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攝津正(せっつ ただし、1982年6月1日-)とは、秋田県出身の元プロ野球選手(投手)である。
苗字は「攝津」表記が正しいが、「攝」が旧字であるため新聞などでは「摂津」と表記される。
経歴
OB | |
---|---|
攝津正 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 秋田県秋田市 |
生年月日 | 1982年6月1日 |
身長 体重 |
181cm 97kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 2008年ドラフト5位 |
引退 | 2018年 |
経歴 | |
国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
WBC | 2013年 |
プロ野球選手テンプレート |
秋田経法大付高校では1年からエースとなり、3年春の甲子園に出場(1回戦敗退)。卒業後は社会人のJR東日本東北に進む。
社会人では3年目から主力投手となり、4年目(2004年)にはエースとなって都市対抗初出場。以降、長くJR東日本東北のエースとして活躍し、毎年のようにドラフト候補に挙げられたが、指名は見送られ続けた。当時は社会人野手の評価基準に「攝津を打てるか」を用いていたスカウトがいたという話もある。
2008年のドラフト5位で指名され福岡ソフトバンクホークスに入団。背番号50。26歳、社会人8年目と、本人もプロ入りを諦めかけていたところへ、ようやくのドラフト指名だった。
ソフトバンク時代
2009年
前年崩壊したリリーフ陣の立て直しが急務の中、オープン戦で11試合連続無失点を記録しセットアッパーに指名されると、抜群の制球力とマウンド度胸を発揮して好投。千葉ロッテマリーンズ戦で延長サヨナラ押し出し死球を与えたこともあったが、以後も動じることなくセットアッパーとして力投し、7回攝津、8回ファルケンボーグ、9回馬原のリレーは2009年ホークスの必勝パターンとして確立。親会社のソフトバンクモバイルにあやかって「SBM」と名付けられた。
ギリギリを狙う投球スタイルゆえか序盤はわりと四死球が多かったが、走者を出しても動じないマウンド度胸で踏ん張り続け、2009年オールスター、パ・リーグ中継ぎ部門でファン投票1位選出を果たす。さらにシーズン後半はバテるどころか、むしろ調子を上げ、オールスター後は28試合で僅か3失点。7/2には2.41だった防御率を最終的に1.47で終わらせ、パの新人記録となる70試合に登板、リーグ断トツの39ホールドポイントで最優秀中継ぎ投手と新人王を獲得した。
2010年
前年の疲労や2年目のジンクスが懸念されたが、相変わらずほぼ2試合に一度のハイペースで登板を重ねる。前年後半戦ほどの安定感は無かったが、ブライアン・ファルケンボーグや馬原孝浩、甲藤啓介、森福允彦らと12球団最強のリリーフ陣を形勢した。
最終的には前年を上回る71試合に登板、防御率は2.30で4勝3敗38ホールド1セーブ、42ホールドを挙げ、ファルケンボーグと同率で2年連続の最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した。ちなみに2年連続70試合登板はあの鉄腕・稲尾和久以来の記録である。
オフの契約更改では1億円も提示されたが、「まだ早い」と9500万円で更改した。
ちなみにこの年は何故か小椋真介の先発時に限って打ちこまれることが多く、2失点以上を喫した6試合のうち5試合が小椋の先発試合であり、うち4回で小椋の勝ち星を消し、攝津のシーズン3敗は全て小椋先発試合であった。これがいわゆる「攝者」である。極端なノーコンである小椋の荒れ球に目が慣れた打者には、制球の良すぎる攝津の球はかえって狙い打ちしやすいのではないかと言われることもあるが原因は定かでない。
2011年
本人の登板過多の解消と、右の先発不足というチーム事情から、高山郁夫コーチの強い薦めもあり先発投手に転向。
開幕前の対外試合では31イニングで1失点と完璧だった。初先発となった4月16日の埼玉西武ライオンズ戦では中村剛也に3ランホームランを2発浴びるなどして5回途中8失点KOされたが、2試合目の4月24日のロッテ戦で8回3失点に抑え先発初勝利を挙げる。以降は持ち前の制球力とタフさで先発ローテーションの一角に定着。6月5日の広島東洋カープ戦でプロ初完封を達成、オールスターにも監督推薦で2年ぶりに出場。最終的に1年間先発ローテーションを守り抜き、26試合に先発、14勝8敗、防御率2.79と見事に先発転向成功。先発四本柱の一角として優勝に大きく貢献した。
