乱立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 09:20 UTC 版)
日本では、江戸時代に米相場の動きを手旗信号によって遠方に伝える手法が存在したが、近代的通信社が生まれたのは明治時代のことである。板垣退助らが中心となって展開した自由民権運動を契機として国会設立の機運が高揚し、1890年(明治23年)に第1回帝国議会が開かれた。この動きに乗って続々と新聞が発刊され、同時に国政の動向や政論を配信する通信社も数多く設立された。東京だけで200を超える通信社が存在したというが、草創期の通信社は総じて小規模なものであった。 1887年(明治20年)、六角政太郎が「東京急報社」を創業。大阪・堂島の米市場の情報を江戸橋電信局に打電し、東京の顧客に伝達した。これが日本における近代的商業通信の嚆矢である。同社は1904年(明治37年)に「合資会社商業通信社」として再生。1919年(大正8年)に株式会社化し、1937年(昭和12年)12月に同盟通信社の子会社「日本商業通信社」に吸収された。 1888年(明治21年)11月4日、三井物産創業者の益田孝により「時事通信社」(現在の時事通信社とは無関係)が創立された。同社は、当時の内務省警保局長清浦奎吾(のち首相)の肝煎りで設立された御用機関であったが、激しい内紛に見舞われ、3年足らずで事実上の休業に陥った。 1890年(明治23年)1月10日、郵便報知新聞社(のちの報知新聞社)社長の矢野龍渓こと矢野文雄が「新聞用達会社」を創業した。同社は郵便報知新聞社と同様に、立憲改進党支持の姿勢を明確にしていた。 1892年(明治25年)5月10日、時事通信社と新聞用達会社が合併して「帝国通信社」(以下「帝通」)が誕生。初代社長には、新聞用達会社で主幹を務めた竹村良貞が就任した。同社の記事は、政府の方針にそぐわないとして度重なる発行停止処分を受けたが、帝通は官庁の発表記事に強く、新聞各社は帝通の記事を欲した。同社は日清戦争及び日露戦争を通じてその業務を拡大し、抜きん出た存在に成長した。 19世紀に生まれた通信社としては他に、1890年11月に清浦奎吾が警保局の機密費を使って設立した「東京通信社」や、1891年(明治24年)に漆間真学が設立した「日本通信社」、1893年(明治26年)5月に出版界の雄・博文館の大橋佐平が設立した「内外通信社」、1899年(明治32年)2月に自由党代議士の星亨が設立した「自由通信社」などがある。 日本通信社は、1906年(明治39年)に庇護者の伊藤博文が京城(現在のソウル特別市)に統監府を置き、自ら初代統監に就任すると、京城に支局を設置した。日本の通信社が海外に拠点を置いたのは、これが最初である。内外通信社はロイターとの直接契約に成功し、外電を国内に配信した。しかし当時は外電の需要が低く、売り上げは低迷した。結果、1897年(明治30年)に博報堂の瀬木博尚に譲渡され、1955年(昭和30年)に博報堂に吸収された。自由通信社は自由党の宣伝機関として機能し、星の死後は西園寺公望がこれを継いだが、関東大震災以後凋落した。
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