森忠政(もり・ただまさ 1570 ~ 1634)とは、美濃の戦国武将、大名である。美作津山藩主。
概要
森可成の末の息子で、森長可・森蘭丸らの弟。父と兄たちの相次ぐ戦死で家督を継いだ。通称は右近大夫
兄たちの印象の強さのために若干知名度が低いところがあるが、彼もまた相当なヤンチャぶりを発揮している。しかし世の流れに対する嗅覚は確かなところがあり、秀吉・家康と権力が移り行くなかを上手く渡り歩いて森家を美作一国を持つ大名として存続させた。
細川忠興とはマブダチ。
天下三美少年のひとり・歌舞伎の祖・出雲阿国の夫、として知られる名古屋山三郎は義兄(妻の兄)。
生涯
少年時代
森可成の六男として誕生。だがこの年に父と長兄は討死し、次兄の森長可が当主となっている。幼名は千丸・仙千代。
一時は塙直政(原田直政)の養子となる話もあったが、これまた直後に直政が討死してしまい立ち消えになっている。
可成を初めとした森一族の奮戦ぶりは織田信長から大変気に入られており、三兄・蘭丸、四兄・坊丸、五兄・力丸は信長の小姓に取り立てられた。森千丸(のちの忠政)も1582年、13歳の時に小姓となりエリート街道を歩む……はずだったのだが、信長の目の前で他の小姓と喧嘩になり相手を扇で殴りまくるという鮮烈デビューを飾る。これにはノブ様も苦笑い、まだ働くには早いということで母の下に返却された。
だが結果的に、これが幸いして本能寺の変に巻き込まれずに済んだ(兄三人は討死)。
安土にいた忠政と母は、森家と関係の深かった甲賀忍者・伴惟安の助けで無事に脱出。この恩もあり、忠政が当主となった後に伴一族は正式に森家臣として取り立てられた。(だが一方、同じく安土で人質になっていた従妹は放置されたため、その父(可成の弟)森可政が怒って出奔するというトラブルも起こっている)
その頃の鬼武蔵
一方で兄の長可は武田家滅亡後に与えられた新領地である信濃川中島にいたが、本能寺の変を知った春日信達(高坂昌元)たち信濃国人が一斉に蜂起し、命からがら本拠地の美濃金山に逃げ戻ってきている。この件は森家の中で積年の恨みとなっていく…詳細は後述。
千丸救出作戦
この後、清洲会議を経て岐阜城主となった織田信孝への人質として千丸が差し出された。だが賤ヶ岳の戦いが勃発する頃には森家は羽柴秀吉・織田信雄側に付こうと考えるようになる。
このまま反信孝を表明すれば人質の千丸は確実に殺害されてしまう。蘭丸らは既に亡く、可政一族が出奔し、長可に息子がいない現在、森家の唯一の跡取り候補ということもあってか、長可は自ら岐阜城に忍び込んで千丸を救出している。
ちなみに脱出方法は30メートル下の谷底に布団を敷いて、そこに千丸を投げ捨てるというものだった。
森家の当主に
1584年、小牧・長久手の戦いで兄・長可が討死。5人いた兄は全員戦場に散ってしまった。
ところが長可の遺言書には「忠政に跡を継がせるのは嫌です」と書かれていた。兄なりに弟の器量を考えての事だったのだろうか。とはいえ織田家を長年支えてきた森家を潰すという訳にもいかず、この部分は無視されて忠政が新当主となった。(※当時の名乗りは長重、のち一重、忠重を経て忠政と名乗る)
このとき25歳。父の代からの宿老である各務元正、母方の祖父である林通安とその息子林為忠といった重臣たちに支えられながら、大名としての人生が始まった。
はじめ右近丞に任官されたことから、右近大夫と称すようになる。秀吉からは豊臣姓・羽柴の苗字を与えられるなど厚遇された。
川中島藩主
1600年、長年の希望がかない、かつて失った信濃川中島への移封が命じられた。この時、海津城を「待城」と改名している(これが後世、松城→松代と変わっていく)。それほどにこの瞬間を待っていたらしい。そして早速例の春日信達の一族(本人は既に死亡)らを探し出すと、ことごとく磔にして数百人を処刑したという。
