「ドリル」は世界に通じる? すっちーさんのお笑い道
吉本新喜劇座長・すっちーさん
吉本新喜劇の座長、すっちーさん(48)は人気キャラクター「すち子」としても知られる。昨年は日本のほか中国、インドネシアなどアジアを回る「ワールドツアー」を、ほかの3人の座長と共に成功させた。関西のお笑いが世界に通じる手応えを得たという。
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吉本新喜劇は昨年3月、創立60周年を迎えることができました。同時に、吉本興業で起きた不祥事でお騒がせしました。吉本の看板を背負う芸人として、襟を正すといいますか、ちゃんとせなあかんと思っています。
新喜劇の認知度は以前はテレビ放送のある愛知県までといわれましたが、東日本でもテレビ中継局が増えたほか、インターネット配信などで海外にも届くようになり、ファンが広がっていると感じていました。
2018年に国内の主要都市を回り手ごたえをつかんだので、「60周年はワールドツアーや!」と話していたら実現してしまいました。一緒に座長を務める小籔千豊さん、川畑泰史さん、酒井藍ちゃんと私の4人が2人ずつ3チームに分かれ、19年の3月下旬からまず国内各地を回りました。
――海外は11月のシンガポールを手始めに、タイ、マレーシアなど5カ国で公演した。
普段は上半身裸でやるギャグも、インドネシアとマレーシアでは「人前で肌を見せるのはよくない」という慣習にしたがって、服を着たまま演じました。
慌てたのは中国公演です。シンガポールやインドネシアなどのお客様は現地で暮らす日本人の方が大半だったのに対し、多様なコメディアンが一堂に会する「上海国際コメディフェスティバル」に合わせて開いたため、7割ほどが現地の方でした。
セリフにあわせて中国語の字幕板を出すことが決まり、通訳の方も加わって前日深夜まで台本の見直しや翻訳のチェックなど準備に追われました。
公演は大成功に終わりましたが、打ち上げで食べた火鍋で翌日におなかを壊す羽目に。ホテルから空港までのバスの中は生き地獄でした。周囲を見回すと、こわもて役が得意な若手の太田芳伸君が祈るような様子で我慢していました。
「空港まであと何分? 誰か薬、持ってへん?」と私がうめいていたら、斜め前に座っていた、目がギョロっとした佐藤太一郎君が「ありますよ」と一言。「早よ言わんかい!」と文句を言いながらも、難を逃れることができました。
ツアーは1年近くかけて国内外を回り、勉強になることばかりでした。私たち出演者は体一つで移動すればいいものの、スタッフは準備のため事前に会場に入るなど大変です。言葉の壁はあっても、ギャグやアドリブもお客様にウケて自信になりました。ただ、今度行くなら、お尻を鍛えんと! 長時間の移動が苦手なんです。
お笑い芸人としてはデビューが遅く、エリートでもない私が座長になり、世界に出て行くとは……。人生はホンマによぉわかりません。
自動車整備士やめて挑戦
――子供服店を営む両親のもと、大阪府摂津市で生まれ育った。
祖父が創業したお店はJR吹田駅前などにありました。子供服「ミキハウス」ブランドの三起商行さんが創業したころから商品を扱わせていただいたご縁で、同社の木村皓一社長がお店のセールなどを手伝いにきてくださったこともありました。
私は3人兄弟の真ん中。幼いころは引っ込み思案でおとなしい性格でしたから、舞台でお客様を笑かす今の姿は家族の誰もが想像できなかったはずです。
ただ、商売人の父は子どもの友達が遊びに来ると冗談を言って笑わせていたから、お笑いのDNAは父譲りかなと思います。今も元気で、子供服の通信販売の会社を営んでいます。
摂津市立摂津小学校のとき、仲が良かったのが、後に漫才コンビ「ビッキーズ」を組む木部信彦君、木部ちゃんです。高校でいったん離れましたけど、遊ぶときはいつも一緒でした。
大阪府立茨木西高校の同級生には漫才コンビ、ナインティナインの矢部浩之さんがいらっしゃいます。同級生でも芸歴は先輩なので「さんづけ」。矢部さんはサッカー部で背が高かったから、女子の憧れの的でした。
サッカー部の1学年上には矢部さんの相方となる岡村隆史さんが在籍されていました。私も岡村さんも身長が低く、岡村さんが近くを通るたびに「どっちが低いやろ?」とチェックしていました。関西ローカルのテレビ番組でご一緒させていただくと、高校時代の思い出話に花が咲くこともあります。
――高校卒業後は専門学校に進み、自動車整備士になる。だが1年足らずで辞め、幼なじみの木部ちゃんを誘ってお笑いの道に進んだ。
中学のころからオートバイに関心があり、専門の雑誌を読みあさりました。高校生になると、校則でバイクの運転が禁止されていたにもかかわらず、アルバイトでためたお金で免許を取ってバイクを買い、隠れて乗り回していました。
