生前の父が声を失ったあたりから、ただただ表情から父の意思を推測するしかなくなりました。
そのためにベッドサイドでじっと父の顔や体の動きを観察して書き留めていたのですが、記録は宇宙の果てへと消えてしまいました。
その数々の観察の中で印象に残っているのが、うつらうつらと眠っていた父が目が覚めるとしばらく吐き気が起こるらしいことでした。
何か新たな病気で調子悪いのかと、通常なら思うことでしょう。
私は、「あ、新生児と同じだ」とその状況を理解しました。
出生当日から2〜3日の新生児に時々見られるのですが、目が覚めてぎゃーっと啼き出したり目を開けてちょっと緊張した表情の後に、「オエーッ」と気持ち悪そうな様子があります。
しばらくすると、ゲボッとしてうーんといきむ様子があります。
「目が覚めただけでも超蠕動が活発になり、吐き気のような様子があるのではないか」
新生児を見ていて、そんなことをずっと考えていました。
まあ、吐き気はなくても、大人も目が覚めてすぐに便意が出ることもありますしね。
父も吐き気のような様子が終わると、またいつもの澄んだ目の達磨大師のような表情になるのでした。
あの苦渋面は、悲しいとか辛いといった感情というよりは、体内の生理的なものからきているのだと受け止めました。
<プロセスレコード>
認知症になった父の日常の様子を観察するようになって、看護学校時代に学んだプロセスレコードを今までずっと対人関係において実践し続けてきたことを、はっきりと意識したのでした。
今でも、プロセスレコードを学ぶのでしょうか?
検索してもあまり説明がないのですが、「ナースのヒント」というサイトに説明がまとまっていました。
「1. プロセスレコードとは」にこう書かれています。
プロセスレコードとは、1952年にヒルデガルド・ぺブロウが提唱した、看護師と患者間の相互関係に置ける文章記録のことで、看護の振り返りとして行われる「リフレクション」の過程の中での記録にも用いられています。
患者の身の回りのお世話や手技による看護実践はもちろん、言語・非言語による「コミュニケーション」も看護の1つであり、多くの場合、傾聴することで患者の精神的安楽を図ることができます。
しかしながら、日々の関わり合いの中では、患者が何を考えているのか、何を感じているのかという気持ちを瞬時に理解することは難しいのが実情です。
そこで、患者との関わり合いの中で気になった会話や行動を振り返り、患者の言語は何を意味していたのか、自分の言動が患者にどのような影響を与えたのか、状況に応じて適切な回答ができたのかなどを具体的に文章に記す「プロセスレコード」が重要になってくるのです。
私は1970年代終わり頃に学んだのですが、ぺブロウが提唱してからまだ十数年だったのですね。
具体的に何を記録しどのように活用するのかについては、「3. プロセスレコードの書き方・記入例」があるので関心を持たれた方は検索してご参照ください。
もうはっきり記憶がないのですが、看護学生の2年生で学び、2年生3年生の臨床実習では受け持ち患者さんについて必ず書いて提出する課題の一つだったと思います。
病棟実習に行くだけで緊張し、看護とか医療の右も左もわからないレベルで、実際の患者さんを前に何を観察して何を記入したのだろう。
全く、記憶がありません。
ただ、「うまくまとめて考察を書かなければ」という思いと「うまくまとめた記録は事実か」という葛藤だったのでしょう、ちょっと苦手だった記憶がかすかにあります。
こんなまどろっこしく、そして作文みたいなことをして、本当に看護に活かせるのだろうかと。
ところが、無意識のうちに相手を観察し、観察している自分を観察し、観察の精度を高めることに役立っていたのだと。
ただし、観察の方法や記録の方法が間違っていたり、そこから導き出す方向性にすでに答えが先にあったりすると、ひどい記録になってしまうのかもしれません。