「なでしこ」のW杯制覇が示す日本の国力
サッカー女子日本代表「なでしこジャパン」のワールドカップ(W杯)ドイツ大会優勝の余熱がまだ残っている。彼女たちの奮闘に心を動かされながら、私の頭の中をよぎったのは「国力」という言葉だった。
W杯のような、世界中からいろいろな国が集まって覇を争う大会になると、それぞれの国の強みや弱み、つまり国の持っている力が浮き彫りになりやすいのだろう。
122カ国・地域の頂点に
今回のなでしこの快挙はいくら褒めても褒め足りないのではないか。女子W杯ドイツ大会の大陸別予選には122の国・地域が参加した。昨年、東京で開催された女子バレーボール世界選手権やチェコで開催された女子バスケットボール世界選手権の予選参加チーム数は100に満たなかったそうだが、とにかく、それだけの数の中で頂点に立つというのは本当に大変なこと。
予選参加国数の多さが勝つ難易度を示す大きな指標となることを考えたら、なでしこの優勝はやはり快挙といっていいだろう。
サッカーという競技はネットを挟んで対峙(たいじ)する競技ではないから、肉体がぶつかり合うことはどうしても避けられない。コンタクトプレーは単純に肉体の強さだけでなく気持ちの込め方も問われる。
ピッチの中だけの勝負ではない
サッカーはまたミスを前提とした競技でもある。ミスを減らす努力は練習などで積むけれども、戦う相手もミスを誘おうと必死にやってくるわけだからノーミスの試合なんてありえない。だからこそ、ミスが生じた時、カバーリングだとか、ボールを1歩でも速く奪い返しにいくとか、仲間を助けるワークが絶対に必要になるのである。
そういう意味では、卓越した個人技はもちろんサッカーの華だが、「精神力」や「組織力」や「団結力」もサッカーを語る上では絶対に欠かせない要素なのである。今回のなでしこの戦いが多くの日本人に感動をもたらしたのは、そういういろいろなサッカーの要素をぎゅっと詰め込んで、しかも良質に表現してくれたからだろう。
そんな、なでしこの戦いぶりは、改めて私に、サッカーの勝ち負けは単なるピッチの中だけの勝負ではないのだなと認識させてくれた。
選手にいいプレーをさせ、チームを勝たせるには「ビハインド・ザ・チーム」、いわゆる後方支援が大切だといわれる。ドクターやマッサーなどメディカルな支援体制の充実、選手だけでなくコーチの養成制度はどうなっているのか、そういったもろもろのことをオーガナイズするサッカー協会の体制に問題はないのか、などなど。
アフリカの時代が来るといわれていたが
それらはもちろん大切だが、私が思う「国力」はもうちょっと広い意味を持つ。選手の教育水準とか、サッカーに対する国民の熱狂度、メディアの成熟度、ある組織の成員となった時にその組織に対して発揮されるロイヤルティー(忠誠心)とか、サッカーのテクニカルな部分以外の事柄である。
例えばアフリカの国々。1990年のイタリアW杯でカメルーンが旋風を巻き起こした時、近い将来、必ずアフリカ勢がW杯を制する時代が来る、といわれた。しかし、いまだにそういう時代は来ていない。
確かに欧州の各クラブを見れば、アフリカの選手を抜きにチームは成り立たないほど選手レベルでは繁栄を謳歌している。ところが、W杯になると、いつも力を発揮できないまま大会を去る。それはなぜか。
ストレスへの耐性が強くない?
