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FLOWERS for ALGERNONとは? わかりやすく解説

アルジャーノンにはなたばを【アルジャーノンに花束を】


FLOWERS for ALGERNON

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/27 03:47 UTC 版)

『FLOWERS for ALGERNON』
氷室京介スタジオ・アルバム
リリース
録音
ジャンル
時間
レーベル 東芝EMI/イーストワールド
プロデュース
チャート最高順位
ゴールドディスク
  • 第30回日本レコード大賞 アルバム大賞
  • 氷室京介 アルバム 年表
    FLOWERS for ALGERNON
    (1988年)
    NEO FASCIO
    (1989年)
    EANコード
    氷室京介関連のアルバム 年表
    “LAST GIGS”
    (1988年)
    FLOWERS for ALGERNON
    (1988年)
    “SINGLES”
    (1988年)
    『FLOWERS for ALGERNON』収録のシングル
    1. ANGEL
      リリース: 1988年7月21日
    2. DEAR ALGERNON
      リリース: 1988年10月7日
    テンプレートを表示

    FLOWERS for ALGERNON』(フラワーズ・フォー・アルジャーノン)は、日本のシンガーソングライターである氷室京介の1作目のオリジナル・アルバム

    1988年9月1日東芝EMIのイーストワールドレーベルからリリースされた。BOØWY解散後に初めてリリースされた氷室のアルバムである。作詞は氷室の他に松井五郎および泉谷しげるが担当し、作曲は氷室および吉田建が担当、プロデュースは吉田および氷室、コ・プロデューサーはヒロ鈴木が担当している。

    レコーディングは一部アメリカ合衆国にて行われ、現地のギタリストであるチャーリー・セクストンが参加している。アルバムタイトルは氷室が本作制作にあたって強い影響を受けたダニエル・キイスの小説『アルジャーノンに花束を』(1959年)の原題をそのまま使用している。本作において氷室は、BOØWY所属時代とは異なる自身の内面を表現した楽曲制作を試みたと述べている。

    先行シングルとしてリリースされた「ANGEL」を収録している他、後にリカットとして「DEAR ALGERNON」がリリースされた。本作はオリコンアルバムチャートにおいて初登場から3週連続で第1位を獲得し、『第30回日本レコード大賞』にてアルバム大賞を受賞した。本作を受けたコンサートツアー「KING OF ROCK SHOW "FLOWERS for ALGERNON"」のツアーファイナルとなる1989年1月3日および4日において、氷室はBOØWYの最終公演「“LAST GIGS”」以来9か月ぶりに東京ドーム公演を実現した。

    背景

    氷室京介松井恒松らと結成したロックバンド「デスペナルティ」として、ヤマハ主催のアマチュアロックバンドコンテスト「EAST WEST'79」に出場、関東・甲信越大会にて優勝し、中野サンプラザで開催される全国大会に出場するため上京する[4]。全国大会にてベストボーカル賞を受賞した氷室は音楽事務所ビーイングと契約[5][6]。契約後にデスペナルティは解散となり、氷室はスピニッヂ・パワーというバンドにボーカルとして参加することを余儀なくされる[7][6]。その後スピニッヂ・パワーを脱退した氷室は同郷であった布袋寅泰に連絡しバンド結成を打診、氷室は同意した布袋を連れて事務所社長である長戸大幸にバンド結成の意志を伝達する[8]。バンドには解散することとなったスピニッヂ・パワーのドラマーであった木村マモルが参加することとなり、デスペナルティに所属していた松井や氷室の旧友であった諸星アツシ、布袋の旧友であった深沢和明が参加することとなりメンバーが決定された[9]。長戸からはイギリスのハードロックバンド「ガール英語版」に対抗して「ボーイ」というバンド名を提案される[10]。また、事務所副社長であった月光恵亮からデヴィッド・ボウイの「BOWIE」を捩った「BOOWY」がバンド名として提案され、そのままでは「ブーイ」と読まれてしまうことから「O」を1つ消す意味でスラッシュの入った「Ø」を入れた「BOØWY」とすることが決定された[11]

    BOØWYはアルバム『MORAL』(1982年)でメジャー・デビューを果たした[12]。しかしその後月光から深沢と諸星を脱退させるよう通達が出され[13]、バンドのステップアップのために両者を脱退させることになった[14]。メジャー・デビューを果たしたBOØWYであったが当初は全く売れず、2作目のアルバム『INSTANT LOVE』(1983年)も不発に終わる結果となった[15]。その後BOØWYは音楽事務所であるユイ音楽工房と契約、レコード会社を東芝EMIへと移籍することになる[16]。3作目のアルバム『BOØWY』(1985年)リリース後の6月21日に予定されていた渋谷公会堂での単独公演が即日ソールドアウトとなるなど注目を浴び始め[17]、4作目のアルバム『JUST A HERO』(1986年)がベスト10以内にランクインする[18]。同年にリリースされた5作目のアルバム『BEAT EMOTION』(1986年)が初登場第1位を獲得し名実ともに日本一のバンドとなった[18]。しかし6作目のアルバム『PSYCHOPATH』(1987年)リリース後、コンサートツアーの最終日となった12月24日の渋谷公会堂公演にてBOØWYは解散を表明[19]。1988年2月3日にはBOØWYのファースト・アルバムの再発盤となる『MORAL+3』がリリースされオリコンチャートにおいて初登場第1位を獲得、同日にはBOØWYの12インチシングル「DAKARA」もリリースされた[20]。同年4月4日、4月5日の東京ドーム2日間連続公演「“LAST GIGS”」を以って、BOØWYは解散し6年間の活動に終止符を打つこととなった[21]。解散はすでに決定事項であり「“LAST GIGS”」の半年前には決定していた[21]

    当時ブリティッシュ・ロックを愛聴していた氷室は、解散決定後から解散に至るまでの半年間の内3か月間をロンドンにて過ごす事となった[21]。BOØWYを担当していたディレクターの子安次郎によれば、1987年の夏にはバンド解散およびメンバーがそれぞれソロ活動を行う事が決定していたが、具体的な活動に関しては1988年に入ってから開始された[22]。BOØWY解散後、4月25日から5月1日にかけて、氷室はソロ・シングルのレコーディングのためロサンゼルスオーシャン・ウェイ・レコーディングに滞在する[20]。5月3日にはBOØWY最終公演の模様を収録したライブ・アルバム『“LAST GIGS”』がリリースされ、オリコンアルバムチャートにおいて最高位第1位を獲得し最終的な売り上げ枚数は158万枚となった[20]。5月から6月にかけて氷室は東芝「IDEA」のCMにおいてイメージ・キャラクターとして起用された[20]。そしてBOØWY解散からおよそ3か月後の7月21日に、氷室はファースト・シングル「ANGEL」(1988年)をリリースしてBOØWYメンバーの誰よりも早くソロデビューを果たす事となった[21]。同曲はオリコンシングルチャートにおいて初登場から連続3週第1位を獲得し、売り上げ枚数は67万枚となった[20]

    録音、制作

    人生そのものが音になってないとビシッ! とこない瞬間があるんだ。それはバンドだったからこそできたことで、ソロで要求するのは活動自体に反するからさ。でもソロ最初の時はそこまでわからなかった。で、煮詰まった。今にして思えばその煮詰まった自分もすごく愛しかったりするから、このアルバム好きだけど。
    氷室京介,
    月刊カドカワ 1991年4月号[23]

    ソロ活動に関しては1987年12月24日の渋谷公会堂公演以前には全く検討しておらず、その理由として氷室は「BOØWYが終わるまではもうBOØWY一色だよ。それは六年間やってきたBOØWYに対してオレが考えちゃ失礼だと思ったしね。少なくともBOØWYとして納得できる活動をする期間内ではソロのアクションはしなかった」と述べている[24]。そのためソロ活動に関する構想は渋谷公会堂公演終了後から東京ドーム公演までの期間に検討されることになった[24]。氷室は自身の中に内包されていたテーマとして、「ANGEL」のような単なるラブ・ソングではなくBOØWY時代とは異なる切り口の自身の内面に向けた楽曲を制作する欲求があったと述べている[24]。それまで気心の知れたメンバーと共に音楽制作を行ってきた氷室は、それが叶わない事への不安から周囲のスタッフにデモテープを使用して頭の中に思い描いた音を伝える手段を取る事にした[21]。そのため、ギターベースの他にフォステクスなどの録音機器を購入し、MIDIの基礎的な事から学習を始め、ロンドンの家具もない冷たい部屋の中で一人デモテープ制作を始める事となった[21]。この時の心境を氷室は「『これから俺はソロになって自分でひとりでやっていくんだな……』と非常に心細い気持ちを改めて痛感したのをよく覚えています」と述べている[21]。曲作りは3か月程度で終了し、デモテープを制作した段階で編曲を担当する吉田建が参加することとなった[24]。BOØWY時代の歌詞のほぼすべてを氷室が手掛けていたため、まだ作詞に興味があった氷室は問題なく書き上げることが出来たと述べている[24]

