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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

意識されない意識に視点を移行できないものか。

2016年06月29日 | 思考探究

 太陽信仰に傾倒しているのではないのですが、眠りから目覚めるとあかね色に輝く夜明けを見たくなり身近な絶景ポイントに出かけます。今朝は雨模様で出かけませんが、この早朝の我が行動は意識しての行動ですが、なぜにそうしたいのかということになると、「美しさを求めて」となります。

 しかし、そう考えたところで、なぜ美なのかとなると、「求め」の衝動は意識されない意識とでもいえそうなこころの根源の衝動となってしまいます。

 これは深層心理学の無意識とは異なり、あくまでも意識されない意識であって、わたし自身の行動選択において意志は貫かれています。

 墜落人間、堕落人間

人生の道を、線路を、逸脱するに至る路線の誤りにおいて、意識されない行動があるであろうか。

 欲望に促されての転落

 欲する私を意識できない、そんな状態があり、欲望のままに落ち行く。

 欲することがすべて悪ならば落ち行く世界がその衝動の根源にあることになりますが、そうではないことをだれもが知っています。

 今なす、私の行動選択の衝動がどのような結果を招くのか。

 昨夜は妻とイタリアンレストランに食事に出かけましたが、転落はなく、これが訳ありの女性ならば大いなる転落への道になります。

 こういうことを書くとすぐに何かとこの話に筋書きをつけ、正当化の理由を付して幸せな別人生を作り出そうとする人もありましょうが、墜落、堕落は作り出す意識のなせる業であって意識されない意識があなたをそう導く。

 小林秀雄先生の禁煙の話はおもしろい。

 医者の指摘に即決断、病院にテーブルにタバコとライターを置き、帰ろうとする。

 医者が言う、「タバコとライターを忘れたよ!」と・・・。

 小林先生曰く「禁煙しますので!」

 「君、目の前にタバコとライターが置いてあっても禁煙できるくらいじゃないと止められないよ!」

 と医者が言ったといいます。小林先生は学生に対する講演の中で意志力を高める他者の言葉としてこの話を語り、先生の禁煙は即完結します。

 欲望は意識されない意識、自分の目を自分で見ることができないような欲動の意識によって支配される。深層心理学でいうところの無意識に焦点を置けば意志の主人公を意識することはできませんが、今まさになしている自分に冷静沈着に意識を見つめる機会をもつことのでいる目覚め意志を癖付けができるならば、真の主人公を取り戻せないだろうか。

 自己自身の弱さを常に反省とともに思い出す人間。意志の強さは信仰においてのみ成立すると結論付ける。

 宇宙の根本原理と自分の真我が一如に成れば、健全なる人の道が育つとも結論付ける。

 そもそも我などと言うものはなく無我の境地の究めが、人の道が開かれる方法なのだとも結論付ける。

 馬鹿な事態に結論付ける自己犠牲、堕落の種が投げやりに放たれれば救いようはない。

 意識されない意識

 前意識とも呼べそうな極めの瞬間を意識にひき付けることはできないのだろうか。

 今まさに自分は何をなそうとしているのか?

 生存意欲、生きたいとする人間の本性がそこにあります。


梵我一如

2016年06月22日 | 思考探究

(カエルとスイレン)

 今朝は悪天候で朝焼けを見ることはできません。悪天候と騒ぐのは、私の価値判断であって自然はそのままに如実に有様を呈しているだけです。

 そのような意味で解するならば宇宙的原理はあくでもなく善でも悪でもないわけで、現象世界に差別相を展開するのは人間側の心理的な営みということができます。

 宇宙的原理を「梵」と呼び、ヒト側の心もちに生じるわれを「我」と呼び、梵我一如が総じた究めの極致としたのが古代のインド哲学のようで、前者をブラフマン、後者をアートマンという。

 「赤心」というと幕末期の草莽崛起の若者を思ってしまいますが、純真無垢の汚れ無き心なのだから、赤子の心、赤ちゃん、幼児の自然体の行状、様であって大人にっては迷惑な話にもなります。

