先月 NHK教育「こころの時代アーカイブス」で、1990年12月9日に放送された東光寺住職東井義雄さんの「仏の声をきく」という番組の再放送があった。
東井さんは、貧しい寺の長男として生まれ、師範学校卒業後は僧侶でもあり、また教育者として小中学校の教員、校長を経験した人である。
地元には現在先生の記念会館があり教育問題にいかに貢献された方であることがわかる。
今回の番組は、常々人の仏心について考えている小生にとっては、また新たな出会いとなった。
東井さんは、兵庫県出石郡但東町の浄土宗本願寺派の貧しい寺に生まれた。
年少の頃に漢文の先生から休みの宿題として漢文の書物を読むように言われたが、貧しく漢文の書物などは自宅にはなかった。
どうしたものかと考えていたところ家にあった浄土三部経も漢文ではないかということに気づき、これを夏休みの宿題の題材に選んだ。
「仏の声をきく」というこの番組は、この様な話から東井さんの仏の心が開かれていく様子が語られていく。
三部経の中の大無量寿経の
「独り来たり 独り去り 一(いつ)の随う者なし 身自らこれにあたる 代わる者あることなし」
を読んで、早くに死んだ母の最後の呼吸音を思い出し「私という存在は、仏様でも代わることのできない存在であることに気づいた。」という。
「代わる者なし」ではなく、「代わる者あることなし」はかけがえのない私の存在を目覚めさせ、漢文の宿題は如来様の導きで、自分というこの存在は、他人が変わることのできない存在であることに気づかされたというのである。
そして話は昭和7年頃の戦前の不況時代の教員の時の思い出に入る。
このころの世の中は、親が働けど貧しきゆえに昼の弁当を持参できない生徒がいるという時代であった。この現実に対し先生は、世の中の仕組みに問題があると思うようになり唯物思想にのめり込んでいく。
宗教はアヘンなりという唯物論。その中で自分は父親が病気のため僧侶としても生きなければならず各戸を回りながら経を読む自分の姿にたまらなくなっていく。
勤行の「五劫思惟の本願 兆載永劫の修行」こんなでたらめがあるかと思わず心の中で叫ぶ自分。当時の日記にはそのように書かれている。
その後高等小学校5年の担任になった時に生徒からある質問がなされる。その質問とは、「先生のどの奥にある喉ちんこは何のためにあるのですか。」というものである。その存在は知っていてもその働きについてはまった知らず即答することができなかった。
先生は学校にある書籍を深夜まで調べ、それが口蓋垂(こうがいすい)というもので、食べた物が気管に入らないように、喉を食物が通る時に気管の入口にふたをする役目をしていることが解かった。
その時に次の仏の心が開かれる。人間の体の各機関は、自分が意識しなくても生まれた時から機能し自分を生かさんではおかない働きをしている。これが仏さんだったのだ。
親鸞の正信偈
凡聖逆謗斉廻入(ぼんしょうぎゃくぼうさいえにゅう)
如衆入水海一味(にょしゅうにゅうかいいちみ)
これが仏。仏の手のひらの内にある自分。そして東井さんは、無神論から目覚めた。
つぎに娘の死がおとづれる。いつ死んでもおかしくないと医師の宣告。娘の手を持ち脈をとる。
深夜の12時を過ぎる。今日も父と娘であることができた。今日一日父子一緒に生かされた。自分は大きなはたらきの中で生かされている。
観無量寿経
諸仏如来は法界の身なり。
一切衆生の心想(しんそう)の中に入り給う。
仏は思いや心に入り込んで衆生を救ってくれる。
そして46歳の若さでガンで死んだ鈴木章子さんの紹介。
仏様が聞かせてくれた如足我聞。
そこには人間の普通の思いではない如来様がある。生かさんではおかんという如来の願い、はたらきがある。
鈴木さんは、死が間近になり夫婦の寝室を別にした。
寝る時刻になると「今日は出会えてよかったね。また明日会えるといいね。」朝「お父さん会えてよかったね。」「お母さん会えてよかったね。」
との夫婦の会話。
健康であったならば、ありえない会話。「ガンのおかげさまです。」と鈴木さんは言う。
信者でなくても一般の人でも如来との出会いがある。
死刑因久田徳三のは、最後に人間に生まれたことを喜び。監獄長から差し出される最後のタバコを普通の死刑因ならば時間をかけ吸うのに「尊い世界に生まれるのですから。」と断り13階段を登っていったとのこと。
歎異抄9章「なごりおしくおもえども 娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土(ど)へはまいりたきこころなきものを ことあわれみたもうなり」
東井さんは、今度は自分がガンに罹り、さらに教員になっていた息子さんの災難が東井さんを襲う。早朝の学校でのランニングの際に胸の痛みを訴え息子さんが倒れたのである。この放送の時は植物人間の状態であるという話であった。
大無量寿経
至心に廻向し 彼の国に生まれんと願ずれば 即ち往生を得 不退転に住せん
十七世法如のことば
仏のはたらきは、助けてくださいよというにあらず。助かってくれよとある仰せに従うばかりなり。
傍から見ると苦難の連続で、どうしてこの人ばかり不幸に遭遇するのかなどと思ってしまう。が先生は、この世は諸行無常で何が起こるかわからない。が、現在が仏の御手の真中だという。
目で見させてもらい。耳で聞かせてもらい、そして生かされている私たち。仏様から願われ、拝まれている私たちなのである。
道元正法願蔵
ただ、わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれて仏となる たれの人か、こころにとどこほるべき
人は人になるために生まれ、本当の人になるために生かされている。そのために第二の誕生をむかえ永遠の命の人間となる。
仏はそのために目覚めさせないではおかない。
「至心に廻向し(たまえり)」が仏の意向。そしてその中の私
最後に司会者の「それが信仰の極みですね。」という問いかけにうなずく東井さん。
その後(5月後)不慮の災害で東井さんはお亡くなりになった。
仏の御手は、心の内にある。手のひらの中でありながら心の中でもある。仏心はそれで固まるものでもなく、第二、第三、第四とこの世に生かさんではおかない仏の至心なのである。