    レコーディングはアメリカ合衆国にあるオーシャン・ウェイ・レコーディングの他、日本国内のフリーダムスタジオおよびスカイスタジオにて行われた。日本国外でのレコーディングはスタッフ側から提案され、子安はレンタカーでハイウェイを走りながら「ANGEL」を聴いた時に「街に溶け込んでる」と感じ、国外レコーディングは間違いではなかったと確信する事となった[25]。本作の制作については作詞作曲ともに問題なく進展していたが、編曲に関してはBOØWY時代に布袋がイニシアチブを握っていたことから氷室は即断が出来ずに難航したと述べている[24]。当時の氷室は無駄であると分かっていながらも、BOØWYメンバーであればどのように演奏するかというシミュレーションを頭の中で繰り返していたと述べている[26]。その中でもBOØWYとはまったく異なることが形にできた楽曲も存在すると氷室は述べており、「ALISON」に関して「BOØWYでやったらまったく違う解釈になったと思う」と述べた他、「DEAR ALGERNON」に関しては「BOØWYではやらなかったかもしれない」と述べている[26]。BOØWY時代との違いに関して氷室は「BOØWYの時はいい意味での無責任さってあったからさ。それがソロになった時はやっぱりストイックになるべきところが見えてくる」と述べている[23]

    本作のプロデューサーは氷室および吉田が担当することとなった。吉田は泉谷しげるとの共作や沢田研二のバックバンド「EXOTICS」としての活動などを行っていた[27]。吉田は泉谷のバックバンドとして短期間ではあるがBOØWYがブレイクする前に布袋寅泰と共演した事があり、布袋とは面識があったが氷室とは初対面となった[27]。依頼を受けた吉田は確実にランキング第1位を獲得しなければならないプレッシャーがあったことから「かなり心痛でしたね」と述べた他、布袋に代わるギタリストを探す事が大変であったと述べている[27]。また当初氷室はホッピー神山にプロデュースを依頼していたが、神山は既に布袋の1作目のアルバム『GUITARHYTHM』(1988年)を手掛けていたため拒否する事となった[28]。神山は依頼があった事は嬉しかったと述べたが、拒否した事に関しては「申し訳なかった」と述べた[28]。後に神山は5作目のアルバム『SHAKE THE FAKE』(1994年)にプロデューサーとして参加している[28]。また、本作のレコーディングには当時世界的に人気のあったギタリストであるチャーリー・セクストンが参加している。参加への経緯は、当時セクストンのアルバム『ピクチャーズ・フォー・プレジャー』(1985年)の収録曲「インプレスト」や「ビーツ・ソー・ロンリー」を愛聴していた氷室が、無理を承知で「ANGEL」と「SHUFFLE」のデモテープをセクストンに送った所、意外にも「面白いから是非一緒にやろうぜ!」と快諾を得た事から実現した[21]

    音楽性とテーマ

    自分の中で歌いたいなというテーマが幾つか素材としてあった。それは「ANGEL」みたいな、より自分の内面に向かった歌。単なるラブ・ソングではなく、BOØWYとは違った切り口で、内面的な部分を表現していきたいという核があったんだよね。
    氷室京介,
    月刊カドカワ 1991年4月号[24]

    本作の制作に当たって氷室は、バンド時代では出来なかった事を追求する事を強く意識したという[21]。作詞に関して氷室は、BOØWY時代は「メタファーを多用してシュールな形で、クールなスタイルを崩さずにアピールしていく方法」であったと述べ、本作では自身の内面にある泥臭さや格好悪い部分に焦点を当て、ブルースの要素を表現する事を求めた結果、「DEAR ALGERNON」や「STRANGER」などの曲が制作される事となった[21]。またシングルとしてリリースされた「ANGEL」に関しては、ソロアーティストとして認知してもらうために、名刺代わりとして8ビートによるアップテンポの曲が理解されやすいとの判断から制作された[21]。子安は「ANGEL」を聴いた際にビート感やバンド感のある同曲こそソロ第一弾のシングルとして相応しいと感じた他、「DEAR ALGERNON」を聴いた際にBOØWYとは異なるソロの「氷室京介」が確立すると確信したという[25]

    本作のタイトルやコンセプトはダニエル・キイスの小説『アルジャーノンに花束を』(1959年)からインスパイアされており、同作のテーマが氷室の人生哲学と重なっている事から、同作をテーマに1曲制作する事が始まりとなった[29]。氷室は煩悩による欲求が満たされない事を悲観的に捉えるよりも、欲求を持たない事、あるいは本当に大切な事だけを求める事を重視した結果、「DEAR ALGERNON」という曲が制作される事となった[30]。また収録曲の「STRANGER」は、BOØWY時代にライブにおいて「Dreamin'」を歌う前に「夢を見てる奴らに送るぜ」とMCをしていた所、「俺は夢を見れないダメなやつなんです」という内容のファンレターが送られた事を切っ掛けとして夢を見られない人間のために制作された[31]

    本作が『アルジャーノンに花束を』をモチーフとした事に関して、音楽情報サイト『OKMusic』にてライターの帆苅智之は、小説内の知的障害者である主人公が脳手術により天才となるも孤独感に苦悩しやがて知能が低下していくというストーリーが、BOØWYでの成功から解散に至った経緯に氷室が自身を重ね合わせていたのではないかと推測している[32]。音楽性に関してはまだ完全にソロとしてのオリジナリティーが確立されていないと帆苅は指摘、本作ではBOØWY時代の8ビートシャッフル、ロッカバラードに、キーボード類を取り入れ発展させたサウンドがベースになっており、バラードの「ALISON」はロキシー・ミュージック、ミディアムのスカビートによる「STRANGER」はポリスへのオマージュであると主張している[32]。また、「LOVE & GAME」や「TASTE OF MONEY」、「STARANGER」の歌詞に関しては、「80年代初頭の佐野元春文脈からの流れと言えなくもない」と述べている[32]

    楽曲

    Side-A

    1. ANGEL
      1枚目のシングル。本作にはリミックスが施されたアルバム・バージョンとして収録されている。詳細は「ANGEL」の項を参照。
    2. ROXY
      吉田からの「こんなシャッフルをやろうよ」という提案を受け、サビ前のメロディーを共同で制作したと氷室は述べている[23]。氷室は作詞および作曲について、BOØWY時代から他人との共同作業を好んでいたと述べている[23]
    3. LOVE & GAME
      氷室曰く「マイナー調のオレ独特のメロディー」であり、BOØWYで例えた場合はアルバム『JUST A HERO』(1986年)収録の「ミス・ミステリー・レディ」が同等であると述べている[23]。本曲は当初イギリスのロックバンドであるキリング・ジョークのような重いアレンジを構想していたが、「シンセ物、コンピュータ物の中でこの手のメロディーが乗ってる方が面白いんじゃないか?」という吉田の判断によってアレンジが決定されたという[23]。氷室は6枚目のシングル「CRIME OF LOVE」(1991年)が同系統の曲であるとも述べている[23]。また、本曲は小泉今日子のアルバム『Hippies』(1987年)のために提供した「3001年のスターシップ」(作詞:湯川れい子)のセルフカバーとなっている。その他、仲村知夏のアルバム『STREET ANGEL』(1989年)に収録されている「BE COOL」(作詞:松宮晴吉)にも同じメロディーの楽曲を提供。原曲は、BOØWY時代にアルバム『BEAT EMOTION』の時に制作されたデモテープに収録されていたものである。
    4. DEAR ALGERNON
      2枚目のシングルとしてリカットされた。詳細は「DEAR ALGERNON」の項を参照。
    5. SEX & CLASH & ROCK'N'ROLL
      本曲はマルコム・マクラーレンによって仕組まれブームとなったアフロビートのバンドであるBOWWOWアダム&ジ・アンツに影響されて制作され、氷室は「アフロ・ビートって何か血が騒ぐんだよね。結果はアフロというよりシャッフルのちょっとポップなナンバーになった」と述べている[23]。「KING OF ROCK SHOW」ツアーではスタジオ盤と同様のアレンジで演奏されたが、1989年以降のツアーでは大きく変更したアレンジで演奏されており、曲中において氷室がバックバンドのメンバー紹介を行うことが恒例となっていた。
    6. ALISON
      氷室は本曲を名曲であると自画自賛しており、「BOØWYでは出せなかったバラードの世界だし。これはできた時、ヤッタぁと思ったよね」と述べている[23]。BOØWY時代はバラード調の曲であってもタテノリの要素があり、そこがBOØWYの良い部分であったと認めた上で、「音楽をずっとやってくると正統的解釈のバラードを自分で表現したい欲求が出てくるのは、やっぱりヴォーカリストとしては当然だしね」と述べている[23]。また、本曲は日本レコード大賞において「ANGEL」と共に披露された。

