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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

般若

2005年08月27日 | 仏教

 早朝のすがすがしい風の中で、ジョギング中に近隣お寺にて般若心経を独唱させていただいた。
 今のところ健康だから、ありがたいことにこのようにさせていただいている。
 早朝に出会う人々夏は、出会う人の数も多く最近は、大手交番や北部交番の早朝警戒のパトカーに出遭う。
 外国人による窃盗事件も松本市は多く発生し、暴走族も夏になると徘徊するようになる。
 恥ずかしいことだが長野県は凶悪犯罪も含め犯罪の発生率が高い。長野県の警察官数は3000人程度で、長野県お巡りさんは、ほとんど超過勤務は無償奉仕だそうである。
 公務員の給与を何でもかんでも下げる。超過勤務はさせない。警察官の数は増やさないのが、この長野県の方針とのこと。全国レベルでは笑賛されている。

 さて話はそれてしまった。今朝パトカーのお巡りさんにさわやかに挨拶されてしまい、修行のなさから県を批判してしまう自分に気が付く今日この頃。

 「般若」この言葉は、サンスクット語のプラジュニャーの俗語パンニャーを音写したもので「智慧」、ことがらの真相を見通す智慧という意味だそうである(般若心経東京書籍中村元著P36)。

 山田無文老師は、「プラジュニャー、智慧と翻訳しておりますが、これも単に智慧と訳してしまいますと、われわれがへいぜい使っている分別の知恵、理知の知恵に誤解されやすい。この般若の智慧は、根本智と言って、理知分別の出て来る以前の根本になる智慧であります。いわゆる空のわかる智慧、絶対の解かる智慧、無限のわかる智慧が般若の智慧であります。ところが、私どもが学問をしていく知恵は、対立の知恵であり、分別の知恵であり相対的な知恵である。この般若も智慧と訳さないほうが利益か多いから、原語のままで使っておるのであります(般若心経禅文化研究所山田無文著P31・32)。」と解説している。少し解かりにくいので松原泰道老師の解説を紹介する。
 老師は、「私たちは、自分を中心として、その外側にあるもの客観的に存在するものについて知るのを知識(ノリッジ)といい、自己そのもの、あるいは、自己に内在するもの、つまり主観的事実を学ぶのを知恵(ウィズダム)と申します(般若心経入門祥伝社松原泰道著P29)。」と老師は「智慧」の語に「知恵」を使用しているが、解かり易い気がする。

 「両老師の言っていることは違うのでは。」と感ずる者は、分別の世界から仏性が離れよと知らせてくれている。

 千日回峰ではないが、15年ほど早朝のジョギングを行っていると以前にも述べたが、
物の存在が、あるがままの実相のみと感ずるときがある。美しいとか荘厳とかを超える。
 それは病気だと思う人もあるやも知れないが、しかしながらそれは一つの気づきなのである。
 松原泰道老師は、求めるものやその人がもたされている内面的な課題があると、ある時、ふと目覚める時がある。それは悟りとかではなく気づきであると言う。

 人として如何に生きるべきかという仏性の目覚めと異なり感覚の目覚めだと思う。
 坐禅を行うと活きて生きるものの美しさや荘厳さの実相に目覚める時がある。そしてあるがままの状態の感知はそれを更の超える。
 


仏の手のひら

2005年08月15日 | 仏教

 仏性、仏心は、宗派によってその意味合いは異なるが、人が持つ仏になる種、仏のこころのことである。悪人が改悛したり、また苦しみを持つ人間が、あることを機会にその意味を悟り苦が滅していくその時のその人の意識の志向である。
 誰にも何処にも仏心はあるのだよ。前にもいったが盤珪さんは人は生まれた時から仏心を持ち合わせているのだよという。

 大乗仏教の経典に勝鬘経(しょうまんぎょう)があり如来蔵章で勝鬘婦人は

 如来蔵とは、あらゆる人々は本来清浄であり、仏の法身(ほっしん)たる性質を備えているということです。ただ、それが多くの煩悩に覆われ、だれの目にも見えなくなっているのです。

