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三神工房

2006年1月11日から約8年、OcnBlogで綴った日記・旅日記・作品発表は、2014年10月gooへ移動しました。

Santa Claus

2007-11-28 | 旅行記

11月の末にしては過ごしやすい夜、仕事を終えて尾道市内の
某ホテルへ入った。するとどこからかBGMのような音楽が。

JRの車内放送や駅の案内の、不躾な音とは違い、どこか懐か
しい、それでいてほっとするような音楽。人を待つ間ロビーを
見ると、そこに5人?のSanta Clausが腰を振って踊っていた。

Check inを追え、夜の街へ会食に出るとき、静かなBGMが送り
出してくれた。『飲みすぎるなよ!』とでも歌っているのか、どこ
か詰問調子とも聞き取れた。案の定、深夜の帰宿時には気が
付かず、朝Check out時には音はなかった。ただ不自然な腰の
まま5人の姿は停止。まるで時間が止まったように完全停止。

また今夜も大勢のお客さんを出迎えるのであろう、BGMにて。
おもちゃはおもちゃ、でもきっとこれを造った人は楽しかったの
であろう。また見る人のことを想像しながら、仕上げたのだろう。
もの造り、さもありなん。またその心意気、負けてなるものか!

三神

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退化の改新

2007-11-25 | 日記・エッセイ・コラム

昭和生まれと平成生まれでは、歯の数が違うとか。このまま
いけばきっと日本人は、細面のジャニーズ系になるのならば
まだしも、その孫あるいはひ孫の世代になれば歯がなくなる?
小頭・小顔に、腰高・細足となれば、まるで火星人の様相?
(胴長短足世代の遠吠えか)

それはともかく、私は視力ががた落ちしてから眼鏡を買い、
年月に従い更に度が進んだ。遠視が入ったため買い換える
たびに数万円の出費である。しかし度は進む。30代に入ると
視力は両眼で0.03てな始末。眼鏡をかけても0.7位であった。

眼鏡の欠点は、酒を飲む人種には時としてとんでもない災難
が降りかかる。例えば出張先にて深酒をして、朝気がつけば
約束事に遅刻寸前。こんなときに限って、服は着たまま眼鏡
はかけたままなのである。とにかく飛び起き、服を脱ぎ捨て、
風呂場へ直行する。湯気で前が見えないままシャワーを浴び、
たちどころに場所を変え、洗面用BASINに水を流してジャブ
ジャブと顔を洗うのである。これがまだ気がつかないのである。

なんで顔に違和感があるのか?と思い、やおら顔を上げると
そこにはシャワーの水滴で牛乳瓶の底のようになったレンズ
が並び、自らの馬鹿面をどうにか拝ませてくれるのである。
まったく間抜けな醜態で、とても恥ずかしくなり腹が立つのだ。

ことほど左様に苦労しながらも、なんとか眼鏡を使っていた。
しかし、なんと35歳を過ぎて眼鏡を変えようと訪ねた眼鏡屋で
「あなたは老眼」!?との診断。「馬鹿な」と叫ぶのを押さえ、
胸に手を当ててみれば心当たりがないでもない。よって眼鏡を
変えれば肩の凝りもなくなる!?てな妄想に取り付かれ、店の
いうままフレームは残しレンズのみ遠近両用とかいう代物を注文。
いざ出来上がり店へ出向き試着。そこで店員の言葉に驚いた。

「この眼鏡をかけてゴルフはお止め下さい。また運転も……」
私は店員の言う意味が理解できなかった。まるで心の伝わら
ない耳障りのいいセールストークは購入の際と同じだが、まる
でその内容が違う。いや初めて聞くことばかり。次第に私は
腹が立ってきた。出来ることなら胸倉を掴んで詰問したかった。

「で、ゴルフの時はどうするの?はたまた運転の時の眼鏡は」
なんとその遠慮勝ちにいった私のGENTLEMEN TALKに対し、
「はい他に良い眼鏡がございますので、どうぞ……」とのたまう。
決して口に出していってはいけない言葉が、喉まで満ちていた。

