後にですね、実は、軽くて長半減期の放射性物質が、出てきてしまいます。
これは、テクネチウムと呼ばれる元素ですが、これが実は、一番悩ましいです。

つまり、これ以上壊しようがない、だけれども、極めて長半減期のものになるという……、
ですから、あんまりこういう事をイージーに、原発を進める事の根拠として語ることには、私は慎重です。

そして、「未来の世代が、どうせ解決してくれるよ」というのも、言葉の使い方の問題だと思いますが、
現実に、学術会議が、真摯な姿勢で提言されているのは、
「未来の世代の、科学の発達や技術の発達に、期待せざるを得ない」という事を、謙虚におっしゃっているわけです。
しかしこれを、あまりイージーに逆手にとって、「未来の世代が解決してくれるよ」という事で原発を進めるというのは、わたしは姿勢として、「似て非なる姿勢」だろうと。

これはもう明らかに、世代間倫理の問題になります。

地層処分をやって、埋めて、もし地表に汚染が戻って来るとしても、100年以上先だと思います。
ここにいらっしゃる方は、私も含めて、我々の世代の方が、被害を被ることはないだろうと思いますが、
だからこそこの問題は、非常に成熟した国民の判断が求められる。

原発そのものは、現在の国民にも被害が及びますけれども、
廃棄物の処分は、我々がほんの少し無責任になれば、やれてしまう政策的な課題だという事が、私はむしろ、非常に怖いと思います。

国民一人一人の意識の成熟が、実は今求められている。

だからこそ、国民の意識の成熟という事は、これは、私自身も問われていると思いますが、
メディアの方々もまた、国民がまっとうに考えるべきテーマを、深く問うていただきたい。
これは、数百年を超えて、ま、10万年とまでは言わないですけれども、
未来の世代に、非常に難しい問題を先送りする政策なんだ」という事。
その事を申し上げて、まずは、私からの問題提起とさせていただきます。
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