1986年、東南アジアのインドシナ難民キャンプの任期のあと、東アフリカのソマリアに行くことになりました。
・・・と書くと、何だかとても勇敢に活躍したかのようですが、タイトルの通りでした。
憧れのアフリカでの医療救援参加に、意気揚々として飛行機に乗り込みました。
パキスタンのカラチ、ドゥバイを経由して、ケニアのナイロビに着くまで当時で36時間ぐらいかかったと記憶しています。
その飛行機の窓から見える風景の変化で、私はすでに少し後悔をし始めていました。
というのも、東南アジアの緑と水の風景に慣れきった私の目には、砂漠地帯の風景がもう地の果て、いえ、宇宙の惑星にでも行ったかのように映りましたから。
でもナイロビに到着する頃にはまた緑が多くなり、気を取り直したのでした。
そしてエチオピアとソマリアの隣国であるケニアの首都は、飢饉も戦火も感じさせない日常とにぎやかさがありました。
ケニアからソマリアへの週に1便のフライトを待つ間、ナイロビに滞在しました。
本などで見てイメージしていたアフリカでした。
治安の悪さなどは想定内でしたが、ケニアの人は体格が良いのか植民地時代のなごりか、ホテルの洋式便器の高さには泣きました。
爪先立ちをしないと足が届かなかったのです、私には。
<ソマリアへ>
さて、いよいよソマリアのモガディッシュへ到着しました。国境を越えただけで、一変して砂漠地帯がまた広がり、わずかな低木が目につく程度でした。
首都といっても、それまで暮らした東南アジアの国の地方の村のほうがよほど整備されていると思うような状況でした。
モガディッシュから車で数時間、難民キャンプに入りました。
こちらの記事の<一日にバケツ一杯の水で生活をする>に書いたように、ソマリアに2つしかない川のそばにスタッフハウスがありました。
wikipediaのソマリアに、「ジュバ川、シェベリ川以外に四季を通して水の流れる川はない」と書かれていますが、たしかシェベリ川の方だったと記憶しています。
水や緑がない風景が、こんなに自分に合わないなんて考えたこともありませんでした。
日が沈むとランプの節約のために寝るしかありませんでしたし、持っていったラジオも短波放送さえうまく受信できず何もすることがありませんでした。
あたりが薄暗くなるまで夕日が砂漠の果てに沈んでいくのを眺めながら、ウォークマンでボブ・ディランのカセットテープを繰り返し繰り返し聞いていたのでした。
<市場にも何もない>
東南アジアで暮らして楽しかったのが、にぎやかな市場に行くことでした。
「私たちの国は貧しい」と会う人ごとに言われましたが、野菜や果物、魚などが山と積まれている市場には、生活する楽しさのようなわくわくさせる雰囲気がありました。
飢饉や内戦に直面しているエチオピアやソマリアでしたから、食糧が豊富にあるとは全く考えていませんでしたが、そこの生活を垣間見れるのではと市場に行く機会を楽しみに待っていました。
キャンプ近くの村の「市場」にはお店が数件ありましたが、わずかの洗濯用洗剤(現地の人はこれで頭から体まで、そして食器も服も洗います)と、わずかのビスケット、そして野菜といえば数個のジャガイモが売られているだけでした。
あと、ソマリアはもとイタリアの植民地だった影響でスパゲッティをよく食べるので、イタリアから輸入されていたものが売られていたぐらいでした。
スタッフの食事のためにその数個のジャガイモを買い占め、そして空腹に悩まされていた私はその店にあるビスケットを買い占めてしまったのでした。
<人生で初めて飛行機を止めた>
なんとか気持ちを支えていたのは、実は最初から任期が2ヶ月という短期間だったからです。というのも、私たちの援助団体が活動していたプログラムはすでに赤新月社に引き継ぐことが決まっていたからです。
1977年にエチオピアのソマリ族によるオガデン州分離独立運動によるエチオピア難民ですから、もとはソマリアの人たちと同じ民族であり、多くはイスラム教徒でした。「イスラムの同胞は我々が守る」ということで、赤新月社に引き継がれたのでした。
これで緑と水の豊かな日本に戻れるという解放感は、帰国の途に着くモガディッシュの空港で無残に壊されました。
出国手続きで、念入りに手荷物チェックから身体検査までされました。入国の際には問われることのなかった日本円の所持がひっかかりました。
「ソマリアでは日本円を両替できないし、入国前にも申告させられる話は聞いたことがない」と言っても、相手も頑として譲りません。
こういう場合は、「袖の下」を要求していることはわかっていました。公務員といっても給料では食べていけないので、あちこちの空港で体験しましたから。
なぜかその時の私は、絶対にこの賄賂の要求に屈するものかと、あの手この手で抵抗しました。
「国連関係のキャンプで働いてきた。そこに通報する」と、自分でも一番使いたくなかった権威をちらつかせたのでした。
結局は、時間切れということで何も払わずに解放されました。
週に1便のナイロビ行きの飛行機は、私の搭乗を待ってくれました。
「二度と来るものか」と心の中で毒づいて、座席に崩れるように座ったのでした。
「世界はひろいな」まとめはこちら。