きょうど【×匈奴】
匈奴
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匈奴(きょうど、簡体字中国語: 匈奴、拼音: ションヌゥ[1]、英:Xiongnu)は、古代中国の文献によると、紀元前3世紀から紀元1世紀後半まで、東部のユーラシア・ステップに住んでいた遊牧民の部族連合体である[2]。紀元前209年以降、最高指導者であった冒頓単于が匈奴帝国を建国したと中国の文献に記されている[3]。
注釈
- ^ 音訳とする根拠は、各史書における表記の差異による。史書における表記には、恭奴(『漢書』匈奴伝)、凶奴(『蔡中郎集』黄鉞銘、『釈迦方志』巻上、『慈恩寺三蔵法師伝』、『三国史記』新羅紀)、兇奴(『大唐求法高僧伝』巻上)、胸奴(『塩鉄論』巻三十八)、降奴(『漢書』王莽伝)などがあり、類似の音を漢字で表記していることがわかる。
- ^ ユリウス・クラプロートが『史記』『漢書』匈奴列伝の「匈奴は夏后淳維の子孫である」という記述を元に提唱。
- ^ オーレル・スタインの発見した『ソグド語古代書簡』より[24]。
- ^ しかし、これらの記述について小川琢治は『北支那先秦蕃族考』において後の『史記』における匈奴との関連を否定している。そして『史記』匈奴列伝、『後漢書』南匈奴伝では、匈奴の始祖は夏の一族である夏后氏の淳維であることが記されている。この記述に従えば、匈奴は夏王朝の末裔であり、その意味では匈奴は夏人(≒中国人)である。『楽彦括地譜』でも、夏の桀王の子の獯粥が北野に避居し、随畜移動するようになったと記している。
- ^ 1970年代に発見された南シベリアのアルジャン古墳出土品の考古学的分析による[27]。
- ^ 「烏掲」、「呼偈」とも記され、後のテュルク系民族オグズ(Oγuz)の祖先とされる[32]。
- ^ 「薁鞬」は「奥鞬」とも記され、唐の顔師古が『漢書』に「奥の音は郁」と注したことから「いくけん」と発音する。Groot(1921年)はこれをモンゴルの「Orkhon」(オルホン)を写したものとしたが、顔師古の『漢書』注や康居に奥鞬城があったことなどから、オルホンに結び付けることは困難であり、むしろ後の突厥などに見られる官号「irkin」(イルキン)に比定する説の方が有力となっている[34]。
- ^ これに対し、元の匈奴を北匈奴と呼ぶ。
- ^ その後の北匈奴は康居の地に逃れて悦般となる[36]。
- ^ しかし、後趙も後継争いが起きて漢人の冉閔によって国を奪われた(冉魏)[37]。
- ^ 戦国時代当時ではズボンの概念はなく、いわゆる着物を着ており、馬に跨ることができず、常に戦車に乗って戦っていた。しかし、それでは騎馬戦術に長ける騎馬民族に劣っていたため、趙の武霊王は胡服騎射(騎馬民族風の服を着て、騎射を行う)を中原で初めて取り入れて戦に活用したという[39]。
- ^ 踝(くるぶし)を押し潰す刑であったとしている[17]。
- ^ 「単于」という君主号が頭曼以前からあったものなのか、頭曼から称すようになったのか、それとも冒頓から称すようになったのかは不明である。また、H.W.Haussing(1953年)や内田吟風(1956年)によると、「単于」の原音はtarγüに近いものであったと推考される。また、完称である「撐犁孤塗単于」について、“撐犁”はテュルク語、モンゴル語の「tengri:天」、“孤塗”はツングース語の「guto:子」あるいはエニセイ語の(bi)kjaiに相当するとされる。意味は『漢書』匈奴伝に「匈奴、天を云いて撐犁となし、子を云いて孤塗となす。単于は広大の貌なり」とある。
- ^ 白鳥庫吉(1941年)は屠耆をモンゴル語の「čige:正直」、トルコ語コイバル方言の「sagastex:賢」に、B.Munkacsi(1903年)はモンゴル語の「čečen, seseŋ:賢」にそれぞれ比定した[45]。
- ^ 白鳥庫吉(1941年)はモンゴル語の「khutuk」、トルコ語の「kut, kutluk:威厳神聖」に比定し、P. Boodberg(1936年)は、この官が単于族の姻族に占められていることより、トルコ語の「qudu:義父」に漢語の「侯」が付いたものと解し、L. Bazin(1950年)は「幸福をもたらす者」の意味を有する古モンゴル語「qurtulγu」であると想定した[46]。
出典
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- ^ 薩孟武『西遊記與中國古代政治』三民書局、2018年7月13日、47頁。ISBN 9789571464183。"武帝說:「昔齊襄公復九世之謎,《春秋》大之。」(《漢書》卷九十四上〈匈奴傳〉)壯哉斯言。及至宣帝,匈奴款塞來朝,而東胡,西戎,北狄,南蠻罔不臣朝。從而華夷之別又一變而為天下一家的思想。說匈奴,則曰夏后氏之苗裔(同上);說西南夷,則曰高辛氏之女與其畜狗槃瓠配合而生的子孫(《後漢書》卷八十六〈南蠻,西南夷傳〉);說朝鮮,則曰武王封箕子於朝鮮,其後燕人衛滿又入朝鮮稱王(《漢書》卷九十五〈朝鮮王滿傳〉); 說西羌,則曰出於三苗(《後漢書》卷八十七〈西羌傳〉)。這樣,全亞洲的人民幾乎無一不與華人有血統關係了。"。
- ^ 『匈奴史稿』P121
- ^ アーカイブされたコピー - ウェイバックマシン(2011年12月3日アーカイブ分)
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- ^ a b c d 『後漢書』南匈奴列伝
- ^ 『魏書』列伝第九十、『北史』列伝第八十五
- ^ 『晋書』劉元海載記・劉聡載記・劉曜載記・石勒載記上・石勒載記下・石季龍載記上・石季龍載記下
- ^ 『魏書』帝紀第一・列伝第十一・列伝第七十一上・列伝第八十三、『晋書』赫連勃勃載記
- ^ a b c d e f 林 2007, p. [要ページ番号]
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- ^ 小松 2005,p52
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匈奴
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詳細は「南匈奴」を参照 秦漢帝国と対峙した北方遊牧民族である匈奴は、漢の武帝の征討等によって次第に国力が衰微すると後漢代に分裂し、西走したものを北匈奴、呼韓邪単于(日逐王)の統制下で華北に移住したものが南匈奴と呼ばれる。後漢や三国魏の抑圧を受けながら南匈奴は漢民族と混在して農耕を受け入れ、定住化し、人口も西晋時代には100万を超えていた。 304年に南匈奴の劉淵が漢王を称して西晋から独立し、劉淵が建てた漢(前趙)は西晋を滅ぼして五胡十六国時代の幕を開けた。同じく五胡十六国時代に、407年に南匈奴の末裔を名乗る匈奴鉄弗部の赫連勃勃が夏を建国した。
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