退位後
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「タイムール・ビン・ファイサル」の記事における「退位後」の解説
退位したタイムールはインドからセイロン島に渡り、ビルマ、シンガポール、メッカ、ボンベイ(ムンバイ)などの土地を訪れる。1935年にタイムールは日本の神戸を訪れるが、かつてオマーンで面会した志賀重昂の影響を受けて日本に憧れを抱いていたためだと言われている。神戸のダンスホールで当時19歳だった大山清子と知り合ったタイムールは日本への永住を決意して再び日本に渡航し、翌1936年に明石で清子と日本式の三三九度の結婚式を挙げる。清子と結婚したタイムールは神戸市葺合区中尾町の邸宅に住み、清子との間に娘のブサイナをもうけるが、元国王という身分は隠して暮らしていた。1937年にサイードと弟のターリクが日本を訪問した際には、タイムールは二人を出迎えている。 タイムールと清子は円満な生活を送っていたが、やがて清子は結核に罹患する。1939年11月に清子は病死するが、この時タイムールはボンベイに滞在していたため、清子の最期を看取ることはできなかった。1940年に日本に戻ったタイムールは清子の墓を建てた後にブサイナを連れてオマーンに帰国し、娘を第一夫人の元に預けた。その後タイムールはボンベイに移住し、1965年に同地で没した。 タイムールは6度結婚し、5人の男子と1人の娘をもうけた。長男サイードとその子のカーブース、四男ターリクの子のハイサムが国王(スルターン)となっている。
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退位後
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「レオポルド3世 (ベルギー王)」の記事における「退位後」の解説
退位後のレオポルド3世はアマチュアの社会人類学者として世界中を旅した。セネガルを訪れた際にはフランスの非植民地化プロセスを激しく批判した。 1952年2月6日、親友でもあった英国王ジョージ6世が崩御する。しかし大戦中の経緯から、英国内における反レオポルド感情はベルギー国内に優るとも劣らぬものだったため、2月15日に行われた国葬に参加することはできなかった。 1983年、ウォルウェ=サン=ランベールで死去した。ラーケンのノートルダム・ド・ラーケン教会にアストリッド王妃と共に埋葬された。
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退位後
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「ジョゼフ・ボナパルト治世下のスペイン」の記事における「退位後」の解説
ジョゼフはフランスで過ごした後に渡米した(そこでスペインで手に入れた宝石類を売った)。そして、1817年から1832年までそこに住み、初めにニューヨークとフィラデルフィアに居を構えたところ、その家は在外フランス人の活動の中心地となった。 ジョゼフ・ボナパルトはヨーロッパに帰り、イタリアのフィレンツェで死去してパリのアンヴァリッドに埋葬された。
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退位後
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「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事における「退位後」の解説
オランダ政府は政治活動の停止を条件にヴィルヘルム2世の受け入れを承諾した。連合国はヴェルサイユ条約第227条で「国際道義と条約に対する最高の罪を犯した」として前皇帝としてのヴィルヘルム2世の訴追を決めた。この手続きは成文法の違反ではない新しい法概念に基づくものであり、後の「平和に対する罪」の萌芽的前例となった。イギリス政府は講和会議以前からオランダ政府に対してヴィルヘルム2世の身柄引き渡しを要求し続けていたが、オランダ政府はヴィルヘルム2世を拘束しておらず、また彼が引き渡しに関するオランダ国内法に違反していないため引き渡しはできないとして、1920年1月21日に正式に拒否通告を行った。連合国は重ねて引き渡し要求を行わず、欠席裁判を行うこともなかった。 以降ヴィルヘルム2世はその死までの23年間をオランダで過ごすこととなった。