バイクや機械いじりが好きだったので自動車整備士を養成する専門学校に進み、そこで木部ちゃんと再会しました。就職先は再び分かれましたが、2人とも自動車整備士になりました。
ただ、一日中、仕様書通りに車を相手に黙々と作業するのは性に合いませんでした。1年ほどで退職し、アルバイトをしながら過ごしていたとき、お笑いの世界に進んでみようかと。ダウンタウンさんの出ている番組を見るなど、お笑いが好きでしたし、関西では常に身近な仕事でもありましたから。
お笑いの登竜門といわれる吉本総合芸能学院(NSC)に行かねばと受験したら、結果はまさかの不合格! 面接試験会場で周囲を見やると、受験票をわざと半分燃やすなどウケ狙いの若者ばかりでした。
あきらめきれず、タレントや映像制作にかかわる人材を育成する放送芸術学院専門学校(大阪市)に木部ちゃんを誘って入りました。木部ちゃんは自動車整備士としての腕も良く、会社からは「やめとけ」と引き留められたようです。
幼なじみと漫才コンビ
――吉本興業の劇場「心斎橋筋2丁目劇場」(大阪市)で開かれていた若手芸人のオーディションに合格。幼なじみの木部ちゃんとの漫才コンビで、1996年にデビューした。
同じ時期にオーディションを受けに来ていたのが宇治原史規君(京都大学卒)と菅広文君(大阪府立大学中退)、高学歴漫才コンビの「ロザン」です。いつも黒い服装で決めていたから「黒服コンビ」と呼んで、ライバル視していました。
コンビ名をどうするか? 当初は「LSD」として活動しました。リミテッド・スリップ・デフの略称で、自動車の駆動輪の片方が空転したとき、もう一方に力を伝えるための装置です。自動車整備士出身のコンビだから、これにしようと。
ところが吉本社内の会議で「合成麻薬の意味もあるから、テレビ出演時に変更を迫られるのでは?」と意見が出ました。木部ちゃんと考えて「ビッキーズ」にしました。
2人ともデビュー時は24歳。ロザンやほかの若手はみんな年下。オッサンだから、彼らと同じことをやっていては目立ちません。ハッピを着て登場時に飴(あめ)をお客様にまくスタイルを取り入れました。
――コンテストに受賞したり、テレビにも出演したりと人気を得るが、デビュー後11年で解散してしまう。
漫才をしていれば誰もが年末恒例の大会「M-1グランプリ」での優勝を目指します。ビッキーズも出ましたが、何度も準決勝で敗退。決勝の舞台には立てませんでした。
当時は結成から10年までが出場資格。2006年は最後の挑戦と覚悟を決めて「最後なので頑張ります!」と意気込んだら、スタッフから「もう1年行けますよ」と言われてあぜん。勘違いでした。気勢をそがれ本番もダダ滑りに終わりました。
その後、木部ちゃんと話し合いを重ね、07年10月に解散しました。長く活動するうち、2人の間に意識のズレが生じていたというか。木部ちゃんは劇場を中心に安定的に稼ぎたい、僕はテレビ出演もこなして顔を売って、上を目指したい……。
漫才も自分のマシンガントークとボケが中心で、木部ちゃんがたびたびツッコミを入れるスタイル。幼なじみのままでビジネスパートナーになりきれなかったのが原因だと思います。
木部ちゃんは芸能界を引退し、先輩芸人のたむらけんじさんが社長を務める焼肉店などの運営会社で働き始めました。しばらく会うこともありませんでしたが、18年夏にシャンプーハットさん主催のイベントで、解散から11年ぶりにビッキーズを復活しました。木部ちゃんは少し太りましたが、元気な姿を見せてくれました。
木部ちゃんと別れた後の私はイベントなどに参加していた縁もあり、吉本新喜劇に入りました。同じ吉本でも、漫才などの色物と新喜劇は異なるため、いわば途中入団のような形です。漫才コンビ「若井小づえ・みどり」として活躍され、現在では「おじゃま、パジャマ♪」のギャグで人気の若井みどり師匠らと一緒でした。
新喜劇で再出発、座長に
――35歳の時に漫才コンビ「ビッキーズ」を解散し、吉本新喜劇に入団。現在の芸名「すっちー」を名乗り始めた。
本名は須知裕雅(すち・ひろまさ)といいます。子供のころ、私は友人から「スッチャン」と呼ばれていましたが、兄と弟は「スッチー」でした。ピン芸人としてスッチーの方が分かりやすいかなと。
先輩芸人の陣内智則さんを通じて占師の方に見ていただき、ひらがなを薦められました。片仮名だと客室乗務員の以前の名称(スチュワーデス)の略語になりますし。
新喜劇では新入り。新人や若手は楽屋に早めに来て雑用をこなすのが新喜劇のしきたりです。男性楽屋の化粧道具を洗おうとしていたら、一足早くオーディションで入っていた後輩の吉田裕君が「僕らの仕事ですから」と代わってくれました。
漫才と新喜劇では笑いの取り方が違います。漫才はテンポの良い会話で間髪入れずに笑いを取ります。一方、新喜劇は芝居の流れの中で最後にお客様を爆笑の渦に巻き込めばいいので徐々にネタを振ります。沈黙もボケの前振りだったりします。