と語る。
 言葉は違っても云わんとしているところは皆同じだと思う。仏の手のひらの内に人は生きているというが、仏の手のひらは内と外の分別ではなく、仏の手のひらも自分の内にある。

 スリランカ初期仏教界長老アルボムッレ・スマナサーラ氏と養老孟司氏の対談集が宝島社から「希望のしくみ」という題名で出版されて

いる。この中の「変われる人、変われない人」という中でスマナサーラ氏は

 合理的思考なら、非合理性を見せてあげると、簡単に自分の考え方を変えます。しかし感情で至った結論は、いくら教えても変えることはできません。

 と述べている。
 感情的に物事を理解すると人は、その理解に対する反対意見については耳を貸さないし、攻撃的になる。
 最終解脱者。私が神だ。私は超能力者だ。などという非論理的な話も感情的に感化され理解すると最悪である。

 この世で出会う不幸は、布施を含めた信仰不足に起因する。
 愛で接する人々に対しては神は天国を約束する。
 全ての人々が共通宗教、思想で統一されたならばこの世の天国を実現することができる。布教活動、師子吼の他宗教批判を行い殉教的な災難も尊い使命を背景に耐えよう。

と暑い日も寒い日も各戸を訪問し神の存在、聖書の正しさを語る人々。他宗派のお経が流れると耳をふさぐ人々がいる。
 災害は信仰、神への忠誠心で避けられ、事故も神の力で回避できるなどは、非論理的な話である。
 
 この世においては、どんなに道徳的に倫理的に生きていようが、災難、不幸に出遭う。毎日お経を唱えても神に祈ってもそれは起きる。
 過去を見れば普通に生活していた人々が、飛行機事故で死に、戦争、原爆で多数の人々が死んだ。
 最愛なる人々が死に、また殺されるという事実は回避できない現実として善良な心をもつ人であろうと無かろうと遭遇する。
 だからこの世は諸行無常と釈尊は悟った。

 今という瞬間に自分が、人の道、倫理道徳から逸脱していないことが重要で、非分別で感情的になっていない自分を観ることができればと思う。


師子吼

2005年08月10日 | 仏教

 中部経典第11経「師子吼(ししく)小経」は、釈尊が仏教こそが正法であり、外道の教えは解脱への道ではないと比丘尼たちに説き、外道のものに対しては獅子の咆哮(ほうこう)のごとくせよと命じる。獅子はケモノ偏がつくので漢訳は「師」の字を使う。
 経は、究極は一つ、二つの見解(存在と非存在)そして四つの執着とその原因について説ながら外道の修行者(新興の思想家、バラモン思想家)を師子吼せよと命じたものと解釈されている。
 師子吼せよというこの経は、排他的な他宗教をはじめ他宗派への批判根拠に使われるが、実際そのような内容は含んでいない。

 この経内で釈尊は、二つの見解(存在と非存在)に執着する者には人間存在の根元的な苦からの解脱はないと次のように比丘尼たちに説く

 比丘たちよ、すべてを存在すると見解とすべてを非存在とする見解の二つの見方がある。比丘たちよ。誰でも必ず、新興思想家でもバラモン思想家でも、これら二つの見解の生起と生滅と快適な味と苦患とそこからの出離とを如実に知らないと、かれらは貪欲をもち、瞋(いか)りをもち、癡(おろ)かさをもち、渇愛をもち。取著をもち、智者でなく、人のいいなりになる者、反抗する者であり、妄想を楽しむ者、妄想を喜ぶ者であり、かれらは生・老・死から、もろもろの憂い、悲しみ、苦しみ、心の悩み、悶(もだ)えから解放されず、苦しみから解放されない。

