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アプリリアワークス
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アプリリアワークスexitとは、アプリリアレース活動を行うためにメーカー直営で運営するチームである。

本稿では、MotoGPに参戦するアプリリアワークスについて記述する。
 

近年の動向

アプリリアMotoGP最大排気量クラスに参戦を再び開始したのは2015年である。このとき名門プライベートチームグレッシーニレーシングの最大排気量クラス部門に人員を送り込む形でワークス活動を開始した。こういう活動形態をセミワークスという。

アプリリアワークスではなくセミワークスになったのはドルナの意向があった。かつてアプリリア2002年から2006年までの5年契約ドルナと結んで最大排気量クラスワークスとして参戦したが、アプリリアの経営が苦しくなった2004年頃に撤退を決め、2年分の違約金も支払わなかった。こうした過去があったのでドルナアプリリアを警しており、2015年の復帰時にアプリリアに対して参戦を与えなかった(記事exit)。

2019年までどうも競争力が向上しなかった。2019年12月になってアンドレア・イアンノーネある種の問題突然離脱することになり、急いでMoto2クラスの有力ライダーを掛けたが、マルコ・ベッツェッキにもジョーロバーツにもファビオ・ディ・ジャナントニオにも断られるという始末であった(記事exit)。

しかし2020年初頭にエンジンの設計を根本的に変更し(記事exit)、2021年にはマシンの軽量化が達成されて最低重量を下回ってバラスト(重り)を積む余裕ができた(記事exit)。最低重量を下回ってバラストを積むようになるとセッティングの幅が広がるのである[1]。こうした改善によってマシン戦闘力が向上し、2021年イギリスGPでアレイシ・エスパルガロが3位表台を獲得した。

2021年をもってアプリリアグレッシーニレーシングの協力関係が終わり、グレッシーニレーシングドゥカティサテライトになった。ドルナアプリリアのことを信用するようになりアプリリアに対して参戦を与えたので、アプリリアワークスとして参戦するようになった。

2022年マシンがスリムになってコーナーリングしやすいようになった(記事exit)。初戦のカタールGPではアレイシ・エスパルガロが4位を獲得し、上々の滑り出しを見せている。そして第3戦アルゼンチンGPでアレイシが今回の参戦では初の優勝を達成。その後も予選上位と表台登壇の常連となり、全に実力で他のメーカーワークスに肩を並べる存在となりつつある。
 

ライダー

名前 出身地 身長・体重 誕生日
41 アレイシ・エスパルガロ スペイン グラノリェースexit 180cm66kg 1989年7月30日
12 マーヴェリック・ヴィニャーレス スペイン フィゲーレスexit近郊
ロザスexit
171cm64kg 1995年1月12日

 

現在のスタッフ

アプリリアワークスの予算・人事を決めてスポンサー対策をするスポーティングディレクター

近年のアプリリアワークスはF1スズキワークスドゥカティワークスから技術者を引き抜いている(記事1exit記事2exit)。そうした引き抜きの先頭に立つのがマッシモ・リヴォラである。
 

アプリリアワークスの技術者部門のリーダー

名前ロマーノは「ローマ人」という意味。イタリア人にとってローマには特別なきと魅力がある。

1963年頃、イタリアの工業都市リノ近くのカッルexitで生まれた。1982年から1988年までトリノ工科大学exitに通い、航空工学を学んだ。

卒業して1989年から1994年まで、イタリアバイクメーカーであるカジヴァexitに在籍し、MotoGP最大排気量クラス500ccクラス)の事業に参加している。この頃のカジヴァは、1988年1990年ランディ・マモラexit1991年1992年エディ・ローソン1993年ジョン・コシンスキーexitを迎え、ホンダヤマハスズキといった強に対して懸命に戦っていた。

1994年をもってカジヴァがMotoGP最大排気量クラスから撤退したので、それに合わせてロマーノアルベジアーノ転職し、AMGというドイツ四輪チューニング(改造)を専門とする企業に入社した。同社は、メルセデス・ベンツと協力してDTMという四輪レースに参戦していた。ロマーノアルベジアーノは、AMG力部門に所属し、DTMに出場する四輪力をひたすら研究開発した。

