「近藤喜文」(こんどう よしふみ 1950.3.31 ~ 1998.1.21)とは、劇場用アニメ「耳をすませば」の監督であり、日本アニメ界の巨匠「高畑勲」と「宮崎駿」が争奪戦を繰り広げたと言われる伝説のアニメーターである。
「日本というより世界で指折りのアニメーター」鈴木敏夫
「絵のうまい人ならいる。だけどそれを立体的に動かし“感じ”といえるものを出せる人はいなかった」高畑勲
業界関係者からは「近藤喜文(こんどうきぶん)」と呼ばれて親しまれていた。
概要
3歳の頃に肺を患った事から身体が丈夫ではなかったが、新聞とはさみを持つと1日中何かを作っていたという少年時代を過ごし、高校生の頃は美術部に所属して毎日スケッチブックを持ち歩いていたと言われ、高校卒業後に上京して東京デザインカレッジ・アニメーション科に入り、卒業後は専門学校の講師を務めていた大塚康生のいた「Aプロダクション」に入社し、才能を認められてTV第1シリーズの「ルパン三世」等の原画を担当し、劇場用映画「パンダコパンダ」では、後にスタジオジブリで作画面を支える事になる「高畑勲」と「宮崎駿」に出会った。
1978年に日本アニメーションに移籍し、宮崎駿と共に「未来少年コナン」に参加し、「赤毛のアン」ではキャラクターデザインを手掛けた。1980年にはテレコム・アニメーションフィルムに移籍して宮崎駿が監督した「名探偵ホームズ」のキャラクターデザインを担当する等、友永和秀と共に活躍した。
しかし、体に負担のかかるアニメーション制作作業が、幼少時に肺を患った事から持病としていた自然気胸を悪化させて入院する事になり、テレコム・アニメーションフィルムを離れた。
にてキャラクターデザインと作画監督を担当した他、宮崎駿監督作品の、
では作画監督を、
では原画を担当してスタジオジブリの特徴である優しくて暖かみを持ちつつ、時には悲しみも覗かせるキャラクターを生み出し、1995年には、初監督作品で生涯唯一の監督作ともなった
1997年には、宮崎駿が監督を務めた「金曜ロードショー」の新オープニングでは、作画・演出を担当した。
高畑勲が「火垂るの墓」を、宮崎駿が「となりのトトロ」を同時に制作しようとしていた際には、近藤喜文をどちらのスタッフにするかで争奪戦が繰り広げられ、高畑勲は、近藤喜文さえスタッフに加えられれば残りのスタッフは全て宮崎駿が先に選んで良いと言い切る程で、板挟みになった近藤喜文はプロデューサーの鈴木敏夫に相談し、
宮ちゃん(宮崎駿)は自分で描く事が出来るから
それなら僕は入院する。腱鞘炎だ
と言って宮崎駿は抵抗を試みたが、夢の中で近藤喜文を殴ってすっきりしたからと言う事で折れ、高畑勲の「火垂るの墓」のスタッフとなり、こうして夏に日本人そして海外まで号泣させる人を量産するアニメに携わる事になった。
しかし、普段から無口で絵を描いている時が一番幸せそうな顔をしていたと言われる近藤喜文にとって、「耳をすませば」で宮崎駿との間で演出面等での衝突を繰り返し、変更を要求し続けるといった過酷なアニメーション制作作業は、180cm近い長身ながら痩身小食で、自然気胸を持病に持つ身体に容赦なくダメージを与え、スタジオジブリ映画の制作中に何度も入退院を繰り返し、締め切り近くに入院しなければならない状況になると、針治療でごまかして作業を続けたと言われている。
そして「もののけ姫」がヒットを記録していた1997(平成9)年の暮れ、自宅で解離性大動脈瘤に倒れた近藤喜文は、病室に届けられた画用紙に何かを描こうとしていた最中の1998(平成10)年1月21日、47歳の若さで帰らぬ人となった。
スタジオジブリの後継者と目されていた近藤喜文の死を知った宮崎駿は、「耳をすませば」での自分の過酷な要求が
自分が終わりを渡してしまったようなもの
と語っている。
葬儀の出棺の際には、監督デビュー作品の「耳をすませば」の主題歌「カントリーロード」が流れていた。
「後進への影響も大きく、彼の死によって日本のアニメーションが失ったものは非常に大きい」叶精二
作品リスト
監督作品キャラクターデザイン・作画監督劇場用アニメ作品 |
TVアニメ作品 |
※その他の関連作品についてはWikipediaの該当項目参照
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
関連人物 |
関連作品 |