同年、クライマックスシリーズでも第2戦で勝利投手。日本シリーズでは本拠地連敗で迎えた第3戦に先発して勝ち投手になると、第5戦に中1日で中継ぎ登板して好投。第7戦ではブライアン・ファルケンボーグのアクシデントで9回2アウトから最後のマウンドに上がり、細川亨(青森出身)との東北バッテリーで試合を締め、日本一の胴上げ投手になった。
2012年
杉内俊哉、和田毅、D.J.ホールトンが抜けたため、先発転向2年目ながら開幕投手を務める。
序盤こそ先制点を奪われる試合が非常に多かったが、去年見られた突発的炎上は影を潜め、後半戦は8月以降なんと無敗の8連勝。消去法エースから文句なくエースと呼ばれるようになった。最終的に両リーグ最多の17勝(5敗)、防御率1.91(リーグ3位)。193回1/3を投げ153奪三振(リーグ3位)をマーク。最多勝と最優秀投手(最高勝率)のタイトルを獲得し、沢村賞を受賞。名実ともに球界を代表するピッチャーになった。
しかし北海道日本ハムファイターズを相手としたクライマックスシリーズ第2ステージでは、追い詰められた第3戦に登板したが、初回に稲葉篤紀の打球を処理する際に脚を痛めてしまい降板。軽傷ではあったが、両肩を抱えられベンチに退く様子は、2006年に起きた斉藤和巳拉致事件と重なるところが多く、縁起の悪さに多くのファンが不安を抱くことになった。
2013年
WBC日本代表に選出される。WBCでは中継ぎとして3試合に登板、初戦のブラジル戦で勝ち投手になった。
シーズンでも2年連続の開幕投手を務め、二度ほどリフレッシュ抹消があったが、チームの先発陣が壊滅状態の中でエースとして孤軍奮闘した。9月6日のオリックス・バファローズ戦で2年連続15勝に到達したが、その後はさすがにWBCから投げ続けた疲れか連続して打ち込まれて3連敗、チームもBクラスに転落してシーズンを終えた。
最終的に防御率は自己ワーストの3.05に終わったが、リーグ2位の15勝(8敗)を挙げた。また、オフに結婚。
2014年
新球種として、キャンプでシュートとカットボールの習得にチャレンジ。3年連続開幕投手を務める。
しかしこの年は、右肩の不安と勤続疲労のためか、生命線の制球力と直球のキレが失われてしまう(与四球率は前年の2.33から3.96に、奪三振率は8.09から5.71に悪化)。シーズンを通して不調に苦しみ、4度の登録抹消も経験。悪いながらに6回3失点前後にまとめる投球と援護もあり、どうにか4年連続の2桁勝利には到達したが、規定投球回数にも届かず、先発転向後ワーストとなる22試合、10勝8敗、防御率3.90という成績に終わった。
クライマックスシリーズでも第3戦に先発したが3本塁打を浴び2回7失点KO。しかし日本シリーズでは王手を掛けて迎えた第5戦に先発、6回無失点と好投して勝利を呼び込み、秋山監督と抱き合って満面の笑みで日本一を喜ぶ姿があった。
2015年
球団史上初の4年連続開幕投手。しかし前年の不調を引きずり、前半戦は12先発で12被弾と余計な一発で失点を増やす場面が目立ち、4勝5敗と負けが先行。6月12日の広島戦後に、ついに二軍再調整を命じられる。
1ヶ月の再調整を経て、7月21日のロッテ戦で復帰すると、7回無失点で勝利投手に。生命線の直球のキレと制球が戻り、以降は見違えるような安定感ある投球を披露し、復帰から6戦6勝をマークして見事に5年連続2桁勝利に間に合わせた。最後の2試合は敗戦投手となり、前年に続いて規定投球回数には届かなかったが、20試合で10勝7敗、防御率3.22の成績を残した。
クライマックスシリーズでは出番なし。日本シリーズでは第4戦に先発し、6回4失点ながら勝ち投手となった。
2016年
5年連続開幕投手を務める。工藤監督の方針で女房役の細川ではなく斐紹と組まされることになったが、3試合で0勝2敗、防御率9.42と散々な成績で二軍落ちとなった。8月3日の西武戦で復帰し、ようやくシーズン初勝利を挙げたが、その後もローテの谷間で投げるに留まり、最終的には7試合で2勝2敗、防御率5.59とプロ入り後最低の成績で終わる。
クライマックスシリーズでは日本ハムとのファイナルステージ第5戦で先発したが、3回2失点で降板、チームも逆転負けしてCS敗退が決まった。
2017年
先発転向後、初めて開幕ローテーション入りを逃したため、開幕投手は和田毅が務めた。5月までに5試合に先発したが、0勝2敗、防御率6.93という成績で二軍落ちし、以降は優勝決定まで二軍暮らしと。優勝決定後、先発とロングリリーフで1回ずつ投げ、一応の結果を残す。シーズン成績は7試合0勝2敗1ホールド、防御率5.61。
日本シリーズでは第4戦、3点ビハインドで敗色濃厚の8回裏に登板するが、4安打を浴び3失点を喫した。
2018年
5月22日の西武戦で2年ぶりの勝利投手となったが、その後は安定せず、7試合の登板で2勝4敗と負け越し、戦力外通告を受ける。