と比丘たちに話し、さらに話は

 新興思想家でもバラモン思想家でも、これら二つの見解の生起と生滅と快適な味と苦患とそこからの出離とを如実に知れば、かれらは貪欲を離れ、瞋(いか)りを離れ、癡(おろ)かさを離れ、渇愛を離れ、取著なく、かれらは智者であり、かれらはいいなりにならず、反抗せず、かれらは妄想を楽しまず、妄想を喜ばず、かれらは生・老・死から、もろもろの憂い、悲しみ、苦しみ、心の悩み、悶(もだ)えからよく解放され、苦しみから解放される。

 と釈尊は説く。これはあるがままに見る如実知見をかたり、愛欲とか思想とか規律・自説などに執着しないことを教えているのである。

 しかし、巷には同じ仏教でありながら排他的ないろんな問題を引き起こし、指導者たる善智識の人の道から外れた行動が多くなっている。

 最高であるとの主張は、最低の反語があってのものである。いくら最高の教えでも苦しみを受けるものが存在し、生ずるならば無明の因縁である。

(春秋社原始仏典第四巻中部経典ⅠP155・講談社原始仏典四ブッダのことばⅡP57参照)


サイトウ記念と大人の我がまま

2005年08月07日 | つれづれ記

 他人を見るとき人は、これまでに収集した資料に基づき自分の心の中にその人の人となりを描く。あくまでもイメージ化された他人を見るのである。

 松本市では毎年サイトウ記念という音楽会が行われている。この時学生、一般の音楽関係者の合同演奏が行われ、世界的な指揮者が指揮をとる。

 昨年は「上を向いて歩こう」という曲が演奏されたが、今年は曲が今までのとおりに指揮の難しい曲に変更された。

 誰でも口ずさむような曲は指揮が単調で、世界的に有名な人にとっては許されないことなのである。

 有名人に善意をイメージ化するのは、人の意識の志向である。直接面談し交流がない限り善意的なイメージは否定されることはない。
 小学校の金管クラブの練習も酷暑の中で一生懸命行われている。

 曲の選考でダークな話を聞くと悲しさが現れる。今回の指揮の難しい曲の選考は当然と思う人もいるのは確かで、世界にこの人ありの指揮者の意向ならば当然である。

 しかしながらサイトウ記念がイメージ的に善なるものと思う人が全てであるが、何故か今回は悲しさが残る。

 天才空海の形成について知りたいと思うと司馬遼太郎のその著「空海の風景」が参考になる。あくまでも作家であり、宗教学者ではないことから自由な発想と推測で著している。
 
 留学生(るがくしょう)前の若かりし空海は、華厳経に熱中し大日経との出会いと理論の拡大とその探求は止まらない。空海は既成の仏教界が解脱だけをもって修行の目的とすることに体質的に拒絶感があった。
 華厳経を理論的にさらに発展させたものが大日経であると見極めると経から読み取れない密教の奥深さに引き込まれていく。
 留学生としての入唐の決意は自己の欲求の解消があるから他の留学生とは異なる点が多い。
 
 帰国後の空海の文化的功績の背後には彼のもつ人間平等の精神の態度が現れてくる。
 
 「仏教者は、自分だけの解脱にとどまるものであってはならない。悟りを根底にした善意をもってすべての人に対し、その人に応じた救済を行うことが真の仏教者なのである。」ということになる。

 天才は我がままである。しかし天才も部門が己の探求となるとその質が異なる。
 若かりしころの我がままな自己中心的な行動も、鋭い知性とそれによってつちかわれた理性が絶えずその根底にあるため結果として実になる。

