小石川療養所をテーマにした時代劇をどこかで目にした記憶がかすかにあるのですが、なぜか江戸市中の平坦な場所に建てられたイメージがあります。
実際に歩いてみるとそこは段丘のへりであり、江戸時代であれば少し人里離れた森の中だったのではないかと想像しています。
現代であれば、病院は駅から近いといった交通の利便性が予定地を決める大事なポイントになることでしょうし、街中に病院があっても苦情は出て来ないことでしょう。
ところが少し前まで、少しというのは半世紀ほど前ぐらいでしょうか、病院とは人里離れたところにあるのが当たり前だったのではないかと、小石川植物園を歩いてみていろいろと考えました。
「病院」のイメージは、現在80代とか90代の私の両親の世代と私でも大きな隔たりがあることでしょうし、私と20代30代の方々ともまた大きな違いがあるのではないかと、記憶をたぐり寄せています。
<国立病院や療養所の変遷>
私が看護学校受験のために、あちこちの資料をとりよせていた1970年代終わり頃、当時の大きな病院の多くが微妙に駅から離れた場所にあり、受験に行くのに時間がかかることが気になりました。
当時は、その意味を深く考えることはなかったのですが、次第に吉村昭氏や三浦綾子氏のように結核の闘病記を読んだり、少しずつ戦前の歴史がつながるようになって、軍の病院や結核療養所などが前身にあったという国立病院・療養所の変遷が見えてきました。
1980年代になると、都内23区はまだ農地が残っていたものの現在と変わらない近代的な都市になっていました。
病院も国立だけでなく、私立の近代的な設備の総合病院があちこちにありました。
少し駅から遠いところにあるのは、地価が安いからだろうと思っていましたが、病院の歴史を読むと結核療養所が前身だったことが書かれているのを見つけて驚いた記憶があります。
当時は都内屈指の住宅地としてすでに開発されていましたから、昔、そこに結核療養所があったことが驚きでした。
その後、その地域の終戦直後の写真を見る機会があり、まだ見渡す限りの農地と森林でした。
郊外への住宅開発が進んだのは1950年代後半頃からのようです。
その病院は小高い所にあって、今でこそおしゃれな住宅地がその坂道に沿って広がっているのですが、終戦直後ぐらいの時期には、寂しい人通りのない山道だったのだろうと思います。
結核のように、化学療法が確立するまでは、ただただ「転地療養」しかなす術もない病気がほとんどだった時代は、私が生まれる少し前まで当たり前だったのだということを時々思い出しては愕然とするのです。
小石川療養所の場合には、薬草園があることで「治療への希望」のようなものを持てたのかもしれませんが、そのほとんどが運と体力次第の療養が実態だったことでしょう。
私が看護学生になってから40年ほどの間にも、めまぐるしく病院が統廃合されているので、昔あった病院の記憶が薄れてしまっていますが、なぜそこにその病院があったのか、地形も合わせて考えてみるのも興味深いことだと、小石川植物園を歩いて思いました。
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