    Side-B

    1. SHADOW BOXER
      氷室曰く「BOØWY的ビートを残しつつ新しいミュージシャンでやるとどうなるのかを実験した曲」[23]。氷室はアルバム中において本曲は印象が薄いと述べており、同様のビート系の楽曲ではBOØWY時代の方が上等であるとの判断からライブにおいても演奏していないとした上で、「BOØWYを超える新しいタテノリ・ビートになっていれば、きっとやってるよ」と述べている[23]
    2. TASTE OF MONEY
      氷室は素直になりたいという願望を持ちながらも、「どうしても残ってるどこかアイロニカルな部分をやっぱり入れておきたかった」ことから本曲を収録したと述べている[23]。本作を通して聴いた際に本曲によって「氷室京介」の重要な側面が現れるとも述べている[23]
    3. STRANGER
      氷室は本曲について「一つの大きなシステムとか、みんなが正しい、素晴らしいという判断基準から少し距離を置かなきゃ生きていけないヤツの歌」であると述べている[23]。氷室は自身のイメージにアウトサイダー的な部分があるとも述べている[23]ベスト・アルバムCollective SOULS 〜THE BEST OF BEST〜』(1998年)には、ボーカル部分のみ再録音されたバージョンが収録されている。
    4. PUSSY CAT
      本曲は村上秀一(ポンタ)がどのようにドラム演奏するのかを期待して制作された曲であると氷室は述べている[23]。それまでの自身のキャリアにはなかったビートの曲であり、結果としてライブ演奏はほとんどされなかったと氷室は述べている[23]
    5. 独りファシズム
      氷室曰く実験的な曲であり、「ちょっとビートルズを感じさせるような古臭いコード進行のバラードに挑戦した」と述べている[23]。当時泉谷しげるのアルバム『吠えるバラッド』(1988年)収録の「長い友との始まりに」の世界観を愛好していた氷室は、吉田経由で泉谷に作詞を依頼することとなった[23]。しかしライブ時の歌唱は困難であり、氷室は「けっこう難しかった。ノリを出せない。自分の行きたい領域に手はかかってるのにできなかったりした」と述べている[23]

    リリース、チャート成績

    本作は1988年9月1日LPおよびCTCDの3形態でリリースされた。本作からは同年7月21日に先行シングルとして「ANGEL」がシングルカットされた他、10月7日には「DEAR ALGERNON」がリカットされた。

    本作はオリコンアルバムチャートにおいて初登場から3週連続で第1位を獲得した[33]。結果として本作のLP盤は最高位第1位の登場週数15回で売り上げ枚数は5.3万枚[2]、CTおよびCD盤を含めた総合では最高位第1位の登場回数は25回となり、売り上げ枚数は55.9万枚となった[3]。最終的な売り上げ枚数は110万枚となっている[33]。同年10月14日に本作はEMI HONG KONGから香港においてもリリースされ、現地でのランキングにおいて初登場から連続4週第1位を獲得した[33]。本作は氷室のアルバム売上ランキングにおいて第8位となった他[34]ねとらぼ調査隊による氷室のオリジナル・アルバム人気ランキングでは2022年および2023年の2回の調査において第1位となった[35][36]

    2003年7月21日にはデジタルリマスターおよび紙ジャケット仕様で、コピーコントロールCDにてリリースされた[37]。2020年7月21日には全作品のサブスクリプションサービス解禁に伴い、デジタルリマスターされた音源が配信された[38][39][40]

    ツアー

    本作リリース前に、「KING OF ROCK SHOW "DON' T KNOCK THE ROCK"」と題し、1988年7月25日の真駒内陸上競技場から8月17日の小牧市総合運動場野球場まで野外ステージを中心とした5都市全5公演のライブツアーを実施[41]、真駒内陸上競技場では6000人、浅間高原特設会場では1万5000人、嵐山高雄パークウェイトワイライトシアターでは1万2000人、御所野ニュータウン特設野外ステージでは4000人、小牧市総合運動場野球場では1万1000人をそれぞれ動員し[42]、合計では約6万人を動員した[43]。通常ではコンサート会場として使用しない場所をあえて選定したこのツアーでは、ソロ作品は「ANGEL」のみであったためBOØWY時代の曲やカバー曲などを披露する事となった[29]。このツアーに関して氷室は、それまでバンドのボーカリストとしての自覚しかなかった事から、自分ひとりでライブ空間を掌握する術がないために非常に不安に陥っていたが、生来の性格による根拠のない自信を持っていたためにライブ開始後には落ち着いて活動する事が出来たという[29]。しかし、BOØWY時代の曲やカバー曲に頼ったセットリストに関しては「非常に辛かった」と述べており、この時のBOØWYの曲に頼らざるを得ない状況が後にBOØWYの曲を一切組み込まずにソロ活動に専念する事に繋がったと述懐している[29]。カバー曲は吉田拓郎の「たどりついたらいつも雨降り」(1972年)およびデヴィッド・ボウイの「サフラジェット・シティ」(1972年)が演奏されたが、選曲に関して氷室は「俺の尊敬するアーティストたちの曲という基準で選びました」と述べている[29]。特に「たどりついたらいつも雨降り」に関してはファンからの「なぜ選曲したのか」という問合せが相次ぎ、その事に関して氷室はファンの中でBOØWYと吉田拓郎のイメージが結びつかなかったからではないかと推測し、氷室が物心ついた時に聴いた音楽が洋楽ではビートルズ、邦楽では吉田拓郎だったため選曲した事に関して氷室自身は特に違和感は感じていなかったという[29]。同ツアーの模様は書籍『KYOSUKE HIMURO TOUR DOCUMENT BOOK-1 KING OF ROCK SHOW DON'T KNOCK THE ROCK』として発売された[33]

    また、本作リリース後には「KING OF ROCK SHOW "FLOWERS for ALGERNON"」と題し、同年10月1日の高松市民会館を皮切りに9都市全13公演の全国ツアーを実施[44]、約20万人を動員した[43]。このツアーに関して氷室は、自身もスタッフもソロの「氷室京介」のショー・アップの方法が分からず、暗中模索の状態で進められたと述べている[29]。後の氷室から見て「かなり突飛な演出が立て続けにあった」状態であり、ソロ第一弾のツアーという事もあり自身もスタッフも義務感に駆られて挑戦した事が、自身の願望やキャラクター性とかなり異なっていると発言している[注釈 1][29]。ツアー中の10月27日には東京ドームにて開催されたイベントライブ「GREAT・ダブルブッキング 氷室京介×スティング」に参加している[33]。同年12月14日には香港クイーンエリザベススタジアム英語版にてライブを開催[44]。この当時にはソロ活動の一環として日本国外での展開を視野に入れたプロジェクトが進行しており、周囲のスタッフの勧めにより同地でのライブ開催が決定した[30]。しかし、現地人から氷室は「何故そんな不機嫌そうな顔をしているのか?」と言われる事が多く、気さくな人物が受け入れられやすい同地では自身のキャラクターは合わないと氷室は判断する事となった[30]。ツアーファイナルの1989年1月3日、1月4日には東京ドームの2日間連続公演を実現[44]。氷室はBOØWYの「LAST GIGS」における最後のMCで「今度は一人一人別々で必ずここで会おうぜ」と述べていたが、この公演の際には「帰ってきた」という感覚はなく、BOØWYによって得られた事務所やレコード会社のバックアップがあったために東京ドーム公演は当たり前という感覚であったという[30]。また「どうしてもBOØWYに本当の意味で勝ちたい」という感覚を持ち続けていたとも述べている[30]。同ツアーの模様は書籍『KYOSUKE HIMURO TOUR DOCUMENT BOOK-2 KING OF ROCK SHOW FLOWERS for ALGERNON』として発売された[45]。また、初のライブ・ビデオ『KING OF ROCK SHOW of 88'S-89'S TURNING PROCESS』(1989年)としてもリリースされており、ランキングチャートにおいて初登場から2週連続第1位を獲得し売上本数は25万本となった[46]

    批評

    専門評論家によるレビュー
    レビュー・スコア
    出典評価
    CDジャーナル肯定的[47]
    音楽誌が書かないJポップ批評18肯定的[48]
    OKMusic肯定的[32]

    批評家たちからの本作のサウンド面に関する評価は概ね肯定的なものとなっている。音楽情報サイト『CDジャーナル』では、本作の音楽性がBOØWYと類似している事を指摘したが、氷室がソロ作品をリリースする事でBOØWYサウンドが正式に終止符を打たれたと評価、さらにバックの演奏に関しては「BOØWYと似て非なる成熟したバッキングが意味深い」と肯定的に評価した[47]。音楽誌『音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWYと「日本のロック」』において音楽ジャーナリストの清水晶子は、本作には「そこはかとない文学性」や「痛々しいほどのロマンティシズム」が含まれていると指摘し、バンド解散後の初ソロ作品製作時にしか経験できない「産みの痛みの切なさと快感のようなもの」が感じられると主張した[48]。また本作には本来ロックミュージックにはあってはならない品格が備わっていると述べ、本作の複雑な要素を統合すると「暴力的なまでのクラッシィさかげん」であると総括し不世出の名作であると絶賛した[48]。音楽情報サイト『OKMusic』にてライターの帆苅智之は、本作を「基本はストレートなロック」であると指摘し、ソロとしての音楽性は確立しておらず、「悪い意味での独善性はない分、マニアが唸るような独自性もない」とも指摘したが、BOØWY解散からわずか5か月でリリースされた事に関してタイミングが絶妙であったと評価した他、ボーカルが歌詞やサウンドを超えた圧倒的な説得力があるとし、「天賦の才のようなものが感じられる」と絶賛した[32]。また、帆苅は28年ぶりに本作を聴いた感想として、「真空パック、あるいは冷凍保存されたかのような瑞々しい氷室サウンドがそこにある」と称賛した[32]

