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傾聴者の意識と体験--上智大学グリーフケア研究所での傾聴者養成

身体変容技法研究会での研究報告内容にもとづく。上智大学グリーフケア研究所では、米国の臨床牧会教育(Clinical Pastoral Education)に基づきながらも、日本の事情に合わせた傾聴者のトレーニングを2009年から大阪で行ってきた。著者は2014年の東京での開講に併せて教員としてプログラムに関わった。このプログラムは大阪での鉄道大事故の遺族を支援するためにはじめられたが、現在では、病院、在宅医療、福祉、心理などの各種ヒューマンケア専門家の現場を始めとして、社会一般において広く活用されるべく訓練を重ねている。その訓練プログラムの内容・詳細と、目的とするところを、訓練当事者として記した。

第三部 ❖ 心の模様 第三 部 ❖ 心の模様 傾聴者の意識と体験 節で上智大学グリーフケア研 究所の成立経緯を略述したのち︑第 以下本稿では︑第 手の人生とを添いあわせるような﹁ケア関係﹂をつ な方法論で傾聴者育成という制度を成立させている 節でどのよう くることであると思う︒ してなにかを聴くのも大切なのだが︑語り手と聴き 宗教情報センター研究員・上智大学グリーフケア研究所客員教授/宗教学 葛西賢太 ― 上智大学グリーフケア研究所での傾聴者養成 はじめに 節では︑具体的にグループワーク 意識や体験に注目する観察である︒語り手にとって の﹁援助演習﹂ ﹁集中実習﹂の詳細と︑そこでの守秘 かを述べる︒第 傾聴者の育成に関わっている︒グリーフ︵ grief 悲嘆︶ 節では︑傾聴内容 義務の含意について述べる︒第 今回︑私が試みたいのは︑傾聴する聴き手の側の 2 の効能︑すなわち傾聴される語り手の側の意識や経 私は︑上智大学グリーフケア研究所という場所で︑ 1 とは大切な事物や人物を喪失する痛みを指す︒傾聴 3 わらげたり︑終末期の病いをもつ患者の願いを言葉 る︒たとえば医療者の傾聴が︑慢性疾患の悩みをや 重荷を下ろさせ豊かさを汲み上げると考えられてい はそのような他者の苦しみや喜び︑人生の道行きの 強調されがちであることが一因と思われる︒また傾 という実際を見落として︑傾聴者の専門性ばかりが 者と語り手が固定されておらずしばしば入れ替わる 意識や体験への関心は強くない︒このことは︑傾聴 験に注目する研究は多くあるいっぽうで︑傾聴者の ﹁物語の共同体﹂づくりがあることを指摘する︒ い︑さらに医療制度全体をも包摂する︑より広範な す目標として︑終末期医療などの現場に限定されな 義あることを確認し︑第 の形式的な事実性を超えた傾聴実践の場づくりが意 節で︑傾聴者養成が目指 にするのを助けたり︑家族や友人の苦しみを解きほ 聴者の養成・訓練︑さらには保護という視点からも︑ 4 テクニックを弄することなく﹁純粋に﹂ ︑自分を空っ イスが知られている︒粘り強く誠実に︑また特殊な 傾聴者の姿勢としては︑相矛盾する複数のアドバ 想者の意識や体験と通じるものがあると感じられる︒ 究という観点を持ち込むことが許されるのなら︑瞑 の意識や体験は︑私がこれまで関わってきた宗教研 傾聴者の意識と体験への視点が欠かせない︒傾聴者 1 たか き よし こ J R 社員も含めた事故関係者の傾聴に関わるよ 〇〇五年の や︑ 西日本の脱線事故の生存者や遺族 上智大学のグリーフケア研究所は︑煉獄援助修道 上智大学グリーフケア研究所 ぽにして︑話を最後まで聞くべしというもの︒ ﹁オウ での傾聴を重ね︑一九九五年の阪神淡路大震災︑二 会の髙木慶子シスターによって設立された︒遺族会 の意識と体験をめぐる課題は複数あるが︑継続して や心理療法の傾聴技法との詳細な比較など︑傾聴者 によって語り手の世界を広げて見渡す工夫︒ただ︑ 別稿にて取り組むこととしたい︒ 瞑想者の意識と体験との︑あるいは既存の精神医学 私たちの受講生が数年間をかけて学ぶのは︑結果と ム返し﹂のような手法によって︑語りを確認し咀嚼 5 する姿勢︒イエス・ノーではない開かれた問いかけ 2 ぐしたりすると期待されている︒ 1 J R 94 傾聴者の意識と体験―上智大学グリーフケア研究所での傾聴者養成 うになり︑この 経験を総動員しながら︑起こっていることを理解し ね︑私自身の教員・宗教学者・宗教者としての相談 します︒ ピリチュアルケアを提供できる人材の養成を目指 ある聖トマス大学の閉学により︑上智大学に籍を移 の研究や傾聴者の養成を志した同研究所は︑母体で ンタビューを行っている︒研究所を代表する立場に 員に︑その経験と彼ら・彼女らの価値観とを聞くイ 了生が講座をどのように経験したかに興味をもち︑全 ケア提供者がともに各自の死生観・スピリチュア ン︶に直面している悲嘆者に対し︑ケア対象者・ て︑ ス ピ リ チ ュ ア ル な 課 題︵ ス ピ リ チ ュ ア ル ペ イ 死生観やスピリチュアリティの多様性を前提とし 西日本の支援で︑当時彼女が奉 職していた聖トマス大学に日本グリーフケア研究所 ようと関わってきた︒東京での臨床コース第一期修 すこととなった︒大阪での傾聴者養成︵二〇〇九年か はないが指導教員である参与観察者が︑現時点で見 リティを十全に生き共存できるケア関係の構築を グリーフをかかえる個人や共同体がもっている が設立された︒傾聴実践のみならず︑傾聴の方法論 ら︶は継続され︑二〇一四年からは東京でも開講さ ないことに留意されたい︒ とどけたものが拙稿である︒研究所の公式見解では け で な く︑ ﹁ 人 間 と い う 生 き た 教 科 書︵ living/written ︵ Clinical Pastoral Education︑以下 ︶ ︒聖典や古典だ 米国での傾聴者養成制度である臨床牧会教育 者だけのものではない︒対象者と提供者の双方に共 限定されず︑ ﹁スピリチュアルケア﹂の成果物は対象 ことは大前提だが︑私たちの目指すところはそれに の﹁ペイン﹂︵痛み・課題︶になんらかの手当をする ﹁喪失によるグリーフ﹂を体験した﹁ケア対象者﹂ 傍線強調は葛西による︶ ができる人材を養成します︒︵上智大学︑二〇一七︒ 目指し︑深い臨床理解とダイナミックなケア実践 れた︒東京での﹁人材養成講座﹂は︑開設当時︑座 「ケア関係 」を 構築でき る 人材 を 養成 学中心の基礎コースと︑グループワークを組み込ん だ臨床コースとに分かれていて︑隔週土曜日の講義 と﹁援助演習﹂ ︑病院等での﹁集中実習﹂ ︑毎週水曜 日の講義が行われていた︒私はこの東京での開講か ら﹁援助演習﹂ ﹁集中実習﹂担当教員として︑研究所 human documents︶﹂を通して神学を実践的に学ぶこと 者・ケア提供者がともに﹂ ﹁ケア関係の構築﹂をなす 有される場・空気・時間が目指される︒ ﹁ケア対象 チャプ㆑ン 時に︑言語化されていないがゆえの課題とがある︒逐 を日 ができると考え︑グループのお互いの人生や価値観 での二年間の傾聴者育成をお手伝いしている︒ 語録や映像記録だけでは︑グループに参与している を学びあう方法が取り入れられている︒ 目指すべき場所を教えてくれる地図が役立つかもし の人生が共鳴する混沌とした場でもある︒ときには 習﹂や後述する﹁集中実習﹂は︑他者の人生と自分 Care and Health︑通称パスク ︶での模索と実 チ ュ ア ル ケ ア 協 会︵ Professional Association for Spiritual 本に適した形で導入するために尽力した臨床スピリ り手からなにかを与えられることも︑しばしばある まらない︒ということは︑傾聴者側が結果として語 のである︒ケア﹁対象者﹂は受動的な﹁対象﹂に留 ワークに入らない学びの方法もある︒グループの外 人物像として以下のような記述がある︒私自身の理 二〇一七年度のシラバスには︑講座が養成したい をする対象として想定されてきた︒人と人とが真摯 事件など︶を経験した共同体も︑研究所が﹁ケア﹂ ﹁スピリチュアル﹂とは? 