太陽信仰に傾倒しているのではないのですが、眠りから目覚めるとあかね色に輝く夜明けを見たくなり身近な絶景ポイントに出かけます。今朝は雨模様で出かけませんが、この早朝の我が行動は意識しての行動ですが、なぜにそうしたいのかということになると、「美しさを求めて」となります。
しかし、そう考えたところで、なぜ美なのかとなると、「求め」の衝動は意識されない意識とでもいえそうなこころの根源の衝動となってしまいます。
これは深層心理学の無意識とは異なり、あくまでも意識されない意識であって、わたし自身の行動選択において意志は貫かれています。
墜落人間、堕落人間
人生の道を、線路を、逸脱するに至る路線の誤りにおいて、意識されない行動があるであろうか。
欲望に促されての転落
欲する私を意識できない、そんな状態があり、欲望のままに落ち行く。
欲することがすべて悪ならば落ち行く世界がその衝動の根源にあることになりますが、そうではないことをだれもが知っています。
今なす、私の行動選択の衝動がどのような結果を招くのか。
昨夜は妻とイタリアンレストランに食事に出かけましたが、転落はなく、これが訳ありの女性ならば大いなる転落への道になります。
こういうことを書くとすぐに何かとこの話に筋書きをつけ、正当化の理由を付して幸せな別人生を作り出そうとする人もありましょうが、墜落、堕落は作り出す意識のなせる業であって意識されない意識があなたをそう導く。
小林秀雄先生の禁煙の話はおもしろい。
医者の指摘に即決断、病院にテーブルにタバコとライターを置き、帰ろうとする。
医者が言う、「タバコとライターを忘れたよ!」と・・・。
小林先生曰く「禁煙しますので!」
「君、目の前にタバコとライターが置いてあっても禁煙できるくらいじゃないと止められないよ!」
と医者が言ったといいます。小林先生は学生に対する講演の中で意志力を高める他者の言葉としてこの話を語り、先生の禁煙は即完結します。
欲望は意識されない意識、自分の目を自分で見ることができないような欲動の意識によって支配される。深層心理学でいうところの無意識に焦点を置けば意志の主人公を意識することはできませんが、今まさになしている自分に冷静沈着に意識を見つめる機会をもつことのでいる目覚め意志を癖付けができるならば、真の主人公を取り戻せないだろうか。
自己自身の弱さを常に反省とともに思い出す人間。意志の強さは信仰においてのみ成立すると結論付ける。
宇宙の根本原理と自分の真我が一如に成れば、健全なる人の道が育つとも結論付ける。
そもそも我などと言うものはなく無我の境地の究めが、人の道が開かれる方法なのだとも結論付ける。
馬鹿な事態に結論付ける自己犠牲、堕落の種が投げやりに放たれれば救いようはない。
意識されない意識
前意識とも呼べそうな極めの瞬間を意識にひき付けることはできないのだろうか。
今まさに自分は何をなそうとしているのか?
生存意欲、生きたいとする人間の本性がそこにあります。