作家ケン・リュウ 物語は大事なものを見極める手立て
バラク・オバマ元大統領やフェイスブックのマーク・ザッカーバーグ最高経営責任者(CEO)が熱烈な読者であることでも知られる中国のSF小説『三体』。日本でも5月末に完結編となる第3部が発売され累計47万部と大ベストセラーになっているが、この小説の英語翻訳を担当したのが、中国系アメリカ人作家のケン・リュウ氏だ。短編集『紙の動物園』など、テクノロジーや人類をテーマにしたSF小説で日本でも人気の高い彼だが、自身の短編を映画化した日本映画『Arc アーク』(6月25日公開)ではエグゼクティブプロデューサーも務めている。
『Arc アーク』の舞台は、近未来。19歳でエターニティ社に就職し、遺体を保存するプラスティネーション技術を用い、故人の在りし日の姿を留める「ボディワークス」の製作を行っているリナ。30歳で結婚した彼女は、夫が開発した「不老不死」の施術を受けて、人類初の永遠の命を得た女性になるが……。
映画『Arc アーク』の原作は、『もののあはれ ケン・リュウ短篇傑作集2』(ハヤカワ文庫)に収録されている『円弧(アーク)』。「その根幹にあるのは『永遠の猶予期間を与えられたら、私たちはどう生きるのか』という問い。現代のアンチエイジングの延長線上にある、身近な物語だと感じた」(『日経エンタテインメント!』7月号)と映画化を熱望したのは、『愚行録』(2017年)、『蜜蜂と遠雷』(19年)で映画賞を席巻した石川慶監督だ。ケン・リュウ氏は1976年、石川監督は77年生まれ。同世代の日本人監督からコンタクトを受けたとき、彼は「驚いた」という。
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「永遠の生」ではなく「永遠の若さ」についての物語
「私は、この短編を、とてもアメリカ的な物語として書いたんです。ほかの文化的背景のなかで描かれるという想像をまったくしていなかったので、すごく驚きました。そして石川監督からの言葉で、ハッとしたものが2つありました。1つは、この物語は油彩ではなく水墨画である、という言葉。彼の洞察力を感じるとともに、私のストーリーを本当に理解してくれているんだなと感じました。もう1つは、この物語は『永遠の生』についての物語ではなく『永遠の若さ』についての物語だと思う、という言葉。とても深淵な言葉だと思うと同時に、改めて物語の魂を理解してくれていると感じられ、うれしかった」
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クレジットで目を引くのは、「原作・エグゼクティブプロデューサー」としてケン・リュウ氏の名前が記されていること。日本映画でエグゼクティブプロデューサー(製作総指揮)として原作者がクレジットされることはまれだ。
「出資をしたわけではありませんが、監督のビジョンが大変気に入ったので、ぜひ手伝いたいと思ったんです。エグゼクティブプロデューサーとして行った仕事は、改稿されるたび脚本を読んで意見を伝えること。監督と直接会ってディスカッションしたかったのですが、パンデミックのせいでかなわなかった。作業は、基本的に電子メールを介して行いました」
石川監督によると、正式な許諾を受ける前に作り上げていた脚本を英語に翻訳してケン・リュウ氏に送ったところ、長文のメールが返ってきたという。そのメールを見て想起したのは、冷静な視点で脚本を改稿してくれる「スクリプトドクター」という職業。石川監督は「彼は前向きに、こちら側に立ってくれている」と感じたそうだ。
幾千もの言葉を1つのビジュアルで表現してくれた
これまでに『母の記憶に』を原作とした『Beautiful Dreamer』(16年)、『リアル・アーティスト』を原作とする『Real Artists』(17年)などが映像化されているケン・リュウ氏。日本のチームとのタッグを経験し、どのような感想を持ったのか。
「まず、監督がスタッフのことをとても気遣っている点が印象的でした。また、様々な面でディテールを重んじ、細かいところまでケアをしていく姿勢に感心しましたね。例を1つ挙げると、脚本の英語翻訳です。私はアジアやヨーロッパなど英語圏以外の人たちと仕事をしたことがありますが、正直、脚本の英語翻訳が、あまり良くなかったんです。必ずロスト・イン・トランスレーションなところが出てきて、『うーん、これはどういう意味なんだろう?』と頭を抱えました。今回は、それが一切ない素晴らしい翻訳で、『きっと、関わっているみなさんが、真剣に取り組んでいるんだ』と感じることができました」
脚本が完成した後は、基本的に石川監督にすべてを託したケン・リュウ氏。撮影・編集された完成作について感想を聞くと、原作となった小説には描かれていない、ストリングス(弦)を使ってからくり人形のように行われる「ボディワークス」のシーンを例に語り始めた。
「死せる者と、生きる者。ボディワークスのシーンでは、両者の間を何百というストリングスがつないでいて、生と死をつなぐ糸のように感じられました。そして、その動きはダンスのよう。完成したボディワークスは彫刻のように美しく、驚きました。
現代の世界では、生と死は完全に別のものと思われています。でも生者と死者には幾千ものつながりがあり、未来と過去をつないでいる。まるで永遠に続く鎖のように。私が何千もの言葉を尽くしてもなかなか表現できないこの概念を、石川監督はボディワークスのたった1つのビジュアルで見せてくれました。ほかにも、石川監督のストーリーテリングには息を飲むような美しさがあり、たくさん驚かされ、深く心を動かされました」
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注目しているのは、ヴァーチャルリアリティー
経済格差が広がり、環境問題は深刻化。さらにパンデミックが世界を一変させた現代。『Arc アーク』も新型コロナウイルス禍が収束する前の公開となるが、この困難な状況下で、エンターテインメントはどのような役割を果たすと考えているのか。
「映画であれ、ドラマであれ、神話であれ。人間が『世界ってこういうものなんだな』と理解して、大事なものは何かを見極めていくための1つの手立てが、エンターテインメントであり、ストーリーテリングだと思っています。今、この激変した世界のなかでも、ストーリーテリングは、そのような役割を果たすものだと信じています」
『三体』がNetflixでドラマ化が決定し、日本ではSF小説の古典を映画化した『夏への扉-キミのいる未来へ-』が公開される。コロナ禍が一気に広がった昨年には、50年前にパンデミックを描いた小松左京の小説『復活の日』(1964年)が話題になるなど、SFへの注目度が高まりつつある。次に書きたいSFは、どんなものなのか。
「次の題材として興味を持っているのは、ヴァーチャルリアリティー(VR)です。私が生きてきたなかで初めて生まれた、新しいメディアがVR。これからのストーリーテリングのあり方を変えるものになると思うので、VRという技術自体と、VRを使ったストーリー表現の両方に興味があり、リサーチを重ねているところです。
映画は、映画というメディアを通して、どんなストーリーが語られるべきなのか、どうやって語るべきなのかという試行錯誤を経て、今があると思うんです。VRはまさに今、『どんなストーリーが語られるべきか』を模索しているとき。そこに関わりながら、また新しく、興味深い作品を生み出していきたいですね」
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(ライター 泊貴洋)
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