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はてなキーワード: 縄文土器とは

2024-12-09

山梨市観光覚え書き

山梨観光ってしてないなと思い、11月に金曜夜から2泊2日してみた

 

スーパー銭湯に併設のビジネスホテル施設内の飲食も幾つもあるしコンビニ居酒屋なども隣接してる、風呂は当然ながら大浴場使い放題ということでコスパ良好

 

長野善光寺本尊武田信玄が「避難」させて設立とあるが、まあ大義名分で押し切って日本有数の古刹強奪したということだろう

諏訪大社諏訪氏自分血統押し付けるの含め、織田信長より信仰対象への不遜ぷりが際立つ信玄戦国大名らしいバイオレンス事績代表する史跡で、ある意味信玄すげーを一番感じられるかも

近くにある「かいてらす」という観光土産物館のレストランが美味しかった

 

信玄本拠地である躑躅ケ崎館跡。神社のもの江戸時代以降の武田ブームアイテムが置いてるだけなので、館って言ってもちゃんと塀も堀も馬出もあるんだー、有名な武田馬出現物ってこんななんだー、なるほどこれは領土が広がったら手狭だなー、などなどを実感するぐらい

隣接する信玄ミュージアムでやってた柳沢吉保特集柳沢家は元武田家臣、甲府藩主時代武田家の名誉復興政治力を使いまくる等々)が全く知らなかったので面白かった

 

予想に反して戦国大名武田氏の展示はごく一部であり、ブラタモリ的に土地の状況から歴史解説シームレスにつなげる解説が印象的な展示。江戸期や明治以降の展示も充実、というか史料的に戦国以前が乏しいので史料的に乏しいものを無理に拾うよりも史料豊富ものちゃんと見せる方向でまとめてるんだと思った。近代以降の実業家たちの紹介はかなり興味深いのでもっと知りたい

 

特別展としてまとめられていた「縄文時代不思議な道具」展がボリュームが思ったよりも多く充実していて今回の観光旅行では最押しだった(終了してるけど)。各分類ごとの物量が多いぶんだけ次の展示に移る前に頭の棚が作りやすいというか解像度がかなり上がるというか、考古学は奥が深いでしょ、を物量で殴ってわからせるというか

タマ縄文にわからされた後に、常設展示の縄文土器の優品を見せられると「美」って感じで惚れる

 

ミレーがいっぱいあるところで有名な、ミレー集客してるミレー推し美術館だが、県内画家作品普通に良い

というか、ミレーはどうしても小品だし、王政復古なんやかやの頃の絵なので古典範疇であり、近代以降のキャッチー絵画のが見栄えがいいので、昨今の思想動向的にもミレー労働自然リアリズム、うーむ渋い、みたいなのは受け取る側としてなかなか消化しづらくなってると思う。理念の崇高さみたいなのを勝手に感じ取らないとありがたみがないというか。なお、ミレーの生涯を紹介するアニメが見てて楽しいのでお勧めホームページで見れる)

さておき企画展含めた国内作家作品が良いのが多かったので、ミレーに釣られて行ったら日本画家を好きになる、が正しい鑑賞態度なんじゃないかと思う

施設レストランは諸事情あるのか、オペレーションが壊滅的で順番待ちをうまく捌けてなかった(料理自体は悪くない)ので、利用時はゴリゴリっとゴリ気味に状況を確認したほうがいいと思う

 

  • まとめ

もっと信玄まみれになるかと思ったが、信玄甲陽軍鑑もあまり出番がなかった

次はハイジの村で天然温泉クララの湯に浸かってみたい

2024-12-04

日本考古学ダメすぎる

クマの骨を人骨とか、ゴッドハンド事件とか。

世界最古の土器縄文土器とか言ってるけどこれも捏造じゃねえだろうな。

2024-06-08

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


2024-05-02

文化とは何かといえば

一定数の、ある方向に偏った人たちが集まってるのを指すんじゃないすかね

みんな縄文土器を作ってるから縄文文化、とかそういう感じの

まり、人が少ない、もしくは人が居てもあんまし偏ってない場合文化とは言わない

過疎化した地域は人が少ないので文化がない、東京方向性がないので文化がない

その意味では吉本維新に嗜好が偏ってる大阪は、まぎれもなく大阪文化があると胸をはって言えると思う

 