少数の近臣を従えながらユトレヒト州ドールンの城館で貴族として安楽な余生を送り、かつての臣下を罵りながら趣味として木を伐って過ごした。またこの間に二冊の回顧録を著している。ヴィルヘルム2世は過去を顧みて「自分の退位についてはマクシミリアンとヒンデンブルクに連帯責任があるが、亡命の責任は完全にヒンデンブルクにある」と確信するようになった。1921年のヒンデンブルクとの書簡のやり取りでヒンデンブルク本人に自らの責任を認めさせている。一方でヒンデンブルクは大統領になった後に保守政党国家人民党にヴィルヘルム2世の退位について追及されるたびに「それはグレーナーに言うべきである」と言って自らの責任を否定している。 1921年4月11日にアウグステ・ヴィクトリア皇后が崩御し、1922年11月5日ヴィルヘルム2世は兄系ロイス侯女ヘルミーネと再婚した。ヴィルヘルム2世は63歳、ヘルミーネは35歳の未亡人であり、この再婚は世界を驚かせた。 ヴィルヘルム2世はオランダ亡命中も常に復位の希望を抱いており、戦後もドイツの王党派や右翼勢力に対して一定の政治的影響力を保っていた。ドールンを訪れた喜劇作家に贈呈した写真には「朕ここに汝ら臣民が今日までに決定した全てのことを無効とする。ヴィルヘルム」と冗談か本気か分からない文句を書き添えた。一方で駐オランダ・ドイツ大使は1926年1月にグスタフ・シュトレーゼマン外相に送った報告書の中で「皇帝は政治について様々な意見を述べながらも現在の生活状態を改善したいという希望は持っておられません。皇帝の現状は極めて快適であり、心身ともに平穏でおられます。」と書いている。 ドイツ旧王侯たちはドイツ帝国時代に自分の統治下にあった州に対して土地や財産の返還請求を求めていたが、ヴィルヘルム2世もプロイセン州政府に対して同様の交渉を行っていた。1926年、ドイツ社会民主党は長期化する王侯たちとの裁判に疲れ、穏健な法的解決を図ろうとした。それに乗じてドイツ共産党が強硬な法的解決、すなわち王侯財産没収法案を国会に提出した。ヒンデンブルク大統領はホーエンツォレルン家の財産を守るべく「私有財産に対して法的解決を行うのは憲法違反」として反対した。結局この件は国民投票にかけられることとなり、君主派と共和派の激しい争いが繰り広げられた。ちなみにナチ党内でもこの件については意見が分かれた。ナチス左派のグレゴール・シュトラッサーは王侯財産没収に賛成したが、一方アドルフ・ヒトラーは王侯財産没収を「ユダヤ人のペテン」として批判し、王侯よりユダヤ人から財産を没収せよと主張してシュトラッサーの意見を退けた。結局国家人民党や鉄兜団など保守勢力の大反対運動により王侯財産没収法案は退けられたが、賛成票が1450万票も入ったことについてヴィルヘルム2世は「ドイツには1400万人もの不道徳漢がいる」と不満を述べた。 ヒンデンブルクは帝政復古論者で、ヴィルヘルム2世の復位を主張していた。一方、ブリューニング首相は本人ではなく、孫を帰国させて帝政復古する案を持っていたが、ヒンデンブルク大統領はヴィルヘルム2世への忠誠にこだわった。1934年死去したヒンデンブルクは遺言で、ヴィルヘルム2世の孫であるルイ・フェルディナントを迎えた帝政復古を言い渡したが、首相となっていたヒトラーはこの遺言を握り潰したという。 ドイツ本国に留まっていた第四皇子アウグストがNSDAP(ナチス)に入党した。また1931年にはヘルマン・ゲーリングがオランダを訪れてヴィルヘルム2世に面会している。しかしヒトラーが反帝政復古派だと知ると、ナチス支援も消極的になっていった。 一方で第二次世界大戦のナチス・ドイツの戦争遂行に全面的に賛同していた。ポーランド侵攻についてヴィルヘルム2世は「今度の戦役は驚嘆すべきあり、伝統的プロイセン精神によって遂行された」と称賛した。1940年5月、自身の亡命先であるオランダにドイツ軍が侵攻した際には、イギリスのチャーチルからヴィルヘルム2世に対してイギリスへの亡命の勧めがあったにもかかわらず、これを拒絶してオランダに残り、ドイツ軍の保護を受けている。さらに同年、かつて彼のドイツ軍が成し遂げることができなかったパリ陥落をヒトラーのドイツ軍が達成したのを見ると、ヒトラーに対して祝電を打った。1940年秋の手紙の中では「今活躍しているドイツ軍の将軍たちはかつて私の教え子だった者たちである。ある者は少尉として、ある者は大尉として、ある者は少佐として私のもとで世界大戦を戦ったのだ」と誇らしげに語っている。 独ソ戦がはじまる直前の1941年6月4日、ヴィルヘルム2世は肺栓塞のためドールンで崩じた。ヒトラーの命によりドイツ軍による葬儀が行われた。ヴィルヘルム2世はまずドールン市門の近くにある礼拝堂に葬られ、その後遺言に従って、死後ドールンの館の庭園に建設された霊廟に改葬された。自身の案になる墓碑にはこう刻まれている。 「 我を賞賛することなかれ。賞賛を要せぬゆえ。我に栄誉を与うるなかれ。栄誉を求めぬゆえ。我を裁くことなかれ。我これより裁かるるゆえ。 」