1997年にはMVアグスタexitというイタリアバイクメーカー転職し、その当時にMVアグスタの下に入っていたハスクヴァーナexit研究開発をした。

2005年にはイタリアバイクメーカーであるピアッジオ社に入社した。同社は、このときすでにアプリリア会社になっており、2020年現在もその地位を維持している。ピアッジオ社では、アプリリアスポーツバイクRSV4エンジン開発に関わっている。ちなみにRSV4は、アプリリアスーパーバイク世界選手権に参戦するときの車両である。ロマーノアルベジアーノRSV4エンジン開発し、ジジ・ダッリーニャレースの現場でRSV4開発をして、RSV4に乗ったマックス・ビアッジが2度のスーパーバイク世界選手権チャンピオンを獲得している。

ジジ・ダッリーニャ2013年11月ドゥカティワークスに引き抜かれた後、後任として、アプリリアレース部門の長の地位になった。

2013年11月から2018年までは、予算・人事を決めたりスポンサー対策をしたりと、そういう仕事に忙殺され、技術面の仕事に集中しきれなかった。

2019年になって、マッシモ・リヴォラがやってきてくれたので、やっと技術者として本来の仕事に集中できるようになった。

※この項の資料・・・ロマーノ・アルベジアーノのlinkedIn.comのページexit記事exit
 

アプリリアワークスのチーム監督
  

かつてのスタッフ

クルーチーフ

1994年から2011年までアプリリアワークスに在籍し、マックス・ビアッジホルヘ・ロレンソマルコ・シモンチェリexitといったライダー250ccクラスチャンピオン獲得をクルーチーフとして支えた。

2020年現在は、イタルトランスで働いている。
 

1956年イタリア・フィレンツェ生まれ。

1995年は、ヨーロッパ選手権125ccクラスに参戦するヴァレンティーノ・ロッシクルーチーフを務めた。

1996年1997年ヴァレンティーノ・ロッシアプリリア系のチームMotoGP125ccクラスに参戦し、1997年125ccクラスチャンピオンを獲得したのだが、そのときのクルーチーフだった。

以上のように、ヴァレンティーノ・ロッシのキャリア明期を支えた人物である。ヴァレンティーノに対して乗り方を提案するところがあり、「乗り方に関して干渉されたくない。乗り方は、ライダーが考えるものだ」と信ずるヴァレンティーノにとって、マウロの提案はあまり喜ばしいものではなかった。とはいえ、とても優秀なメカニックであることに間違いなく、ヴァレンティーノはマウロを中心としたチームで楽しく充実した3年間を過ごすことができた。

1998年250ccクラスロリスカピロッシのクルーチーフを務めた。この年は、ロリスカピロッシと原田哲也とヴァレンティーノが同じアプリリアワークスの250ccチームに同居していてライバル意識が凄かったのだが、それぞれのクルーチーフ同士の競争心も熾だった。ロリスカピロッシのマウロ・ノッチォーリ、原田哲也ジョヴァンニ・サンディヴァレンティーノ・ロッシのロッサノ・ブラッツィがお互いをしく罵り合う、という状況が発生していたという。まとめ役となるべきカルロ・ペルナット1997年をもってアプリリアを退社していたので、クルーチーフ同士のいさかいを止める人物がいなかった。

2020年現在は、MotoGPMoto2クラスフォワードレーシングに在籍し、クルーチーフとしてMVアグスタの車両を整備している。

※この項の資料・・・記事1exit記事2exitヴァレンティーノ・ロッシ自叙伝205~207ページ、318~320ページexit_nicoichiba
 

1950年頃生まれで、1998年1999年にアプリリアワークスの250ccクラス部門に所属し、ヴァレンティーノ・ロッシクルーチーフを務めた。

彼の尽力により、ヴァレンティーノ・ロッシ1999年250ccクラスチャンピオンを獲得している。

リヴィオ・スッポの記事の『ヴァレンティーノ・ロッシとの不和』の項に、ロッサノ・ブラッツィについての記述があるので、参照のこと。
  

テストライダー

1957年生まれのライダーで、1990年代テストライダーとしてアプリリアの躍進を支えた。日本版Wikipedia記事exitがある。

イタリアGPにスポット参戦し、走り込んでいるムジェロサーキットを快走し、レギュラーライダーを上回る走りを見せることがたびたびあった。1995年イタリアGPは3位、1996年イタリアGPと1997年イタリアGPは2位1998年イタリアGPはついに優勝している(記事exit)。

