森羅万象、事物や自然現象も含め人間との関わりの中で、古代日本人がどのような感覚で自然を捉えていたかについて、「やまと言葉」を中心に考察している。その中で仏教が、古代の神国日本に大陸からもたらされ、今日のように根付くに至った不思議に古代日本人の姿をみる。
仏教には「山川草木悉皆成仏」「一切衆生悉有仏性」という言葉がある。思考の視点は、自然物や人間の中に「何ものか」、この場合は「仏心、仏性」の「在(有)る」や「無しや」に向けられる。
この場合には、この世に存在する事物や自然現象においてそこに存在する全てのものが同一、平等(仲間的な)に存在する姿として見る姿勢がなければ成立しない言葉である。 仏教の
慈悲という言葉には、原語的に「平等、仲間、兄弟」の意味があるが、古代日本人にはそのような言葉のもつ意味が支障なく受容できる感覚があったからだといえる。
「やまと言葉」に「からだ」という言葉がある。漢字で表記すれば「体」である。
「から」という言葉には、稲の殻(から)、亡骸(なきがら)の骸(から)の意味がある。この意味から「から」には、国文学者中西進先生の解釈によると、彫刻の「トルソー」のように手足を付けない骨組みのような、物の根幹の部分を表す発音なのだそうである。
すると「からだ」の「だ」は何を意味するんか。「やまと言葉」の「えだ」という発音には、「木の枝」や「手足・四肢」の意味があることから、中西先生によると、これは採トルソー的なものに「えだ」を付け、元々は「からえだ」と発音していたものが、日本人特有の日本語の発音を短縮するところから「からだ」と発音するようになったということである。
中西先生の「『やまと言葉』とコスモロジーの世界」になるのだが、実に古代日本人の自然物(やまと言葉では、「もの」)との関わり中で、精神世界の重要な部分に事物の認識を「動的な働き」で捉える傾向を見ることができる。
草木の枝も身体の手足も古代人にとっては同じ働きという性質であるという直感で捉えることができた。
「花・鼻」は、「やまと言葉」では「はな」と発音される。これを「働き」の視点からみると、そこには「他よりも先にあるもの」という意味がみえる。
人間の鼻は、顔の中ではさほど突き出ている形状ではないが、犬や猫などの動物を見るとその意味するところが解る。さらにそこには古代人が動物をどのように関わりの中でみていたかも解る。
思うにこのような発想の根源は、物事の捉え方を統一の場という全体の中でみるからではないだろうか。すなわち「己」と「他」の別のない主客が統一された世界観で、物事をみているということを意味するのではないだろうか。
匂える「色」も匂う「香り」も漂いの働きにおいては、同一であると認識する感覚、植物も人間の体も同一の働きの中でみる感覚、この古代人の感覚は、世界というものが「何ものか」によりネットワーク化されていることを意味する。中西先生は、そこに「け」という「やまと言葉」の存在を考えている。漢字で書いてしまうと「気(き)」という中国語を想起してしまうが、「もののけ」の「け」がそれである。言語学的に「か行」だから「き」が「け」に変化したと思いがちだが、そもそも「気(き)」という言葉が入る前に既に「け」という発音とその言葉の意味する概念が成立していたのである。
今朝のNHK教育の「こころの時代」では、「自然」という言葉が板橋興宗禅師から禅的な説明されていたが、まさに古代人は西洋的な単なる存在、作為のない存在の意味の「natura」の視点で「自然」を観ない。
「け」という働きでネットワーク化された「自然(もの)」として見ていたのである。
このように観ていくと「仏心・仏性」が、大乗仏教の「色」という今現在の現象の中で素直に受け入れられるのは、正に日本的なのである。
そこには明滅なき光の源である「何ものか」に照らされ、明滅する、ぎらぎらと輝く「われ」がある。