    称賛/栄誉

    本作は『第30回日本レコード大賞』にてアルバム大賞を獲得した[33][30]。授賞式には本人が出席し、「ANGEL」および「ALISON」を披露、また受賞の喜びを「このアルバムを作ることができたのは、スタッフ、ファン、そして、あとは俺の実力だと思ってます」とコメントした。この受賞に関して氷室は、「頑張って作ったアルバムが他人から評価されたっていう意味では嬉しかったは嬉しかった」と述べたが、授賞式への参加に関しては「かなり場違いな場所にいるなぁっていう感も強かった」とも述べている[30]。また、この時点で氷室はBOØWYを超える人気や評価を獲得したとは感じておらず、4作目のアルバム『Memories Of Blue』(1993年)が完成するまではBOØWYに負けている感覚を引きずっていたという[30]

    収録曲

    • CD付属の歌詞カードおよびバックカバーに記載されたクレジットを参照[49]
    Side-A
    #タイトル作詞作曲編曲時間
    1.ANGEL氷室京介氷室京介吉田建、氷室京介
    2.ROXY氷室京介氷室京介、吉田建吉田建、氷室京介
    3.LOVE & GAME氷室京介氷室京介吉田建、氷室京介
    4.DEAR ALGERNON氷室京介氷室京介吉田建、氷室京介
    5.SEX & CLASH & ROCK'N'ROLL氷室京介、松井五郎氷室京介吉田建、氷室京介
    6.ALISON氷室京介、松井五郎氷室京介吉田建、氷室京介
    合計時間:
    Side-B
    #タイトル作詞作曲編曲時間
    7.SHADOW BOXER氷室京介、松井五郎氷室京介吉田建、氷室京介
    8.TASTE OF MONEY氷室京介氷室京介、吉田建吉田建、氷室京介
    9.STRANGER氷室京介氷室京介吉田建、氷室京介
    10.PUSSY CAT氷室京介氷室京介吉田建、氷室京介
    11.独りファシズム泉谷しげる氷室京介吉田建、氷室京介
    合計時間:

    スタッフ・クレジット

    • CD付属の歌詞カードに記載されたクレジットを参照[49]

    参加ミュージシャン

    録音スタッフ

    • 吉田建 – プロデュース
    • 氷室京介 – プロデュース
    • レオン・ペンダーヴィス英語版ストリングス・アレンジメント
    • マイケル・オライリー – レコーディング・エンジニア
    • ジェームス・ファーバー – レコーディング・エンジニア、ミキシング・エンジニア
    • 村瀬範恭 – レコーディング・エンジニア
    • なかがわこうえい – レコーディング・エンジニア

    制作スタッフ

    • 子安次郎(東芝EMI) – A&Rディレクション
    • 広瀬哲(東芝EMI) – A&Rディレクション
    • 土屋浩(ユイ音楽工房) – マネージメント
    • 鈴木“ゾンビ”祥紀 – マネージメント
    • ヒロ鈴木 – コ・プロデューサー
    • 石坂敬一(東芝EMI) – エグゼクティブ・プロデューサー
    • 後藤由多加(ユイ音楽工房) – エグゼクティブ・プロデューサー

    美術スタッフ

    • "KAKIEMON" – アートディレクター、デザイナー
    • ふじもとゆうじ – デザイナー
    • ブルーノ・ダイアン – 写真撮影
    • LOUISIANA COMPANY – プロデューサー
    • おおびなたかおる – クリエイティブ・ディレクター

    チャート

    チャート 最高順位 登場週数 売上数 規格 出典
    日本(オリコン 1位 15回 5.3万枚 LP [2]
    1位 25回 55.9万枚 LP, CT, CD [3]

    リリース日一覧

    No. リリース日 レーベル 規格 カタログ番号 備考 出典
    1 1988年9月1日 東芝EMI/イーストワールド LP RT28-5300 [2][3]
    2 CT ZT28-5300 [3]
    3 CD CT32-5300 [3][47][50]
    4 2003年7月21日 CCCD TOCT-25085 デジタルリマスター盤、紙ジャケット仕様、期間限定生産盤 [51][52]

    脚注

    注釈

    1. ^ このツアーでは前出のカバー曲に加えビートルズの「カム・トゥゲザー」(1969年)が演奏され、氷室の仮面を付けたダンサーが登場する演出などがあった。

    出典

    1. ^ 氷室京介/フラワーズ・フォー・アルジャーノン”. 国立国会図書館サーチ. 国立国会図書館. 2024年1月20日閲覧。
    2. ^ a b c d オリコンチャートブックLP編 1990, p. 249.
    3. ^ a b c d e f オリコンチャート・ブック アルバムチャート編 1999, p. 127.
    4. ^ 紺待人 1986, p. 69- 「ACT1 氷室京介」より
    5. ^ 紺待人 1986, p. 70- 「ACT1 氷室京介」より
    6. ^ a b 月刊カドカワ 1991, p. 32- 「セルフ・ヒストリー [STORY OF MY POET]」より
    7. ^ 紺待人 1986, p. 71- 「ACT1 氷室京介」より
    8. ^ 紺待人 1986, p. 223- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
    9. ^ 紺待人 1986, pp. 246–259- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
    10. ^ complete of T-BOLAN at the BEING studio 2002, p. 3- 「LINER NOTES」より
    11. ^ B to Y 2004, p. 116- 「HISTORY」より
    12. ^ 布袋寅泰 2006, p. 110- 「第三楽章 BOØWY」より
    13. ^ B to Y 2004, p. 117- 「HISTORY」より
    14. ^ 布袋寅泰 2006, p. 111- 「第二楽章 東京」より
    15. ^ 布袋寅泰 2006, pp. 111–113- 「第三楽章 BOØWY」より
    16. ^ 布袋寅泰 2006, p. 144- 「第三楽章 BOØWY」より
    17. ^ 布袋寅泰 2006, p. 147- 「第三楽章 BOØWY」より
    18. ^ a b 布袋寅泰 2006, p. 160- 「第三楽章 BOØWY」より
    19. ^ B to Y 2004, p. 140- 「HISTORY」より
    20. ^ a b c d e 月刊カドカワ 1991, p. 34- 「セルフ・ヒストリー [STORY OF MY POET]」より
    21. ^ a b c d e f g h i j k ぴあMOOK 2013, p. 12- ふくりゅう「LONG INTERVIEW 最新40,000字インタビュー 【第一章】1988~1994 ソロデビュー、アイデンティティの確立へ」より
    22. ^ 田家秀樹 (2020年11月20日). “氷室京介が自己表現を確立するまで 当時のディレクターが回想”. ローリング・ストーン ジャパン. CCCミュージックラボ. p. 2. 2021年1月5日閲覧。
    23. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 月刊カドカワ 1991, p. 63- 「本人自身による全作品解説」より
    24. ^ a b c d e f g 月刊カドカワ 1991, p. 62- 「本人自身による全作品解説」より
    25. ^ a b 田家秀樹 (2020年11月20日). “氷室京介が自己表現を確立するまで 当時のディレクターが回想”. ローリング・ストーン ジャパン. CCCミュージックラボ. p. 3. 2021年1月5日閲覧。
    26. ^ a b 月刊カドカワ 1991, pp. 62–63- 「本人自身による全作品解説」より
    27. ^ a b c 屋代卓也、山浦正彦 (2009年4月17日). “第68回 吉田 建 氏 プロデューサー/アレンジャー/ベーシスト”. Musicman-net. エフ・ビー・コミュニケーションズ. 2020年1月23日閲覧。
    28. ^ a b c ぴあMOOK 2013, p. 44- 「MESSAGE FROM FRIENDS! 25周年お祝いコメント」より
    29. ^ a b c d e f g h ぴあMOOK 2013, p. 13- ふくりゅう「LONG INTERVIEW 最新40,000字インタビュー 【第一章】1988~1994 ソロデビュー、アイデンティティの確立へ」より
    30. ^ a b c d e f g h ぴあMOOK 2013, p. 15- ふくりゅう「LONG INTERVIEW 最新40,000字インタビュー 【第一章】1988~1994 ソロデビュー、アイデンティティの確立へ」より
    31. ^ 田家秀樹 (2020年11月20日). “氷室京介が自己表現を確立するまで 当時のディレクターが回想”. ローリング・ストーン ジャパン. CCCミュージックラボ. p. 4. 2021年1月5日閲覧。
    32. ^ a b c d e f 帆苅智之 (2016年5月18日). “氷室京介の『Flowers for Algernon』にあるのは、他の誰も到達できないヒムロックならではの説得力”. OKMusic. ジャパンミュージックネットワーク. 2018年1月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月5日閲覧。
    33. ^ a b c d e f 月刊カドカワ 1991, p. 35- 「セルフ・ヒストリー [STORY OF MY POET]」より
    34. ^ 氷室京介のアルバム売上ランキング”. オリコンニュース. オリコン. p. 1. 2021年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年1月21日閲覧。
    35. ^ 「氷室京介」のアルバム人気ランキングTOP12! 1位は「FLOWERS for ALGERNON」【2022年最新投票結果】(1/5)”. ねとらぼ調査隊. アイティメディア. p. 1 (2022年2月26日). 2024年1月21日閲覧。
    36. ^ 「氷室京介」オリジナルアルバム人気ランキングTOP12! 第1位は「FLOWERS for ALGERNON」に決定! 【2023年最新投票結果】(1/6)”. ねとらぼ調査隊. アイティメディア. p. 1 (2023年3月16日). 2024年1月21日閲覧。
    37. ^ 氷室京介15周年に復活シングル!さらに8タイトル紙ジャケ再発!”. HMV&BOOKS Online. ローソンエンタテインメント (2003年5月13日). 2021年3月7日閲覧。
    38. ^ 今年60歳の氷室京介サブスク解禁、アルバムリリースに向けて楽曲制作”. 音楽ナタリー. ナターシャ (2020年7月21日). 2021年3月7日閲覧。
    39. ^ 氷室京介、全373曲サブスク解禁 “約束”の還暦アルバムも制作中”. オリコンニュース. オリコン (2020年7月21日). 2024年1月20日閲覧。
    40. ^ 氷室京介の全373曲がサブスク解禁、9月に大規模な展覧会も”. Billboard JAPAN.com. 阪神コンテンツリンク (2020年7月21日). 2024年1月20日閲覧。
    41. ^ 氷室京介 -KING OF ROCK SHOW "DON'T KNOCK THE ROCK"”. LiveFans. SKIYAKI APPS. 2021年1月2日閲覧。
    42. ^ 月刊カドカワ 1991, pp. 34–35- 「セルフ・ヒストリー [STORY OF MY POET]」より
    43. ^ a b ぴあMOOK 2013, p. 98- 松田義人 (deco) 「"Tabloid" Himuro Historic Clips 1988-2013」より
    44. ^ a b c 氷室京介 -KING OF ROCK SHOW "FLOWERS for ALGERNON"”. LiveFans. SKIYAKI APPS. 2021年1月2日閲覧。
    45. ^ 月刊カドカワ 1991, pp. 35–36- 「セルフ・ヒストリー [STORY OF MY POET]」より
    46. ^ 月刊カドカワ 1991, p. 36- 「セルフ・ヒストリー [STORY OF MY POET]」より
    47. ^ a b c 氷室京介 / フラワーズ・フォー・アルジャーノン [廃盤]”. CDジャーナル. 音楽出版社. 2021年1月2日閲覧。
    48. ^ a b c 別冊宝島 2002, p. 24- 清水晶子「洋楽オンリーな私が『FLOWERS for ALGERNON』にハマった理由」より
    49. ^ a b FLOWERS for ALGERNON 1988.
    50. ^ 氷室京介/Flowers For Algernon”. TOWER RECORDS ONLINE. タワーレコード. 2024年1月20日閲覧。
    51. ^ 氷室京介 / フラワーズ・フォー・アルジャーノン [紙ジャケット仕様] [CCCD] [限定][廃盤]”. CDジャーナル. 音楽出版社. 2024年1月20日閲覧。
    52. ^ 氷室京介/FLOWERS for ALGERNON<期間生産限定盤>”. TOWER RECORDS ONLINE. タワーレコード. 2024年1月20日閲覧。