テストライダーレギュラーライダー並みに速いライダーが良い。レギュラーライダーよりも遅いテストライダーは、レギュラーライダーの悩みを理解できず、レギュラーライダー満足するマシンを作れない」ということは原田哲也が語っていることであるが、その点で、マルチェリーノ・ルッキは完璧ライダーだった。

1998年のイタリアGPexitは、41歳のマルチェリーノ・ルッキがキャリア優勝を飾るという、感動シーンとなった。

ちなみにこのレースで、2位になったヴァレンティーノ・ロッシは、「海水浴に行くちゃん」といったような格好で表式に臨んでいる(画像exit)。ライバル原田哲也ロリスカピロッシをきっちり負かしたので嬉しくなってそのパフォーマンスをしたのだが、翌日の新聞に「マルチェリーノ・ルッキの晴れ舞台の邪魔をして、けしからん」とたっぷり叱られてしまい、それでヴァレンティーノは「2位以下の場合は、パフォーマンスしない」と決意することになった(ヴァレンティーノ・ロッシ自叙伝144ページexit_nicoichiba)。

2019年3月アプリリアファン感謝祭にもやってきていて、インタビュー動画exitが作られている。
 

首脳

1989年から2004年まで在籍し、技術部門のリーダーを務めていた。
 

1990年から1997年まで在籍し、人事やスポンサー対応を担当していた。
 

1992年1月から2013年10月までアプリリアワークスに在籍し、数々の名を作り出してきた。

2013年11月からは、ドゥカティワークスに所属している。
 

アプリリアの社風

アプリリアは根っからのレース大好き企業であり、常に何かしらのレースに向けて戦っている。特に1990年代に入ってからはその傾向が強くなり、MotoGPスーパーバイク世界選手権での活躍が増えた。

経営の選択と集中が上手であり、得意分野に向けて経営資を思いっきり注ぎ込む傾向がある。MotoGP125ccクラス250ccクラスがあったときはそれに資金と人員をつぎ込む。MotoGP2ストローク時代が終わりそうになったら、スーパーバイク世界選手権に転戦して総力を尽くす。スーパーバイク世界選手権にて6年で3回優勝したら店じまいして、MotoGPの最大排気量クラスへ転戦する。

ホンダのような大企業ではないので経営資には限りがあるのだが、それを補うかのように賢く立ち回ってレース世界をしっかり生き抜いている。

こうしたレース大好きの社を作ったのは、創業者の息子アプリリア2代目社長であるイヴァーノ・ベッジョexitである。1968年自転車製造企業を引き継いだ彼は、1970年代になって小オートバイを作り始め、1980年代にはモトクロス世界選手権に挑戦し、1990年代からMotoGP125cc250ccクラスを席巻するようになった。


RSという名を付けることを恒例にしている。

RS125Rexit 2スト125cc プロトタイプ MotoGPに出走
RSV250exit 2スト250cc
RSW-2 500exit 2スト500cc
RS3 CUBEexit 4スト990cc
RS-GPexit 4スト1000cc
RSV milleexit 4スト998cc  スーパーバイク世界選手権に出走
RSV4 4スト999cc

 

ピアッジオの社風

ピアッジオはイタリアバイクメーカーで、ヨーロッパ最大のバイク企業グループの中心となっている企業である。

CEOはロベルト・コラニーノexitで、とても上手に企業買収をする人として知られる。2003年にピアッジオ社の株式を大量に取得して、CEOに就任した。ロベルトコラニーノの貌は、いかにもといった「やり手の投資」といった感じのものである(画像exit)。

2004年からアプリリアはピアッジオ下になった。ピアッジオ総帥のロベルトコラニーノが、アプリリア社長を兼任している。

ロベルトコラニーノは、モータースポーツに対してあまり興味を持っていないようで、MotoGPの観戦に訪れることがない(記事exit)。また、MotoGPについての予算も増やそうとしない。