 単なる欲するままの探求心は、童心的なわがまま。大人になっても残るのは天才が故であろうか。
 「天才は善である」という人間がもつ意識の志向を悲しみたい。


男女交媾の恍惚の境地

2005年08月06日 | 仏教

 最澄が空海に経典の借用を願い出た時に断られたものがある。理趣釈経という密教の最も重要な典籍である。金剛界の系の密教の根本を説く理趣経の注釈書である。
 
 密教自体は直接釈尊の説かれたものではない。
 
 理趣経の最初に「一切法自性清浄故」と清浄という言葉が使われる。

松長有慶氏は、
 「自分も他人も大自然も一体化していて本来一つなのだ」と考えかたが清浄であるとみるほうが理趣経の本当の意味なのです。(P127秘密の扉を開く密教経典集英社)
とその著書に述べている。
 普通仏教は悟りに至るために欲望や怒りなどを断ち切れと説くが、理趣経はこの世の全てのものは本来清らかなものであるとして、欲望も私利私欲を離れた清らかなものであれば菩薩の世界であるという。
 愛欲をもつならおおいに愛する人を愛し、その気持ちを苦しみ悩む人にも向けよ。怒るならおおいに怒り、過ちを正してやれ。この愛や怒りによって、他の人のもつ本来の清らかな姿を引き出せと説く。

 理趣経は、妙適等が説一切法清浄句門で説かれ誤解される面がある。
 「妙適清浄句是菩薩位」男女交媾の恍惚の境地は本質として清浄であり、とりもなおさずそのまま菩薩の位である。

 空海と理趣経のかかわりについては、司馬遼太郎の空海の風景上下中央公論新社を読むと、そうなのかもしれないと思うし、理趣経は、浄土宗の親鸞に見るように人間らしい体現からの思考の産物なのかもしれない。

 その点、昨夜NHKで鳩摩羅什という人の仏教伝を放送していたが、すごい人がいたものである。
 「極楽」という言葉は、鳩摩羅什の造語であるがこの中には「男女交媾の恍惚の境地」は含まないのは当然である。


別訳一夜賢者

2005年08月01日 | 仏教

 すずき出版仏教説話体系22阿含物語(二)に詩人の野呂昶さんの「一夜賢者」の訳がある。

 過去を追いかけ 未来を願う
 それはあっては ならぬいこと
 なぜなら過去は もうすでに
 捨て去ったもので 未来とは
 まだ来ぬことを示すのだから
 大事なことは 現在を
 よく見極めて 動じずに
 まっすぐ正しく 生きること
 あす死に神の 大軍が
 来ないとだれが 言えようか
 一夜賢者とは このことを
 よく知り怠けず 励むもの

釈尊の高弟カッチャーナ尊者は、この意味について

 それはおそらくこういうことでしょう。なぜ過去を追ってはならないかといえば、たとえば過去に見たものが美しく、今も忘れないとします。実はその美しいと映じたものはつねに変化し、はかなく移ろうものなのですが、過去にとらわれ、過去に縛られている限りはその真理が見えません。その執着が真理を見る目をふさぐのです。また、過去に耳で聞いた音がすばらしくて忘れられず、音に執着している場合も同じです。同様に、嗅覚による執着、味覚による執着、触覚による執着、また心的な執着というものもあり、やはりいずれも真理を覆って苦を招きます。だから過去を追ってはなりません。次にどうして未来を願ってはならないかといえば、私たちは現在見ることができないものを未来に見たいと願い、欲望を起こします。そしてかりにそれを見ることができれば、また次のものを見たいという欲望を起こします。欲望は欲望を生み、決して満たされることはありません。そこに苦しみが生じます。耳で聞くことについても同じことがいえます。臭覚、味覚、触覚が生む欲望も同様です。心が生む欲望も同様です。だから未来を願ってはならないのです。世尊が過去を追わず、未来を願わず、現在を真剣に生きなさいと言われたのはこのような意味だと思います。

と修行僧に話す。修行僧の代表してサッディがこのカッチャーナ尊者の解釈を釈尊に確かめると釈尊は「それでいいのです。修行僧たちよ、一夜賢者の意味を習得したからには、それを日々の生活に生かすことがたいせつです」と答えた。

以上が野呂氏が訳された中部経典133の一部です。
 
 すずき出版仏教説話体系の第二期は、1985年から21阿含物語(一)から40仏陀の教えの20巻が配布となっている。監修は中村元・増谷文雄氏で、編集委員もそうそうたる先生方である。