ま、少なくとも建物や持ち物で張り合うよりは、人を軸にして話したほうが文化的な態度と言えるんじゃないすかね

2023-12-05

縄文式土器の底が尖っている理由は、煮炊きをする時に火のまわりをよくするためと考えられています。また、ヨーロッパではバスケット形態模倣したとする説もあります。

底が尖っている土器は尖底土器と呼ばれ、縄文早期を中心に、一部の地域では前期や晩期にも見られます。尖底部の形状は砲弾形・乳房状・天狗の鼻状などがあります。

縄文土器の主要な用途は煮炊きや貯蔵です。地面を掘りくぼめて土器をおいたか、または五徳(ごとく)のようななんらかの台を用いて使用したと考えられます。

2023-09-02

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國學院大學博物館に行ってきましたわ!

神職養成機能もある國學院ということもあって中近世神道・神祇信仰史料なんかがあればいいなと思って行ったんですけど、正直神道関連の展示はイマイチでしたわ。

けど考古学関連の展示は土器・石器が充実しててすごく良かったのですわ。

最初期の縄文土器は方形・底が平らで、樹皮や蔦を素材にした籠を模倣した可能性があり、「縄文」も植物の模様を再現したものかもしれないというのは初めて聞いたのですわ。

実際の縄と、それを転がしたとき粘土にどのような模様が出来るのかという例がたくさん展示されていたのも面白かったですわ。

あとミニチュアサイズ土器が作られていたというのも興味深かったですわ。

以前別の美術館江戸時代玩具工芸品として精巧に作られたミニチュアサイズ家具を見たことがあるのですけど、そういうものを楽しむ文化は古から受け継がれているのですわね。

これで入場料ロハコスパ最高ですわ!

2023-04-04

anond:20230404200314

・天窓・出窓

これ実家にあった。10歳から30歳くらいまでずっと漏水なかったと思うよ。

アルミサッシ、樹脂複合サッシ

自明。」ってなにが。断熱効率

無垢フローリング

28歳くらいか実家がたてかえた家ではこっちになってた。乾燥しすぎて隙間ができたのは本当だけどゆがんだりはしてない。黒いあくがでてるのでカンナで削りたいけどそのくらいしか不便がない。

・窯業系の外壁

「どんな高性能でも金属より寿命が短く」

意味がわからない。化学しらんのか。ガルバニウム鋼板は身代わりの亜鉛がなくなったら次は必ず鉄本体が錆びるよ。縄文時代の刀なんてめったにのこってないけど縄文土器はけっこうたくさん残ってるだろ。

・芝生

「綺麗なまま芝生を維持するのは一般人には無理。普通の人・車持ってる人はコンクリート予算がなければ砕石。芝生がどうしても欲しい人は人工芝植物で覆いたいならヒメイワダレソウかクラピアを植えよう。」

おすすめはクリーピングセージ、それか近所からとんでくるクローバーでいいやろ

車のとこに石とメッシュブロックを敷き詰めてすき間に埋める土だけでもこいつらならちゃんと育つやで

 