日本国内では︑終末期 る︒ ミックなケア実践﹂の力を培うことが提唱されてい した上で︑自らの言動や姿勢を用いていく﹁ダイナ に対峙する臨床現場に起こることをできる限り理解 ーフ︵悲嘆︶をかかえる個人や共同体に対して︑ス 死生学を基盤とし︑さまざまな喪失によるグリ にも届く緊張感と︑沈黙を強いられるもどかしさを が喪失の痛みを負うような出来事︵大事故や大災害や また︑個人一人ずつの手当だけでなく︑多くの人 ということである︒ 6 い︒ 講座の創設や運営に関わってきた︒ 5 ルとなっており︑パスクの創設者や指導者が実際に P A S C H 解や経験を参照しつつ︑具体的に読み解いていきた するグループ自体が変容し成長していく︒グループ にも学び︑自己理解を深めるいっぽう︑彼らが参加 ﹁援助演習﹂で︑受講生は知的にだけでなく身体的 践が︑上智大学のグリーフケア人材養成講座のモデ C P E れないと思うのだ︒ C P E 4 ここでの学びには︑あえて言語化しない意義と︑同 入観を与え行動を縛るおそれもある︒だが︑ ﹁援助演 実際の体験を味わうことは難しい︒説明によって先 2 味わいながら︑進行を見続ける﹁オブザーブ﹂は︑受 講生ではなく指導教員﹁スーパーバイザー﹂などの ための研修である︒私自身も﹁オブザーバー﹂と﹁ス ーパーバイザー﹂としての経験を重ね︑疑問点を尋 95 3 J R 第三部 ❖ 心の模様 が︑キリスト教やユダヤ教的な伝統 確認されなければならない︒ 践に関しては︑その経緯に関わる以下の点が強調・ る︵島薗︑二〇〇七︶が︑パスクおよび上智大学の実 性﹂を尊崇する超宗派的な運動を指す用法などがあ 的といったニュアンス︑あるいは人間や自然の﹁霊 医療などに関連する用法︑オカルト的・心霊︵操作︶ はないかとみるのである︵安藤︑二〇〇六︑七九︑八 待に応え︑この語のもつ力を生かすことになるので リティ﹂などの語が広く用いられていることへの期 うかと提案する︒そのような姿勢が︑ ﹁スピリチュア アに関わる宗教者が工夫して創造的に提示してはど そこに排除・忌避・遠慮されがちな超越的次元を︑ケ をできる限りそのままにとらえるべきことを強調し︑ がもつこのような多領域にまたがって媒介する含み ナミックに答えを出していく過程を見まもる︒ 講生同士が相互作用しながら︑グループ全体でダイ 見方を提示する役割も負う︒基本姿勢としては︑受 入る指導教員は︑多様性を担保するために異なった 験や人生の堅い枠組みに縛られたときには︑そこに 配的な意見に引きずられるなど︶や︑受講生の専門経 きにグループが一方向に一気に傾いてしまうこと︵支 宗教的資源を生かす態度を指し示していると読みと 大切・重大・深刻なもの︑世俗に拠点を置きながら 束 縛 か ら い ち ど 解 き 放 た れ た う え で ︶そ の 人 に と っ て ︵キリスト教への いる︒ ﹁スピリチュアリティ﹂とは︑ の﹁スピリチュアルケア﹂という用語に込められて 用いるように努力をした含みが︑パスクや上智大学 にかえて﹁スピリチュアル﹂という言葉を自覚的に たために︑キリスト教色の強い﹁パストラル︵ Pastoral︶ ﹂ ある︒けれども︑ ﹁死生観やスピリチュアリティの多 る︒そして受講生のまとまった数がクリスチャンで 講座でも必修科目﹁キリスト教人間学﹂を課してい って創設されたカトリックの大学であり︑人材養成 思われる︒上智大学は周知のとおりイエズス会によ ピリチュアル﹂も同様に理解されるべきだと私には 定資格に推薦されるのであるが︑同学会でいう﹁ス チュアルケア学会﹂の﹁スピリチュアルケア師﹂認 なお︑この人材養成講座修了後には﹁日本スピリ のだがどうか?と対峙されたりすることもあるだろ と明確化を迫られたり︑私はそうではなくこう思う 持されることもあれば︑こういうことではないのか? これまでの人生や死生観や宗教観が敬意をもって支 留保︑ときには拒否︶は予想できない︒話題提供者の ︵ 反 発︑ 疑 念︑ 忌 避︑ そ し て そ れ ら を 経 由 し て の 受 容・ とどめるということではけっしてない︒他者の反応 峙は避けて当たり障りのないやさしい関わりだけに アすることを学ぶ﹂という︒ただしこれは︑強い対 験かを学ぶ︒これを私たちは﹁ケアされることでケ れることでもあり︑そうされることがどのような体 ︵ witness︶ことは︑相手が自分のためにもそうしてく ることができる︒ や他のクリスチャン教員同様に︑僧侶も仏教徒も教 様性を前提﹂とした講座で︑神父やシスターや牧師 米国の 以外の宗教を許容し︑無神論︑あるいは神のような 五︑八九頁︶ ︒ 他 者 の 自 己 探 求 に 同 伴 し︑ 見 と ど け 立 ち 会 う 存在については知り得ないという不可知論も許容し あえて﹁全人的﹂ケアではなく︑ ﹁スピリチュア う︒これらに応答して言葉を探す努力が︑語り手の い︒ ﹁ケアを学ぶためにここにいるのに︑他者の大切 員として尊重され対等に活躍する場を与えられ︑そ にしている死生観や宗教観にふれてなにもしない/ よいだろうか︒医療などのヒューマンケア専門職の 講座では互いの死生観や宗教を提示し合う﹁教育 しようとしない/なにもできない﹂自分が︑グルー 自己理解を深める︵佐藤︑二〇一一︑六一頁︶︒いっぽ 的に構成された場﹂︵グループワーク︶の真摯な場を プだから露呈されてしまう︒このような緊迫感の中 して受講生としても諸宗教の信者や聖職者が︑無宗 ﹁スピリチュアルケア﹂と呼んでいる︒ところで︑生 繰り返しもつ︒独学や指導者と学生との一対一関係 で︑ ﹁各自の死生観・スピリチュアリティを十全に生 あいだでも︑終末期医療などで生死の意味や目的を 死の意味や目的は人類に普遍的な実存的な危機なの ではなく︑ ﹁教育的に構成された場﹂であるグループ き共存できる﹂ような時間と空間︑ ﹁ケア対象者・ケ う︑黙っていれば自分をさらさずにすむわけでもな だが︑専門的技術だけでは対処できない超越的次元 の中で学ぶ意義の一つは︑多様性にある︒指導者と