『AIの壁』 養老孟司
という新書を読んだ。
著者は、長いあいだヒトの身体をみてこられたこともあってか、ものごとを考える
とき、「身体」からの発想を基本とされる。
心に深く感じたことを2回に分けて書きます。
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【引用】
「〈AI時代だからこそ見えてきた「人が生きるとはどういうことか」〉
(「ブラック企業」という言葉も)「仕事も、適当にね」「仕事は人生じゃないんだよ」ということが
普通になったから出てきた言葉でしょう。
当ったり前のことを、わざわざ考えなきゃいけない時代とも言えますね」
…
〈「AI時代の教育に必要なのは「五感によるインプット」〉
新しい発見とは、多分「自分に関する発見」なんですよ。世間の評価なんてどうでもいい。
自分が今まで知らなかったことがある。…「あっ!」と思うわけです。…
答えをあらかじめ提示されちゃえば、発見の喜びは削がれますから。
だから子どもをどうやって教えるかって、大事なことだと思うんです。喜びを奪っちゃいけない。
…
〈発見と脳の不思議な関係‐ひらめいた瞬間に自分が変わる〉
僕らは小さな発見をしょっちゅう繰り返しているじゃないですか(「目からうろこ」)…
今は発見を本人の「能力」とかに被せがち。だから、創造性があるとかないとか言うんです。
僕は発見は能力じゃなく、「状況」だと思うんですね。
その人と、その状況がセットになって、「あっ!」に結びつく」
(注:「」、〈〉、(黒文字)の追加、太字はこっちでしました)
生きるということについて、とても大事なことがいわれていると思った。
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■ ちまたではよく、AI時代になると、人間が非人間的な生き方をしなければ
ならなくなるようなことが言われる。
人工知能やロボットが人の仕事をとる、人を駆逐する、と不安がられる。
しかし養老さんは、人工知能やロボットが人間や仕事の一部を引き受けてくれる
ようになるのだから、逆に、これから真に人間的な生き方ができるだろうという。
(もちろん、現在の資本主義社会の「儲け・カネ本位」は変えねばならない。AIやロボットの導入が
カネ儲けの手段となってはいけない。
「それはちょっとムリ…」となりそうだけど、人類がこれからも生き続けようとすればこれしかない
と思う《資本主義の弊害の変革がたいそうで、「その後」の社会は資本主義とこれまで通り呼べない
ものかもしれない》。
現代日本の「少子化」は「問題」ではないと養老さんはいうが同感する。このままでは将来的に人口が
減少し、高齢者を支えられなくなって困るという。
でもそれは社会制度、福祉の問題であり、科学技術の問題ではない。
科学技術の進展によって人がやっていた仕事をロボットたちが代わってくれることとは関係ない)
■ 〈AI時代だからこそ見えてきた「人が生きるとはどういうことか」〉と
著者はいう。
安心して(ということは「安全」に)AIや機械にまかせられる仕事はドンドンまかせ、
「仕事は人生じゃないんだよ」ということが普通になる。
(よくいわれる「AIがわれわれの仕事を奪う恐れ不安」は《先にも書いたとおり》、資本主義を
いまのままにしておく限り消えないと思う。
話が変わるけれど、コロナ禍で「緊急事態宣言」などが出て自粛営業しなければならず、公的援助の
涙金《こんな少額でも3月分もまだ振り込まれていないと飲食店の人が嘆いておられた》だけでは店の
家賃にもならないと苦しい顔で話している主人をニュースでみて、「持たない者」の私は思った。
「テナントビルや店舗のオーナーさんは、コロナの間だけでも安くしてあげればいいのに…」と)
AI社会の私たちは「人が生きるとはどういうことか」という当ったり前のことを、
わざわざ考えなきゃいけない時代に生きている。
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「自分に関する発見」。
世間の評価、他人の眼なんかどうでもいい。
「あっ!」という自分の驚きこそいちばん。
「僕らは小さな発見をしょっちゅう繰り返しているじゃないですか」。
発見の喜びに大きい小さいはない。
発見は「自分の気づき」であり、創造性とか能力の有無に関係ない。
著者は「状況」という。
(禅ではよく「今・ココ」の絶対的にたいせつなことがいわれます。
この瞬間をここで何かをしている以外に自分が「生きる」ということはない。
「状況」というのはそれに通じると思いました)
「その人と、その状況がセットになって、「あっ!」に結びつく」
「その人」+「その状況」(→その時、その場)=「あっ!」 ということか。
深くうなずいた。
(散歩ではよくそんなことがある)