モンゴル高原
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/22 04:21 UTC 版)
モンゴル高原 | |
---|---|
所在地 | モンゴル 中国 ロシア |
種類 | 高原 |
プロジェクト 山 |
モンゴル高原 | |
---|---|
各種表記 | |
繁体字: | 蒙古高原 |
簡体字: | 蒙古高原 |
発音: | モンゴルコウゲン |
広東語発音: | 蒙古高原 |
ウイグル語: | موڭغۇلىيە ئېگىزلىكى |
チベット語: | སོག་པོའི་མཐོ་སྒང་། |
モンゴル語: | Монголын өндөрлөг |
日本語読み: | モンゴル高原 |
韓国語: | 몽골 고원 |
ベトナム語: | cao nguyên Mông Cổ |
英文: | Mongolian plateau |
モンゴル高原(モンゴルこうげん、英: Mongolian Plateau)は、東アジアの北に位置する内陸の高原地帯で、モンゴル民族やテュルク系民族の居住地。モンゴル国とロシア極東の南部と中国の内モンゴル自治区をあわせた領域にほぼ一致する。漢語では蒙古(もうこ)あるいは蒙古高原(もうここうげん)と言う[1]。
標高およそ1000m前後の草原からなり、中央部は乾燥地帯(ゴビ砂漠)である[2]。ゴビ砂漠を境目として、北部はモンゴル国にあり、外蒙古または漠北とも呼ばれ、南部は南モンゴル(内蒙古)あるいは漠南と呼ばれ、歴史的・政治的に2地域に分かれている。北部はサヤン山脈を境界としてシベリアに接する。降水量は少なく、寒暖差の激しい、厳しい気候である。
脚注
- ^ 日本国語大辞典, ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,世界大百科事典 第2版,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版. “モンゴル高原とは”. コトバンク. 2021年3月13日閲覧。
- ^ “モンゴルこうげん【モンゴル高原】 | も | 辞典”. 学研キッズネット. 2021年3月13日閲覧。
モンゴル高原 | |||
獫狁 | 葷粥 | 山戎 | |
戎狄 | |||
月氏 | 匈奴 | 東胡 | |
南匈奴 | |||
丁零 | 鮮卑 | ||
高車 | 柔然 | ||
鉄勒 | 突厥 | ||
東突厥 | |||
回鶻 | |||
黠戛斯 | 達靼 | 契丹 | |
ナイマン | ケレイト | 大遼 | |
(乃蛮) | (客烈亦) | モンゴル | |
モンゴル帝国 | |||
大元(嶺北行省) | |||
北元 | |||
(ハルハ・オイラト) | |||
大清(外藩・外蒙古) | |||
大モンゴル国 | |||
中国人の占領 | |||
大モンゴル国 | |||
モンゴル人民共和国 | |||
モンゴル国 |
外部リンク
モンゴル高原
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/28 21:07 UTC 版)
モンゴル高原においては、元朝がモンゴル高原に追いやられた後、一時的にチンギス裔の権威が低下し、15世紀中頃にはチンギスの血を引かないエセン・ハーンが即位するなど、チンギス統原理の原則が脅かされた。しかし、16世紀初頭にチンギス・カンの末裔を称するダヤン・ハーンがモンゴル高原を再統一してからは、再びダヤン・ハーンの子孫たちによってチンギス統原理によるハーン位の継承がなされていった。ダヤン・ハーンの家系は、分家を繰り返しつつ、高原各地に分散して遊牧する各部族をそれぞれに支配する王侯として定着した。17世紀以降の清の時代、清朝皇帝の宗主権に服したモンゴルにおいても、ハーンの称号を名乗ることができたのは、モンゴル貴族の中でもダヤン・ハーンの男系子孫に限られている。 20世紀に至って、外モンゴルの独立運動でダヤン・ハーンの血を引く王侯たちが、チベット仏教の活仏であるジェプツンダンバ・ホトクトをボグド・ハーンの称号のもとハーンに担ぎ上げており(ボグド・ハーン政権)、チベット仏教の権威がチンギス統原理を上回る大義とみなされている。ただ、ジェブツンダンバも転生の系譜の中でチンギス・ハーンの男系子孫として生れたこともあるので、チベット出身のボグド・ハーンがハーンに即位することに対する抵抗感がなかったのだ、という見解もみられる。
※この「モンゴル高原」の解説は、「チンギス統原理」の解説の一部です。
「モンゴル高原」を含む「チンギス統原理」の記事については、「チンギス統原理」の概要を参照ください。
「モンゴル高原」の例文・使い方・用例・文例
モンゴル高原と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- モンゴル高原のページへのリンク