どうでもいいけど増田ってそろそろ政治板・建築板・声豚板とかにわかれればいいのにな

2022-05-23

世界トヨタはかつて食器作りをしていた

トヨタ自動車日本で有名な自動車メーカーであることは言うまでもないことだが、その前身食器メーカーであったことはあまり知られていない。

豊田市愛知県北部位置しており、瀬戸市岐阜県多治見市と隣接している。

瀬戸市日本六古窯の一つである瀬戸焼で有名であり、東日本では陶磁器全般瀬戸物と呼ぶほどに広く流通していた。

多治見市もまた陶磁器名産地であり、アニメ化もされた「やくならマグカップも」の舞台と言えば説明が早いだろう。

豊田市瀬戸市を中心とした猿投地区古代から窯業が盛んであり、日本の三大古窯の一つである猿投窯跡群を形成していた。

今でこそ豊田市に窯業のイメージはあまりないが、トヨタ自動車製造事業化する以前は、瀬戸市多治見市と同じく窯業を主産業とする町であった。

窯業は縄文時代縄文土器から存在する生活に不可欠な産業で、時代と共に需要は大きくなっていき、明治維新によってさらに窯業製品需要は大きくなる。

西洋建築の勃興による煉瓦(れんが)の需要石油製品化学薬品を保存する甕(かめ)の需要送電線を支える碍子(がいし)の需要である

しかしながら、瀬戸焼はこうした需要に応えることはできなかった。

愛知県内で、最新の窯業技術産業を担ったのは常滑焼だった。

常滑焼もまた日本六古窯の一つだが、愛知県知多半島位置する常滑市伊勢湾に面しているので、海運で日本各地の需要を支えることができたからだ。

一方で、瀬戸常滑に対抗しようと流通力を強化するために鉄道を敷設したが(後の名鉄瀬戸線)時すでに遅く、近代産業から撤退して食器作りを中心とした伝統産業へと回帰していった。

