私はひどい近視で、しかも乱視が入っていた。いたという過去形が
示すとおり、今は眼鏡なしで生活をしている。運転免許はいまだに
眼鏡等の条件付がとれていないが、すくなくとも裸眼で生きている。
中学一年生の終わり、もうそれは陸の孤島と呼ばれるに相応しい、
太平洋岸の某市に住んでいた私は、父の転勤で孤島から三車線
の国道に歩道のある県庁所在地へ引っ越したのである。十代前半
の私には晴天の霹靂だった。しかも転校先が超進学校であった。
それまで田舎では結構成績の良かった私はたちまち劣等生となり、
それこそ好きな野球を最後の砦とし部活に血道を上げたのだった。
中学三年の、たしか春だった。私が通う学校は県下でも有数の進
学校で、そんな学校で野球部に在籍するということは、昔からどの
学校にも一人はいた優等生か、あるいは私は勉強が嫌いですと公
言するのか、そのどちらしかなかった。もちろん私は前者ではない。
三年生の春は、野球部で2年に渡る隷属的な忍従を経て、ようやく
自分達の天下となり、これ以上もない開放感に包まれるのである。
打撃練習も人に先んじて打席に立て、副主将の私は当然2打席目
に打順が回る。後輩の注目の中、ポンポン外野へ飛ばして有頂天
になるのである。だがその日はなにか違った。奢る平家は久しから
ずやとでもいうか、私の頭から緊張感が溶け出し、ただ来る球を無
造作に打ち散らしていた。数球目の高目、私はバットで球を迎えに
いった。その瞬間だった。チッという音を残してバットは空を切った。
突然、目の前が明るくなったような気がした。すぐにはなにが起こっ
たか分からず、目を瞬くのだが視界が戻らない。鼻腔に血のにおい
がした。両耳にジーンという無声音がして、遠くでキャッチャーがな
にかを叫んでいたが言葉の意味が分からなかった。両手に持った
バットがやけに重く上腕から空気が抜けるように力が逃げていった。
あとから思えば醜態以外のなにものでもない。自分の振ったバット
が後輩ピッチャーの投げた直球の勢いを殺すことができず、しかも、
ボールの下を叩いたせいで、かすったまま自分の眼に直に当った。
注意散漫、集中力の欠如としかいいようのないポカである。私は眼
科へ直行した。近くの校医を尋ねて「球が当った」とずいぶん端折っ
たりしたが、ベテランの先生は初手から自打球の結果と見立てた。
「下手したら失明するかも知れん」と、先生は無下にいった。目に顕
微鏡を当てられ、対面したまま『お前は死刑だ』とでもいわんばかり
に、冷たく言い放つのである。おもわず唾を飲み込んでいた。ドクッ
という音が不気味に耳の奥で響いた。頭の左半分だけ風邪を引い
たように熱っぽかった。顕微鏡の精密検査を終え席に戻ると、先生
はおもむろに画板を左手に立て、円を描き始めた。下手な絵だった。
それはまるで鬼太郎の漫画を連想させるもので、ただ違うのは眼の
黒目の斜め下に稲妻が描かれていることだった。それが自打球を
受けた眼球がたまらずできた裂傷だった。背中に冷たいものが走り、
膝が震えていた。情けない話だが心の中で「おかあちゃん」と母に助
けを求めていた。同時にきっと父に叱られると、別の恐怖があった。
幸い私は失明せずに済んだ。しかし、どれほど本を読んでも決して
1.5を下ったことのない私の視力は、その後半年で球の当った左
目の方から下がりはじめ、やがて1年を経るころには、もう眼鏡を必
要とするほど下がってしまった。ひどい乱視も裂傷の後遺症だろう。
あれから40年、今私は、普段の生活で眼鏡を必要としていない。そ
の訳は以下次号。いざ書き始めたら、思いの他長くなってしまった。
人に聞かれると説明も面倒で、「仮性近視」という言葉に勉学に勤し
んだ学生に与えられる特権のような響きがあり、その結果私も目が
悪い理由をそのせいにしてきた。しかし実はその話自体が仮性のこ
とだということを書こうとしたが、どこか話の方向がずれてしまった。
要は思い出話に過ぎないのだが、これもBLOGとご容赦のほどを。
三神