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大森鍾一とは? わかりやすく解説

大森鍾一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/08 18:04 UTC 版)

大森鍾一

大森 鍾一(おおもり しょういち、安政3年5月14日1856年6月16日〉 - 昭和2年〈1927年3月3日[1])は、日本の内務官僚政治家貴族院議員枢密顧問官皇太后宮大夫男爵

生涯

幕臣駿府与力・大森直正(水野忠邦家臣森川源左衛門の男)と先代鯛次郎直由の娘である銀の長男として生まれる。幼名は鍾一郎、後にの直興を名乗る。静岡学校、名古屋学校を経て、明治5年10月1872年11月)に林欽次塾に入り、後に中退。

1873年(明治6年)4月、明治政府に出仕し陸軍造兵司・一等附属となる。司法省法制局太政官を経て、1878年(明治11年)10月、内務省に移り四等属に任官。以後、内務権大書記官、兼戸籍局長、内務卿官房長心得、内務大臣秘書官山縣有朋大臣)、内務書記官・総務局文書課長兼勤、県治局長、兼警保局長などを歴任した。

1893年(明治26年)3月、長崎県知事に発令され、兵庫県知事を経て、1900年(明治33年)10月、内務総務長官(内務次官)に就任。1902年(明治35年)2月に京都府知事に転じ、1916年大正5年)4月まで在任。1915年(大正4年)11月の大正天皇の即位の礼を大礼使参与官として担った。京都府知事在任中の1909年(明治42年)12月21日、貴族院議員に勅選され[2]1916年(大正5年)7月3日まで務める[3]

1915年(大正4年)12月1日、男爵を叙爵[4]。1916年(大正5年)6月22日、皇后宮大夫に就任し[5]1923年(大正12年)9月から死去するまで枢密顧問官を兼任。1926年(昭和元年)12月、大正天皇の崩御に伴い皇太后宮大夫に就任したが、在職中に薨去した。享年72。

墓所は本駒込吉祥寺戒名は至誠院徳巖宗潤大居士

逸話

  • 1907年(明治40年)5月13日皇太子時代の大正天皇山陰地方行啓の途上で宮津を訪問した際、京都府知事だった大森は先導して成相山傘松を案内することになった。しかし皇太子は足が速く、随行していた東郷平八郎日高壮之丞たちは追いつけなくなってしまう。なんとか先導していた大森も疲れ果て、途中で与謝郡の郡長に先導を代わってもらう。これを見た皇太子が「それ(交代)には及ばない。ぜひ(大森が先導を続けよ)」と強いると、大森は「知事の職務の一部を郡長に委任するのは、法律の規定に基づくものであります」と述べた。それを聞いた皇太子は大いに笑ったという[6][注釈 1]

栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

親族

著作・文献

大森鍾一
訳書
  • ボアソナード述、山崎直胤閲『経済学講義 第1-4号』共同刊行:北畠茂兵衛ほか、1876年。
  • メイゾンヌーヴ著『仏国刑法説約』法制局、1876年。
  • 著者不詳『仏国地方分権法』博聞社、1878年。
  • ワレット著、井上毅閲『仏国県会纂法』博聞社、1879年。
伝記
  • 池田宏編纂『大森鍾一』池田宏、1930年。

出典

注釈

  1. ^ 明治・大正・昭和の三代に亘って仕人(つこうど。宮中の諸雑務に携わる宮内省の下級職員)として勤務した小川金男も、「大森が皇后宮大夫に就任した時、徳大寺実則明治天皇侍従長だった)から聞いた話」として同じエピソードを紹介している。小川によれば、実則は大森との面識はなかったものの彼を高く評価しており、自分の侍従長在任中に宮内省に来なかったことを大いに残念がっていたという[7]

出典

  1. ^ 『官報』第53号「彙報 - 官吏薨去」1927年3月7日。
  2. ^ 『官報』第7950号、明治42年12月22日。
  3. ^ 『官報』第1177号、大正5年7月4日。
  4. ^ 『官報』第1001号、大正4年12月2日。
  5. ^ 『官報』第1168号、大正5年6月23日。
  6. ^ 角金次郎 編『山陰道行啓録 : 紀念』稲吉金太郎、1907年、18頁。NDLJP:780760/23 
  7. ^ 小川金男『皇室の茶坊主 下級役人がみた明治・大正の「宮廷」』河西秀哉監修、創元社、2023年(原著1951年)、298-300頁。ISBN 978-4-422-20169-6 
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 大森鍾一」 アジア歴史資料センター Ref.A06051176500 
  9. ^ 『官報』第301号「叙任及辞令」1884年7月1日。
  10. ^ 『官報』第2021号「叙任及辞令」1890年3月29日。
  11. ^ 『官報』第2341号「叙任及辞令」1891年4月23日。
  12. ^ 『官報』第3832号「叙任及辞令」1896年4月11日。
  13. ^ 『官報』第5362号「叙任及辞令」1901年5月21日。
  14. ^ 『官報』第8091号「叙任及辞令」1910年6月13日。
  15. ^ 『官報』第1509号「叙任及辞令」1917年8月11日。
  16. ^ 『官報』第1791号「叙任及辞令」1889年6月20日。
  17. ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
  18. ^ 『官報』第2853号「叙任及辞令」1893年1月4日。
  19. ^ 『官報』第4949号「叙任及辞令」1899年12月28日。
  20. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
  21. ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
  22. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  23. ^ 『官報』第1001号「叙任及辞令」1915年12月2日。
  24. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
  25. ^ 『官報』第3717号「宮廷録事 - 恩賜」1925年1月15日。
  26. ^ 『官報』第52号「叙任及辞令」1927年3月5日。
  27. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  28. ^ 『官報』第6850号「叙任及辞令」1906年5月3日。
  29. ^ 『官報』第7415号「叙任及辞令」1908年3月18日。
  30. ^ 『明治畸人伝』内外出版協会、1906年(明治39年)、54頁。

参考文献

外部リンク

公職
先代
徳川達孝
大夫事務取扱
皇后宮大夫
1916年 - 1926年
次代
珍田捨巳
先代
小松原英太郎
内務総務長官
港湾調査会会長
東京市区改正委員長
神職試験委員長
警察監獄学校

1900年 - 1902年
次代
山県伊三郎
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
大森(鍾一)家初代
1915年 - 1927年
次代
大森佳一



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