常滑では明治時代伊奈製陶が創業して、INAXLIXIL企業名を変えながら国内の窯業で高いシェアを誇っている。

トイレや洗面器ではTOTOに次いで国内シェア2位で、タイルについては国内どころか世界で1位のシェアである

一方で瀬戸からはそのような大企業は生まれていないことから愛知県内の窯業で近代産業を担ったのは常滑ということが理解できるだろう。

ここでようやくトヨタの話になるが、明治時代豊田市存在しておらず、その前身である挙母町でも近代産業を支えるほどの陶磁器製品生産することはなかった。

そんな時代に、豊田佐吉挙母町で陶工長男として生まれた。

佐吉小学校卒業後に家業食器作りの修行をするが、父が伝統製法固執して経営が伸び悩んでいることに苦心していた。

18歳のころ、家業を立て直す唯一の道は最新技術を学ぶことと考え、東京方面出奔する。

その折で、東京上野で開催していた内国勧業博覧会を何度も見て、最新の窯業技術を目に焼き付けた。

そして東京から帰郷し、当時最新鋭の台車トンネル窯を製造した。

それ以前の窯は、製品を人力で運び入れてから予熱・焼成・冷却の全工程を何日もかけて行った後に、人力で運び出す必要のある代物だった。

種類にもよるが陶磁器焼成に1000~1400℃まで加温する必要がある一方で、人力で搬出入する際はもちろん窯の中に入れる温度まで下げなければならない。

これでは、温度の大幅な上下必要なので時間がかかるだけでなく熱効率も悪い。

一方で台車トンネル窯なら、製品を乗せた台車をレールに沿って動かすので、人が窯の中に入って搬入出する必要はない。

窯は温度分布のついたトンネル状の部屋になっており、台車トンネルを進行することで自動的かつ連続的に予熱・焼成・冷却ができるので、温度管理も簡易だ。

この台車トンネル窯により食器自動的大量生産できるようになったので、佐吉豊田自動食器株式会社設立することとなった。

会社設立後の経営右肩上がりだったそうだが、明治から大正へと年号が変わる頃には製品輸送に悩まされることになった。

歴史的挙母町の物資輸送矢作川の船運が担っており、豊田自動食器食器工場製造した食器類も例外ではなかった。

しかし、知多半島方面への用水供給目的とした愛知用水の開発により、矢作川の水量が減り船運が困難になった。

食器生産量は増える一方で矢作川の船便は縮小していき、代替としての馬車や人力車輸送にも限界があった。

それでも、当時は三河鉄道の敷設中であり(後の名鉄三河線)、開通によって挙母から国鉄刈谷駅鉄道輸送可能となるのは決まっていた。

しかし、それまで待ちきれない佐吉の息子の喜一郎は、自動車を独自製造して食器自動輸送することを考えた。

喜一郎は食器販売の滞りで需要の無くなった台車トンネル窯を分解して自動車部品にした。

そして、窯の燃焼ガスを動力台車運転する機構を応用して、台車に燃焼機関を乗せることで自動車の製造成功した。

さらに、食器自動輸送するだけでなく、自動車を製造販売することにも思い至った。

それだけでなく、喜一郎は将来自動車が大量生産されることを予測して、食器台車に乗せて連続的に生産するように、自動車も台車に乗せて連続的に生産する仕組みを考案した。

これが現在自動生産で主流となっている、ライン生産方式である

このようにして豊田自動食器に設けた自動製作部門分離独立したのが現在トヨタ自動車株式会社であることは、もはや説明するまでも無いだろう。

なお、食器工場第二次世界大戦空襲によって焼失し、喜一郎の経営判断により食器製造部門は切り捨てて自動生産へと舵を切ったので、豊田自動食器株式会社現存していない。

話は少しそれるが、トヨタ自動車前身豊田自動織機である、という誤記ネット上でよく見かける。

もちろん正しくは豊田自動食器なのだが、「食器」と「織機」で読みが同じなので誤変換してしまうのだろう。

それだけならまだいいが、トヨタミシン製造していたというヨタ話(トヨタだけに)も一緒に流布していることもある。

豊田市挙母町)で窯業が盛んだったことは地理的にも考古学上でも明らかなのに、なぜそのような勘違いをしてしまうのだろうか。

仮にトヨタミシン製造していたとして、それがどう自動車製造に繋がるのか、理解に苦しむばかりである

2022-01-29

anond:20220124140527

オススメされたので決心して買った

歩みがもっさりしてるけどスムーズで動かしてて楽しい

特に割り当てられた操作ボタンと、遺跡縄文土器みたいな模様がキモいけどそのうち慣れると良いなあ

でも道に迷ってやる気なくしたかサクサク進めるゲームの方が好きだな

2021-04-30

縄文土器普通にその辺の土で作ると水漏れするので、イモなどを煮ることでデンプン土器の隙間に詰まり漏れしなくなる」

という仮説を実際に縄文土器を作ってイモを煮て試したが水漏れしなくなるなんてことはなかった……という記述国語教科書で読んだのをふと思い出した。

じゃあどうやって水漏れしない縄文土器を作ったのだろうか。気になる。

改めてその国語教科書に載っていた文をもう一度読みたい。

国語教科書に載っている文ってよっぽど有名な作品改定されても消えないやつじゃない限り一期一会なんだなあ……

2020-10-13

博物館/美術館/図書館っていらなくね?360映像4Kで見る方がコスパいいよね

でっかい箱物作ってモノ集めてそこにわざわざ人間が移動して見るってバカバカしくないか

縄文土器360映像とかモナリザ4K写真アップすればいいだろ どうせ見るだけなんだから

学芸員解説プロ映像編集してクオリティの高いものYoutubeにでもアップすれば一回ですむよね 何度も何度も同じ話をするために人間雇うとかアホすぎ

そんな施設アクセスすることもできない貧乏人や田舎者が払った税金が都会の文化資本豊かなエリートや暇なジジババのために使われるのは逆再分配

どうしても生で見なきゃ臨場感がないとかいう贅沢な人は税金ではなく民営化して自分の金で楽しんでください

図書館小学校図書レベルの所蔵しかないド田舎日本出版された書籍の全てが納められる国会図書館に行ける東京とでは格差ありすぎだし全部ぶっ潰して電子書籍化したデータインターネットで見られるようにしたほうがいい

