「空間は実在するか?」と題したブログを目にし、内容はともかくこの「実在」という言葉(漢字)に何故か「存在」という言葉が浮かびました。
「空間は存在するか?」ではなく筆者は「実在」という言葉を選び使用したわけです。自己の疑問を問いの構文で表現するときに「実在」以外の語は発想されなかった、ということで、これまでの経験から他の人も「空間」の「ある」「なし」に対しては「実在」を使用していたという知識が自然に記憶として記名されおのずから想起されたのでしょう。
「空間」には「実在」が似合う、と言ったところでしょうか。
「実在する」と「存在する」という言葉どこがどう違うのでしょう。世の中には同じ疑問を持つ人もいるのは同然で、このぎもんをねっとけんさくしました。するとYAHOO!知恵袋に“「実在する」と「存在する」の違いは何ですか?”という問い合わせをした人がいました。
そこでのベストアンサーではどう解説されていたかというとデジタル大辞泉の内容が引用されていました。
●じつ‐ざい【実在】の意味
[名](スル)
1 実際に存在すること。現実にあるもの。「実在の人物」「この世に実在しない生物」
2 哲学で、
①意識から独立に客観的に存在するもの。
②生滅変転する現象の背後にあるとされる常住不変の実体。本体。
●そん‐ざい【存在】の意味
[名](スル)
1 人間や事物が、あること。また、その人間や事物。「神の存在を信じる」「歴史上に存在する人物」「クラスの中でも目立つ存在」
2 《being/(ドイツ)Sein》哲学で、あること。あるもの。有。
①実体・基体など他のものに依存することなく、それ自体としてあるもの。
②ものの本質としてあるもの。
③現実存在としてあることやあるもの。特に、人間の実存。
④現象として主観に現れているものや経験に与えられているもの。
⑤判断において、主語と述語とを結合する繋辞(けいじ)。「sはpである」の「ある」。
と書かれています。
この中の「実在」の解説に「実際に存在すること」と「実際」という意味も絡み、さらに「あること」「あるもの」などという言葉もあり「モノコト論」に興味を持つ私はさらなる深みにはまりそうです。
中にひとつ気になる用例がありました。「存在」の解説の中の「神の存在を信じる」という用例です。「空間」の「ある」「なし」ではなく、「神」は「いる」「いない」の問いの表現に「存在」を使用しているわけです。
「神の実在を信じる」でもよかろうと思うのですが、「存在」という言葉の用例としてしか出ていませんし、個人的にもなぜか「神の実在を信じる」という表現には違和感を感じてしまいます。
考えてみるとこれまでの哲学的な課題としての「神」の「いる」「いない」は「神の存在証明」と言われるように「神の実在証明」という言葉を見たことがありません。
何ゆえに「神」には「存在」が適合するのでしょう。日本語ではどこまでも神には「存在」が適合するからでしょうか。
時代をさかのぼって、やまと言葉(古語)ではどうなのでしょうか。そうです。「神はおわします」です。現代では聖書の中に「天にまします我が神」として使われているように「おわす」や「まします」が使われ、いまでもその意味は通じます。この言葉を漢字で書くと「御坐(おわしま)す」「坐(ま)します」となります。
その存在は立像・座像のイメージではなく「御(お)なりになっている」という感覚での理解です。
明治維新後、西洋文化の流入とともに、「存在」「実在」という言葉が定着していく中で、神には「存在」という言葉をつかうことが普通になったなった気がします。「存在」という言葉の根底には「御坐す」「坐します」という感覚的感得があり、「存在する」ところの「そういうもの」という理解の内におのずから神と接しているように思います。
「神」が「いる」「いない」という問い
これは、
「神」が「おわすか」「おわさないか」という問い
に違和感なく重なるかというと個人的にすっきりしません。
古語では初期の段階は「坐(いま)す」で、「中古のの和文では「イマス」に代わってオワシマス(御座します)」となったと言います(大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版)。
同辞典には上代に神や天皇などに用いた最上級の尊敬語にオホマシマス(大坐します)が宣命にあるといいます。
「存在」という言葉は、八百万の神が、万物に神が宿りというような凡神論的な感覚的理解をするものも使用し、特定の宗教に属する唯一絶対の神を信仰する者も使用します。そして無神論者も「神の存在証明」などと常識のように「存在」という言葉を使います。
「実在」という言葉は、辞書にもあるように
実際に存在すること。現実にあるもの。
意識から独立に客観的に存在するもの。
に対して使用します。森羅万象に宿る神を感得できる者も、唯一絶対神の信仰者も、また無神論の哲学者もみな「実在する神」がよかろうと思うのですが、どこまでもどこまでも「存在」なのです。日本語であり、日本語訳であるから「存在」にするのだろうか。
感覚的にとらえることができるものが実在なのか、それとも頭の中に考えたものが実在なのか。
