- プロ野球選手一覧 > 広瀬叔功
広瀬叔功(1936年8月27日~)とは、南海ホークスに所属していた元プロ野球選手である。
叔功の読みは「じょこう」ではなく「よしのり」である。
現役時代は南海一筋、現役引退後には監督も務めた。また通算盗塁数は福本豊に次ぐ歴代2位の596盗塁を記録している。
概要
OB | |
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広瀬叔功 | |
基本情報 | |
出身地 | 広島県佐伯郡大野町 |
生年月日 | 1936年8月27日 |
身長 体重 |
176cm 72kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 外野手、遊撃手 |
プロ入り | 1955年 |
引退 | 1977年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
高校時代に所属していた大竹高校は県の中でも弱小高校で毎年甲子園どころか予選すらまともに勝てず、そのためエースであった広瀬にも特に注目は集まらなかったが、唯一南海ホークスから誘いが来たため、広瀬は南海のテストを受けてみた結果見事合格し、55年の南海ホークスにテスト生の投手として入団する。
自分がテスト生だということからの焦りか、広瀬は首脳陣にアピールするためろくに肩も作らずに投げ込み練習を続けた結果自身の肘を痛めてしまい、アピールどころか投手としての練習もろくにこなせなくなってしまう。
そこで広瀬は高校時代から武器にしていた持ち前の俊足と肩を活かすために野手に転向することを思いつき、これを二軍監督にお願いするとあっさり了承され、広瀬は二軍で外野手として出場機会を得ることに成功する。
入団二年目の56年にはシーズン半ばで内野手として一軍の試合に初出場し、プロ初打席でいきなりライトへの三塁打を放つと、この試合で4打数4安打と大当たり、次の試合でも3打席連続で安打を打ったため「デビューから7打席連続安打」という記録を作る。
この年は一軍には定着できなかったが、首脳陣に大きくアピールすることに成功する。
そして57年には衰えが見えていた木塚忠助に代わり遊撃手に抜擢され、114試合に出場し、規定打席には到達しなかったものの打率.284、25盗塁を記録するなどレギュラーの座を奪取することに成功、翌58年には120試合で打率.288、33盗塁のほかにリーグ最多の36二塁打を放つなど、持ち前のバッティングセンスと俊足を存分に活かして暴れまわった。
59年には一番打者としてヒットを打ちまくりチームを牽引、打率を初の三割に乗せるほどの活躍で、チームは立教大学から入団してきた杉浦忠や広瀬と同じくテスト生から這い上がってきた野村克也の活躍もあり優勝、日本シリーズでも巨人を破って日本一を達成する。
61年、広瀬はそれまで守っていた遊撃手から外野に転向する。かわいがっていた後輩の小池兼司が「守るところがない」とこぼすのを聞いて、自ら直訴したのである。「もともと僕は外野のほうが好きやし、実際問題、ショートの守備は小池のほうが僕よりうまい。いま外野がベテランばかりになってきたし、僕が外野に行き、小池がショートに入ったほうがチームのためにもいいんじゃないか」というのが理由であったが、これをそのまま言えば鶴岡監督に一喝される。そこで一計を案じて「肩が痛くてショートでは送球できない。外野なら大丈夫だと思う」と一芝居を打ち、8月よりセンターのレギュラーに定着した(ただし、翌年の春先はセカンドで起用されている)。
この年は打率.296を記録し42盗塁はリーグ最多(当時パ・リーグには盗塁王の表彰規定が無かった)、そしてこの年から広瀬は守備でもその俊足で縦横無尽に駆け回り、外野手としての評価を高めていく。
62年は50盗塁で2年連続最多盗塁、63年も45盗塁で3年連続とした他、この年は打者としても当時のパ・リーグ記録である187安打を放ち(のちにイチローが更新)、シーズン676打席はパ・リーグ記録、シーズン626打数は日本記録、
また守備でも外野手でシーズン353守備機会と353刺殺といういずれもパ・リーグ記録を打ち立てる。
64年、この年広瀬は「後にも先にもあれほど練習したことは無い」というほどの猛練習を自身に課し、開幕から安打を量産、89試合目まで打率が四割を超えるほどの勢いで「初の四割打者の誕生か」と言われた程だったが、猛練習が祟ったのか左手首の腱鞘炎を起こしてしまい、7月の試合はほぼ全休、8月には復帰したものの時には右手一本でヒットを打つなど本調子には程遠く、四割近かった打率は最終的に.366まで低下したものの、2位の張本勲に大きく差をつけて初の首位打者を獲得、また盗塁も31回連続盗塁成功・シーズン盗塁成功率89%という記録付きで72盗塁を記録、この年からパ・リーグでも盗塁王のタイトルが作られ、広瀬はパ・リーグ初の盗塁王となる。
チームも広瀬の活躍などで一時首位だった阪急を追い抜き見事優勝、日本シリーズでも打率.345と奮闘、阪神を倒して再び日本一を達成した。
65年は前年より数字を落としたものの39盗塁で盗塁王を獲得。
その後も長きにわたり南海のレギュラーとして活躍し、68年には44盗塁失敗2つ、つまり盗塁成功率約96%という驚異的な成功率を記録、72年には史上6人目の2000本安打を達成し、この年から作られたダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)に選ばれている。