    参考文献

    関連項目

    • はいすくーる落書 - 第2話で生徒が授業を放棄して、百貨店のCDショップのフロアにて本作を万引きしようとするシーンがある。
    • テレビ神奈川 - 長く「ALISON」のインストルメンタルが天気予報のBGMに使われていた。

    外部リンク


    アルジャーノンに花束を

    (FLOWERS for ALGERNON から転送)

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/15 09:48 UTC 版)

    アルジャーノンに花束を
    Flowers for Algernon
    著者 ダニエル・キイス
    訳者 稲葉由紀(中編版)
    小尾芙佐(長編版)
    発行日 中編版1959年4月、1961年2月(日本語訳)
    長編版1966年3月、1978年(日本語訳)
    発行元 Harcourt, Brace & World
    早川書房(日本語訳)
    ジャンル SF小説
    アメリカ合衆国
    言語 英語
    ウィキポータル 文学
    [ ウィキデータ項目を編集 ]
    テンプレートを表示

    アルジャーノンに花束を』(アルジャーノンにはなたばを、Flowers for Algernon)は、アメリカ合衆国作家ダニエル・キイスによるSF小説1959年に中編小説[注釈 1]として発表され、翌年ヒューゴー賞短編小説部門を受賞[1]1966年に長編小説として改作されて発表され、翌年ネビュラ賞を受賞した[2][3]

    概要

    それまでのSF小説が宇宙未来社会などを舞台とした作品であったのに対して、本作は知能指数を高める手術とそれに付随する事柄という限定した範囲を前提にSFとして成立させている[4]ジュディス・メリルは、本作をSFの多様性をあらわす作品のひとつとして位置づけている[4]

    中編版は、日本のSFファンがオールタイム・ベストを選ぶ企画で海外短編SFランキングの上位に選出されている。S-Fマガジンが調査したSF小説のオールタイム・ベストにおける海外短編部門での順位は次の通りである。

    • 1989年 5位[5]
    • 1998年 3位[6]
    • 2006年 4位[7]
    • 2014年 5位[8]

    作品背景・発表経過

    短編『エルモにおまかせ』を発表後、次作のアイディアを考えていたダニエル・キイスは、自身がブルックリンカレッジ在学中に書きなぐっていたメモを見つけ、そこから創作の構想を膨らませていった[9][10]

    その学生時代のメモには、「ぼくの教養は、ぼくとぼくの愛するひとたち――ぼくの両親――のあいだにを打ちこむ」「もし人間の知能を人工的に高めることができたら、いったいどういうことになるか」と書き留められていた[9][10]

    小説を書き上げると、まず友人フィル・クラス(SF作家・ウィリアム・テン)に見せ、「これはまちがいなく古典になる」と言われた。その言葉に自信を得て、『ギャラクシイ』誌に持っていったが手直しを迫られ、暗い結末をハッピーエンドに書き変えれば掲載すると言われてしまう。友人フィルは、結末は変えるなとキイスに強く忠言した。そのままの作品を『ファンタジイ・アンド・サイエンス・フィクション』が受け入れ、1959年4月号に掲載された[3]

    ドラマ化や映画化の話が持ち上がり成功をおさめたものの、キイスの頭には作品の主人公チャーリーがたえず顔を出し、もっと書いてと訴えていた。キイスは「彼の心と過去を深く探っていくうちに、彼の感情の発達を形成していくさまざまな経験を理解する必要がある」と長編を書く必要性を感じた[3]

    この長編もまたハッピーエンドを求める編集者に拒絶され、別の出版社からも拒絶された。しかし、その後に、ハーコート・ブレイス&ワールド社からのオファーを得て、1966年、刊行された[3]

    作品内容

    形式・文体

    主人公・チャーリイ・ゴードン自身の視点による一人称で書かれており、主に「経過報告」として綴られる。序盤は幼児が書いたように誤綴りだらけで文法的にも破綻が多く、ごく簡単な言葉や単純な視点でのみ、彼の周囲の事柄が描かれている。やがて主人公の知能の上昇に伴い、文章のスタイルは高度で複雑なものへと変わっていき、思考の対象もより抽象的で複雑な内面の描写へと変化していく。

    あらすじ

    (長編版に準ずる)

    知的障害を持つ青年チャーリイは、かしこくなって、周りの友達と同じになりたいと願っていた。他人を疑うことを知らず、周囲に笑顔をふりまき、誰にでも親切であろうとする、大きな体に小さな子供の心を持った優しい性格の青年だった。

    彼は叔父の知り合いが営むパン屋で働くかたわら、知的障害者専門の学習クラスに通っていた。ある日、クラスの担任である大学教授・アリスから、開発されたばかりの脳手術を受けるよう勧められる。先に動物実験で対象となったハツカネズミの「アルジャーノン」は、驚くべき記憶・思考力を発揮し、チャーリイと難関の迷路実験で対決し、彼に勝ってしまう。彼は手術を受けることを快諾し、この手術の人間に対する臨床試験の被験者第1号に選ばれたのだった。