ア提供者﹂が﹁ともに﹂ ﹁ケア関係の構築﹂を達成さ 教者とともに学んでいる︒ を含み︑にもかかわらず伝統宗教や伝統的な共同体 的な死生観・宗教観の伝達が支配的になることもあ 学生との一対一関係では︑指導者から学生への一方 ﹁スピリチュアリティ﹂ ﹁スピリチュアルケア﹂の語 ア﹂の重要性が強調される背景がある︒安藤泰至は い偏りを克服し︑バランスをとるたすけになる︒と る︒グループは多様性を支え︑私たちが避けられな 標となる︒看護師として長い経歴をもつある受講生 せうるような言動や態度を育てるのが︑受講生の目 7 き取って評価︶し︑ニーズに対応しようとすることを︑ かわなければならないところに︑ ﹁スピリチュアルケ が衰退した現代ゆえに︑個人が自力でこれに立ち向 全人的に希求し︑具体的なペインをアセスメント︵聞 ル﹂ケアという語を用いていることはどう考えたら C P E 96 傾聴者の意識と体験―上智大学グリーフケア研究所での傾聴者養成 識︑相互成長に貢献する意思︑モチベーションとな や精神力はもちろんのこと︑実践力︑資質︑目的意 受講生には︑模索の多い学びに臨めるだけの体力 っていたが︑方法があったのだ﹂と語っていた︒ が︑ ﹁こうした態度は教えることのできないものと思 われる対象は話題の是非や提供の巧拙ではない︒そ 受講生も真摯に受け止め︑全員で話し合う︒話し合 なく︑担当者はこの﹁話題﹂を真摯に準備し︑他の 実のところ﹁話題提供﹂という生やさしいものでは 作品︑映画などの吟味が行われることもあるらしい︒ プワークではケアにかかわる重要文献や文学・芸術 講話︑傾聴会話の記録などがある︒ ︵パラレルチャートと呼ばれる︶ことを推奨するリタ・ 提唱し︑カルテに医療者の主観的体験をも付記する ラティブ・オンコロジー︵物語を重視する腫瘍学︶を ナラティブ・メディスン︵物語を重視する医療︶︑ナ リント・グループ︵バリント︑一九六七︶︑あるいは として︑精神科医マイクル・バリントが主催するバ 師たちが患者との全人的関わりを模索し研究する会 たとえば︑ このような傾聴体験の検討の場には先例がある︒ る人生経験が求められる︒結果として受講生は四〇 の話題を︑今ここでどのように味わっているか︑話 のグルー 代以降が多くなっている︒つらい経験の直後にはこ 題提供者をどのように今ここで皆が体験しているか︑ 定の﹁回復﹂をしていることが︑受験の前提である ということに意識を集中する︵初期には︑どうしても 劇自体を目的としない平田オリザの演劇ワークショ シャロンの活動︵シャロン︑二〇一一︶︑あるいは演 医師であるが英語学の博士号ももつリタ・シャロ 話題の中身に引っ張られるのを︑﹁今ここ﹂に引き戻す のは︑話題や傾聴の評価︵ evaluation/assessment︶では ンは︑散文的︑詩的な表現も含めて︑傾聴すなわち ることの意義を強調する︵二〇一一︑一三八︲一三九︑ なく︑話題を介し話題提供者を介して︑ほかならぬ である︵葛西︑二〇一〇 ︑四頁︶︒ 患者とともにある体験を書き︑声を出して読み上げ ︵上智大学︑二〇一七︑二︲三頁︶ ︒ グループワークの実際 援助演習 このグループワークの基本的な形態を紹介したい︒ of presence︶ので︑忙しい作業である︒ どの全体に﹁目配り﹂しながらそばにいる︵ gift/ministry 声の大きさやテンポ︑姿勢︑表情︑身振り手振りな 語化された内容を聞くだけの仕事ではなく︑音調や かれる側の擬似的な体験をする︒役割を引き受けて︑ 聴場面では傾聴者であった︶は語り手の役をして︑聴 読み上げ︑傾聴の場を演じる︒話題提供者︵当該傾 たかも括弧書きされている︒グループで分担をして をとっており︑傾聴者がどのような主観的体験をし 状況を描写する定型的項目の他に︑シナリオの形態 聴会話の記録は︑傾聴の日時・時間と場所︑患者の てくれる同僚を見つけたりするべきこととを区別し︑ 家の力を借りるべきだったり︑スーパービジョンし ことと︑そうではないことの区別︑つまり他の専門 とは有意義だ︒なぜならそれにより︑自らが可能な な蘇生措置を行うつらさ︑などなどを言葉にするこ の症状に圧倒される無力感︑親族に強いられて不毛 で患者の経験が理解できない苦しさ︑進行する患者 するのだと彼女は考える︒年齢あるいは出自のせい の主体である医療者自身の用い方を学ぶために参加 三一三︲三二三頁︶ ︒このようなグループには集団療 受講生六人のグループに︑指導教員が一︑二名入る︒ 声に出して読み上げることで︑私たちはその役割本 結果として︑患者の語りをよく聞いて安心させなが 私たちのグループワークではノートをとらない︒傾 土曜日に行う﹁援助演習﹂では︑午前午後それぞれ 人に近い体験をすることができる︒傾聴者が語り手 私が関わっている﹁援助演習﹂ ﹁集中実習﹂の二科 別の学年で︑四五分程度のセッションを二本か三本 になりきり︑あるメンバーは傾聴者の立場に立って︑ 法的効果もある︑が︑ ﹁精神的に弱い﹂とは思われた 行い︑その前後に︑セッションでの話題を離れた短 らも専門性を高めて責任もった医療を遂行できる医 くない研修医は︑癒やされることでなく︑医療実践 いふりかえりの時間︵チェックイン︑チェックアウト︶ 家族の役割をするメンバーは家族の感情を味わい︑ナ 療者となれるからだ︵三四三頁︶︒ 聴会話の記録も︑事例として評価するのではなく︑傾 をもつ︒各セッションの担当者をあらかじめ決めて レーターは共感的なまなざしをもって全体を俯瞰す 聴をふりかえるその場の﹁今ここ﹂を話し合う︒傾 おき︑担当者は一〇 ︲ 一五分程度の﹁話題﹂提供を る視点を得る︒ 間にわたり︑心身の力を総動員して参与し︑聴く︒言 - 自分自身を省察︵ reflection︶する︑瞑想的な態度なの ップ︵平田︑一九九八︶など︒ C P E のも︑指導教員の仕事である︶ ︒ここで求められている 8 から学んだ上述のパスクの他︑医 うな強いケアニーズ﹂がない︑あるいはそこから一 の学びは負担が大きいので︑ ﹁学習に支障をきたすよ C P E 目は︑車座でのグループワークが中心である︒長時 1 ︵患者さん等への︶ する︒ ﹁話題﹂としては︑生育歴︑ 97 a 3 3 第三部 ❖ 心の模様 - 集中実習 にすませたいたくさんの秘密にそっとヴェールをか 事やおそろしい出来事︙︙私たちは人に気づかれず 敬意をもって遇しあわねばならない︒ 語り手であるメンバーは︑この訓練の場からすでに︑ 家族への傾聴︑その内容は﹁会話記録﹂検討の対象 午前中にグループワーク︑午後は病棟にでて患者や 決め︑それを一人ひとりが感じられたとき︑それぞ 安心できる場を確保しようとグループの全員が心を ぶせて生活している︒その決断を後悔させないよう︑ ﹁学びの指標﹂を︑私たちは五項目の﹁評価項目﹂と 病院などの施設で行われる﹁集中実習﹂は一週間︒ となる︒一週間の﹁集中実習﹂のあいだに︑受講生 れを縛り付けている手枷足枷がゆるむかもしれない︒ して説明する︒それは以下のようなものである︒ 3 4 〇分程度の﹁心をととのえる実践﹂をとりしきる当 