しかしこの年を境に、野村兼任監督との関係は微妙なものになっていく。野村と対立して二軍監督を辞した岡本伊三美は、退任する時に「野村が広瀬ら功労者の放出を画策している」と吐き捨てた。11月15日の直接交渉で「和解」し、結局トレードが成立することはなかったが、翌1973年以降広瀬の出場機会は激減する。自身への代打に投手を出されて、激怒したこともあったという。
77年に現役引退、通算成績は2190試合で2157安打、131本塁打705打点、歴代2位となる596盗塁を記録した。
元々この年限りでの引退を決意していた広瀬ではあったが、シーズン最終盤に野村が監督を解任(穴吹義雄が代理監督)されたことにより、翌年より監督を引き受けざるを得なくなった(野村からは「お前が監督になりたいから仕組んだんだろ」と詰問されたという)。
広瀬は恩師・鶴岡の「古き良き鶴岡時代」への回帰を目指し、「団結と和」を基本理念に掲げ「泥まみれ野球」を標榜した。主力選手である江夏豊と柏原純一の退団騒動が起きたが、柏原の代わりに打率2位の経験のある小田義人とローテーションピッチャーの杉田久雄を獲得し(江夏からは交換要員は獲れなかった)、新外国人選手のカルロス・メイの獲得に成功するなど顔ぶれだけを見るならそこまでの戦力低下には至らなかった。しかし、現役時代同様にスコアラーの提出するデータを重視しないなど「野村野球の否定」に行き過ぎがあった面もあり、4年連続でリーグトップだったチーム防御率は4.01、4.86、5.63と3年連続で悪化している(ただし、1979年は阪急と近鉄が、1980年は全球団が飛びすぎるボールを使用していたという事情もある)。6位、5位、6位という結果に終わり、広瀬は責任を取って辞任した。(ちなみに78年から南海は20年連続Bクラスという不名誉な記録を打ち立てることになる)
その後は91~92年に南海から福岡ダイエーに名称を変えたホークスでコーチを務めた。
99年野球殿堂入り。
現在は解説者・評論家などで活動している。
盗塁について
おそらくプロ野球ファンに「盗塁といえば?」と聞けば大抵の人は福本豊の名を挙げるだろう、なぜなら福本は広瀬の盗塁数の二倍近い1065盗塁を記録しているからなおさらである。
しかし一部には広瀬の方が上との声があるのもまた事実であり、以下のような理由が上げられている。
・まず広瀬はやたらめったら走ることを好まなかった、試合がすでに決していたり、大差がついていた場合などにはほとんど盗塁を試みることは無かった。また、64年以前は盗塁王というタイトルがそもそもパ・リーグには存在しなかったため「走っても銭にならん」、と語ったとも言われている。
・広瀬は福本よりも高い確率で盗塁を成功させており、上述の成功率96%もそうだが、通算盗塁数は2位であるのに対し、通算盗塁死は18位と非常に少ない(1位は福本豊)。
通算成功率でも福本は.781だが、広瀬は盗塁成功率.829と日本プロ野球で一番の成功率を誇る(メジャーも含めたらイチローはNPB時代に盗塁成功率.858という数字を残している。また通算で.834を記録した山田伝という選手に関しては盗塁死が記録されていないシーズンがあるのでここでは除外とする)
・盗塁王が設立されたのは広瀬が64年に72盗塁という記録を残したからであり、盗塁の価値を上げたのは福本ではなく広瀬だからという理由もある。
・福本豊自身が、広瀬の走塁技術には適わないと語っている。
いずれにせよプロ野球の盗塁の歴史を語るにおいて、広瀬叔功という選手は外すことは出来ない選手であることは間違いないであろう。
人物
現役時代は南海の同僚である杉浦忠、野村克也と非常に仲が良く、三人で行動を共にすることも多かったという。
杉浦とは家が近いこともあってか、59年の日本シリーズ以降は杉浦の車で度々送り迎えをしてもらったことがある。
野村との仲も良好だったが、77年の解任騒動で野村が南海を去った後、広瀬は自身が望まぬ形で南海の監督に就任することとなり、以降野村とは疎遠になってしまっている。
しかし2013年の福岡ソフトバンクホークスの始球式に野村と招かれた際に談笑する等、関係は修復されているようだ。
また野村は相手の癖を研究してそれをバッティングに生かしたことは有名だが、広瀬は野村の手法を取り入れずとも打ちまくっていたため、野村は広瀬を長嶋茂雄、イチローと並ぶ「天才」として挙げている。
年度別成績
野手成績
年度 | 球団 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1956年 | 南海 | 19 | 26 | 25 | 4 | 10 | 1 | 1 | 0 | 5 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 | 1 | .400 | .520 |
1957年 | 114 | 339 | 317 | 47 | 90 | 19 | 3 | 2 | 30 | 25 | 4 | 2 | 13 | 3 | 29 | 4 | .284 | .318 | |
1958年 | 120 | 536 | 504 | 82 | 145 | 36 | 5 | 7 | 31 | 33 | 2 | 1 | 25 | 4 | 36 | 2 | .288 | .326 | |
1959年 | 126 | 526 | 507 | 86 | 157 | 27 | 6 | 8 | 45 | 17 | 2 | 1 | 16 | 0 | 24 | 5 | .310 | .331 | |