 電車内、祭典式場内での泣き声や、はしゃぎ駆け回るその姿は迷惑なことだとするのが世間様の在り方です。

 しかし世間の展開というものは、天変地異の有り様と同じであり、今朝の天候の語り口とも同じ、今朝は悪天候で、雲なければ好天気なのです。


はちはお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土べいのなかに、
土べいは町のなかに、
町は日本のなかに、
世界は神さまのなかに。

そうして、そうして、神さまは、
小ちゃなはちのなかに。

<『金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと』より>

子に語りかける母の詩は、大人に何を教示させているのでしょうか。

 わたしが両手をひろげても、
 お空はちっともとべないが、
 とべる小鳥はわたしのように、
 地面(じべた)をはやくは走れない。

 わたしがからだをゆすっても、
 きれいな音はでないけど、
 あの鳴るすずはわたしのように
 たくさんなうたは知らないよ。

 すずと、小鳥と。それからわたし、
 みんなちがって、みんないい。

これも金子みすゞさんの『わたしと小鳥とすずと』の詩です。

 この心を、視覚を語ります。

何もないのではなく、何事かがある。反対の一致がそこにあります。


無いことの現象

2016年06月20日 | 風景

 「とどまる」ことなく一歩進むのが毎日。「とどまる」は、

 「止まる」とも「留まる」とも書けますが、思考停止して苦楽も認識せず、食することをしないなどということは、死を経験することはふかのうなことですが、まさに生きる屍になってしまいます。

 人間現象などは、他の自然現象と同じように時間と空間の中を現れ消えてゆくもので、消えるといっても性質を変え大地に拡散され、「残りたし」を希求すると永遠の魂を物語ることになるようになります。

 宇宙の営み時間の中では一人の瞬間存在は無いに等しいだろうし、もともと何も無いものとして結論付けてもよいだろう。

 しかし、その瞬間に私という現象を認め、法灯明・自灯明を味わうことのできるありがたさに感じ「いる」のもよかろうと思う。

 「いる」とは「入る」であり「居る」でありさらに「要る」です。

 

 今朝の太陽は私を「射(い)る」わけで、鋳られることは建立することでもあるように思えます。


こころを描く・自由意志

2016年06月18日 | 哲学

 舛添さんの堕落というか、墜落の姿を見ていると、人間の自由意志の赤裸々な告白を見ているようです。

 知的な行動力にあふれ万人からも好かれる人に見える人も、その自由意志の為す業(わざ)に大いに学ぶべきものを感じます。

「偉大な創造主は、人間を本性の確定しないままにつくりだした。そして人間にこう告げた。お前は・・・自由意志にもとづいて己の本性を定めよ・・・。天のものとも地のものともかぎらず、お前は自分の好きなように自分を形成してよい。お前は低級で野卑な生活形態まで堕落する能力をもて。しかし、自分の魂の判断にもとづいてさらに気高く、神性な生活にうまれかわる能力もまた、もて」。

これはルネサンスを代表する哲学者ジョバンニ・ピコ・デラ・ミランドラは『人間の尊厳について』にある言葉で、アメリカの細菌学者ルネ・デュボス(1901年2月20日 - 1982年2月20日)の著『人間であるために』(紀伊国屋書店・1970)の語りの中で引用(p218)されていました。

 ジョヴアンニ・ピコ・デラ・ミランドラについては過去のブログにも書いたことがあり、

ジョヴアンニ・ピコ・デラ・ミランドラ(1)

ジョヴアンニ・ピコ・デラ・ミランドラ(2)自由意志

ルネサンス期の到来と経過は現代思想の進化論の目覚めのようにも見えます。文明の発展とともに人それぞれの思い描き、表象の世界はある意味フィルターを取り除きものごとに対する合理的な思考を目覚めさせたといえるように思えます。

 

 人間それぞれに持つ常識の表象、信仰にあってもなくとも裸の実存たる人間の本質などと言うものは神が言うまでもなく確定されたものではなく、自由意志の中で「何を持てるか」にかかってくるように思います。