2015年から2020年現在までMotoGP最大排気量クラスに参戦するアプリリアワークスというと、予算不足というものが一つの特徴である。2018年ラゴンGP予選で、宮城さんが「アプリリアワークスは予算が少なくて金欠。スペアマシン用のカウルを用意できず、スペアマシンを走らせるときはメインマシンからカウルを外して取り付けるぐらい」と報じていた。アプリリアの首も、予算についての愚痴を盛んに話しているという(記事exit)。
 

アプリリアの輝かしい栄光

MotoGPの250ccクラスと125ccクラス

アプリリア社長イヴァーノ・ベッジョexitは、1989年ヤン・ウィットヴェーン1990年カルロ・ペルナット1992年ジジ・ダッリーニャという人材を手に入れた。

その後のアプリリアは、MotoGP250ccクラス125ccクラスで猛威を振るい、250ccクラスで7人、125ccクラスで12人のチャンピオンを輩出した。まさしく2ストローク軽排気量エンジンレース覇者だった。

2009年250ccクラスが終了し、2011年には125ccクラスも終了してしまった。これにより2ストロークエンジンの時代が終わった。アプリリアMoto2クラスMoto3クラスには参戦せず、スーパーバイク世界選手権へ転身することにした。
 

250ccクラス 125ccクラス
1990年exit マーチン・ウィマーexit 6位 アレッサンドロ・グラミーニexit 9位
1991年exit ロリス・レジアーニexit 6位 ガブリエーレ・デッビアexit 4位
1992年exit ロリス・レジアーニexit 2位 アレッサンドロ・グラミーニexit 1位
1993年exit ロリス・レジアーニexit 3位 ラルフ・ウォルドマンexit 4位
1994年exit マックス・ビアッジ 1位 坂田和人exit 1位
1995年exit マックス・ビアッジ 1位 坂田和人exit 2位
1996年exit マックス・ビアッジ 1位 徳留真紀exit 2位
1997年exit 原田哲也exit 3位 ヴァレンティーノ・ロッシ 1位
1998年exit ロリス・カピロッシexit 1位 坂田和人exit 1位
1999年exit ヴァレンティーノ・ロッシ 1位 ロベルト・ロカテリexit 4位
2000年exit マルコ・メランドリexit 5位 ロベルト・ロカテリexit 1位
2001年exit 原田哲也exit 2位 マヌエル・ポジャーリexit 1位
2002年exit マルコ・メランドリexit 1位 アルノー・ヴァンサンexit 1位
2003年exit マヌエル・ポジャーリexit 1位 アレックス・デ・アンジェリスexit 2位
2004年exit セバスチャン・ポルトexit 2位 エクトル・バルベラexit 2位
2005年exit ケーシー・ストーナー 2位 マティア・パシーニexit 4位
2006年exit ホルヘ・ロレンソ 1位 アルヴァロ・バウティスタexit 1位
2007年exit ホルヘ・ロレンソ 1位 ガボール・タルマクシexit 1位
2008年exit マルコ・シモンチェリexit 1位 マイク・ディ・メッリオexit 1位
2009年exit エクトル・バルベラexit 2位 フリアン・シモンexit 1位
2010年exit マルク・マルケス 1位
2011年exit ニコラス・テロルexit 1位

 
2001年のマニュエルポジャーリと2008年マルコシモンチェリはジレラというメーカー名で参戦しているが、中身はアプリリアマシンだった。

2008年マイク・ディ・メッリオ2010年マルク・マルケスはデルビというメーカー名で参戦しているが、中身はアプリリアマシンだった。
 

スーパーバイク世界選手権

スーパーバイク世界選手権の参戦歴は、第一期と第二期に分かれる。

第一期は1999年から2002年までの参戦で、使用したマシンRSV mille(ミレ)exitだった。2003年からMotoGP最大排気量クラスに参戦することになったので、2002年をもってスーパーバイク世界選手権から撤退した。
 

アプリリア最上 アプリリア勢2番手
1999年exit ピーター・ゴダードexit 12位
2000年exit トロイ・コーサーexit 3位 アレッサンドロ・アントネッロexit 15位
2001年exit トロイ・コーサーexit 4位 レジス・ラコーニexit 11位
2002年exit 芳賀紀行exit 4位

