宝暦8年 (つちのえとら 戊寅)
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年(年号) |
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●1742年 (寛保2年) | ■公事方御定書制定 |
●1744年 (延享元年) | ■神田に天文台設置 |
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●1764年 (明和元年) | ■江戸大火 |
●1772年 (安永元年) | ■目黒行人坂火事 |
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・ 小川 笙船 | 1672年〜1760年(寛文12年〜宝暦10年) | 86才 |
・ 野呂 元丈 | 1693年〜1761年(元禄6年〜宝暦11年) | 65才 |
・ 青木 昆陽 | 1698年〜1769年(元禄11年〜明和6年) | 60才 |
・ 与謝 蕪村 | 1716年〜1783年(享保元年〜天明3年) | 42才 |
・ 田沼 意次 | 1720年〜1788年(享保5年〜天明8年) | 38才 |
・ 山県 大弐 | 1725年〜1767年(享保10年〜明和4年) | 33才 |
・ 平賀 源内 | 1728年〜1779年(享保13年〜安永8年) | 30才 |
・ 杉田 玄白 | 1733年〜1817年(享保18年〜文化14年) | 25才 |
・ 中川 淳庵 | 1739年〜1786年(元文4年〜天明6年) | 19才 |
・ 伊能 忠敬 | 1745年〜1818年(延享2年〜文政元年) | 13才 |
・ 長谷川 平蔵 | 1745年〜1795年(延享2年〜寛政7年) | 13才 |
・ 塙 保己一 | 1746年〜1821年(延享3年〜文政4年) | 12才 |
・ 司馬 江漢 | 1747年〜1818年(延享4年〜文政元年) | 11才 |
・ 並木 五瓶 | 1747年〜1808年(延享4年〜文化5年) | 11才 |
・ 大田 南畝 | 1749年〜1823年(寛延2年〜文政6年) | 9才 |
・ 蔦谷 重三郎 | 1750年〜1797年(寛延3年〜寛政9年) | 8才 |
・ 笠森 お仙 | 1751年〜1827年(宝暦元年〜文政10年) | 7才 |
・ 桂川 甫周 | 1751年〜1809年(宝暦元年〜文化6年) | 7才 |
・ 喜多川 歌麿 | 1753年〜1806年(宝暦3年〜文化3年) | 5才 |
・ 鶴屋 南北 | 1755年〜1829年(宝暦5年〜文政12年) | 3才 |
・ 大槻 玄沢 | 1757年〜1827年(宝暦7年〜文政10年) | 1才 |
・ 松平 定信 | 1758年〜1829年(宝暦8年〜文政12年) | 0才 |
・ 鈴木 春信 | ????年〜1770年(??年〜明和7年) | ?才 |
1758年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 01:47 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動千年紀: | 2千年紀 |
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世紀: | 17世紀 - 18世紀 - 19世紀 |
十年紀: | 1730年代 1740年代 1750年代 1760年代 1770年代 |
年: | 1755年 1756年 1757年 1758年 1759年 1760年 1761年 |
1758年(1758 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
他の紀年法
- 干支 : 戊寅
- 日本
- 中国
- 朝鮮
- ベトナム
- 仏滅紀元 : 2300年 - 2301年
- イスラム暦 : 1171年 - 1172年
- ユダヤ暦 : 5518年 - 5519年
- ユリウス暦 : 1757年12月21日 - 1758年12月20日
カレンダー
できごと
- 3月13日 - フレンチ・インディアン戦争: かんじきの戦いでフランスが勝利。
- 6月8日 - フレンチ・インディアン戦争: ルイブールの戦いはじまる。
- 7月6日 - フレンチ・インディアン戦争: カリヨンの戦いはじまる。
- 7月6日 - クレメンス13世がローマ教皇に即位。
- 8月25日 - 七年戦争: ツォルンドルフの戦いでプロイセンが勝利。
- 9月14日 - フレンチ・インディアン戦争: デュケーヌ砦の戦いでデュケーヌ砦をイギリスが占領。
- 10月14日 - 七年戦争: ホッホキルヒの戦いでオーストリアが勝利。
- 宝暦事件起きる。
誕生
人物
- 1月3日(宝暦7年11月24日) - 蜂須賀治昭、第11代徳島藩主(+ 1814年)
- 1月4日(宝暦7年11月25日) - 閑院宮美仁親王、江戸時代の皇族(+ 1818年)
- 1月17日(宝暦7年12月8日) - 植田孟縉、八王子千人同心組頭(+ 1844年)
- 4月4日 - ピエール=ポール・プリュードン、画家(+ 1823年)
- 4月28日 - ジェームズ・モンロー、第5代アメリカ合衆国大統領(+ 1831年)
- 5月6日 - マクシミリアン・ロベスピエール、フランス革命ジャコバン派の指導者(+ 1794年)
- 5月6日 - アンドレ・マッセナ、ナポレオン戦争期のフランス軍元帥(+ 1817年)
- 5月31日(宝暦8年4月25日) - 細川治年、第7代熊本藩主(+ 1787年)
- 8月5日(宝暦8年7月2日) - 後桃園天皇、第118代天皇(+ 1779年)
- 9月20日 - ジャン=ジャック・デサリーヌ、ハイチの独立運動指導者(+ 1806年)