公共の福祉とかなんかの特例で著作権なんて無視してスマホから見られるようにすれば、地方民や貧乏人、忙しい社畜にとっては今よりはるか文化知識アクセスできるようになる。しかもローコストで。

これで困るのはリアル箱物文化知識を閉じ込めておかないと税金で飯が食えない役人学芸員、そして都会の施設アクセスできるという特権を失ってしまエリートぐらい。

金持ち個人コレクションではなく国が集めて国民に公開するというのはその時代にとっては画期的ですばらしいことだったんだろうけどさぁ、いつでもどこでもインターネット簡単情報アクセスできる現代では、その美術館だとか博物館自体文化知識牢獄になってるんだよね

あと大学原則すべての授業をYoutubeにアップするよう義務づけよう。国立大学はもちろん私立も膨大な助成金経営してるところはすべて公開すべき

象牙の塔の中に高等教育を閉じ込めるな

さすがにYoutube学位付与できるわけないか大学を潰せとは言わないけど

ついでに田舎者不登校引きこもりのためにスタディサプリみたいな感じで小中高や予備校の授業もアップしよう 東京お受験して超進学校に通ってる子供が受ける教育治安の悪い地域公立動物園全然同じじゃないしな

俺はわりと本気で言っている。さっさと箱物ぶち壊してインターネット大海解放しようよ

知識は水だ独占してはいけない

2020-02-22

anond:20200222013301

ありゃどうみても消しゴム使えるお告げ札だろ

金属は彫りまちがえてもたたいたら書き直せるもんな

縄文土器は録画分をディスクにおとすようなもんじゃねーの

傷ついたら読めなくなるんだよな

2019-07-18

東ドイツのなんとかかんとかとかその辺の歴史

映画鑑賞趣味なのですが、歴史知識が大変に貧困です

ベルリンの壁物理的に壊されたのはわかっているんですが、東ドイツ西ドイツシュタージワルシャワがなに???という体たらくです

卑弥呼とか縄文土器とか大森貝塚はわかる。新選組はわからない

2019-06-12

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ひさかたぶりに土岐市美濃陶磁歴史館に行ってまいりましたわ

第一展示室では、古田織部お手製と伝わる茶杓が展示されていましたの

へうげもので見た気がしまわ!

中心に竹の節をもってくる茶杓利休以来の流行りだったらしいので

区別がつかないだけかもしれませんわ

くたりと中心で折れ曲がった美濃伊賀水指はどう見ても失敗品でしたわ!

「だがそこがいい!ゲヒヒッ」なのでしょうか

第二展示室では東美濃縄文土器展が開かれていました

順路の最後に石棒をもってこられると、そのことしか記憶に残りません

いけませんわ!いけませんわ!

2018-07-22

https://anond.hatelabo.jp/20180720111726

お姉さまではなくてお姉鯖とお呼びなさいませ

個人的には技術史的な関心をもって陶器をみていますわね

縄文土器から器の形で年代が整理されていますけど、

織部技術もどこかその延長線上で楽しんでいます

それと陶器磁器よりも元々土だったイメージを持ちやすいので

価値ほとんどないものから、物凄い価値のあるもの創造されている様子」

に感動できます

曜変天目茶碗の釉薬など、産地のただの泥ですわ

目の前にしている作品が最新の技術だったときに、

それを初めて見る人の気持ち想像してみるのですわ

あと、へうげものを読むとよろしくてよ

2018-01-17

anond:20180117160055

気鋭の縄文陶芸家はなぜC++エキスパートなのか

http://itpro.nikkeibp.co.jp/atcl/column/17/030300065/011600030/

今月取り上げるのは村上原野(むらかみげんや)氏。縄文土器インスピレーションを受けた創作を行っている陶芸家だ。同時にネットでは「狂える中3女子ボレロ村上」というハンドルネームC++に詳しいプログラマーとしても知られている。

2017-12-25

縄文土器

やっぱり魅力がある

岡本太郎が魅了されただけはある

カタール

 
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