    手術は成功し、チャーリイのIQは68から徐々に上昇し、数か月でIQ185の知能を持つ天才となった。チャーリイは大学で学生に混じって勉強することを許され、知識を得る喜び・難しい問題を考える楽しみを満たしていく。だが、頭が良くなるにつれ、これまで友達だと信じていた仕事仲間にだまされいじめられていたこと、自分の知能の低さが理由で母親に捨てられたことなど、知りたくもない事実を理解するようになる。

    また、高い知能に反してチャーリイの感情は幼いままだった。突然に急成長を果たした天才的な知能とのバランスが取れず、妥協を知らないまま正義感を振り回し、自尊心が高まり、知らず知らず他人を見下すようになっていく。周囲の人間が離れていく中で、チャーリイは手術前には抱いたことも無い孤独感を抱くのだった。さらに、忘れていた記憶の未整理な奔流もチャーリイを苦悩の日々へと追い込んでいく。

    そんなある日、自分より先に脳手術を受け、彼が世話をしていたアルジャーノンに異変が起こる。チャーリイは自分でアルジャーノンの異変について調査を始め、手術は一時的に知能を発達させるものの、性格の発達がそれに追いつかず社会性が損なわれること、そしてピークに達した知能は、やがて失われ元よりも下降してしまうという欠陥を突き止める。彼は失われ行く知能の中で、退行を引き止める手段を模索するが、知能の退行を止めることはできず、チャーリイは元の知能の知的障害者に戻ってしまう。自身のゆく末と、知的障害者の立場を知ってしまったチャーリイは、自らの意思で障害者収容施設へと向かう。

    彼は経過報告日誌の最後に、正気を失ったまま寿命が尽きてしまったアルジャーノンの死を悼み、これを読むであろう大学教授に向けたメッセージ(「ついしん」)として、「どーかついでがあったらうらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやてください。」と締め括る。

    登場人物

    長編版に準ずる。フェイ・リルマンやチャーリイの家族など、一部人物は長編版のみの登場となる。

    チャーリイ・ゴードン(Charlie Gordon)
    主人公。32歳だが、知能は6歳児並みの知的障害者。母・ローズとの確執が元で自分の知能にコンプレックスを抱いており、頭が良くなりたいと強く願っている。
    脳手術を受けて天才となるが、精神は幼いままでバランスが取れず苦悩することとなる。
    アルジャーノン(Algernon)
    チャーリイの前に同じ脳手術を受け、天才的な知能を得たハツカネズミ。
    教授たちの扱いに腹を立てたチャーリイとともに研究室から逃亡するが、手術の副作用で狂暴化し、死亡する。
    アリス・キニアン(Alice Kinnian)
    チャーリイが通う精神遅滞者専門の学習クラスの女性教師。チャーリイの学習意欲を見込んで、脳手術を勧める。親身な性格で、最後までチャーリイに対して一人の人間として接し続けた。
    ハロルド・ニーマー教授(Professor Harold Nemur)
    プロジェクトの研究主任で心理学者。プライドが高く神経質。
    ジェイ・ストラウス博士(Doctor Jay Strauss)
    精神科医にして脳神経外科医。チャーリイの脳手術を執刀した。屈託がなく、チャーリイにフランクに接する。
    バート・セルドン(Burt Seldon)
    大学院生で心理学の専攻学生。プロジェクトの助手を務めており、アルジャーノンの世話をしている。とても親切な性格。
    フェイ・リルマン(Fay Lillman)
    中年の女流画家。自由奔放な性格。
    超天才となったチャーリイに興味を持ち、一時期彼と交際していた。
    アーサー・ドナー(Arthur Donner)
    チャーリイが勤めるパン屋の主人。亡き親友ハーマンに頼まれ、その甥であるチャーリイの面倒を見ている。情に篤い好漢。
    一度はチャーリイを解雇するものの、後に手術の影響で元の知能に戻ってしまった彼が再雇用を志願した際、それまでの経緯を知って暖かく迎え入れた。
    マット(マシュウ)・ゴードン(Matt Gordon)
    チャーリイの父。息子の障害を受け入れており、接し方をめぐってたびたび妻と対立していた。天才となったチャーリイが行方を突き止めたときには、妻と別居し念願の理髪店を営んでいた。
    ローズ・ゴードン(Rose Gordon)
    チャーリイの母。世間体を気にする性格のため、いつまでも知能的に成長しないチャーリイを受け入れることができず、彼を健常者と同等にする事に固執していた。ノーマが生まれて以降はチャーリイを邪険に扱うようになり、娘のためにチャーリイを障害者収容施設へ送ろうとした。
    天才になるも人望を無くしていた彼と再会した時は、認知症に近い状態になっており、ノーマの介護を受けている描写がある。
    ノーマ・ゴードン(Norma Gordon)
    チャーリイの妹。成績優秀で快活な美少女。母の影響でチャーリイを嫌っていたが、彼が天才になって再会した際は思いやりのある心優しい性格になっていた。チャーリイから過去に起こった自分とのいさかいを聞き、自分の我儘な振る舞いを反省・謝罪した。
    ギンピィ
    パン屋の職人頭。足が不自由。職人気質の厳格な人物で、従業員全員から恐れられている。
    常連客と組んで売上の一部を横領していた。それを知能が発達したチャーリイに諌められた事に立腹し、同僚達と謀って彼が解雇されるきっかけを作った。しかし、知能が元に戻ったチャーリイがクラウスに絡まれた際は、率先して彼を擁護した。
    ジョウ・カープ
    チャーリイの同僚。意地悪な性格で、チャーリイをからかう。しかし次第に彼を気にかけ、親しく付き合うようになる。
    フランク・ライリー
    チャーリイの同僚。ジョウ・カープ同様チャーリイをからかうが、次第に理解者となっていく。
    ファニー・バードン
    パン屋の同僚。気立てが良く世話好きで、チャーリイに精神遅滞者専門の学習クラスを紹介する。
    チャーリイが解雇された時は、唯一陳情書に署名せず、傲慢さが目立った彼を諌めたのみであった。
    バーニー・ベイツ
    パン屋の同僚。
    マイヤー・クラウス
    チャーリイがパン屋を離れていた間に入社した従業員。かつて天才であったチャーリイを見下し脅迫するが、ギンピィらに阻止される。解雇されそうになるがチャーリイの温情もあり許される。

    作者との関係

    作者であるダニエル・キイスにとっても『アルジャーノンに花束を』は印象深いものであったようで、自伝『アルジャーノン、チャーリイ、そして私』を書いている[9]

    キイスは作家として1952年に最初の作品を発表したが注目されてこず、『アルジャーノンに花束を』が彼を「一躍スターダムに押しあげた」。彼は10代の頃から学資を稼ぐため、パン職人の見習い、パンの配送、軽食堂のウェイターなどをしたが、その時の経験も主人公チャーリイに注ぎ込まれており、キイスは、「チャーリイ・ゴードンはわたしです」と述べている[9][10]

    アイザック・アシモフはヒューゴー賞をキイスに手渡したときの逸話として、以下のようなキイスの「不滅の名言」を回想している[11]

    私(アシモフ)は「いったいどうやって、彼(キイス)はこんなことをやり遂げたのですか?」とミューズ(知の女神)に問うた。…キイスは丸っこい、穏やかな表情で、こんな不滅の名言を返してきたのである。「ねえ、わたしがどうやってこの作品を創ったか、おわかりになったら、このわたしにぜひ教えてください。もう一度やってみたいから」[11][10]

    キイスは中編発表後も、主人公チャーリイのことが頭から離れず、チャーリイが「もっと書いて」と訴えかけていたと語っている[9]

    日本語版

    『アルジャーノンに花束を』の中編小説版が掲載された『S-Fマガジン』1961年2月号。

    日本では早川書房が翻訳権を独占している。ハヤカワ文庫版の発売まで10年以上の期間があった。

    中編小説版は稲葉由紀(稲葉明雄)訳で『S-Fマガジン1961年2月号に掲載された(1960年12月25日発売)。『世界SF全集』32巻(1969年出版)および『心の鏡 ダニエル・キイス傑作集』(1993年出版)に収録された。

    長編小説版は1978年小尾芙佐訳で出版され、1989年に改訂された。中編版、長編版、いずれの訳でも、はじめはめちゃくちゃだった英語の綴り・句読法や文法がチャーリイの知能の向上につれて徐々に正しくなっていく(後半では再びでたらめになってゆく)原文の表現を、日本語の漢字・句読点テニヲハに移し変えた名訳と言われている[注釈 2]

    1999年10月、早川書房から新創刊された『ダニエル・キイス文庫』の第1作目として、長編版が初めて文庫化された。

    2015年3月13日に文庫新装版が出版された[12]。ダニエル・キイス文庫版は絶版となり、ハヤカワ文庫NVのラインナップに加えられた。表紙には佐々木啓成のイラストが使われている。また新装版の発売に際し特設サイト[13]がオープンし、早川書房では期間限定で「カフェ・アルジャーノンに花束を」にてダニエル・キイスの名作をテーマとしたカフェを営業した[14]

    2015年4月8日に早川書房から愛蔵版が出版された。装丁には絵本作家の酒井駒子のイラストが使われている[15]