結局私は店の請求金額を文句ひとつも言わず支払い、最後に
ひとことこういった。「レンズを元へ戻せ」それは有無を言わさず
だったと信じたい。なにしろ血が頭に登り、あとは憶えていない。

その日から、私の「退化の改新」が始まるのである。
また文章が長くなってしまった。
このあと、そうは簡単に改新もならず、以下次号。

三神


仮性近視

2007-11-24 | 日記・エッセイ・コラム

私はひどい近視で、しかも乱視が入っていた。いたという過去形が
示すとおり、今は眼鏡なしで生活をしている。運転免許はいまだに
眼鏡等の条件付がとれていないが、すくなくとも裸眼で生きている。

中学一年生の終わり、もうそれは陸の孤島と呼ばれるに相応しい、
太平洋岸の某市に住んでいた私は、父の転勤で孤島から三車線
の国道に歩道のある県庁所在地へ引っ越したのである。十代前半
の私には晴天の霹靂だった。しかも転校先が超進学校であった。
それまで田舎では結構成績の良かった私はたちまち劣等生となり、
それこそ好きな野球を最後の砦とし部活に血道を上げたのだった。

中学三年の、たしか春だった。私が通う学校は県下でも有数の進
学校で、そんな学校で野球部に在籍するということは、昔からどの
学校にも一人はいた優等生か、あるいは私は勉強が嫌いですと公
言するのか、そのどちらしかなかった。もちろん私は前者ではない。

三年生の春は、野球部で2年に渡る隷属的な忍従を経て、ようやく
自分達の天下となり、これ以上もない開放感に包まれるのである。
打撃練習も人に先んじて打席に立て、副主将の私は当然2打席目
に打順が回る。後輩の注目の中、ポンポン外野へ飛ばして有頂天
になるのである。だがその日はなにか違った。奢る平家は久しから
ずやとでもいうか、私の頭から緊張感が溶け出し、ただ来る球を無
造作に打ち散らしていた。数球目の高目、私はバットで球を迎えに
いった。その瞬間だった。チッという音を残してバットは空を切った。

突然、目の前が明るくなったような気がした。すぐにはなにが起こっ
たか分からず、目を瞬くのだが視界が戻らない。鼻腔に血のにおい
がした。両耳にジーンという無声音がして、遠くでキャッチャーがな
にかを叫んでいたが言葉の意味が分からなかった。両手に持った
バットがやけに重く上腕から空気が抜けるように力が逃げていった。

あとから思えば醜態以外のなにものでもない。自分の振ったバット
が後輩ピッチャーの投げた直球の勢いを殺すことができず、しかも、
ボールの下を叩いたせいで、かすったまま自分の眼に直に当った。
注意散漫、集中力の欠如としかいいようのないポカである。私は眼
科へ直行した。近くの校医を尋ねて「球が当った」とずいぶん端折っ
たりしたが、ベテランの先生は初手から自打球の結果と見立てた。

「下手したら失明するかも知れん」と、先生は無下にいった。目に顕
微鏡を当てられ、対面したまま『お前は死刑だ』とでもいわんばかり
に、冷たく言い放つのである。おもわず唾を飲み込んでいた。ドクッ
という音が不気味に耳の奥で響いた。頭の左半分だけ風邪を引い
たように熱っぽかった。顕微鏡の精密検査を終え席に戻ると、先生
はおもむろに画板を左手に立て、円を描き始めた。下手な絵だった。

それはまるで鬼太郎の漫画を連想させるもので、ただ違うのは眼の
黒目の斜め下に稲妻が描かれていることだった。それが自打球を
受けた眼球がたまらずできた裂傷だった。背中に冷たいものが走り、
膝が震えていた。情けない話だが心の中で「おかあちゃん」と母に助
けを求めていた。同時にきっと父に叱られると、別の恐怖があった。