 

第二期は2009年からの参戦で、使用したマシンRSV4だった。チームの総揮はジジ・ダッリーニャがとった。

ワークス活動は2015年をもって終了しており、2016年からはプライベートチームマシンを売却するだけにとどまっている。2015年からMotoGP最大排気量クラスへ参戦することになり、人員をそちらに回す必要が出た。

2019年は、どこのチームアプリリアマシンを使わなくなった。 
 

アプリリア最上 アプリリア勢2番手
2009年exit マックス・ビアッジ 4位 中野真矢exit 14位
2010年exit マックス・ビアッジ 1位 レオン・キャミアexit 12位
2011年exit マックス・ビアッジ 3位 レオン・キャミアexit 7位
2012年exit マックス・ビアッジ 1位 ユージン・ラヴァティexit 6位
2013年exit ユージン・ラヴァティexit 2位 シルヴァン・ギュントーリexit 3位
2014年exit シルヴァン・ギュントーリexit 1位 マルコ・メランドリexit 4位
2015年exit レオン・ハスラムexit 4位 ジョルディ・トーレスexit 5位
2016年exit ロレンツォ・サヴァドーリexit 10位 アレックス・デ・アンジェリスexit 13位
2017年exit ユージン・ラヴァティexit 10位 ロレンツォ・サヴァドーリexit 11位
2018年exit ユージン・ラヴァティexit 8位 ロレンツォ・サヴァドーリexit 10位

 

アプリリアのMotoGP最大排気量クラスにおける苦闘

1994年~2000年 2気筒(ツイン)

アプリリアMotoGP最大排気量クラスに初めて参戦したのは、1994年である。ロリス・レジアーニexitが、MotoGP250クラスで活躍するRSV250exitマシン改造して参戦した。RSV250エンジンはV2気筒2スト250ccだったが、それをV2気筒2ストで380ccエンジン改造したのである。
 

アプリリア最上 アプリリア勢2番手
1994年exit ロリス・レジアーニexit 24位
1995年exit ロリス・レジアーニexit 10位
1996年exit ドリアーノ・ロンボニexit 19位
1997年exit ドリアーノ・ロンボニexit 10位

 
 
第二期は1999年からの参戦で、1999年から2001年はV2気筒2スト500ccエンジンだった。またしても2気筒(ツイン)で、この気筒数のエンジンは、マシンの軽さが最大の持ち味である。4気筒エンジンよりも2気筒エンジンの方が20kg程度軽い。1994年から2000年までのマシンをまとめてRSW-2 500exitという。

1999年イタリアGPの予選で原田哲也exitスリップストリームを上手く使い、ポールポジションを獲得している。また、1999年原田哲也が3位表台を2回獲得し、2000年ジェレミー・マクウィリアムスexitが3位表台を2回獲得している。このように時々速かったが、やはりエンジンパワー非力さが立ち、あまり勝負にならなかった。
 

アプリリア最上 アプリリア勢2番手
1999年exit 原田哲也exit 10位
2000年exit ジェレミー・マクウィリアムスexit 14位 原田哲也exit 16位

 

2002年~2004年 キューブで大失敗

第三期は2002年から参戦した。2002年は、最大排気量クラス4スト990ccマシンの参戦が許さるようになった画期的な年である。

4気筒エンジン流だったが、アプリリアの採用したエンジンは3気筒(トリプル)だった。

マシンRS3 CUBE(キューブ)exitである。CUBEという言葉には3乗という意味があり、3気筒エンジンであることを示している。

F1からの技術をふんだんに導入したマシンだったが、完成度が低くて乗りにくかった。2003年ジジ・ダッリーニャが関わったが、彼の手をもってしてもキューブ完成度を高めることができなかった。

2004年8月になってアプリリアがピアッジオ社に買収されることになり、お金がかかる最大排気量クラスへの挑戦事業も終了することになった。
 

アプリリア最上 アプリリア勢2番手
2002年exit レジス・ラコーニexit 19位
2003年exit コーリン・エドワーズexit 13位 芳賀紀行exit 14位
2004年exit ジェレミー・マクウィリアムスexit 19位 シェーン・バーンexit 20位