 

 自己の定立、定律

 

 前回のブログに「建立」という言葉を書きましたが、まさに「何も持てるか」にその意味を重ねます。

 

 脳科学から言えば意識の認容は何秒かの遅れがあるようですが、それでも連続性の自覚において自己を刻まなければならないと思うのです。

 

 人間それぞれに持つ常識の表象

 

 心を描き、認識し、認容して行く。

 

 こころの描きを表象というならば、その描きの根源を知りたいものです。

 

 人文学者の大澤真幸先生は講談社『群像』の中で「<世界史>の哲学」を連載していますが、軽薄な私が語るのも恥ずかしいのですが、歴史の営みの中にその表象の軌跡を語っているように思えます。

 


睡蓮と建立

2016年06月16日 | ことば

 6月のこの季節に決まって出かける場所があります。安曇野市の西部に位置する室山地区にある池で、睡蓮(スイレン)がその可憐な姿を見せています。

 

 睡蓮は仏像の台座にも使われ美しさとともに何か神聖さを感じさせる感覚を引き出してくれます。過去の記憶をたどってもこの睡蓮の花が美しいものだと教えられたわけではなく、最初に見たときから美しいものだと感じていたように思える。

 

 よほどの変わり者で無いかぎり、この花は美しいと感じるに違いありません。善悪で二分するならば徹底して善に入る出来事です。

 この善は昔に生きた人も、いまを生きる人にとっても変わらない善に違いなく、善(ぜん)の心、善(よし)の心は、殺戮の凶悪な世界とは別物です。

 なぜ人間はこの善の心を持続できないのか。

 悪があるから善が引き立つ、生があればあれば死があるという縁起の解釈で事を進めようとしても、人間だからといったところで世の悪を見ると無意味さだけが残ります。

 あまりにも無駄なことがある。

 有用性だけがこの世を占めることはないと知っていても、無意味さの現れるその意味が解りません。

 時間と空間

 清貧に見えた舛添さんも無意味な世界に堕ち、悪者のイメージが覆いつくします。

 

 この舛添さんもこの睡蓮は見たときには、美しいと思うに違いなく、何があなたをそうさせたのでしょう。公金の私的流用の根底にあるもの、そうすることを欲した意識。

 欲心がその美しさを阻害し、堕落した。人間は生き人間は堕ちる。

 欲とはかくも悪世界に人間を導くものです。

 仏像の台座の話をはじめに書きましたが、「建立(こんりゅう)」という言葉を目にすると仏像の建立を思い出します。何かを作り上げるときに使う言葉です。

 この言葉をわたし自身を視点にして他者を「あなた方」と言わしめる「私」を意識する時にそこにある私が作り出されたという意味で建立という言葉を使うとどうなるか。

・・・・普通に私と称しているのは客観的に世の中の実在しているものではなくして、ただ意識の連続して行くものに便宜上私という名を与えたのであります。何が故に平地に風波を起こして、余計な私というものを建立(こんりゅう)するのが便宜かと申すと、「私」と一たび建立するとその裏には、「あなた方」と、私以外のものも建立するわけになりますから、物我の区別がこれでつきます。・・・・

 私があるということは建立されたものである私がそこにいるということで、建立という言葉が使われていると何か違った感覚を受けます。

上記の文章は夏目漱石先生の『文藝の哲学的基礎』という芸大の学生に対する講義に出てくる話で、この時代の人々は「建立」という言葉をこのように使うことがあったわけです。

 しかし現代では会話の中で、「私がある」ことに関係して「建立」などと言う言葉を使うことはなく、誤った言葉の使い方のように思ってしまいます。漱石先生の生きていた時代には、自分を建て興すことについて、私が成ることに対する強い意志が感じられます。