どうも天皇制のという表現が正しいかわかりませんが、古代から日本列島は密接に「天皇」と関りをもつ歴史があり、上位にあるものは「カミ」であり「オカミ」でもありました。
当然西欧流の「神」も古神道からの「神」も「御座します」であって賛否の枠内に収まらないことのように思います。
観念論に至る流れの中でギリシャ時代から「人間の頭の中で考えられたものこそ本当の実在である」とし頭の中で展開する数学というものが論理的に美しく、その数学の体系が頭の中で考えれたものが実在だとされていました。その後キリスト教の信仰が盛んになると神というものを中心にしてこの世の説明をするにはこの考え方は密接に関係していきリアルな実在と信仰されていたわけです。その後神が死すという潮流があると「実在」は「存在」に変化します。
日本語の場合は今も昔も「神」は「オワシマス」であって日本語の「存在」は西欧流の理解と日本古来のとらえ方の両意義が共存しているように感じられます。
「存在」という言葉に比べると「実在」という言葉はあまりにもリアルな現実表現で当たり前にあるものに対してエネルギーを使います。
当然にあるものについては「イマス」であり、否定・肯定はなく問う必要を感じません。
錯覚である。誤謬である。認識不足である。知識不足である。軽薄である。
と言われる以前に、己に宿る性(さが)に思う。
このように語ってしまう私。私自身は唯一絶対の神を信じる者ではなく、ある意味無神論者です。しかしそういう私ですが、日の出に手を合わすこともあれば、仏に手を合わすこともあります。合掌の向こうに神の存在、仏の存在を感覚的に有形的に在るののとして認識しているわけではなく、「そういうもの」として体得しており体現しているわけです。
言葉を変えれば精神と身体のおのずからの体現です。
それはある意味現実にみる働きの様とでも表現できるでしょうか、語れないものを語ろうとするジレンマがそこにあります。
高名な西洋の哲学者は「論理空間は、可能性として成立しうる総体」だと語ります。そして「論理空間の限界こそ思考の限界に他ならない。」とも言います。現実というものは可能性の内に表出しており、顧みれば“こんなこともありえた”“あんなこともあった”と可能性の内に刻まれた現実認識です。
ある哲学者は「現実を取り巻く広大な可能性を了解し、そんな可能性の中のひとつがこの現実なのである」とも言っています。
高名な哲学者とはウィトゲンシュタインで、ある哲学者とは「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」(哲学書房)を書いた野矢茂樹さんです。
「事物が自立しているのは、可能なすべての状況で登場するのだ。しかしこの自立の形式は、事態とのつながり形式であり、非自立の形式なのだ。(言葉が、2種類の仕方で----つまり「単独で」と「文中で」----登場することは、不可能である)」(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』丘沢静也訳・光文社文庫 2.0122)
「オワス」という日本語、今は「イマス」ですが、今まさにそこに有る現象を表象し語ります。認容し認識する以前にそう語ります。
今まさに体験する精神と肉体が味わうその時
「論理空間は可能性として成立しうることの総体」
とウィトゲンシュタインは言うが、「可能性」という言葉は対概念の「不可能性」がなければ語れない。確実か不確実か、確定か不確定か、と確かさの尺をどこまでもどこまでも堅持すると「世界は現実に成立している総体」としか解せなくなる。
現実化の中に確定されるもの、確実なもの、可能なもはあるのか、と問うこと自体が後付けの語り。
現実を可能性で支配することができるかという疑問を持ちます。可能性で満ち足りているのが現実。視点の置き所(視座)がつかめません。
可能性とは確実性の内にあり、不可能性とはその逆で不確実性の内に意味が生まれます。
量子力学では不確定性が語られますが、現実には確定されたものとして認識、理解されるものが数多くあります。それはどこまでもどこまでも「不確定」という対語があってのことです。
可能性とはそもそも確実性が約束された現われで現実了解されるのだと思います。しかし現実には確実性で約束されないものごとが総体としてあるわけで、過去における不可能性の顕現化が現実ともいえるわけです。
只中という一刹那の今は、確定されないものが生(あ)る事態でもあり、確定されたものが在(あ)ることでもあるのです。したがってその逆も刻まれているということにもなります。
「実在」と「存在」から離れた話になってしまいました。
日本語の「坐(イマ)す」「有(あ)ります」という言葉は、主語なく会話に登場させることができます。この世は論理空間である必要はなくありのままが現実を支配するからなのだと思う。
意味不明な話をしてしまいましたが最後に、日本人は「神は存在する」以前にやまと言葉では「神は御坐(おわ)す」といい、聖書には「まします」などと訳されます。このような表現は否定の問いを発する以前の表現に思えます。森羅万象に観るもの、八百万の神々の対して存在否定を伴わない表現で捉えていた、そういえるのではないでしょうか。
※思いつくままに綴る癖があります。