 

2012年~2015年 CRTやオープンクラスとして参戦

2012年2015年アプリリアは、ARTAprilia Racing Technologyという会社を立ち上げて、会社名と同じARTというマシンをプライベートチームに供給するという形式で、MotoGP最大排気量クラスに参戦していた。アプリリアが会社としてワークスチームを立ち上げて参戦したわけではない。

2012年から少額予算チームでも参戦できるようにCRTClaiming Rule Teamマシンが出走可となったので、それに乗っかる形でアプリリアARTという会社をわざわざ設立した。CRTクラスARTが参戦・・・イタリア人も駄洒落が好きなのである。

CRTは「エンジンレース大好き企業の作るプロトタイプフレーム」という組み合わせが多く、エンジンメーカーフレームメーカーが異なるケースが多かった。ところがARTエンジンフレームの両方をアプリリアが作った。エンジンRSV4フレームは倉庫から引っり出してきた2002004年頃のRS3 CUBE

ただ実際はフレームRSV4ではないか、と摘されていた。そうなるとエンジンフレームも全てマシンMotoGPを走ることになり、スーパーバイク世界選手権の経営企業であるインフロントが「レースをするのはウチだけなのに、MotoGPが邪魔をしている。MotoGP運営するドルナの所業はルール違反だ、訴訟する!」と猛抗議しかねない。ドゥカティCEOのクラウディオ・ドメニカーリexitに「まずいんじゃないんですか」と苦言を言われている(記事exit)。実際にはインフロントからの抗議はなく、事にARTは出走できた。

走ってみるとARTマシンは好成績を残した。名門プライベートチームチームアスパーアレイシ・エスパルガロランディ・ドプニエexitARTで快走、CRT部門のランキング1位2位を占めた。ARTチームアスパーへの支援は手厚く、アプリリアの隠れワークスと言われるほどだった。

2012年から2013年までART揮していたのはジジ・ダッリーニャで、またしても神業のごとき手腕を発揮した彼は、2013年シーズン末にドゥカティワークスへ引き抜かれることになった。ジジ・ダッリーニャドゥカティワークスに引き抜かれると知った途端にチームアスパーは態度を変え、ARTとの提携を終了させてホンダとの提携を開始している。ART側も活動を縮小させることになり、2014年マシン供給先が1人だけになった。

2013年シーズンをもってCRTは終了し、2014年からはオープンクラスというものが導入された。このオープンクラスは、イタリアマニエッティ・マレリexitが作る電子制御ソフトを全が使うのだが、ARTマシンマニエッティ・マレリの電子制御ソフトの相性が悪かった。20122013年ARTは自社製の独自ソフトを使っており、電子制御ソフト変更に難渋した。2014年ダニロ・ペトルッチ2015年アレックス・デ・アンジェリスは、どちらも低迷している。
 

アプリリア最上 アプリリア勢2番手
2012年exit アレイシ・エスパルガロ 12位 ランディ・ド・プニエexit 13位
2013年exit アレイシ・エスパルガロ 11位 ランディ・ド・プニエexit 15位
2014年exit ダニロ・ペトルッチ 20位
2015年exit アレックス・デ・アンジェリスexit 28位

 
 

2015年~2020年現在

第四期は2015年からの参戦で、2020年現在も活動が続いている。

使用マシンRS-GPexitという。MotoGP最大排気量クラス流とされるV4気筒のマシンである。

2014年スーパーバイク世界選手権でチャンピオンを獲ったアプリリアだが、2015年レース規則が変わって2014年チャンピオンマシンをそっくりそのまま走らせることができなくなってしまった。この規則変更をきっかけにして、当初の予定を1年め、2015年からMotoGP最大排気量クラスに復帰した。

全く同時期にスズキワークスも最大排気量クラス復帰を果たしたのだが、両者の事情は違っていた。スズキ2012年から2014年までみっちりとテストをこなし一杯開発を進めていたのに対し、アプリリアはドタバタのなか急遽参戦を決め、テストしていない車両レースに参加することになった。ロマーノアルベジアーノも「2015年レース開発の場にする」と宣言しており、ライダー達は慢のレースを行うことになった。