私たちの受講生も︑実習の朝に︑自身が工夫した一 にチャペルがあればそこでの定期的な礼拝を司る︒ た悩む医師や看護師のためにも祈り︑病院等の施設 米国のチャプレンは︑患者や家族のために祈り︑ま り手と傾聴者たちとの﹁全員﹂ ﹁双方﹂の協力の下︑ くプロセスである︒先に述べた﹁ケア関係﹂とは︑語 ではなく︑傾聴の専門家の共同体に深く参与してい 変容するのである︒傾聴者の学びは知識を得るだけ 探求を支え合う共同作業の場へと︑グループ自体が 員が真摯に向き合うということである︒各自の自己 にふれないことではなく︑逆にその大切なことに全 自分の解決法を相手に押しつけようとしたりするか っていたはずが︑その時と同じ無力感を味わったり︑ と似た体験をした人を前にしたら役に立ちたいと思 か︑それを自覚しつつ適切な言行を行えるか︒自分 何者か︑語り手にどのような影響を及ぼしているの 第一に︑傾聴者として語り手のそばにいる私とは 一人ひとりの大切なことを大切に扱うとは︑それ 受動的関係力 能動的関係力 定の信仰をもたないという受講生でも︑それに代わ 業︑目を閉じて沈黙する時間︑と工夫豊かだった︒特 練法や簡単な瞑想︑喫茶や書道や短時間の工芸的作 講話を行ったり︑ ﹁心を整える実践﹂をとりしきった 度が重んじられている︒会話記録では役になりきり︑ 中に組み込むさいに︑型を軽視せずに真摯に行う態 傾聴は一期一会の場でもあり︑それを養成制度の また︑自分の課題に取り組むのに適した時機を見き もユング心理学でも瞑想でも︶を学んで利用すること︒ めの理論的な枠組みや実践的な手法︵認知行動療法で 理解し︑否定も忌避もせずに取り組み︑またそのた もしれない︒自身のそのような対人関係上の課題を 概念化力・表現力 る真摯な実践をもっていることにしばしば感銘を受 り︑全員の人生や価値観・信仰・信念に敬意を払っ わめること︒対人関係上の課題が完全解決された人 プの外には持ち出さないという約束がある︒守秘﹁義 生育歴を含めたグループの中での語りは︑グルー きたい︒秘密を洗いざらい暴露することが求められ が︑第三者からみて誤解されやすい点を補足してお グループワークという﹁教育的に構成された場﹂ 偏りを自覚し︑むしろそれを逆手にとって対象者理 透明なものではない︒自分が不可避的にもっている はいっても︑対象者をみる私たちのメガネは決して 第二に︑対象者つまり語り手を理解すること︒と 守秘義務以上 務﹂という消極的義務を指す言葉は︑この約束事の でもない︒指導教員はグループを刺激したり傓った ているわけではない︒感情の激発や高揚を促すわけ い︑男女問わず交際歴や家庭の状況︑悲劇的な出来 である︒家族の心の病気や遺伝病︑自身の重篤な病 とする商業的な集団とは別物である︒傾聴者であり りはしない︒心理技術を転用した高揚体験を売り物 種や性別などによる偏見や苦手なタイプは克服した 解に踏み出す積極性はあるか︒学歴や出身地や︑人 が見えているか︑と言い換えてもいい︒ 出来事を話してもよい︑というのは思い切った決断 含意を十分説明していない︒自分の人生を左右した - けてきた︒ たり︒安心して語れる場づくりに全員が真剣になり︑ 間などいないので︑それらを自覚して取り組む筋道 ブザーバー参加が許されることもある︒ 聴講や︑チーム医療のためのカンファレンスへのオ 9 苦しい話題では皆が祈るような気持ちになる︒ 10 対象者理解力 番もする︒受講生の半分は非宗教者なので︑ Spiritual Exercise Leadershipと呼ばれるその時間は︑狭義の宗 このようにして成立する︒ 5 4 3 2 1 極的な行動と私は思う︒ 教的な儀式である必要がない︒ヨガや体操︑自律訓 自己理解力 12 このような﹁援助演習﹂や﹁集中実習﹂における 自己探求のための 「学びの指標」 は︑自身の﹁話題﹂提供で皆と話し合う時間を四回 したがって︑語りをグループ内にとどめるという約 - はもつことになり︑そのあいだに指導教員との個人 束事は︑消極的な義務でなく可能性を開くための積 11 2 面談が二回加わる︒実習先によっては専門医の講義 3 3 3 98 傾聴者の意識と体験―上智大学グリーフケア研究所での傾聴者養成 コミュニケーションが言葉に依存しているゆえであ 第五の概念化力・表現力が重要なのは︑私たちの がある︒ ﹁隠された﹂あるいは﹁本人も自覚していな 響には責任がある︒吟味熟考の上での関わりでなけ る時点で︑先方の患者や家族にはなんらかの先入観 る︒語り手の内面を直接知ることはできず︑自己と かった﹂ことがらに出会い︑しかしそのリアリティ ほうがよいが︑努力しようのない偏りもある︒たと を与え反応を喚起して︑接し方︑自分の語り方・見 いう器の中で起こっていることを通して推察し︑そ や他の事実との符合に︑語り手も傾聴者もともに驚 傾聴される物語の 「事実性」 せ方が変わるかもしれない︒むしろそこから語り手 れを言葉にして返してみる︒そのとき重要なのは︑相 くような事態だ︒精神医学や心理学のテキストには︑ ればならない︒ との距離を埋めていき︑注意深く傾聴を深化させる 手になじみのある︑相手の立つ場所に届く言葉でも えば﹁上智大学から来た傾聴者の○○﹂と紹介され 工夫と真摯さが求められる︒語り手の中で起こって あるということだ︒偉大な哲学者の言葉や著名な宗 呑みにするのではなく自己の課題と実際に照らし合 う︒同時に︑他人からのフィードバックを性急に鵜 自分の事柄があるし︑批判されるとつらい点もあろ 求める姿勢があるか︒傾聴者にも触れられたくない 第三に︑傾聴者自身が必要時には躊躇せず助けを ながら︑傾聴できるだろうか︒ 文学的・美的なセンスといえる︒ を選ぶ︑地に足のついたことばの即興力︑ある種の ではなく︑語り手のことばを咀嚼して自分の応じ方 力は︑いわゆる﹁学力﹂に反映されるような語彙力 りかねない︒したがってこの第五の概念化力・表現 場の吟味もなしに振りかざすのは︑かえって害にな 教家の言葉の知識︑心理学の理論などを深い理解も うべき注意を忘れさせる︒またそれら体験や能力の 獲得にこだわることは︑それ以外の出来事に本来払 みえる体験の獲得や︑特殊な認識能力らしきものの すぶり認識を歪めかねない現象とともに︒啓示的に る︒同時に﹁転移﹂や﹁投影﹂などの︑傾聴者を揺 接に意思疎通する現象が起こることが言及されてい ﹁ラポール︵ rapport︶﹂という︑語り手と傾聴者が密 を見抜く特殊能力こそが傾聴の本質であるかのよう 解を超えた他者というものを前にしているからだ︒特 ﹁学びの指標﹂の自己理解力以外の四項目を吟味す いる︒ ﹁学びの指標﹂であげられた五項目はいずれも 殊 能 力 で 一 気 に 相 手 に 近 づ く︵ 近 づ い た つ も り に な く姿勢がもてるだろうか︒第一の自己理解力と似て ことができる︒これは︑仲間へのただの甘えではな 形のないものだが︑グループワークという﹁教育的 る︶よりは︑せめて理解に近づくためのなにかを拾 にみなしたりすることは︑傾聴実践を学ぶうえで有 