 まじめな人の生き方から逸脱していた自分を軌道修正する時、やり直し、作り直し、建て直し。

 建物を作るように、石碑を建てるようん、仏像を作るように・・・確たる造形に美、形の形成がそこに見られます。

 「建立」がこのような意味に共有できた時代。人間の表現の推移という視点よりも、失われていった何ものかがあるように思えます。

 舛添さんのあまりにもみじめな姿

 形になりそこなった堕落

 私を打ち建てるとは、世間に生きているということであり、そこには、

 美しさのイメージ、美しさの表象、美しさの現れ・・・善の現れがなければならない。

 止まらない意識の連続の中で、いかに善しを持ち続けるか。

 睡蓮は枯れるまでその美を持ちつづけます。「美」も「よし」と訓読できるわけで、睡蓮の形あることに、日本語の「よし」を考えさせられます。


善悪の此岸と美的感覚

2016年06月01日 | 芸術

 独特な水玉模様の絵で有名な松本市出身の草間彌生さんは、世界的に有名な画家です。幼い頃から幻聴や幻覚に悩まされ、絵を描くことがその精神的苦痛からすくわれるみちでした。その画風は独特がゆえに好みが二分されます。

 二分とは、好き嫌いあるということであり、言葉を換えれば善し悪しの評価でもあります。

 わたしは草間さんの描く世界が好きで、番組紹介でもありますが過去ブログ

 NHKスペシャルは、“水玉の女王~草間彌生の全力疾走~”・反復と増殖の体験、創造価値[2012年09月30日]

をアップしたことがあります。好きということは「こころかれる」ということで、「善しの是認」であり魅了されることです。描く側からすれば「こころの落ち着きどころ」の創造であってこころの趣くままの表現がそこにあります。

 見てすぐにわかるような写実的な絵画ではなく、いわゆるデタラメな描きで意味なしと嫌いな人は言うかもしれない。嫌いな人は「ひかれない」のです。

 描く側からすれば意識的、無意識的かはわかりませんが、そのように造形しなければこころの収まりどころがないわけで造形とは創造する側(描く側)の心の表現でしかありません。

 ハンス・プリンツホルンの『精神病者はなにを創造したのか』(ミネル・ヴァ書房)は日本の著名な小説家にも影響を与えたといわれる古典ですが、最近ある個展でこの本を進められ「描く」という世界の奥深さを知りました。

 創造の世界では最近「土偶」の「形」に非常に惹かれます。大きな目、細い眼、胴体の文様・・・縄文の人々がこの独特の形を創造したわけで、この形に落ち着きどころがあり、その存在は宗教性と密接な関係があるようですが、「ひかれる」こころの働きは、人間の創造性の根底から共通に吐き出される風のように思えます。

 個展の会場で次の絵が私の心をつかみました。

 

 日本画を描く妻は「怪訝」を表明したが、私はどうしても「ひかれる」から離れることが出来ませんでした。この絵を描いたのは二十代の女性で話を聞くと、展示会の作品群の中で最も心が落ち着いた時の作品で、ある意味そこにこころの今の完結があることを話されていました。

 ほかの絵は輪郭線のない色の境目だけで円や模様を描いていましたが、この絵は特徴的に人物らしき形として創造されていました。

 鬼太郎のお父さんのような大きな目

 すべては輪郭線、人間でいえば革であり外界との境界線です。

 私個人は土偶を想像したのですが、彼女は土偶には興味がないということで、土偶の造形は全く意識していないとのこと。



 

 私はなぜ土偶を思ったのか。

 

 体らしく胴体部の模様は、土偶に刻まれた刺青の跡ともいわれる文様に酷似しています。

 

 目は遮光ではなく、頭部は三角ではなくまん丸。

 人間の心のひかれる、深層の世界には好き嫌い、善し悪しととらえてしまう創造の世界が現れます。

 物語る人間、描く人間、語る人間

 世の中には好き嫌い、善し悪しが溢れています。

 その境界が現れるときまさにその人間が現れているわけです。

  世の中の善悪は存在の証でもあります。絶対悪としか思えない死が創造されている事実を私は今、悪と表現しました。

 そこに私の現れが出ている。

 プリンツホルンの『精神病者はなにを創造したのか』は、この現れの世界を語っているように思えます。