『ピアッジオの社』の項でも触れたように、予算不足となっている。ファーストライダーと同じバイクセカンドライダーに用意することができない、という状況であると伝えられている(記事1exit記事2exit記事3exit)。また、セカンドライダーバイクが1年通じて変わらなかったこともある(記事exit)。
 

アプリリア最上 アプリリア勢2番手
2015年exit アルヴァロ・バウティスタexit 16位 ステファン・ブラドルexit 18位
2016年exit アルヴァロ・バウティスタexit 12位 ステファン・ブラドルexit 16位
2017年exit アレイシ・エスパルガロ 15位 サム・ローズexit 25位
2018年exit アレイシ・エスパルガロ 17位 スコット・レディングexit 21位
2019年exit アレイシ・エスパルガロ 14位 アンドレア・イアンノーネ 16位
2020年exit アレイシ・エスパルガロ 17位 ブラッドリー・スミス 21位
2021年exit アレイシ・エスパルガロ 8位 ロレンツォ・サヴァドーリ 26位

 

スポンサー

香港拠点を持つ通信事業者PCCW Limitedexitが展開するIPTV放送。公式Twitterexitあり。

IPTV放送とは、インターネット回線を使ってテレビ番組を放送することと考えておけば良い。

アプリリア会社。日本語Wikipediaありexit

ピアッジオはアプリリアデルビexitジレラモト・グッツィexitリジェexitといったバイクメーカー下に持ち、グループ全体でヨーロッパ最大の売り上げを誇る巨大企業である。

125ccクラスにデルビが参戦したときも、中身はアプリリアマシンだった。250ccクラスジレラが参戦したときも、中身はアプリリアマシンだった。ピアッジオグループ同士、名前の貸し借りをしている。

ピアッジオはスクーターの生産に熱心で、ヴェスパのような高級でおしゃれモデルを多く作っている。

一方でもう1つのイタリアバイクメーカードゥカティはあまりスクーターを作っておらず、パニガーレexitのようなスポーツを作ることに熱心である。この2社は対照的と言えるだろう。
 

最終戦バレンシアGP恒例・真っ赤なカラーリング

2016年から、最終戦バレンシアGPにおいて、アプリリアワークスのマシンカラーリングになるようになった(画像1exit画像2exit画像3exit画像4exit画像5exit)。チームスタッフな作業衣替えしている(画像exit)。

これは、(RED)というエイズ撲滅キャンペーンである。これに賛同した企業が自社商品を(RED)に登録すると、その売り上げのがエイズ患者支援に回る。

アプリリア会社であるピアッジオも賛同し、100万円以上する高級スクーターヴェスパVespa946exitというモデルを(RED)に登録した。1台を購入するたび150ドルが寄付される。公式サイトexit動画exitが作られている。

ピアッジオ以外にも多くの企業が賛同している。アップルexitコカコーラexitAmexexitアルマーニexitスターバックスexitなど。
 

拠点

アプリリアの本社はイタリア北東部のヴェネツィアexitから少し離れたノアーレexitというにある。

高速道路アウトストラーダexitで南下すればすぐにムジェロサーキットexitに着くので、ムジェロサーキットテストコースとして使用している。原田哲也がアプリリアワークスのライダーだったときはしょっちゅうムジェロサーキットテストしていて、そういうときはフィレンツェexitの宿に泊まっていたという。


ヤマハワークス拠点レズモexitスズキワークス拠点カンビアーゴexitドゥカティワークス拠点ボローニャexit、アプリリアワークスの拠点ノアーレexit。この4チームは直径250kmの円にすっぽり収まる近所同士である。日本で例えると、関東平野に4つのレースチームが散在しているような感じとなっている。

それゆえ、職員の移動も盛んであり、スズキワークスダヴィデ・ブリヴィオ監督は「々の中の多くの職員が元ドゥカティワークスの職員」と発言している。2013年末にアプリリアジジ・ダッリーニャドゥカティワークスに引き抜かれたが、これもちょっと離れたところに職場が変わっただけだと言えた。

アプリリア会社であるピアッジオの本社は、フィレンツェ郊外ポンテデーラexitにある。
 

関連リンク

関連項目

脚注

  1. *重量制限(MotoGP)の記事も参照のこと。

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