1960年 | 128 | 542 | 521 | 70 | 140 | 24 | 10 | 10 | 46 | 25 | 0 | 0 | 20 | 1 | 38 | 9 | .269 | .297 | |
1961年 | 135 | 567 | 537 | 82 | 159 | 33 | 7 | 6 | 46 | 42 | 0 | 1 | 25 | 4 | 45 | 9 | .296 | .332 | |
1962年 | 130 | 577 | 515 | 99 | 144 | 21 | 6 | 12 | 54 | 50 | 3 | 6 | 50 | 3 | 57 | 4 | .280 | .347 | |
1963年 | 149 | 676 | 626 | 92 | 187 | 27 | 8 | 14 | 60 | 45 | 3 | 3 | 41 | 2 | 45 | 4 | .299 | .344 | |
1964年 | 141 | 505 | 456 | 110 | 167 | 35 | 6 | 12 | 58 | 72 | 0 | 7 | 39 | 3 | 31 | 1 | .366 | .420 | |
1965年 | 122 | 524 | 490 | 71 | 146 | 33 | 10 | 15 | 55 | 39 | 2 | 5 | 24 | 3 | 29 | 8 | .298 | .335 | |
1966年 | 110 | 395 | 376 | 49 | 98 | 17 | 6 | 12 | 39 | 28 | 2 | 0 | 16 | 1 | 33 | 3 | .261 | .293 | |
1967年 | 76 | 167 | 152 | 26 | 31 | 2 | 1 | 4 | 14 | 6 | 1 | 2 | 10 | 2 | 15 | 2 | .204 | .262 | |
1968年 | 121 | 445 | 412 | 73 | 121 | 25 | 7 | 5 | 40 | 44 | 1 | 4 | 25 | 3 | 25 | 5 | .294 | .339 | |
1969年 | 110 | 447 | 423 | 55 | 120 | 16 | 2 | 11 | 38 | 39 | 0 | 8 | 15 | 1 | 23 | 8 | .284 | .310 | |
1970年 | 124 | 528 | 483 | 63 | 108 | 15 | 2 | 7 | 31 | 28 | 4 | 2 | 38 | 1 | 29 | 4 | .224 | .282 | |
1971年 | 121 | 513 | 466 | 81 | 129 | 29 | 4 | 4 | 36 | 36 | 3 | 2 | 39 | 3 | 36 | 6 | .277 | .337 | |
1972年 | 110 | 419 | 374 | 54 | 90 | 14 | 2 | 0 | 25 | 42 | 2 | 5 | 38 | 0 | 28 | 9 | .241 | .311 | |
1973年 | 40 | 49 | 41 | 11 | 10 | 2 | 0 | 0 | 3 | 4 | 1 | 1 | 4 | 2 | 5 | 0 | .244 | .340 | |
1974年 | 65 | 123 | 111 | 16 | 31 | 5 | 1 | 2 | 17 | 6 | 0 | 0 | 11 | 1 | 10 | 2 | .279 | .350 | |
1975年 | 52 | 153 | 126 | 15 | 35 | 5 | 0 | 0 | 14 | 10 | 3 | 1 | 21 | 2 | 8 | 2 | .278 | .389 | |
1976年 | 27 | 64 | 56 | 6 | 10 | 2 | 0 | 0 | 4 | 2 | 0 | 0 | 8 | 0 | 6 | 4 | .179 | .281 | |
1977年 | 50 | 125 | 119 | 13 | 29 | 6 | 1 | 0 | 11 | 1 | 1 | 2 | 3 | 0 | 9 | 1 | .244 | .262 | |
NPB:22年 | 2190 | 8246 | 7637 | 1205 | 2157 | 394 | 88 | 131 | 705 | 596 | 34 | 53 | 482 | 39 | 564 | 93 | .282 | .328 |
投手成績
通算:1年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP |
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NPB | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | .000 | 2.0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 2.50 |
監督通算
通算:3年 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | |
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NPB | 390 | 136 | 227 | 27 | .375 | Bクラス3回 |