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行間を読む 226 「日本はさらなる移民受け入れを」

12月15日に「インド出身の亀田製菓会長『日本はさらなる移民受け入れを』」(AFP・時事)という記事に気づいた時にはまだコメントは1300ほどで、それでもすごい反応だと思っていたら、翌朝には7000以上のコメントになっていました。

 

「えっ、あのお煎餅の会社の会長がインドの人?」と不意打ちを受けたのは私だけではなかったようです。

さっそくWikipediaを読んでみたら、本社の住所を見て「戦前、現在のJR新潟駅や周辺の繁華街までを含む亀田郷一体が、その”地図にない湖”であった」あの「亀田駅周辺」つながりました。

 

そして現在、「日本最大の米菓メーカー」で「概要」にはこんな話がありました。

1946年に中蒲原郡亀田町の農民が共同で出資し亀田郷農民組合を結成し、元町地内(元元町工場および関連各社所在地)に委託加工場を開き、水飴の製造を開始した。

1950年に法人組織に改組され、亀田町農産加工農業協同組合に改称、製造品目も水飴から米菓に転換した。

1961年に、あられ「サラダホープ」を発売すると記録的な売り上げを達成し、大手メーカーとしての礎を築く。

 

「1969年(昭和44年)ー広告・宣伝がスタート。「亀田のあられ・おせんべい」のキャッチフレーズを採用」

その音楽とキャッチフレーズがテレビで流され始めた頃、小学生だった私はすっかり「新潟は米所」のイメージでしたし、近代的な工場で大量生産が可能になった商品を全国で販売する物流が当たり前になり始めた時代でした。

 

ところがこの亀田郷農民組合ができて水飴を作り始めた頃はまだ、「地図にない湖」かと思うような「潟」が広がる地域で水に浸かりながらのどぶね農業の時代だったようです。

 昭和20(1945)年代に大規模な排水機城が設置されるまでは、潟周辺の農耕は、腰まで水に浸かる低湿地の湛水田の中で作業が行われていました。

 

腰に水まで浸かりながらの農作業の大変さだけでなく、「三年一作」と呼ばれるぐらい収穫量が低い新潟平野だった時代が、私が子どもの頃にもまだあったようです。

 

 

1953年に新川右岸排水機場が完成し、1970年代に次々とつくられた排水施設によって潟から新潟平野へと変わり、信濃川水系を網羅した治水と利水が行われるようになった。

そして1920年代に江戸時代からの念願の大河津分水が完成し、さらに1972年には関屋分水が完成したこともまた、お煎餅の原料の安定した収穫に寄与しているでしょうか。

あるいは米菓本社や工場が水没しないように、さまざまな排水施設で守られているのが新潟平野のようです。

 

 

*「日本経済の高度成長期の栄光」?*

 

さて冒頭の記事を読むと、現会長は1984年に初めて来日したようです。

 

コメント欄で略歴を見つけました。ほんと、市井の人の正確な記憶と記録に感謝ですね。

ジュネジャ・レカ・ラジュ(亀田製菓代表取締役会長CEO)

1984年に大阪大学工学部に研究員としてインドから来日し、1989年に名古屋大学大学院生命農学研究科博士課程を修了、同年太陽化学に入社。2003年に代表取締役副社長に就任、その後複数の海外グループ会社の最高責任者を兼任。2014年にロート製薬で取締役副社長兼チーフヘルスオフィサーに就任。2020年に亀田製菓代表取締役副社長に就任、2022年6月から現職。

 

1947年生まれぐらいでしょうか。

来日された1980年代は、たしかに「日本も先進国入り」の雰囲気が強い時代で私たち20代も意気揚々と海外へと出始めていました。

1984年に初めて来日。ジュネジャ氏は、「40年前に日本に来たのは、国内総生産GDP)がほぼ世界1位だったからだ」と振り返った。しかし、ある時点で「日本は『すべてを手に入れた』」と思い込んだ。そして、世界に挑戦するハングリー精神が少しずつなくなり始めたのだと思う」と話した。

 

そうそう、こういう「遅れている」とか「先進国とはいえない」と不安に駆られてきた半世紀によって、本当に価値があるものを見失ってきたのだと思うこの頃。

 

「潟」を米どころに変えさまざまなお菓子を生み出した排水・治水・利水の土木技術、そして新幹線や高速道路網を整備してきたのは、「水害や旱害による人的被害や経済損失をなくし、皆がこの地域で暮らしていけるように」というハングリー精神に他ならないですからね。

 

そして何より、移民や出稼ぎに行かなくても済む国になり、国全体の経済状態が良くなっても「階層」を気にしなくて良い社会であり、さまざまな問題も失敗も乗り越えて環境も経済成長も守るという方向へ向かってきた。

それもまたハングリー精神だと思えるようになってきました。

 

もし、この方が1970年代ごろから新潟に住んでこの地の製菓会社の会長になられたら、また違う風景が見えていたかもしれませんね。

もしかしたら「この日本の排水の技術を、自国やお隣のバングラディッシュのデルタに生かせるかもしれない」、「そうしたら国民を移民にしなくても済む」と違う道を進んでいたかも、と妄想しました。

ただ一旦社会の階層を作ってしまうと、そこから発想を変えるのは容易なことではなさそうですね。

最近、日本でも「富裕層」を自称する人が出てきました。

 

 

信濃川水系の土木技術なくして柿の種はなかったかも*

 

 

あの信濃川水系の土木技術なくして、好きなようにお煎餅を食べられる幸せな時代はなかったかもしれないとこの記事から思いました。

 

亀田といえば柿の種、柿の種といえば長岡の消雪パイプと「元祖柿の種」とつながりますね。

 

半世紀ほど当たり前のようにお煎餅を食べていたのですが、雪国から米どころになる驚異的に変化する時代だったのだと思えてきました。

 

年中、美味しいお煎餅を食べることができる。そしてその産地には美しい水田と街がある。

そして排水不良の土地でも経済的な農業を営み、過酷な労働から解放されるようにという願いが叶いつつある、ほんと、有難い時代になりました。

 

 

*おまけ*

「インド」はインダス川に由来しているとWikipediaに書かれていて、目から鱗でした。

インドの「水のあれこれ」、知らないことばかりです。

 

 

 

 

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