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退位後
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「エドワード8世の退位」の記事における「退位後」の解説
1936年12月12日、ジョージ6世は兄をウィンザー公爵に叙して、殿下(英語版)の称号を与えた。 翌年の5月3日、シンプソン夫妻の離婚が成立した。この案件は粛々と処理され、一部の新聞ではほとんど取り上げられなかった。タイムズ紙は、別の一見無関係のように見える記事の下に、公爵がオーストリアを発った事を報ずる記事を配置した。 1937年6月3日、エドワードは、ウォリスとフランスで結婚した。彼女はウィンザー公爵夫人となったが、ジョージ6世が特許状を発行せず、彼女に殿下の称号を与えなかった事は、エドワードにとって不満の種となった。夫妻はフランスに定住し、公爵は弟から非課税の送金を受けた。エドワードは不足分を回顧録の執筆や違法な為替取引で補った。 また、彼はバルモラル城とサンドリンガム・ハウスをジョージ6世に売却して利益をあげた。どちらもエドワードが相続した私有地であり、クラウン・エステートの一部ではないため、退位後も引き続き所有していた。 1937年10月、イギリス政府の助言にも関わらず、公爵夫妻はドイツを訪問し(英語版)、オーバーザルツベルクの山荘でヒトラーに面会した。この訪問はドイツのメディアで大々的に報道された。 訪問中、公爵はナチス式敬礼をしていた。公爵は1966年12月13日付のニューヨーク・デイリーニュースとシカゴ・トリビューン紙の記事の中で、1937年にヒトラーが彼に「ドイツが東方に向けて進撃し、共産主義を永遠に粉砕する事がイギリスの利益であり、ヨーロッパの利益でもある...」と話したと回想し、「私は、ナチスと赤軍が戦っている間、他国は日和見を決め込めばいいと思っていた。」と述べた。 1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、エドワードはフランスに派遣されたイギリス軍の任務に就いた。1940年2月、デン・ハーグ駐在のドイツ大使ユリウス・フォン・ツェヒ=ブルケルスローダ(英語版)伯爵は、エドワードが、連合国のベルギー防衛戦略を漏洩したと述べた。1940年5月、ドイツがフランス北部に侵攻すると、公爵夫妻はリスボンに逃れた。 ヴァルター・シェレンベルクを中心としたナチスのエージェントが、ウィリー作戦(英語版)のコードネームのもと、公爵にポルトガルを離れるように説得しようと画策したが失敗に終わり、彼の誘拐も計画された。 カルデコート卿(英語版)はチャーチルに「公爵は親ナチス派として知られており、陰謀の中心になるかも知れない」と警告した。チャーチルは、もし公爵がイギリスに帰国しないなら軍法会議にかけると脅した。 1940年7月、エドワードはバハマ総督(英語版)に就任した。 エドワードは知人に「ヒトラーがアメリカを潰して、戦争が終わったら......我々が引き継ぐよ...... 彼ら(イギリス人)は私を国王にしたくないようだが、私は彼らの指導者として戻るだろう」と述べた。 また、「ヒトラーが打倒されたら、世界にとって悲劇的な事になる」という発言も報じられている。このような発言は、公爵夫妻がナチスに共感しているという観測を強め、1936年の退位危機の影響により、極端な政治的意見を持つ人物を王位から外す結果となったという信念を強化した。エドワードが脅威であったとか、彼を退位させようとする政治的陰謀によって排除されたという主張は、依然として推測の域を出ないが、「1936年以降現代に至るまで、公的配慮がその力をほとんど失ってしまったため、国王の退位に関する不十分な説明しかできないという観念こそ、主張が持続する主な要因である。」
※この「退位後」の解説は、「エドワード8世の退位」の解説の一部です。
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