他球団での現役続行を目指したが、獲得に動く球団は現れず、12月29日に現役引退を表明した。
引退後
2019年1月8日に引退会見を開き、「悔いはなくスッキリしている」とコメントした。3月2日のオープン戦で引退セレモニーが行われた。
引退後はチームには残らず、2019年4月からRKBラジオで「攝津正のつりごはん」という冠番組がスタート(番組ロゴなどの表記は「摂津正のつりごはん」になっている)。同時間帯にRKB毎日放送で釣り番組をやっている佐世保の釣り人と同じような人生を歩み始めている。
プレースタイル
- 小さなテイクバックからストライクゾーンいっぱいにズバッと投げ込まれる140km/h台のストレートと、鋭く落ちるシンカー、100km/h台の緩いカーブ、平凡なスライダーのコンビネーションで打者を打ち取る。抜群の制球力を武器に、特にリリーフ時代は140km/h台後半のストレートによる内外角いっぱい見逃し三振の山を築いた。
- 先発転向後はやや球速を抑えている(平均140km/h前後)分、落ちるシンカーを決め球にすることも多い(非常に鋭く落ちるため、詳しくない解説者にはフォークと間違えられることもある)。先発転向後に多用している、カウントを整え緩急をつける制球抜群のカーブのエグさも一級品。
- 何より最大の武器と魅力は、どんなピンチでも動じることのない鋼の心臓。ポーカーフェイスで三振の山を築くその勇姿にホークスファンのハートを掴みすぎてみんなメロメロである。
- 投球練習が終わった後軽くジャンプする仕草を見せるが、あれは本人曰く「肩の力を抜くため」とのこと。
人物・その他
- ホークスのイケメン軍団のひとり。昭和風のハンサム顔。ただし髪型が残念な上、将来的に2323化の懸念が大きい。
- 1年目に最優秀中継ぎ投手と新人王、2年目に2年連続最優秀中継ぎ投手、3年目に先発転向して14勝し日本一の胴上げ投手、4年目にエースとなって最多勝と沢村賞という、プロ入り後のウルトラ順風満帆な経歴から、一部ではミスターマイライフとも呼ばれた。
- リリーフ時代は2年間で141試合という、稀に見る登板過多っぷりによる疲労や故障が心配され、ファンは気が気でなかった。そんなファンの心配をよそに本人は登板間隔が空くと調子が狂うらしく、出番の無い日もブルペンでは投げていたらしい。2011年の日本シリーズ第5戦での中1日の中継ぎ登板も本人による志願登板だったそうで、酷使されてるというよりは重度の投げたがりである。そのあたりの事情もあって前述の通り2011年からは先発に転向したが、転向直後は登板前にもブルペンで60球~70球投げていたそうな。
- 2011年から加入した細川亨のリードには全幅の信頼を寄せているようで、インタビュアーからも恋女房認定されるほど。細川も攝津先発時には活躍することが多い。一方、高谷裕亮と組まされると露骨に首を振る回数が増え、成績も悪化する。
- 性格はシャイで無口であり、トークは苦手。ヒーローインタビューでもアナウンサーに聞かれたこと以外を自分からしゃべり出すことは滅多になく、2013年以降は勝ち投手になった程度では基本的にヒーローインタビューを辞退するようになった。2011年の日本一決定時、マウンド上でものすごく控えめにガッツポーズをするテンションの低い喜び方に、後で小久保裕紀から突っ込まれたりしている。基本的にいつでもポーカーフェイスなため無愛想と言われることもある。
- 先発時、始球式で綺麗なアイドルが投げようと面白コスチュームの芸人が投げようと、その背後で常に無表情で棒立ちしている様はよくネタにされ(通称「攝津立ち」)、テレビでも取り上げられた。引退後に『有吉反省会』にゲストで呼ばれ、「実際はドキドキしまくっていた」「ぶっちゃけ興味はめっちゃありました」と告白、ファンにいろんな意味で衝撃を与えた。
- 趣味は釣り。チーム内でも屈指の釣りバカで、本人も「釣り人」と自称する。チームメイトと釣りに行っても馬原孝浩が初心者組に釣りを教える中、攝津はひとりでひたすら黙々と釣っていたそうな。2012年オフには現役引退した城島健司の釣り番組にゲストとして出演し、ローカル釣り雑誌の表紙を飾った。野球をしているときより釣り上げた魚を抱えているときのほうがよほど楽しそうな顔をしている。
- ダーツも趣味で、腕前はカウントアップ自己ベスト886点とかなりのもの。
座右の銘は「平常心」。武器の制球力とマウンド度胸の源はこれらであるらしい。 - 愛称は「攝津様」「せっつん」。本人の活躍は言わずもがなだが、甲藤啓介、森福允彦、金澤健人、吉川輝昭などが攝津の投球フォームを参考にしたことで制球力を大きく改善させ、リリーフとして活躍した点も見逃してはならない。ホークスにとっては本当に神様仏様攝津様である。
- 攝津の活躍はホークスのみならず、プロ野球界全体にベテラン社会人投手の評価を見直させた。攝津の成功以来、それまで年齢で敬遠されることが多かった20代後半の社会人投手がドラフト指名される例が増えており、牧田和久や井納翔一のようにプロの第一線で活躍する投手が発掘されている。