- 9月29日 - ホレーショ・ネルソン、イギリス海軍の提督(+ 1805年)
- 10月11日 - ヴィルヘルム・オルバース、天文学者(+ 1840年)
- 10月26日 - ノア・ウェブスター、辞書編纂者(+ 1843年)
- 11月2日(宝暦8年10月2日) - 良寛、曹洞宗の僧・歌人(+ 1831年)
- 小野川喜三郎、大相撲第5代横綱(+ 1806年)
- チャールズ・リー、第3代アメリカ合衆国司法長官(+ 1815年)
- 申潤福、風俗画家
- 徳本、浄土宗の僧(+ 1818年)
- 稲村三伯、蘭学者(+ 1811年)
人物以外(動物など)
死去
- 1月9日(宝暦7年11月29日) - 久留島喜内(久留島義太)[1]、和算家(* 1690年頃)
- 3月22日 - ジョナサン・エドワーズ、神学者(* 1703年)
- 4月25日(宝暦8年3月18日) - 佐竹義明、第7代久保田藩主(* 1723年)
- 4月25日(宝暦8年3月18日) - 松平重昌、第9代福井藩主(* 1743年)
- 4月30日 - フランソワ・ダジャンクール、作曲家(* 1684年)
- 5月3日 - ベネディクトゥス14世、第247代ローマ教皇(* 1675年)
- 6月12日 - アウグスト、プロイセンの王族(* 1722年)
- 6月27日(乾隆23年5月22日) - 恵棟、儒学者(* 1697年)
- 8月27日 - バルバラ・デ・ブラガンサ、スペイン王フェルナンド6世の妃(* 1711年)
- 10月6日(宝暦8年9月5日) - 柳沢淇園、文人画家(* 1704年)
- 10月14日 - ヴィルヘルミーネ、ブランデンブルク=バイロイト辺境伯フリードリヒ3世の妃(* 1709年)
- 10月23日(宝暦8年9月22日) - 吉子内親王、江戸時代の皇族(* 1714年)
- 10月25日(宝暦8年9月24日) - 市川團十郎 (2代目)、歌舞伎役者(* 1688年)
- 10月27日(宝暦8年9月26日) - 奥平昌敦、第2代中津藩主(* 1724年)
- 11月20日 - ユハン・ヘルミク・ルーマン、作曲家(* 1694年)
- 12月5日 - ヨハン・フリードリヒ・ファッシュ、作曲家(* 1688年)
- フランソワ・マッカンダル、ハイチのマルーン指導者
脚注
注釈
出典
関連項目
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1758年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 13:24 UTC 版)
1758年のはじめ、フリードリヒ2世はモラヴィアに侵攻してオルミュッツを包囲した(現チェコ領オロモウツ)。オーストリア軍がドームシュタットルの戦いで勝利してプロイセン軍補給部隊を奪取すると、フリードリヒ2世は包囲を中止してモラヴィアから撤退、以降大規模なオーストリア領侵攻はおこらなかった。1758年1月、ロシア軍は東プロイセンに侵攻したが、プロイセン軍がほとんどおらず、ロシアはほぼ無抵抗で同地を占領した。以降1762年までロシアは東プロイセンを支配下においたが、フリードリヒ2世はロシア軍を直近な脅威とは見ず、まずオーストリア軍を徹底的に撃破して和平を迫ろうとした。 4月、イギリスはフリードリヒ2世と英普協定を締結して年67万ポンドの補助金(英語版)をプロイセンに与えた。また、イギリスは大ピットの政策を変え、兵士9千を増援としてフェルディナント率いるハノーファー軍に派遣した。七年戦争中、イギリスがはじめて大陸ヨーロッパに派兵したのはこのときであった。フェルディナントはフランス軍をハノーファーとヴェストファーレンから追い出し、3月にエムデン港を再占領すると、ライン川を渡河した。彼は迎撃にきたフランス軍をクレーフェルトの戦いで撃破し、一時デュッセルドルフも占領したが、フランスの巧みな行軍でライン川を渡って撤退せざるをえなかった。 ここでフリードリヒ2世はロシア軍の西進を憂慮して東へ進軍、1758年8月25日にオーデル川の東、ノイマルク(英語版)においてツォルンドルフの戦い(現ポーランド領サルビノヴォ)を戦った。フリードリヒ2世率いるプロイセン軍3万5千とウィリアム・フェルマー率いるロシア軍4万3千と戦いそれぞれ1万2800人と1万8000人と両軍とも損害が甚大であったが、ロシア軍が退却したためフリードリヒ2世は勝利を宣言した。アメリカの歴史家ダニエル・マーストンはツォルンドルフの戦いを引き分けとした。彼は両軍とも疲憊して二度とお互いと戦いたくなかったことをその判断の理由とした。9月26日のトルノーの戦いではスウェーデン軍がプロイセン騎兵による6回の突撃を跳ね返し、その2日後のフェールベリンの戦いでプロイセン軍を撤退させたが、スウェーデン軍はベルリンへ進撃しなかった。 戦争はそのまま進展のないまま推移したが、10月14日にダウン率いるオーストリア軍がザクセンでのホッホキルヒの戦いにおいてプロイセン軍を奇襲した。フリードリヒ2世は多くの大砲を失ったが、周りの鬱蒼とした森林に助けられて撤退に成功した。オーストリア軍は戦闘に勝利したものの、ザクセンにおける戦役で行き詰まり、ドレスデン攻撃が失敗した後はオーストリア領まで退却して冬営に入り、ザクセンがプロイセンの占領下に置かれたままとなった。同時期にロシア軍がポンメルンにおいてコルベルク包囲戦(現ポーランド領コウォブジェク)を敢行したが失敗した。 フランスでも1758年の戦役は精彩に欠けたものであり、これを見かねてショワズール公が外務大臣(実質的には宰相)に任命された。彼はイギリスとハノーファーに猛攻して1759年に戦争を終わらそうとした。[要出典]
※この「1758年」の解説は、「七年戦争」の解説の一部です。
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