    長編中の知的障害者の扱い(用語)に関しては、時代を反映して、それぞれ翻訳された語が変えられている。

    映画

    1968年

    "Charly"(邦題『まごころを君に』)、アメリカ、1968年

    2000年

    "Flowers for Algernon"、カナダ、2000年 ※テレビ映画

    2006年

    "Des Fleurs Pour Algernon"、フランス、2006年 ※テレビ映画

    物語の舞台はスイスジュネーヴで、主人公の名前がフランス語圏風にシャルルと改変されている。原作本をベースにしながらも、パン屋ではなく学校の清掃員、手術ではなくて開発中の新薬の注射、後見人ペルノの存在、などの、多くの改変があり、ピアノ教師のアリス・フェルネとの恋愛なども追加されている。物語の後半で、激高したシャルルはネズミのアルジャーノンを強引に研究室から持ち出し、自宅で殺してしまう。

    2014年

    "Des fleurs pour Algernon"、フランス、2014年 ※テレビ映画、日本ではTV5MONDEにて放映[17]

    テレビドラマ

    2002年

    小説版をもとにしたテレビドラマが関西テレビMMJで製作され、2002年10月8日から12月17日までフジテレビ系の「火曜22時枠」で放送された。全11回。最高視聴率14.5%(初回)、平均視聴率11.1%。主人公チャーリイ・ゴードンは藤島ハルと名前を変え、舞台も日本に変更され、「知的障害者への差別によるいじめが強く描写されている」「主人公が恋する先生にも恋人がいる」など、一部変更されている。また結末も原作より大きく変更されている。脚本の岡田惠和、音楽の寺嶋民哉など、スタッフ、キャストにドラマ『イグアナの娘』のメンバーが集結している。

    2015年

    小説版をもとにしたテレビドラマが2015年4月10日から6月12日まで毎週金曜日22時 - 22時54分に、TBS系の「金曜ドラマ」枠で放送された[注釈 3]。主演は山下智久[18]、脚本監修は野島伸司[19][20]。舞台は日本となっており、チャーリイに当たる人物の白鳥咲人の勤め先が花屋になるなど、一部変更が加えられている。

    2015年度「第19回日刊スポーツ・ドラマグランプリ(GP)」の春ドラマ選考で4冠を達成した。作品賞のほか主演男優で山下智久、助演男優で窪田正孝、助演女優で栗山千明が1位だった[21]

    ラジオドラマ

    1995年8月7日から11日まで、NHKFM青春アドベンチャー枠で「ダミーヘッド・ドラマ・スペシャル」としてラジオドラマ化され放送された(全5回)[22]。奇抜な演出も大きな改変もなく、原作小説の内容がほぼ忠実に再現された。

    なお、1977年1月7日にNHKラジオ第1放送「文芸劇場」枠で、中編版を原作とする1話完結でラジオドラマ化されたこともある。(再放送:1989年6月18日「ラジオ名作劇場」、NHKラジオ第2放送

    キャスト

    スタッフ

    • 脚本 - 津川泉
    • 演出 - 千葉守
    • 技術 - 星野勇一
    • 効果 - 平塚清
    • 音楽 - 栗山和樹

    舞台

    様々な形で舞台化されている。

    菊池版

    1990年

    9月21日から10月7日まで現代演劇協会附属劇団昴公演。脚本・演出は菊池准で「三百人劇場」にて上演[23]

    2005年

    6月9日から7月1日まで現代演劇協会附属劇団昴公演。脚色は菊池准、演出は三輪えり花で「三百人劇場」にて上演[24]

    2020年

    4月15日から19日まであうるすぽっとにて(劇団昴が、脚色・演出は菊池准で)上演予定、また演劇鑑賞会会員対象の地方巡演も予定されていたが新型コロナウイルス感染拡大を受けて延期された[25]。演劇鑑賞会会員対象で9月15日から10月28日にかけて九州巡演、同じく11月4日から27日にかけて東北巡演が行われ、(会員対象ではない公演が)12月17日から20日まで東京芸術劇場シアターウエストにて上演[26]

    2022年

    演劇鑑賞会会員対象の中国巡演が5月13日から6月6日にかけて、同じく四国巡演が9月5日から13日にかけて(2020年公演から引き続き、劇団昴が、脚色・演出は菊池准で)上演[27]

    • チャーリイ・ゴードン - 町屋圭祐
    • アリス・キニアン - あんどうさくら
    • ストラウス博士 - 中西陽介
    • ニーマー教授 - 石田博英
    • バート・セルドン - 岩田翼
    • 母親ローズ - 大矢朋子
    • 父親マット - 三輪学
    • 妹ノーマ - 染谷麻衣
    • パン屋の主人ドナー - 佐藤しのぶ
    • ジンピイ - 山口研志
    • フランク・ライリイ - 江﨑泰介
    • ジョウ・カープ - 加藤和将
    • ウィンズロウ、他 - 市川奈央子
    • フェイ・リルマン - 望月真理子

    荻田版

    2006年

    2月22日から3月10日まで博品館劇場静岡市民文化会館大阪厚生年金会館愛知厚生年金会館にて上演。脚本・演出は荻田浩一。音楽は斉藤恒芳

    2014年

    9月18日から28日まで、天王洲 銀河劇場サンケイホールブリーゼほかにて上演。2006年版と同じく浦井健治が出演。キャッチコピーにも「8年の時を経て」とあるように、2006年版の再演となる。

    • チャーリイ・ゴードン - 浦井健治
    • ハロルド・ニーマー教授 他 - 良知真次
    • アルジャーノン 他 - 森新吾
    • バート・セルドン 他 - 高木心平
    • フェイ・リルマン 他 - 秋山エリサ
    • ヒルダ/ノーマ(現在) 他 - 桜乃彩音
    • ルシル/ノーマ(回想) 他 - 吉田萌美
    • ストラウス博士 他 - 宮川浩
    • アリス・キニアン/ローズ(回想) - 安寿ミラ

    2017年

    2017年3月に天王洲 銀河劇場と兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで上演。主演は矢田悠祐[28]

    2020年

    10月15日から11月1日まで、博品館劇場で上演[29]。同年に予定されていたが中止になった#菊池版の振替公演ではない。

    • チャーリィ・ゴードン - 矢田悠祐
    • ノーマ(現在) - 大月さゆ
    • ノーマ(回想) - 元榮菜摘
    • フェイ・リルマン 他 - 青野紗穂
    • ニーマー教授 他 - 大山真志
    • アルジャーノン 他 - 長澤風海
    • バート・セルダン 他 - 和田泰右
    • ストラウス博士 他 - 戸井勝海
    • アリス・キニアン - 水夏希

    2023年

    4月27日から5月7日まで日本青年館ホール、5月13日から14日までCOOL JAPAN PARK OSAKA WWホールで上演[30]

    • チャーリイ・ゴードン - 浦井健治
    • ニーマー教授 - 大山真志
    • アルジャーノン - 長澤風海
    • バート・セルドン - 若松渓太
    • ノーマ(現在) - 大月さゆ
    • ノーマ(幼少期) - 藤田奈那
    • フェイ・リルマン - 渡来美友
    • ストラウス博士 - 東山義久
    • アリス・キニアン - 北翔海莉

    キャラメルボックス版

    2012年

    演劇集団キャラメルボックスにより、7月21日から8月12日までサンシャイン劇場、8月16日から24日まで新神戸オリエンタル劇場にて上演。チャーリイ・ゴードンとアリス・キニアンがダブルキャストになっており、もう一方の上演時は別の役として出演する。また、CMやダンスシーンでandropWorld.Words.Lights.が使用された。

    その他

    • 氷室京介は本作品を読んで感銘を受け、BOØWY解散後の1988年9月に発売したソロアルバムに『FLOWERS for ALGERNON』と命名している。収録曲の『DEAR ALGERNON』は後にシングルカットされた。 早川書房・ミステリマガジン編集長兼書籍編集部課長の清水直樹は、それまで7.85万部だった国内での累計発行部数が同アルバムがリリースされた1988年だけで9.4万部の重版がかかり17.25万部まで達したことに触れ、「ここまで広く読まれるようになったのは、氷室さんのアルバムがターニングポイントになったことは間違いない」と分析している[31]
    • 1971年にフジテレビ系で放送された特撮テレビ映画『スペクトルマン』(ピー・プロダクション制作)の第48話「ボビーよ怪獣になるな!!」、第49話「悲しき天才怪獣ノーマン」のストーリーは「アルジャーノンに花束を」の翻案である。プロデューサーの篠原茂は、フジテレビの別所孝治からの提案であったと証言しており[32]、脚本を執筆した山崎晴哉は別所から『アルジャーノンに花束を』の小説を渡され、参考にして執筆したと証言している[33]
    • ザ・シンプソンズ』の第12シーズン第9話「あのクレヨンをもういちど英語版(HOMR[注釈 4])」は本作をモチーフとしており、脳の手術(脳に突き刺さったクレヨンの摘出)を受けた結果知能指数が倍近く上がったものの、実生活での幸福を得ることができず結局は元に戻ることを選択した主人公ホーマーの顛末が描かれている。
    • 2017年に京都大学の研究チームがダウン症により知的障害を引き起こす遺伝子の働きを抑制する化合物を発見、実際にダウン症の子を妊娠した母マウスにこれを投与したところ、子マウスの脳構造や学習行動に改善が見られたと発表した。この化合物は本作品にちなみ「アルジャーノン」と命名された[34]

