完璧とは、至上の存在である。
概要
一切の欠点がないこと。一点の傷もないことを指す。完壁は誤字なので注意。死語だが、完璧とパーフェクトを合体させてパーペキなどと呼ぶこともあったりする。
下の部分が土ではなく玉なのは、春秋戦国時代の故事にある宝物に由来するため。
小説や漫画、アニメにはよく完璧超人などとよばれるキャラクターが登場するが、メンタル的な問題を抱えていたり、表に出にくいところで実は弱点や弱みを抱えていたりと真の意味で完璧と呼べるキャラのほうが少数派かもしれない。まあそんなことしたら話を盛り上げにくいからね。
また、日常生活で完璧であろうとするあまり、鍵やガスの元栓を締め忘れてないか確認する行為を繰り返したり、自分の決めたとおりに物事が進まないと一気に不安に陥る人もいる。完璧を目指すことは悪いことではないが、心労になるレベルまで突き詰めるとかえって疲れてしまうので、たまにはゆっくり休んでみたり、それでも不安ならば強迫性障害あるいはこだわりに関わる精神疾患を抱えている可能性があるので心療内科に行って医師の診断を受けるなど適切な処置が必要である。
故事
相如曰 王必無人臣願奉璧往使 城入趙而璧留秦 城不入臣請完璧歸趙(相如曰はく、「王必ず人無くんば、臣願はくは璧を奉じて往きて使いせん。城趙に入らば璧は秦に留め、城入らずんば、臣請う璧を完うして趙に帰らん」と)
概要に上げた通り、これは中国の春秋戦国時代における故事から成立した、故事成語の一つである。
前漢の官吏・司馬遷によって書かれた『史記』にその出典があり、引用した箇所より生まれた言葉である。
中原(中国の中心部)の北部を領していた趙の王・文王は和氏の璧と呼ばれる宝物を手に入れていた。この宝は楚の卞和(べんか)という人物が、原石を見つけて楚と趙の先王・武王に見せたところ、ただの石ころだと鑑定師に一蹴され、王を謀ったとして、楚王には右足、武王には左足を切られる刑に処された。卞和は悲しみのあまり三日三晩泣き続け、哀れに思ったのか、代替わりした文王が試しに磨かせると、たちどころに燦然と輝く宝玉となったという曰くを持つ宝物であった。
この玉は卞和の名から取られて、和氏の璧と呼ばれるようになったが、この貴重な玉を聞きつけた秦の昭王は「国境から15の城をくれてやるから、その玉をよこせ」と趙に持ちかけた。この場合の城とは我々のイメージする城郭というより、中世のヨーロッパでもよくみられる城壁に囲まれた市街を意味し、それを15個もやるというのだから太っ腹な話である。
しかし、考えてみれば秦にその約束を守る保証はない。後に中国全土を統一する秦は、この時点でも周辺諸国が束になっても勝てるかどうかというほどの大国に育っており、断ればひとたまりもないが、だからといってくれてやれば権威に関わる。対応に困った文王は廉頗や繆賢などの大臣を集めて廟議を持ったが、なかなか名案がでてこなかった。そこで大臣の一人である繆賢が、ある食客(居候)を使者として秦に送ることを推薦した。その者は、姓を藺、名を相如。後に趙の名臣となる人物であった。
藺相如(りん しょうじょ)は文王に召し出され、「私に任せていただければ、秦王が約定を違えた場合に一片の傷もつけずに、大王様(文王)にお返しいたします」と堂々と言ってみせた。文王は彼を信頼して、仮の直臣として取り立てた後、和氏の璧を持たせて藺相如を秦国へ向かわせた。
藺相如が、従者と共に秦の都・咸陽につくと、秦王・昭王の歓待を受けた。しかし、昭王は璧を受け取っても、群臣や寵姫に見せびらかすばかりで一向に城の話を出してこなかった。
昭王の真意を見きった藺相如は、「実は小さい傷があるのです」と王に申し出て、璧を貰い受けると、柱に寄りかかった。そして、髪を天に衝かせるほどの激しい怒りを露わにし(怒髪天を衝くの語源)、「趙王は庶民ですら欺くのを恥とするのに、大国の王がそれをするとは思えないと、私にこの璧を託していただいたのに、秦王のこの振る舞いは何事か! 趙王に無礼をするというなら、自分の頭ごと璧をこの柱で叩き割ってくれる!」と言い放った。昭王は慌てて地図を持ってこさせて、渡す城の位置を示そうとした。しかし、藺相如は惑わされずに、続いて宝物を受け取るための儀式として昭王に5日間身を清めるように言い渡し、その隙に璧と使者を趙に帰し、自らは秦に残った。
5日後に、昭王が藺相如に璧はどうしたのか尋ねると、「歴代の秦王が約定を守った試しは無く、また昭王様の言葉にも真意が見られなかったため、趙へ持ち帰らせました。城を先に渡せば、趙国が玉を渡すことには何のためらいもないでしょう。しかし、ここまでの無礼の償いとして、私には死を賜りたい」と返答した。秦の群臣は口々に処刑を進言したが、昭王は藺相如の豪胆ぶりに感心し、死罪にしたところで趙からの恨みを買うだけで意味はないと、趙は璧を渡さず、秦は城を渡さないという形に落ち着いた。藺相如は再び饗応を受けた後、無事に趙へ帰還した。
こうして藺相如は趙の危機を、国のメンツを保った上で見事にまとめてみせたため、文王から大いなる評価を受けた。そして、仮の家臣から正式に直臣へと取り立てられ、「黽池の会」など数々の功績をおさめて秦の圧力を柔軟にかわし続けた藺相如の活躍がここからはじまるのである。