幸い私は失明せずに済んだ。しかし、どれほど本を読んでも決して
1.5を下ったことのない私の視力は、その後半年で球の当った左
目の方から下がりはじめ、やがて1年を経るころには、もう眼鏡を必
要とするほど下がってしまった。ひどい乱視も裂傷の後遺症だろう。

あれから40年、今私は、普段の生活で眼鏡を必要としていない。そ
の訳は以下次号。いざ書き始めたら、思いの他長くなってしまった。
人に聞かれると説明も面倒で、「仮性近視」という言葉に勉学に勤し
んだ学生に与えられる特権のような響きがあり、その結果私も目が
悪い理由をそのせいにしてきた。しかし実はその話自体が仮性のこ
とだということを書こうとしたが、どこか話の方向がずれてしまった。
要は思い出話に過ぎないのだが、これもBLOGとご容赦のほどを。

三神


自律神経失調症

2007-11-20 | 日記・エッセイ・コラム

上海出張の直前にひいた風邪が、まだ尾を引いている。熱もなく、
鼻炎やそれに伴う耳鼻関係類はなんとか峠を越えた。しかし咳が
うまくない。なにかというとゴホゴホ所かまわず出てしまう。これは
自分ではどうにもならない。ただ緊張すると、直ちに止まるようだ。
反面嫌な電話を取ると途端に咳が止まらず、これ途端の苦しみ。

冗談はさておき、私はどうも、自律神経失調症気味の性質らしい。
もう二十年近く前のことだが、ある上司と話をすると途端に調子が
悪くなる。それが高じて今日もその上司と仕事かと思うと、朝決ま
って腹が痛くなるのであった。当時電車通勤であり、何度か途中
下車してトイレへ走った思い出がある。これたいへんな艱難辛苦。
額から脂汗が出て、足の太ももから膝にかけての力が消えうせる。
最後はもう、どうにでもなれ!と思うのだが、幸い醜態は防げた。

あるときなにかの本で、ドイツ式自律神経失調症予防というか、
症状を緩和する処方を知った。夜寝る前に、体をゆったり横たえ、
足から始める。(右足が重い、左足が重い、右手が重い、左手が
重い)と、各状況を10数える位、連想を続けるのである。そして
それを”足が温かい”で繰り返し、お腹が気持ちいい、呼吸が楽、
心臓の鼓動が平静と続け、最後は夏場自分が川沿いに立つの
を思い描きながら、涼しい風が額を撫でていく……気持ちいい。
と続けるのである。その間おおよそ5分程度である。これがいい。

どうやら私にはぴったりの対処療法だったらしい。もちろん並行し
て家人のヘルスケアがあったので、決してそれがすべてではない。
しかし、効いたらしい。しばらく続けると症状が軽くなった。やがて
その上司の下から離れることが出来、完全に健康を取り戻した。
30代半ばから後半、男の人生で一番忙しい時期かも知れない。

いまさらだが、相手の上司が一方的に悪い訳ではない。もちろん
その問題の片棒を担いでいる張本人であることに、違いはない。
しかし人間あるいは人間関係は、それほど単純なことではない。
人が生きるということは、さまざまなエネルギーを周囲から吸収し、
時によっては相手の中からそれを抉り出して、生きるものらしい。

故に親子・嫁姑・上司部下など、いがみ合いの関係はすべてこの
エネルギーの奪い合いから生じるものと心得ねばならないらしい。
この世で動物が生きるということは、野生の動物に限らず、他の
命を縮めながら生きながらえているのである。だからこそ人は、
せめて自らの自律神経を律しねばならないであろう。さもなくば、
腹を壊すか、煙草を吸いすぎるか、あるいは酒を飲みすぎて、
早晩、この世から抹殺されるのが落ちのようである。桑原桑原。

