『言行一致の勇気ある実践哲学者が、なぜ現代情報化社会に生まれてこないの
『言行一致の勇気ある実践哲学者が、なぜ現代情報化社会に生まれてこないのか?』
ネット苦手人間なので リニューアル後のタイトル文(上記のような)を書く場所が解かりません^^。
あとで重複箇所が出来てしまう場合は 取り消せるなら上記の部分を消すことにしてともかく書いてみますね。
私はアカデミックな哲学の世界にたいへん無知な人間なのですが 現在 アカデミックな哲学の世界に失望しています。
なぜ、 諸学問を統合して、 人間に役立つ論理の構築をしてくれないのでしょう。
同じ生涯の意識内の世界であるならば、すべて学問はすべて有機的なカタチで結びついているはずです。 それをより生き生きと 私たち人間の生涯に役立つように総合的に考察して そこに その礎(いしずえ)となるような精神的バックボーンを与えてくれ、そこに、現代の問題がいかに大きく複雑でも それを解決する糸口や見通しをつけるべく、すくなくとも その実践のための土台を提供し、 そこにコミュニティなり 社会なり 政治なりに実践をともにしてくれる哲学が、 なぜ、 いままでの哲学を多く総合的に学んでこられた方の中から出てこないのだろうか?
それが、アカデミックな過去の哲学への 私の疑問です。
現代は情報化時代であり、 昔より多くの人間の問題を よりリアルに認識し、考え抜き、迷い、解決の糸口を求めつづける端緒が私たちの生涯の意識の中には、 そこから目をそらさない人であるかぎり、 育ち膨らんでくるということもあるかとは思います。(昔の哲学よりも、現代から生まれつつある哲学を重視しようという考えです)
が、そのための、学問の総合化への意思を、 哲学の質疑に、今のところは見出せないでいます。
建築の図面を描けば、それは建築物を作るときに役立ちます。 その建築が どのように私たちの生涯と関っているのか、より大きく関れるのかを分析すること(哲学すること、総合的に現代の諸学問、科学を活用して考えること)は、さらに役立ちます。 それだけよりよい図面を描けるようになるからです。 が 同時に そこに人間に役立つ諸学問、諸学問の成果とは関係ない、 無数の線を引いてその意味?を問い続けることもおそらく論理的には可能でしょう。 でも 哲学ってそれでいいのですか?
痛みや、幸せへの希求の世界が私たちの意識の内奥にこんなにも 痛々しく、せつせつとして流れているのが現代文明社会なのに、 なぜ、経済を 苦しみをできるだけ少なくしてさらに発展させる産業や商品アイデアの基盤を総合的に誰も哲学者は考えてくれないのでしょう?
なぜ、医療がこんなにも矛盾の内に存在を余儀なくされて医療自体すらも苦しんでいる時に哲学は何も答えられないのでしょう?
いくらでも 切々とした問題は山済みですが、本来総合的な力を持った思索の世界が 言行一致した実践ととにもあるというのならば、哲学は、この現代にこそ必要な学問(思索)だと思うのですが、
それとも、 例えば事実とか現象とか言う言葉で それを語るのに難しく考えようとすることにこだわっているのが現代哲学者ということであるというのならば、 もはや、わたしは哲学者たちには期待しないで済むのですが(かなり皮肉となってしまいましたが)
みなさんは、 このへんをどうお考えですか?
実践派なので^^、 ゆったりとしていられず、 『すぐに回答を!』を選ばせていただきます。
宜しくお願いいたします。
お礼
回答ありがとうございます。 私も同感であります。 西洋の学問の体系、西洋哲学的狭義における論理や分析は、今までの人類の発展に大きく寄与してきており、我々もその中で生活しております。 その一方で、特に人間の本質的なものや、ありのままの社会を考察、認識し全体を把握する上で、東洋思想は、我々(私にも)には、ヒントを与えるものでありますが、 しかし、これからより一層、東洋思想の影響が強まって、我々の社会に組み込まれるのか?というには疑問があります。 勿論、多方面において一部、そういうものによって見直すべきとの声もあるでしょうが、現実において、大きく表だって建設的役割を果たせるか?については、私は疑問におもうのですが…。