い︑自分が最善を尽くしたと納得できる︑深く根を に構成された場﹂で形に顕れてくる︒それをとらえ︑ い上げよう︑と注意深く模索する態度こそ傾聴者の 害である︑と私は考えている︒なぜなら私たちは︑理 張った自己肯定がなければ︑他人に自分をさらすこ 支持したり︑対峙したり︑明確化したりする作業を あり方だ︒そして︑傾聴者は限界だらけの孤独な存 にしての︑その自己の運用︑ということにかかって とは難しい︒そして︑この第三項は︑他人に自分を 行うのである︒実際に私たちの傾聴者が行うこと︵ス 在であり︑私たちは勘違いや行き違いによるトラブ ると︑それらがいずれも︑自己理解と︑語り手を前 さらして傾聴されるとはどういうことなのかを知っ ピリチュアルケア︶も︑語り手の自己理解と︑傾聴者 助けを求めることを躊躇しない姿勢︑と言い換える て関わるためにも︑また傾聴者自身のセルフケアの 少しずつ食い違いがある︒患者の話と家族の話が異 そうでなくても︑同じ事実を複数の人に確認すると︑ 害する行為が症状の裏に隠されていることもある︒ し︑ミュンヒハウゼン症候群などのように︑自らを と考えるべきではない︒真顔で虚偽を語る人もある 語り手が常に﹁ありのままの正確な事実﹂を語る ルに頻繁に出会う日常に生きているのだ︒ 構築﹂である︑と私は考えている︒ 確化する作業であり︑それが可能な﹁ケア的関係の を前にしてのその運用をとらえ︑支持し︑対峙し︑明 いるが︑窮した時点で自分を守る鎧を解いて他者に 獲得こそが傾聴者のゴールと信じ込んだり︑ ﹁事実﹂ わせて吟味し︑活用し︑自己のあり方を調整してい 傾聴者は不思議としか思えない事態に出会うこと 借り物ではない自身の人生経験を総動員して参照し いることへの共感的理解をもって︑積極的に︑また︑ 4 ためにも︑実は欠かせない項目である︒ 第四の能動的関係力とは︑傾聴者が語り手に積極 的に関わっていく力である︒ほかならぬ自分自身の 感性から気づかされることを生かし︑言葉と場所と 時を選び︑積極的に語り手に投げかけたり問いかけ たりしてみる姿勢である︒それには自身の価値観や 姿勢が露呈するリスクもあるし︑語り手に及ぼす影 99 13 第三部 ❖ 心の模様 話しされなかった○○はどうなっていますか﹂ ﹁△△ ってわかったつもりになるのが私たちの常だが︑ ﹁お の語りに基づく医療﹂が適切に補完的に組み入れら う︒たとえば︑ ﹁根拠に基づく医療﹂の中に︑ ﹁患者 したり︑悲しい話を笑顔でしていたり︑中心人物へ を聞いて私にはこういう感じがするのですが︙︙﹂ れ︑公衆衛生や正しい医療知識の啓発にも︑それら なったり︑同じ人の話がだんだん変わっていったり にかを語るときに︑誇張・脚色したり控えめに語っ ﹁こう理解してよいですか﹂などと尋ねてみるのだ︒ を俯瞰する疫学的な視点にも寄与するために︑医療 医療制度を支え、 ケア関係の共同 体をつくる たり︑特定の話題を迂回したりして︑語り手である 尋ねて教えを請うことは語り手に対する敬意の表 者あるいは医療に通じた傾聴者の真摯な活動は必要 の言及が迂回されていたり︒そこを勝手に推測し補 自分の見せ方をつねに調整している︒自分の苦労や 明だ︒研究所のグループワークの中で私たちが生育 だ︵クラインマン︑一九九六︑二九九頁︶︒ するのは︑あたりまえである︒私たちは︑他人にな 苦痛を語るのをよしとしない価値観・宗教観・文化 歴を共有する限られた受講生だけでも︑私たちの想 家族にも理解されにくい︒重篤な不治の病の影に隠 だと誤解される依存症は︑専門の医師にも︑親しい という方法がある︒敬意をもって教えを請う姿勢を と対比して︑ と類似の経験をもつ場合に可能になる共感 empathy かされるのは︑医療者︵そして傾聴者︶自身も悩み失 遺族とあわせて︑医療者が多い︒彼らの話から気づ エビデンス 傾聴者の活動は︑医療制度にどうかかわるのだろ 傾聴者が努力しても︑他者には理解することがそ 像を超える人生経験をされている︒傾聴者が語り手 れ が ち だ が︑ 慢 性 疾 患 の 苦 し み︵ 症 状 に 加 え て 経 済 とおして︑語り手の言語化をサポートする方法であ 敗し傷つく人間であるにもかかわらず︑ともすると︑ に貢献しうるだろうか︒人材養成講座の受講生には︑ では︑グリーフケア研究所は医療制度にどのよう 的・社会的・対人関係的な諸問題の派生︑当初のアイデ る︵小西︑二〇一一︑三四七頁︶︒目指されているのは︑ 医療者は︑一方的にケアを与える完全な存在である の世界にはもう一つ︑ interpathy ンティティを喪失する悲嘆など︶もある︒ 傾聴者が情報を得ることよりも︑教えを請うことに てもわかってしまった﹂ ﹁自分とあまりにも似てい 在宅医療に取り組む医師の大井玄は︑ ﹁痴呆老人﹂と 事実よりも心理的事実のほうが役立つこともある︒ たりしていることも︑ときにあるかもしれない︒ ら患者や家族に対する人間的な関わりを育て損なっ 療者もそう思いがち︑ということである︒このため る﹂ように感じるときには︑そこに自分の願望が投 される人々が︑知覚能力の低下によって現実︵歴史 あらゆる人間的な関わりがほんらいはグリーフケア 傾聴の場で言及される事実は単一ではない︒歴史 影されていないか?と︑慎重になる必要があるかも 的・物理的事実︶と乖離しながらも︑彼らの心理的事 になりうるのに︑しばしば終末期医療や患者の死後︑ ることがあり︑傾聴によってつらい体験にたまたま しれない︒語り手をよく見て︑無理のない推論を慎 実の中での論理や首尾一貫性を保っていることに着 あるいは病的な悲嘆という特定状況にかたよってグ しているかもしれない︒またいっぽうで︑医療者か 重に重ねているつもりでも︑語り手や傾聴者の期待 目する︒そして︑ ﹁痴呆老人﹂たちが生き︵られ︶る リーフケアが論じられてきたことを示す︒いっぽう に︑医療者自身の悲嘆は見落とされたり隠されたり や願望が滑り込んでくるからだ︒もちろん直観が正 世界を確保しようとする取り組みを支持し︑その世 で︑医療者の迷いや失敗︑医療者自身の悲嘆を適切 心理的事実にも出会う︒そして歴史的事実︑物理的 しいこともあるだろうが︒ 界の中の語彙を使って入り込む方法︑いわば心理的 て抑圧されている一面を指摘し︑それが患者や家族 に語る文化が︑組織体としての病院や医学界によっ 的事実︑物理的事実に加え︑物語という形をとった 達人的な他者の完全理解は目指すべき目標ではな 井︑二〇一一︑ Kindle Locations: 646-678︶ ︒ 事実を介してケア関係をつくる方法を実践する ︵大 況をも問題化する︵安藤・打出︑二〇一二︶︒このよ のグリーフケアを困難にしたり複雑にしたりする状 安藤泰至と打出喜義は︑︵説明や謝罪や傾聴を含む︶ からないなにか︵あるいはなにかの欠如︶を拾い上げ なるだろうか︒たとえば特定の事件を軸に話が循環 るときがある︒そこで︑率直に尋ねてみると︑どう い︒けれども傾聴者が︑手がかりのようだがよくわ 光が当たることで︑思いがけず症状が緩和されるこ C