関ヶ原の戦いが近づいてくると、石田三成自ら川中島へと赴いて忠政を説得しようと試みた(そもそも森家の川中島移封自体が徳川に対する抑えを期待してのものだったとされる)。が、既に家康支持を固めていた忠政はその場で豊臣家に対する不満をブチまけ、豊臣姓も羽柴姓も捨てると表明する。もちろんそれを言われた三成の怒りは凄まじく、真田宛の書状では「右近大夫への遺恨は格別」「若い秀頼様を騙し、領地を掠め取った」とこき下ろされている。
三成挙兵後は、隣の真田昌幸が西軍についたため、その抑えとして川中島に駐屯した。第二次上田合戦にも参戦していない。ただ、真田が降伏した後の上田で一揆が起こるとこれを鎮圧している。それほど大きな功績ではなかったためか、この時点では領地は据え置きとなった。
井戸宇右衛門の不穏
この頃の家臣に井戸宇右衛門という人物がいた。彼は大和国人井戸氏の一族だが、織田家に仕えているうちに色々あって美濃へと移り[1]、本能寺の変後に森家に仕えるようになった新参者である。武勇に優れた人物で、その実力で森家でも出世していた。
ただ、森家自体が川中島への引っ越しなどで財政が逼迫気味で、下士への給料が未払いになるなどの問題が起こっていた。井戸家も例外ではなく、そうした扱いに不満を持った井戸の家臣が勝手に城門を開けて真田信繁に攻め込まれるという事件が起こってしまう。
更に森家臣となっていた忠政の義兄・名古屋山三郎とは仲が悪く、山三郎を重用する忠政との間にも溝が出来始めていた。これが後に大事件へと発展する。
右近検地
関ヶ原の戦いが終わり1602年、上述の財政問題もあったので忠政は領内に大規模な検地を実施した。
『右近検地』と呼ばれるこの検地は非常に厳しいもので、その結果、13.7万石だった石高は19万石に急増した。んなアホな。本当に多くの隠し田が見つかったのか、はたまた水増しか……真相は不明だが、領民からすればいきなり土地が3割以上増えたことにされて大増税が課されるという事である。
川中島四郡の至る所で一揆が勃発するが、忠政はこれを鎮圧するとやっぱり磔にかけ、600人が処刑されたという。
この翌年、小早川秀秋が病死したために美作一国(18.6万石)に移封されることが決まった。
津山藩主
美作国はこの短期間で宇喜多・小早川と支配者がコロコロ変わっていたため浪人が多く、これに既存権益を守りたい土豪が加わってまたまた一揆が起こっていた。右近検地の悪名が伝わっていた訳ではない…と思う……。
しかし一揆鎮圧に手慣れた忠政の敵ではなく、調略によって一揆は瓦解した。翌年美作でも検地を行い、24万石という数字を叩き出したが、苦情が殺到したので流石に採用されずに終わった。
美作へと入った忠政は新たな本拠地を定めることになるが、ここで院庄と鶴山という二つの候補が出た。井戸宇右衛門は鶴山を推したが、忠政は院庄への築城を決めた。更に井戸の不満が高まっていることを感じ取った忠政は名古屋山三郎に井戸の成敗を命じる。井戸と山三郎は新城建築現場での喧嘩・斬り合いの末に両者死亡した。当時、川中島で引き継ぎ作業をしていた林為忠はこの事件に憤って森家を出奔してしまった[2]。
この後結局、諍いの元になった築城場所は鶴山に変更になっている。この時森家の家紋である「鶴」の字を避けて「津山」と地名を改めた。
重臣3人が消え、新たに筆頭家老になったのは元正の子・各務元峯だったが、彼も1608年に石切場で喧嘩を起こして別の家老2人を殺害、元峯も切腹した。ここに至っていよいよまとめ役不足になってきた為、かつて出奔した叔父・森可政(当時は幕府旗本になっていた)に復帰してもらうことになった。可政復帰後はこれまでのような混迷も起こらず、やたらと血が流れた津山城は1616年に完成することになる。
ちなみにこの津山城、はじめは五重の天守で作られたが幕府に睨まれ(※江戸城も五重なので)、とっさに四段目の屋根瓦を破棄して誤魔化したとか。この時活躍したのが、かつて忠政を安土から救った忍者伴唯安の息子・伴唯利である。
津山城の天守については、興味深い言い伝えが存在する。
