大森荘蔵著「流れとよどみ 哲学断章」(産業図書)の21章「過去は消えず、過去がゆくのみ」の文頭に
過去が過ぎ去るのは水の流れのようにだろうか、音が消えゆくようにだろうか。それはやはり音のようであって水のようではあるまい。
音は生まれたときが死ぬときであり、生じたとが滅するとき。存在するときが存在をやめるときなのである。そして消えた音は過去の音である。
という行がある。
「諸行無常」を語るとき「ゆく川の流れ」などと「水の流れ」を例える場合が多いが、考えてみれば、川の流れを橋の上から見た場合、その水面の一点を固定し見つめると「留まることなく」状態であるが、水の粒子が個別されA粒子と識別されるならば、Aは下流において存在し続け大洋に流れ込み、蒸発し雲となり雨となり雪とになり地上に落下し、川の流れの組成の一部として存在し続ける。
過去は過ぎ去ったものと観る場合、「音」は確かに消滅し存在し続けることはなく、ふり返る人生の過去、訪れるであろう未来は、「音」のごとく発生し瞬時に消滅する。
残るのは記憶としてのそれのみで実態を有しない。感覚、知覚の残骸の記憶である。
「色はにほへど 散りぬるを わが世たれぞ 常ならむ」
仏教で言うところの「色」には、「水」「音」も含まれる。したがって散りぬるものであり、それは常態であり続けるものではない。
先に「水」のサイクル的な話をしたが、科学的には、水の粒子は変化し永遠の固定化されたAという水の個別の実態は存在しない。
釈尊は、科学者であるという人がいるが、実にそのとおりであるなあと感ずる。
しかし、大森氏の「音」は、実にまた感覚的に「瞬間という時」を捉えたとき小生としては、実感がわく話である。
「祇園精舎の鐘の音 諸行無常のひびきあり」
「岩にしみいる セミの声」
音は、また「ひびき」「染入る(漢字とした)」となると過去への痕跡として存在しながら消滅する感覚を得るから不思議である。
早朝の無言(しじま)の中に、秋の虫の音を聞きながら、朝焼けのオレンジ色に輝く雲や小高い丘から眼下に広がる朝もやの中の町並みを観ると「色即是空」とは是かと実感することがある。
「早起きは三文の得」というが歳をとり、早起きになるのは実に是なのだ、と思う昨今である。