- 入場曲はET-KINGの「ギフト」(2009~2012年)。リリーフ時代、ここぞの場面で攝津の名前がコールされ「ギフト」が流れ出す瞬間の福岡ドームは大盛り上がりであった。2011年から2012年には歌詞が「一生忘れられないよ きっときっと抑える50番」となった攝津専用アレンジバージョンが使われた。
- Twitterをやっているが、もともと呟く頻度は低く、2012年8月を最後に放置されている。
- イケメンすぎるゴールキーパーとして話題になったJリーグ・モンテディオ山形のGK・摂津颯登は遠縁にあたる。ただし直接会ったことはまだないようだ。
- 前述の通り現役時は寡黙なイメージが強かったが、引退後はラジオの冠釣り番組をはじめ、バラエティ番組や試合解説にゲストで呼ばれた際なども現役時のイメージからは想像もつかない饒舌ぶりを披露している。奥さんによると喋れるようになったのは引退してからとのこと。
応援歌
球団 | レス | No | プレイヤー |
---|---|---|---|
ソフトバンク | 応援歌のピコカキコ一覧 | 8661 |
成績
年度別投手成績
年度 | 球団 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2009年 | ソフトバンク | 70 | 0 | 0 | 0 | 5 | 2 | 0 | 34 | .714 | 79.2 | 35 | 102 | 13 | 13 | 1.47 |
2010年 | 71 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 1 | 38 | .571 | 82.1 | 21 | 89 | 23 | 21 | 2.30 | |
2011年 | 26 | 26 | 3 | 1 | 14 | 8 | 0 | 0 | .636 | 177.2 | 31 | 150 | 57 | 55 | 2.79 | |
2012年 | 27 | 27 | 3 | 2 | 17 | 5 | 0 | 0 | .773 | 193.1 | 54 | 153 | 46 | 41 | 1.91 | |
2013年 | 25 | 25 | 3 | 1 | 15 | 8 | 0 | 0 | .652 | 162.1 | 42 | 146 | 68 | 55 | 3.05 | |
2014年 | 22 | 22 | 1 | 0 | 10 | 8 | 0 | 0 | .556 | 134.0 | 59 | 85 | 63 | 58 | 3.90 | |
2015年 | 20 | 20 | 2 | 0 | 10 | 7 | 0 | 0 | .588 | 134.0 | 45 | 92 | 61 | 48 | 3.22 | |
2016年 | 7 | 7 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | 0 | .500 | 37.0 | 13 | 21 | 24 | 23 | 5.59 | |
2017年 | 7 | 6 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | .500 | 33.2 | 12 | 21 | 21 | 21 | 5.61 | |
2018年 | 7 | 7 | 0 | 0 | 2 | 4 | 0 | 0 | .333 | 29.2 | 18 | 23 | 19 | 17 | 5.16 | |
NPB:10年 | 282 | 140 | 12 | 4 | 79 | 49 | 1 | 73 | .617 | 1063.2 | 330 | 882 | 395 | 332 | 2.98 |
国際大会での投手成績
年度 | 代表 | 大会 | 登板 | 先発 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2013年 | 日本 | WBC | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 6.0 | 1 | 8 | 2 | 2 | 3.00 |
タイトル・表彰・その他
タイトル | ||
---|---|---|
最優秀中継ぎ | 2回 | 2009年、2010年 |
最多勝 | 1回 | 2012年 |
最高勝率 | 1回 | 2012年 |
表彰 | ||
新人王 | - | 2009年 |
沢村賞 | 1回 | 2012年 |
その他 | ||
オールスターゲーム選出 | 2回 | 2009年、2011年 |
開幕投手 | 5回 | 2012年-2016年 |