    書誌情報

    中編版

    長編版

    • 小尾芙佐(訳)『アルジャーノンに花束を』(海外SFノヴェルズ)、早川書房、1978年7月、国立国会図書館サーチR100000002-I000001383734
    • 小尾芙佐(訳)『アルジャーノンに花束を 改訂版』、早川書房、1989年4月、ISBN 4-15-203393-2
    • 小尾芙佐(訳)『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス文庫1)、早川書房、1999年10月、ISBN 4-15-110101-2
    • 小尾芙佐(訳)『アルジャーノンに花束を 新版』(ハヤカワ文庫NV 1333)、早川書房、2015年3月、ISBN 978-4-15-041333-0
    • 小尾芙佐(訳)『アルジャーノンに花束を 愛蔵版』、早川書房、2015年4月、ISBN 978-4-15-209533-6

    英語学習書

    • 『アルジャーノンに花束を : Flowers for Algernon』(講談社ワールドブックス)、講談社、1995年11月、ISBN 4062614030
    • 『アルジャーノンに花束を [英語版ルビ訳付] 』(講談社ルビー・ブックス)、講談社インターナショナル、1999年4月、ISBN 4770023723

    参考文献

    • 谷口高夫「解説」『アルジャーノンに花束を』、早川書房(ハードカバー版)、1984年
    • 早川書房編集部「ダニエル・キイス 人と作品」『五番目のサリー 下』、早川書房(ダニエル・キイス文庫)、1999年
    • ダニエル・キイス(訳:小尾芙佐)『アルジャーノン、チャーリイ、そして私』(早川書房、2005年)
    • 新版『アルジャーノンに花束を』(ハヤカワ文庫、2015年)

    注釈

    1. ^ 本作品は約12000単語の長さがある。ヒューゴー賞短編小説部門は原則としては、7500単語以下の小説を「短編」と定義している。
    2. ^ 小尾芙佐は、チャーリイと同じ特性を持つ画家山下清の放浪日記の文章を参考にして翻訳したという[3]
    3. ^ 初回は15分拡大して放送(22時 - 23時9分)し、最終回は本編とは別に、一部地域のみ21時59分 - 22時に『もうすぐアルジャーノンに花束を』を別途放送。
    4. ^ オリジナルのサブタイトル表記は「HOMЯ」で、『まごころを君に』の原題『Charly』の表記「CHAЯLY」のパロディになっている。

    出典

    1. ^ 1960-hugo-awards”. The Official Site of The Hugo Awards(ヒューゴー賞公式サイト) (1960年). 2015年4月6日閲覧。
    2. ^ 谷口高夫「解説」『アルジャーノンに花束を』(改訂25版)早川書房、1991年5月15日、321頁。ISBN 4-15-203393-2 
    3. ^ a b c d e 小尾芙佐「訳者あとがき」(新版『アルジャーノンに花束を』)(ハヤカワ文庫、2015年)
    4. ^ a b 谷口高夫「解説」『アルジャーノンに花束を』(改訂25版)早川書房、1991年5月15日、322頁。ISBN 4-15-203393-2 
    5. ^ 「’89オールタイム・ベストSF結果発表!」『S-Fマガジン』第31巻第2号、早川書房、1989年2月、5頁。 
    6. ^ 「’98オールタイム・ベストSF〈海外部門〉結果発表!」『S-Fマガジン』第39巻第1号、早川書房、1998年1月、5頁。 
    7. ^ 「’06オールタイム・ベストSF結果発表!」『S-Fマガジン』第47巻第4号、早川書房、2006年4月、6頁。 
    8. ^ 「2014オールタイム・ベストSF結果発表」『S-Fマガジン』第55巻第7号、早川書房、2014年7月、6頁。 
    9. ^ a b c d e ダニエル・キイス(訳:小尾芙佐)『アルジャーノン、チャーリイ、そして私』(早川書房、2005年)
    10. ^ a b c d ダニエル・キイス「日本語版文庫への序文」(新版『アルジャーノンに花束を』)(ハヤカワ文庫、2015年)
    11. ^ a b アイザック・アシモフ『ヒューゴー賞傑作選 No.2』
    12. ^ ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を〔新版〕』3月13日(金)発売!”. 2015年3月11日閲覧。
    13. ^ アルジャーノンに花束を”. 2015年5月1日閲覧。
    14. ^ カフェ・アルジャーノンに花束を」、日曜祝日の営業が決定!”. 2015年3月18日閲覧。
    15. ^ 『アルジャーノンに花束を』愛蔵版刊行”. ORICON (2015年4月8日). 2015年4月8日閲覧。
    16. ^ 谷口高夫「解説」『アルジャーノンに花束を』(改訂25版)早川書房、1991年5月15日、323頁。ISBN 4-15-203393-2 
    17. ^ DES FLEURS POUR ALGERNON (PA)”. TV5MONDE. 2019年6月19日閲覧。
    18. ^ 山下智久・主演で「アルジャーノンに花束を」ドラマ化!「この役は相当チャレンジ」”. CinemaCafe.net (2015年2月6日). 2015年2月10日閲覧。
    19. ^ 山下智久、現代版『アルジャーノンに花束を』で連ドラ主演 野島伸司とタッグ”. オリコンスタイル (2015年2月6日). 2015年2月10日閲覧。
    20. ^ 山下智久主演×野島伸司脚本で『アルジャーノンに花束を』ドラマ化決定!”. マイナビニュース (2015年2月6日). 2015年2月10日閲覧。
    21. ^ 「アルジャーノンに花束を」が4冠 / 日刊スポーツドラマGP春”. 日刊スポーツ新聞社 (2015年7月3日). 2015年7月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年7月3日閲覧。
    22. ^ NHKアーカイブス NHKクロニクル / 青春アドベンチャー ダミーヘッド・ドラマ・スペシャル『アルジャーノンに花束を』第1回 (1995年8月7日放送、全5回)”. NHK 日本放送協会. 2022年11月29日閲覧。
      NHKアーカイブス NHKクロニクル / 青春アドベンチャー ダミーヘッド・ドラマ・スペシャル『アルジャーノンに花束を』第5回・最終回 (1995年8月11日放送、全5回)”. NHK 日本放送協会. 2022年11月29日閲覧。
    23. ^ 『アルジャーノンに花束を』 昴No.53 – 現代演劇協会 デジタルアーカイヴ”. onceuponatimedarts.com. 2021年7月27日閲覧。
    24. ^ 『アルジャーノンに花束を』 昴No.109 – 現代演劇協会 デジタルアーカイヴ”. onceuponatimedarts.com. 2021年7月27日閲覧。
    25. ^ 劇団昴公式ホームページ 劇団昴2020年公演情報(中止・延期・変更作品)”. 劇団昴. 2023年10月27日閲覧。
    26. ^ 劇団昴公式ホームページ 劇団昴2020年公演情報”. 劇団昴. 2023年10月27日閲覧。
    27. ^ 劇団昴公式ホームページ 劇団昴公演情報(2022年)”. 劇団昴. 2023年10月27日閲覧。
    28. ^ “矢田悠祐「アルジャーノンに花束を」で初主演、「自分をネクストステージに」”. ステージナタリー. (2016年9月17日). https://natalie.mu/stage/news/202207 2016年9月20日閲覧。 
    29. ^ 深淵な物語が照射する遥かな希望 ミュージカル『アルジャーノンに花束を』上演中!”. 演劇キック (2020年10月26日). 2023年10月27日閲覧。
    30. ^ “「アルジャーノンに花束を」明日開幕、チャーリイ役の浦井健治「初めましての役として向き合う」”. ステージナタリー. (2023年4月26日). https://natalie.mu/stage/news/522064 2023年10月27日閲覧。 
    31. ^ なぜ『アルジャーノンに花束を』は日本でヒット繰り返す? “日本語の特異性”が世界観の解釈に寄与”. ORICON NEWS (2023年12月28日). 2024年3月7日閲覧。
    32. ^ 「INTERVIEW 『スペクトルマン』ほか製作 篠原茂」『別冊映画秘宝 特撮秘宝』vol.3、洋泉社、2016年3月13日、ISBN 978-4-8003-0865-8、P.79-82
    33. ^ 『ピー・プロ70'sヒーロー列伝 (1) スペクトルマン』ソニー・マガジンズ、1999年12月1日。ISBN 4-7897-1443-8、P.180
    34. ^ ダウン症 抑制の新化合物 出生前投与、マウスで効果毎日新聞 2017年9月5日付 同日閲覧

    外部リンク


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