早朝のすがすがしい風の中で、ジョギング中に近隣お寺にて般若心経を独唱させていただいた。
今のところ健康だから、ありがたいことにこのようにさせていただいている。
早朝に出会う人々夏は、出会う人の数も多く最近は、大手交番や北部交番の早朝警戒のパトカーに出遭う。
外国人による窃盗事件も松本市は多く発生し、暴走族も夏になると徘徊するようになる。
恥ずかしいことだが長野県は凶悪犯罪も含め犯罪の発生率が高い。長野県の警察官数は3000人程度で、長野県お巡りさんは、ほとんど超過勤務は無償奉仕だそうである。
公務員の給与を何でもかんでも下げる。超過勤務はさせない。警察官の数は増やさないのが、この長野県の方針とのこと。全国レベルでは笑賛されている。
さて話はそれてしまった。今朝パトカーのお巡りさんにさわやかに挨拶されてしまい、修行のなさから県を批判してしまう自分に気が付く今日この頃。
「般若」この言葉は、サンスクット語のプラジュニャーの俗語パンニャーを音写したもので「智慧」、ことがらの真相を見通す智慧という意味だそうである(般若心経東京書籍中村元著P36)。
山田無文老師は、「プラジュニャー、智慧と翻訳しておりますが、これも単に智慧と訳してしまいますと、われわれがへいぜい使っている分別の知恵、理知の知恵に誤解されやすい。この般若の智慧は、根本智と言って、理知分別の出て来る以前の根本になる智慧であります。いわゆる空のわかる智慧、絶対の解かる智慧、無限のわかる智慧が般若の智慧であります。ところが、私どもが学問をしていく知恵は、対立の知恵であり、分別の知恵であり相対的な知恵である。この般若も智慧と訳さないほうが利益か多いから、原語のままで使っておるのであります(般若心経禅文化研究所山田無文著P31・32)。」と解説している。少し解かりにくいので松原泰道老師の解説を紹介する。
老師は、「私たちは、自分を中心として、その外側にあるもの客観的に存在するものについて知るのを知識(ノリッジ)といい、自己そのもの、あるいは、自己に内在するもの、つまり主観的事実を学ぶのを知恵(ウィズダム)と申します(般若心経入門祥伝社松原泰道著P29)。」と老師は「智慧」の語に「知恵」を使用しているが、解かり易い気がする。
「両老師の言っていることは違うのでは。」と感ずる者は、分別の世界から仏性が離れよと知らせてくれている。
千日回峰ではないが、15年ほど早朝のジョギングを行っていると以前にも述べたが、
物の存在が、あるがままの実相のみと感ずるときがある。美しいとか荘厳とかを超える。
それは病気だと思う人もあるやも知れないが、しかしながらそれは一つの気づきなのである。
松原泰道老師は、求めるものやその人がもたされている内面的な課題があると、ある時、ふと目覚める時がある。それは悟りとかではなく気づきであると言う。
人として如何に生きるべきかという仏性の目覚めと異なり感覚の目覚めだと思う。
坐禅を行うと活きて生きるものの美しさや荘厳さの実相に目覚める時がある。そしてあるがままの状態の感知はそれを更の超える。