マブダチの細川忠興が小倉城をかねてより自慢していた為、忠政は津山城築城に際して家臣を派遣、天守の見取り図をこっそり作る事になった。
当時の小倉城は海に面していた為、家臣は舟を出して大工と絵師と共に見取り図を作ろうとした。ところが忠興の家臣に怪しまれて捕まり、城へと連行されてしまった。
いくら知遇があると言っても、藩主の守りたる城の見取り図を断りもなく作るというのは言語道断で、しかも相手は気が短い事に定評のある忠興である。しかし忠興は彼らが忠政の家臣であると知るやご機嫌となり、城内を好きなだけ調査させ、ついでに手土産として図面まで持たせて帰させた。
忠興は津山城天守の落成の際、九曜紋の入った「南蛮鐘」を祝儀として贈り、これは両家の絆の象徴として、明治の廃藩まで天守閣の最上階に吊るされていた。この南蛮鐘は現在、大阪の南蛮文化館にて展示されている。
大坂の陣
冬の陣では大胆にも自ら小姓数人と大坂城へと忍び寄ったりしたが、気付かれて発砲される。これは軍監に問題視され、森軍は停止命令を出されるのだが、数日後に目の前で戦いが起こっても「命令が解かれていないから」と全く援護しなかった。これに戦闘マシーン水野勝成が激怒するが、結局軍監に問題ありという結論になって忠政はお咎めなしに終わった。
かと言って別に日和見な訳ではなく、夏の陣では大暴れしている。森軍の中では従兄弟の森可春(可政の子)の活躍が名高い。
後継者問題
1626年、嫡男の森忠広に前田利常の娘・亀鶴姫(母は徳川秀忠の娘)を秀忠の養女として嫁がせるという美味しい話が舞い込んできた。これで二人の間に息子が産まれれば、徳川将軍家の縁戚となり家格が大幅に上がる大チャンスである。
だがその期待空しく、子のないまま1630年に亀鶴姫は早世してしまった。
周囲からの期待と重圧、それに応えられなかった反動からか忠広は酒に溺れるようになってしまう。参勤交代で江戸から津山に戻らなければならない忠政は、江戸に残す忠広の監視役を家臣の高木右馬助(重貞)に任せることにした。が、この高木、全身筋肉のような男であり、弱っている忠広を叩き直すために藩屋敷の一室に軟禁状態にしてしまう。これは忠広のストレスを更に加速させ、1633年、30歳の若さで病死した。
やりすぎた高木は追放処分となったが、のち紀州徳川家に仕官している。
この一連の不祥事を忠政たちはなんとか隠匿しようとしたようだが、結局バレてしまい、将軍家からも前田家からもお叱りを喰らったという。これで忠政の息子は全員死去してしまったため、忠政の娘と関成次(忠政甥)の間に生まれた孫・森長継が跡継ぎと定められた。
幻の加増と急死
忠広・亀鶴姫の件で相当心証を悪くさせているように見えるのだが、それでも不思議なほどに幕府からの扱いは良かった。忠広が死んだ年、松江藩主堀尾忠晴も跡継ぎなく死去、するとお隣美作の森家に「松江藩の出雲・隠岐に、石見も付けちゃうから引っ越ししない?」という話が舞い込んできた。
翌1634年、その話が内定し、長継を嫡子とすることも認められ、さあ忙しくなりそうだ……と思ったところで突如体調を崩し、死去する。桃による食中毒であるという。65歳だった。
このタイミングでの死去により、加増転封の話も消滅してしまった。
その後
予定通り孫の森長継が二代藩主となった。この長継は89年の長寿と男子24人とも言われる子沢山であった…が。
長継の嫡男・森忠継が早世してしまい、忠継の息子(長成)は幼かったので五男・森長武が中継ぎとして三代目となった。予定通り森長成が成人すると四代目になったが、これまた27歳で息子なく死去。
まだ生きていた長継は九男・森衆利を五代目としたが、その直後に衆利が発狂・乱心したため津山藩は改易となった。
しかし森家の存続嘆願が寄せられ、隠居の長継(当時88歳)に備中西江原2万石が与えられた。長継は翌年死去。この後、浅野家が改易された赤穂に移り、森家は幕末まで赤穂藩主として続く。