これは私の推測だが、準備合宿から大会期間中まで60日間ほど拘束されて一つの場所で同じメンバーと過ごす、そういうことから生じるストレスへの耐性が決して強くないのだろう。
チームの中にはビッグクラブに属してビッグマネーを手にした選手から、薄給の選手まで、さまざまな選手がいる。部族というバックグラウンドの違いもある。アフリカにおいてサッカーは政治の重大な項目だから、大統領と協会会長と有力選手が直につながっていたりする。そういう国では監督など、いつでも切り取れる"盲腸"みたいなものだったりする。
そういうチームがW杯前に必ずもめるのが褒賞金である。賞金の分割やボーナスの額をめぐって協会と選手が紛糾する。政治が介入してくる。そうしたすったもんだがあるおかげで、ピッチの中の個々の力を比べたらとても勝てそうにない国が、「国力」で上回って勝てたりする。昨年の南アフリカW杯で日本はカメルーンに1-0で勝ったけれど、あの試合など、その典型ではないだろうか。
クラブの方がおカネを払って
今春、欧州チャンピオンズリーグの戦いを見るため、ロンドンを訪ねた。テレビの解説の仕事で行ったのだが、その際、マンチェスター・ユナイテッド(マンU)のホーム、オールドトラフォードの元運営マネジャーに会った。
ついこの間までマンUで働いていたのだが、スカウトされてUAE(アラブ首長国連邦)のとあるクラブに職場を変えたそうだ。
私は「そのクラブ、どれくらいお客さん、入るの?」と聞いた。その人は笑いながら「集めたい時は集めたいだけの人に、お金を渡して見に来てもらう」と答えた。
お客さんがカネを払って見に来るのではなく、クラブがカネを払って見に来させる。これもまた、考えようによっては国力といえるのだろう。クラブにそれだけの財力があるという意味においては。そういう国では、代表チームを強化するために必要な数だけ外国人選手を帰化させる戦略だって簡単に採れるのだろう。
パワー、スピード系の能力では…
しかし、私は、その話を聞いて、そういうクラブや国を怖いとは思わなかった。お客さんがおカネを払って見に来てくれるように、日本などでは選手も営業も日々、血のにじむような努力している、そういう「国力」の方を私は信じるからだ。
なでしこの優勝も文脈としては、そこに連なるものだろう。持久系の能力は大したものだと思うけれど、選手個々のパワー、スピード系の能力を比べたら、なでしこは出場16カ国中、下の方の部類だったろう。アジアの中でもアスリートな部分でいえば、中国や北朝鮮、オーストラリアに劣る。
それでもアジアの女王になり世界の女王にもなれたのは、いろんな意味で彼女たちが持っている資質の水準が高かったということだろう。
心からの献身はすごい武器
サッカーはミスの競技と書いたが、その分、ミスを予測する知恵がいる。予測するだけでなく、対処に動かないといけない。その時の彼女たちの「カバーしてあげる」というメンタリティー。嫌々の作業ではなく心からの献身。
これは、当の日本人は(当たり前なので)ほとんど気づいていないかもしれないが、すごい武器なのである。外国人の監督からすれば「なんでそこまでできるのか」と驚くようなレベルなのである。
日本サッカーには後方支援にも"総務力"のようなものがあって、マネジャーたちもチームに、選手に良かれと思ったことは最大限の努力をして実現させる。融通の利かないホテル側と交渉し練習時間との兼ね合いで食事の時間を変えさせるなんてことは当たり前。とにかく選手にストレスがたまらないよう配慮する。
1日単位では微差であっても、それが60日間の長期に及ぶと大きな差になる。そう信じて選手を支える。
日常の暮らしの中から
それは、普段はそういうことはしないけれど、サッカーのときだけできる、という代物ではないのだと私は思う。日常の暮らしの中から、サポートするとか、ホスピタリティーとか、与えられた使命は責任を持ってやり抜くとか、ストイシズムとか、そういうことを大事にしている社会だから、サッカーでも表現しえるのだろう。これもまた立派な国力ではないだろうか。
スポーツの世界には「クローズドスキル」「オープンスキル」という言葉がある。前者はダーツとかビリヤードとか射撃とかアーチェリーとか、要は自分の闘い、自分との闘いに集中して、ひたすら自己修練を重ねる競技である。
後者の典型はサッカーで、戦う相手、レフェリー、味方も敵も、全部どう出てくるか予測しながら、不確実性の中でフレキシブルであることが求められる。だからこそ、サッカーには、その国の社会のありようが色濃く出るのだと思う。
逆風をチャンスに変える
今回のなでしこは、その色濃く出たものが良質であった。良質だったから優勝できた。流れの中でどっちに転ぶか分からないから、転ばないための技術が必要だし、かといって技術だけでもダメだし……という中で、笛が鳴ってから鳴り終わるまで、やれることをすべてやり尽くしてくれた。だから感動したのである。
同業者として見た時、1次リーグ最終戦でイングランドに負けて、決勝トーナメント1回戦で地元ドイツと当たることになった、この間にリバンウドメンタリティーをうまく利用して選手のモチベーションを引き上げた佐々木監督の手腕はさすがだと思う。
逆風をチャンスに変える、ピンチの後にチャンスがある、負けた後にそう選手を誘導していくのは監督の腕の見せどころである。東日本大震災の後で背負うものがあったことが動力になったといわれるが、背負わせ過ぎてもマイナスになる。
普及、希望、そして熱…
それを「国内向け」というより、試合前後にバナーを持って選手がアピールした文言が象徴するように、世界中からのサポートに対して感謝を発信する、というスタンスから始めた戦略も素晴らしかったと思う。
W杯で優勝する国の数は男子を見ても驚くほど限られている。普及、希望、そして熱……何かが欠けていると露見する大会がW杯なのだろう。
今回日本が示したコーポレートする力という美質が、例えば強力なリーダーシップを育てる方向に持っていったとき、弱まることはないか。そんな将来的な心配も含めて、本当にいろいろなことを考えさせられた、W杯だった。
(前FC東京監督)