P E ともある︒ただ︑傾聴の場で︑語り手の思いが﹁と ために︑それがこのような身体症状としてあらわれ ところで︑過去のつらい体験を隠蔽しようとした べき/完全な存在であるはず︑と期待されがち︑医 もある︒ が頭から離れなくなる心気症や不定愁訴︑快感目的 もそも難しい病気がある︒重病になったという考え 5 15 よるケア関係構築だ︒ 14 100 傾聴者の意識と体験―上智大学グリーフケア研究所での傾聴者養成 ラレルチャートという記録を書くことと声を出して うな現状に対して︑リタ・シャロンの提唱する︑パ 体を豊かにしていくことができるだろう︒ こからエネルギーを得て︑書き語り︑傾聴者の共同 ラーム的な助け合いの当然さに驚かされたりし︑そ ら得たものの多くが拙稿には反映されている︒また︑二 上智大学グリーフケア研究所の他の教員との話し合いか 謝辞 の読みあわせの場をつくる実践は︑ヒントになるか もしれない︒彼女はその共同体がもつセラピー的な 効果を控えめに言及したけれども︑それはグリーフ ケア研究所でいう﹁ケア対象者・ケア提供者がとも 〇一七年一二月二二日︑第六二回身心変容技法研究会で の報告と討議︑草稿を読んでいただいた安藤泰至氏から に各自の死生観・スピリチュアリティを十全に生き 共存できるケア関係の構築﹂ ﹁教育的に構成された の問いかけと明確化で︑私の理解を見なおす視座を得た︒ 注 ︵ Leas︑日付なし︶ 生 き た 教 科 書 ﹂ と し て 提 供 し︑ ま た 自 ら 探 究 し た︒ とともに︑病いに苦しみつつ︑自身を﹁人間という どが読まれた︒ボイセン自身もそれらの読者である かを問いかけた神学者ポール・ティリッヒの著作な 精神分析と神学を突き合わせて精神の健康とはなに 諸相﹄を書いた心理学者ウィリアム・ジェイムズや︑ えた人たちの運動があり︑たとえば﹃宗教的経験の 人々を癒し︑より深い真理に至ることができると考 時 は︑ 宗 教 と 心 理 学 と が 対 話 し 合 う こ と に よ っ て︑ ︵ Anton Theophilus Boisen︶という神学者である︒当 臨床牧会教育の原型をつくったひとりはボイセン が多かったという︒ 分自身の悲嘆について確認・自覚したという受講生 とインタビューを行った︒人材養成講座を経て︑自 山本︵二〇一二︶は︑大阪での受講生に質問紙調査 せない︒ がちなストレスの手当やセルフケアへの配慮は欠か フケア研究所であるから︑傾聴者や支援者が背負い 災害・事故・事件への手当からスタートしたグリー は使い分ける︒ を省察し心に再度印象づけることを﹁経験﹂と︑私 時 そ の 場 で の 味 わ い を﹁ 体 験 ﹂ ︑体験の内容や意味 ﹁ 体 験 ﹂ と﹁ 経 験 ﹂ ︒ 英 語 で は experienceだ が︑ そ の 問いかけからさらなるヒントを得られたことがうれしい︒ 傾聴という行為の双方向性を説く拙稿を書くプロセスで︑ 場﹂にほかならない︒またシャロン自身が言うよう に︵二〇一一︑三四三頁︶それは医師としての専門性 ﹁ケア関係﹂でつくられる共同体には小さなものか と人間性とをともに鍛える共同体となりうる︒ ら大きなものまである︒最小のものとしては︑医療 者と患者︑そして家族︒少し大きいのは︑チーム医 療を行っているチーム︒バリント・グループや︑リ タ・シャロンのナラティブ・オンコロジーのグルー プ︒私たち上智大学のプログラムは︑二年間を経た 修了後の研修も想定しているため︑修了生は研修を 通して継続的に研究所と関わり続けることになる︒ したがって︑私たちは︑現在の受講生から修了生や その指導者や支援者を含めた傾聴者の共同体を創造 し支えていく責務を負う︒チャプレン同士が傾聴し あうように︑私たちも傾聴しあう共同体である︒傾 聴者の共同体は︑人間の苦しみや喜び︑生の意味な どの﹁物語﹂の語彙を︑死生学や諸宗教の資源から 借りている︒傾聴者の共同体にも︑彼らが出会う語 り手にも︑さまざまな信仰やさまざまな価値観をも つ人々がいて︑宗教の違い︑宗教者と非宗教者の違 いを超えて︑語り手たちは傾聴者の共同体に新しい 語彙をもたらす︒傾聴者は語り手から︑旧約聖書の 一節に人の喜びを見出したり︑自己愛を承認する仏 典を教えられたり︑クルアーン︵コーラン︶からイス 編︵二〇一〇︶に詳述されている︒また︑橋本・山 パスクでの傾聴者育成の実際は︑窪寺・伊藤・谷山 本・澤田︵二〇一七︶は︑大阪の公立病院でのパス 止められたかを報告している︒ クの一週間の実習がどのように病院スタッフに受け いのではないか︑という道徳的標語のような問いか 援助をする側が︑援助される側よりも得るものが多 けにより︑しばしばヒューマンケア領域で言及され る 古 典 的 論 文 と し て︑ Riessman, Frank 1965 “The ‘ Helper ’ Therapy Principle ,” Social Work , the National Association of Social Workers, 10(2), pp.27-32をあげてお きたい︒ 性を体現した一例をあげれば︑田村ら︵田村・河・ 理論や研究方法から実践まで展開する医療的な専門 森田︑二〇一二︶がある︒患者や家族のスピリチュ 田久行の傾聴理論に基づいて制作提案し︑実地調査 アルな﹁痛み﹂をとらえるための指標 SpiPasを︑村 を提案する︒ を踏まえ︑痛みに対する看護現場での具体的なケア 氏は︑この方法を職場で行い︑職場で得たさまざま 都市部の大病院に奉職する看護師である受講生の な反応あるいは無反応について語ってくれた︒ ン等々の専門職からなるチームが︑患者さん一人ひ 医師︑麻酔医︑看護師︑薬剤師︑栄養士︑チャプレ とりの状況に合わせて︑治療などの方向性を打ち合 わせる場︒ の内面だけで成立するのではなく︑専門家の共同体 レイヴとウェンガー︵一九九三︶では︑学習は個人 への段階的参与と共同体の変容・代謝であるとみる︒ たとえば︑衣服をつくる作業では︑布裁ちは失敗が がボタン付けはやり直しがきく︒したがって新参弟 許されない作業︵材料をダメにしてしまうから︶だ がら︑そのイメージをもって布裁ちの段階の準備を 子はボタン付けから始めて服の構造を身体で感じな していくことになる︒服全体の構造︑そして作業共 る道が開ける︒ 同体全体の構造を理解して︑兄弟子を経て親方に至 スピリチュアルケア学会の﹁倫理規程﹂には︑ケア 101 S 5 6 7 8 9 10 11 1 2 3 4 第三部 ❖ 心の模様 引用文献 マイクル・バリント︑池見酉次郎他訳﹃プライマリ・ケ 研究﹄一号︑二〇一七年︑一二一 ―一三〇頁︒ 立総合医療センターの事例から﹂ ﹃スピリチュアルケア 対 象 者 の 尊 厳 を 銘 記 す る こ と を 求 め る 一 節 が あ る︒ けるその理解の開けへ向けて﹂ ﹃ 宗 教 研 究 ﹄ 八 〇︵ 二 ︶ ︑ 安藤泰至﹁越境するスピリチュアリティ ︱ 諸領域にお http://www.spiritualcare.jp/qualification/ethical_code/ いを反映させて受講生用にまとめた覚え書きに基づ の伊藤高章がこれまでの経験と研究所内での話し合 ズ生命倫理学編集委員会編︑安藤泰至・高橋都責任編集 遺族のグリーフワークをサポートできるのか﹂︑シリー 安藤泰至・打出喜義﹁グリーフケアの可能性 二〇〇六年︑二九三 ―三一二頁︒ まれた学習 ︱ バリント・グループの実際﹄診 この五項目の﹁学びの指標=評価項目﹂は︑副所長 く︒そのため︑私の現時点での理解を述べるが︑今 ﹃終末期医療﹄丸善出版︑二〇一二年︑一九三 ―二一〇頁︒ アにおける心身医学 後も加筆が予想され︑また本来の著作者は伊藤であ 年︒ ・レイヴ︑ ・ウェンガー︑佐伯胖訳﹃状況に埋め込 平田オリザ﹃演劇入門﹄講談社現代新書︑一九九八年︒ 断と治療社︑一九六七年︒ る︒ 〇〇八年︒ 大 井 玄﹃ ﹁ 痴 呆 老 人 ﹂ は 何 を 見 て い る か ﹄ 新 潮 新 書︑ 二 に苛まれるアルコールの探索行動︑周囲を裏切る罪 版会︑二〇一〇年︒ を語る 第三集 臨床的教育法の試み﹄関西学院大学出 動が止まない絶望感などの苦しみに歴史上はじめて 志訳﹃病いの語り アーサー・クラインマン︑江口重幸・五木田紳・上野豪 端医学社︑二〇一一年︒ ムがん医療 実践テキスト﹄東札幌病院編集委員会編︑先 光を当て︑それを当事者同士が傾聴しあうことで断 誠信書房︑一九九六年︒ 小 西 達 也﹁ ス ピ リ チ ュ ア ル ケ ア ﹂ ︑ 石 谷 邦 彦 監 修﹃ チ ー 酒する道を開いたのは︑一九三五年に始まった断酒 責感を一時的に忘れる酩酊︑身体症状が進むにつれ 自助会︵ Alcoholics Anonymous︶である︒一九三九年 佐藤泰子﹃苦しみと緩和の臨床人間学 アルコールを消化吸収できなくなりながらも探索行 に刊行された体験談集は︑その苦しみを依存症者以 島薗進﹃精神世界のゆくえ ることの本当の意味﹄晃洋書房︑二〇一一年︒ ︱ 物語能力が医療を リタ・シャロン︑斎藤清二・岸本寛史・宮田靖志・山本 書店︑二〇〇七年︵一九九六年︶ ︒ ︱ 宗教・近代・霊性﹄秋山 ︱ 聴くこと︑語 ︱ 慢性の病いをめぐる臨床人類学﹄ れ以前は宗教観・倫理観や罪責感に訴える説得しか 外が想像する道も開いた歴史的記念碑といえる︒そ ︶ ︒当事者同士が傾聴 和利訳﹃ナラティブ・メディスン 新・最良のエビデンス﹂と﹁患者の意向﹂と﹁医療 サケットの定義と説明は︑ ﹁臨床実践において︑ ﹁最 ア研究所︵東京四谷キャンパス︶版︑二〇一七年︒ 〇一七年度 履修要覧・シラバス﹂上智大学グリーフケ 上智大学グリーフケア人材養成講座﹁人材養成課程 二 変える﹄医学書院︑二〇一一年︒ 者の臨床能力﹂を統合すること﹂︵ Sackett, et al. 2000: 1︶ ュアルケアの手引き﹄青海社︑二〇一二年︒ 田村恵子・河正子・森田達也編﹃看護に活かす スピリチ る臨床スピリチュアルケア・ボランティア活動 ︱ 堺市 橋本富美子・山本佳世子・澤田恵美﹁急性期病院におけ と い う も の で あ る︒ ﹁根拠に基づく医療﹂が傾聴的 なぜだろうか︒ ︱ア ︱ 正 統 的 周 辺 参 加 ﹄ 産 業 図 書︑ 一 九 九 三 山本佳世子﹁グリーフケア提供者を目指す人たち ︱ 悲嘆のさ 臨床スピリチュアルケア協会︵通称パスク︶ : https://sites. google.com/site/paschspirit/ Robert Leas , “ The Biography of Anton Theophilus Boisen ,” https://www.acpe.edu. Downloaded on September 1st, 2014. David L Sackett, et al., Evidence-Based Medicine: How to Practice and Teach EBM, Second Edition, Churchill Livingstone, 2000. ―二〇〇頁︒ ニーズ﹂ ︑髙木慶子編﹃グリーフケア入門 ンケートおよびインタビュー調査から見えてきた動機と 葛西賢太﹃現代瞑想論 ︱ 変性意識がひらく世界﹄春秋 自分自身の心を参照して他者の心を推察しようとす なかにある人を支える﹄勁草書房︑二〇一二年︑一七五 葛西賢太﹁もう一つの知 社︑二〇一〇年 ︱ アルコール依存症者たちの るこの作業に関わりがあると想定されるが︑私たち 二〇一〇年 体 験 と ス ピ リ チ ュ ア リ テ ィ﹂ ︑ ﹃ 現 代 思 想 ﹄ 三 八︵ 一 四 ︶ ︑ ︒ の実践に影響するほどの研究の進展には至っていな い︒ 窪寺俊之・伊藤高章・谷山洋三編﹃スピリチュアルケア ︒ に家族︵へ︶の愛や人としての責任や人間性を喪失 たとえばアルコール依存症は︑酩酊の快と引き換え a し堕落することと︑長い間みなされてきた︒焦燥感 b 態度と対立するような誤解があるようだが︑それは ﹁ 根 拠 に 基 づ く 医 療 ﹂ の 提 唱 者 で あ る デ イ ビ ッ ド・ にも影響を及ぼしている︒ しあう︵ピア・カウンセリングと呼ばれる︶方法は︑ な か っ た︵ 葛 西︑ 二 〇 一 〇 b E ︱ 医療は た脳機能的基盤としてのミラーニューロンの理論は︑ 他者理解の心理機能的基盤としての﹁心の理論﹂ ︑ま J C P E 12 13 14 15 102 容技法﹂ テーマ: ﹁大地の記憶を彫る 研究所 ︱ スカンジナビア・アイルランドのロックカービングと身心変容﹂ 第六一回身心変容技法研究会 齊藤五十二︵書道家・東華書院会長・ロックカービング拓本採取者・所蔵者︶ ﹁スカンジナビ アのロックカービングと︑アイルランドの石に刻まれた図象﹂ 講演: 鶴岡真弓︵多摩美術大学教授・芸術人類学研究所所長/芸術文明史・ケルト芸術文化研究︶ 日時:二〇一七年一一月二〇日︵月︶一三時~一八時 テーマ:現代世界の身心変容技法の流行 ﹁アイルランドのケルト十字架 場所:上智大学大阪サテライトキャンパス ︱ 欧州︑東アジアとの交流を軸に﹂ ︱ 生命再生の螺旋と円環﹂ 発表者①:村川治彦︵関西大学人間健康学部教授︶ ﹁アメリカにおける身心変容技法の変遷史 安藤礼二︵多摩美術大学教授・文芸評論家︶ ﹁造形的思考の起源・アンドレ・ルロワ=グーラ ンと日本﹂ 石井匠︵國學院大學博物館学芸員・岡本太郎記念館客員研究員︶ ﹁石と人 聖ベルナール︑パスカル︑ペギー﹂ した反転の﹁生物ピラミッド﹂ ﹂ ︱ フランス霊性神学史の小窓 発表者②:檜垣樹理︵早稲田大学国際教養学部准教授︶ ﹁ ︿包越﹀: ︿身心の変容と神の国への 発表者③:蛭川立︵明治大学情報コミュニケーション学部准教授︶ ﹁オーストラリアにおける 鎌田東二︵上智大学グリーフケア研究所特任教授︶ ﹁アイルランド・ケルトと日本・神道の身 ︵ assumption︶ ﹀ 身心変容技法の変遷史﹂ ︱ 岡本太郎が観想 第六二回身心変容技法研究会 ︱ ドゥルイドと修験者﹂ これらの研究会での研究発表やシンポジウムのほとんどが本誌に掲載されている︒そこで 齊藤五十二・鶴岡真弓・安藤礼二・石井匠・鎌田東二︵コーディネーター・司会︶ 総合討論: 心変容技法 号館︵中央図書館︶九階九一一会議室 日時:二〇一七年一二月二二日︵金︶一三時~一七時三〇分 場所:上智大学四谷キャンパス 聴者たちの意識と体験﹂ ①縁と演劇と身心変容 問われた問題は︑ ③動物信仰とシャーマニズムと身心変容 ②ナラティブと負の感情処理 ④かたちと身心変容 コメンテーター:鶴岡賀雄︵東京大学大学院人文社会系研究科教授︶ 第六三回身心変容技法研究会 ⑥現代世界の身心変容技法 ⑤演劇・舞踏と身心変容 ⑧声と身心変容 ⑦傾聴と典礼の身心変容 号館︵中央図書館︶九階九一一会議室 予定変更のお知らせとテーマの趣旨説明:鎌田東二 ⑨マントラと身心変容技法 などの諸問題であり︑ ﹁身心変容︵ transfomation of body & mind︶ ﹂ ﹁霊的暴力︵ spiritual violence︶ ﹂ 身心変容問題の裾野を広く探った︒特に儀礼や物語や形態が持つ意味と力について︑さまざ ﹁霊的虐待︵ spiritual abuse︶ ﹂の概念を明確にしつつ︑その負の局面を分析・考察するとともに︑ 一層継続的に︑理論的研究と事例的研究と実験的研究の突き合わせと整理を行い︑それをさ こうして︑三年目となる二〇一七年度の一年間の研究成果を本誌で総括し報告する︒今後 まな角度から考察した︒ 通訳:エリコ・ロウ 時﹁身心変容技法研究会﹂ HP: http://waza-sophia.la.coocan.jp/と科研研究年報﹃身心変容技法 らに継続して書籍化していく予定である︒こうした本研究会の研究活動の過程と内容は︑随 を考えている︒乞う︑ご期待! 来年度︑二〇一八年度は本科研最終年度になるので︑総括的なシンポジウムと書籍の発行 研究﹄に詳しく報告・公開・発表していくので︑ぜひ広く深く参照・参究していただきたい︒ 合同特別シンポジウム「大地の記憶を彫る」 主催:上智大学グリーフケア研究所身心変容技法研究会︵科研︶+多摩美術大学芸術人類学 会場:上智大学四谷キャンパスソフィアタワー一階ホール 日時:二〇一七年一〇月二八日︵土︶一三時~一七時三〇分 コメンテーター:葛西賢太︵上智大学客員教授︶ 発表者:ドゥルクモ・ギャル︵チベットマントラシンガー︶ テーマ:チベットのマントラの理論と実習 場所:上智大学大阪サテライトキャンパス 日時:二〇一八年三月六日︵火︶一三時~一七時 第六四回身心変容技法研究会 コメンテーター:葛西賢太︵宗教情報センター研究員︑上智大学グリーフケア研究所客員教授︶ 発表者:大内典︵宮城学院女子大学教授︶ ﹁声の技法と身心変容﹂ 場所:上智大学四谷キャンパス 日時:二〇一八年一月一九日︵金︶一二時三〇分~一七時 変容﹂ 世紀フランス・カトリックにおける典礼の出現 発表者②:熊谷友里︵東京大学大学院人文社会系研究科宗教学宗教史学専攻博士課程︶ ﹁一九 ︱ 世界を失ったものたちの世界再建と身心 発表者①:葛西賢太︵宗教情報センター研究員︑上智大学グリーフケア研究所客員教授︶ ﹁傾 L L 2 ︱ 心と体とモノをつなぐワザの総合的研究﹂︵基盤研究 ︱ 宗教経験 研究︶﹁喪失と巡礼 研究代表者 鎌田東二 ︱ 死にまつわる宗教と産業と社会のありようを巡って﹂ ︱ 宮澤賢治と村上春樹のナラティヴ﹂ 発表者②:やまだようこ︵立命館大学特別招聘教授・京都大学名誉教授/発達心理学・質的 看取りと葬儀の体験から 科研研究年報誌『身心変容技法研究』第七号刊行にあ たって ﹁身心変容技法の比較宗教学 二〇一一年度~二〇一四年度︶に続く第二弾研究の﹁身心変容技法と霊的暴力 号館︵中央図書館︶九階九一一号会議室 第五八回身心変容技法研究会 二〇一五年度~二〇一 場所:上智大学四谷キャンパス 八年度︶が始まって三年目の本年度は︑九回の定例公開研究会︵第五六回身心変容技法研究 ︱ スカンジナビア・アイルランドのロックカービングと身心変容﹂︑ ︱ ケルトとユーロ アジア文化圏のシャーマニズムと身心変容﹂ ︱ モンゴル・シャーマニズムの事例を中心に﹂ 発表②上林壮一郎︵京都造形芸術大学准教授・プロダクトデザイナー︶ ﹁フォルムと物と身心 発表①勝又公仁彦︵京都造形芸術大学准教授・美術家・写真家︶ ﹁写真と身心変容について﹂ テーマ:﹁かたちと身心変容﹂ 場所:上智大学大阪サテライトキャンパス 日時:二〇一七年七月一一日︵火︶一三時~一七時三〇分 第五九回身心変容技法研究会 心変容 発表者②:アルタンジョラー︵京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程︶ ﹁動物信仰と身 仰と神話図像 テーマ: ﹁動物信仰とシャーマニズムと身心変容﹂ と本﹃身心変容技法研究﹄第七号 東北被災地フィールドワーク︵二〇一七年五月の第一二回東北被災地追跡調査︶ ︑天河大辨財 第五六回身心変容技法研究会 ︱ アジアにおける縁概念 号館︵中央図書館︶九階九一一号会議室 日時:二〇一七年四月二八日︵金︶一三時~一八時 場所:上智大学四谷キャンパス 発表①小西賢吾︵金沢星稜大学講師/文化人類学︶ ﹁縁と身心変容 第六〇回身心変容技法研究会 変容について﹂ 日時:二〇一七年九月二九日︵金︶一三時~一七時三〇分 号館︵中央図書館︶九階九一一号会議室 キーシステムと演劇的身心変容技法﹂ ︱ テーマ:演劇・舞踊と身心変容 場所:上智大学四谷キャンパス 発表者②:三上賀代︵京都精華大学教授/舞踊学・土方�研究︶ ﹁土方�・暗黒舞踏と身心変 発表者①:上世博及︵東京ノーヴィ・レパートリーシアター俳優・通訳者︶ ﹁スタニスラフス 発表者①:井上ウィマラ︵高野山大学教授/仏教学・スピリチュアルケア・瞑想指導︶ ﹁父の 場所:上智大学大阪サテライトキャンパス 日時:二〇一七年五月一五日︵月︶一三時~一七時三〇分 第五七回身心変容技法研究会 不完全な死体への質問状﹂ 発表②辻信行︵中央大学大学院総合政策研究科博士課程/境界論︶ ﹁寺山修司の身心変容 の比較研究に向けて﹂ 身心変容の科学 版二段組四三〇頁を超える大著である︒ 身心変容のワザ﹄ ︵ともにサンガ︑二〇一七年九月︑二〇一八 に掲載し︑さらに︑これまでの研究成果を﹃身心変容技法シリーズ第一巻 本年度も目いっぱい研究活動を展開した︒その成果を 発表者①:鶴岡真弓︵多摩美術大学芸術人類学研究所所長/ケルト芸術表象研究︶ ﹁﹁鹿﹂信 L 天社鬼の宿・節分祭・立春祭調査︶ ︑毎月一度の定例分科研究会﹁世阿弥研究会﹂を行った︒ ム﹁大地の記憶を彫る 日時:二〇一七年六月四日︵日︶一三時~一八時 における負の感情の浄化のワザに関する総合的研究﹂︵基盤研究 A 会~第六四回身心変容技法研究会︶ ︑多摩美術大学芸術人類学研究所との特別合同シンポジウ A 本年度︵二〇一七年度︶に行った研究会活動は次のとおりである︒ 年二月︶を出版したが︑両著とも ︱ 瞑想の科学﹄﹃同第二巻 H P テーマ:﹁ナラティブと負の感情処理について﹂ 1 5 = L B L