三神


電車の中の足軽風情

2007-11-19 | 日記・エッセイ・コラム

朝のニュースで東北・北海道から雪の便りが届き、遅ればせながら
関西にも木枯らしが吹いた。巷はもう年末商戦の飾りつけで一杯。
昼食時、聞くでもなしに隣の席から聞こえる若い女性の声が華やぎ、
街を歩く子供も、どこかスキップを踏んで見える。年の暮れである。
毎年のことながら、この時期あれこれと飲む機会が増え、週末には
午前様となる。よってまた家人と物議をかもす季節がやってきた。

別に好きでやっている訳ではない。だが嫌いで出来る事ではない。
今は昔と違い街に流れる曲もただ賑やかなジングルベルではない。
「どうも若くなくて済みません」といわねば、歩けぬような曲が多い。
某氏のホワイトクリスマス、華やぐ街で独り聞けば、空しいばかり。

終電車に乗ろうものなら、酩酊した親父がコートの襟の中に顔を埋
め、死んだように座っている。見たくはないが酔いそびれてしまい、
身につまされながら見てしまう。酒はみんなで酔うものである。自分
もああして周りに迷惑をかけつつ、頭のどこかメモリー不足の機能
で、かろうじて電車に乗り醜態を曝しているのかと思うと情けない。

しかし頭を後の壁に預け、両手をオラウータンのようにだらりと下げ、
へたをすると口から涎を流し寝ているお父さん、どこかで見たような、
と思うことがある。それは私の妄想の世界かも知れない。あるいは、
やはり残った酒のせいかも知れない。それでもいつも思うのである。

/////  
男は戦場の帰りである。たまさか勝ち戦で終わったものの、心身共
に疲れ果て、城で出た祝い酒をしこたま飲んで、道端にへたり込む。
刀はとうに様にならず、槍は手元を離れ、放りっぱなし。それでも懐
に忍ばした報酬だけは死んでも離さない。失くそうものなら殿様より
も恐い家人に灸をすえられる。なんとしてでもそれだけは避けたい。

男は酔った頭で夢を見ている。いったいいつまでこんな生活が続く
のか。戦で死ぬ思いをして働いても、もらえる報酬は微々たるもの。
すべては殿の天下取り、いやどうせあの殿はそこまで出世はない。
一所懸命努めてもいつどこで矢に当るか、種子島の鉄の玉をくらう
か分かったものではない。いっそのこと死んだ方が増しかも知れぬ。

まあまあそうはいっても今俺が死ねば、家人は路頭に迷う。それだ
けは男の名折れになる。子が育つまでは、頑張って戦場へ出ねば。
しかし秀吉にしても家康にしても、中年の足軽など使い捨てである。
だから報酬を手にするや、なにもかも捨ててとんずらする奴もいる。
だが逃げた先で今以上の待遇が保証される訳でない。どうせ親と
一緒で足軽は足軽で一生を終える。今さら、じたばたしても……。
/////

歴史は歴史に名を残すもののためにだけあるのではない。その陰
で必死に生き、誠を持って死んでいった人々が大勢いるのである。
最終電車で酔っ払いを見ては、私はそんなことを思っている。

やがて自分が降りる段になる。見ず知らずの座ったまま曝酔する
親父さんに声を掛ける訳にもいかず、無言のまま心の中で呟く。
『まあゆっくり行きましょう』同類相身互い、心が温かくなったりして。

経営者が会社のために歴史を教訓とするのは間違っているだろう。
会社は金儲けのためにあるのではなくそこで生きる人のためにある。
だから上に立つ者は人間(じんかん)でいかに生きるかを知るため、
歴史を読み人を知り、自らの生き様を模索せねばならないのである。

どうせ世知辛い社会である。某脳解剖学者がいうには、こんな社会
に自分を合わせて生きる方がよほど精神的に変らしい。だからこそ、
今日も街を歩き、人と会い人を見て、本を読む。きっとどこかに自分
にあった生き様があると信じて。年忘れ、歳の暮れとは、思うまい!

三神