新喜劇のイロハを丁寧に教えていただいたのが、小籔千豊さんです。小籔さんも漫才コンビ解散後の入団で、新喜劇のスタイルに慣れるのに苦労されたそうです。身長の低さをはね返して舞台で目立つすべは、池乃めだか師匠に学びました。
――新喜劇屈指の人気キャラクター「すち子」は吉本興業の社員をモデルに誕生した。
ビッキーズのころに一緒になった女性社員に仕事熱心な方がおりまして。この方をモチーフに人間のずるさを膨らませていったら、大阪のオバちゃんを象徴する「すち子」ができました。
女装にも慣れて、今では5分ほどで仕上がります。「女子力」が上がり、ドラッグストアに立ち寄ると必ずコスメのコーナーで買い物し、酒井藍ちゃんに商品を薦めたりしています。
すち子の赤のカーディガンなどは、新喜劇の衣装を長年担当されている大槻衣裳さんのコーディネート。胸はウレタンで膨らませていますが、「これ以上大きくせんといて」とお願いしています。楽屋で変身していると、島田一の介師匠が鏡に映る谷間をチラ見するんですわ。
――吉田裕さんとの人気ギャグ「ドリルすんのかいせんのかい」は楽屋のノリから生まれた。14年、42歳で座長に就任する。
新喜劇の良い点は、誰とでもコンビを組んでギャグを披露できること。ドリルも吉田君とアイデアを出し合いながら10年ごろに完成しました。13年には朝寝坊で公演に穴を開け、謹慎処分を命じられました。テレビ出演はOKでしたので、ギターの得意な松浦真也君と「すち子&真也」を結成し、お笑いのコンテストで優勝しました。
14年5月、会社の偉い人に呼ばれて子ども役の衣装のまま出向いたら、座長昇格が内定したと。「座長に…なりたいんや!」と題したイベントも開いていましたが……。言うてみるもんですね。
妻からも「すち子ちゃん」
――舞台の上で縦横無尽に暴れ回れるのは、大切な家族の支えがあるからという。
2007年に新喜劇に入団した時、妻のおなかには長女がいました。大勢で演じる新喜劇のギャラは高くありません。「アルバイトせなあかんかも」と妻に打ち明けたら、「ずっとやないやろ?」と返されました。迷ったときに背中を押してくれる有り難い存在です。
なんばグランド花月などの通常公演は毎週火曜から翌週月曜までの週単位。月曜夜に台本の読み合わせと舞台稽古があります。出番の合間にもテレビ出演などが入ります。新喜劇入団を機に家族の住まいを静かな郊外に移し、劇場近くの「前線基地」で単身赴任を続けています。
新喜劇入団の年に長女、座長に就任した14年に次女を授かりました。娘も大きくなり、たまの休みに帰宅する私は「女子会に紛れ込んだオッサン」です。妻からは「すち子ちゃん」と電話がかかってくるし、次女と買い物に行くと「すち子ちゃん、待って~」と言われます。
ずっと応援してくれる妻ですが、吉田裕君とのギャグ「ドリルすんのかいせんのかい」については「オモロナイ」と一刀両断でした。劇場に見に来た時、ドリルが始まり、客席を見やったら全く笑っていません。慌ててやりとりを終えたら、公演後に吉田君から「兄さん、史上最短でした」と言われました。
――新陳代謝、後進育成が新喜劇の維持・発展には欠かせないと考える。
一緒に座長を務める小籔千豊さんは音楽にも活動を広げるなど才能にあふれ、ストイック。川畑泰史さんは年数十本も台本を書くなど作家の能力が抜きんでています。酒井藍ちゃんは一回り以上年下なのに、つらいことがあっても笑顔が絶えないのがすごい。
私はギャグをふんだんに入れてお客様に楽しんでいただく芝居を心がけています。飽きられないよう変化も必要です。お茶の間やうどん屋さんの設定が新喜劇の定番ですが、観光バスの車内なども試みました。カメラマンの「須知井留シャタオ」など男性キャラも取り入れています。
昨年の60周年を機に清水けんじさん、吉田君、信濃岳夫君、諸見里大介君がリーダー(次期座長候補)に指名されました。「70周年は藍ちゃんと一緒に引っ張れ」と小籔さんから檄(げき)が飛びますが、その時私は57歳。それまでに交代し、70周年のワールドツアーは次の座長に連れて行ってもらうぐらいでないと新喜劇の繁栄はないと思います。
新喜劇はいまや約120人の大所帯。祇園花月(京都市)などの出演を合わせても数十人は出番がありません。全員の仕事に目配りする必要があります。お笑いの世界で、イジリは相手がおいしいと感じたら成立します。若手の面白さを見出し、舞台上のイジリで人気者に引き上げるのも私の大切な役目です。
新型コロナウイルスの感染防止で劇場がお休みになり、来場を楽しみにされていた方には申し訳ない限り。再開されたら、大笑いしに来てください。あっ、DVDも買うてや~!
(苅谷直政)
[日本経済新聞夕刊2020年3月23日付から27日付までの連載「人間発見」を再構成]
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。