濃密なる8年の熱狂ーーニューエスト・モデル、結成30周年記念のベスト・アルバムを独占ハイレゾ先行配信
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現在、ソウル・フラワー・ユニオンで活動する中川敬によって1985年に結成されたニューエスト・モデル。今年で結成30年を迎え、数ある名曲の中から厳選された36曲をリマスタリングしたベスト・アルバムをリリース。OTOTOYでは一般リリースより1週間早く、独占ハイレゾ配信を開始。中川敬がニューエスト・モデル時代の軌跡をじっくりと振りかえったインタヴューは必読です!
ニューエスト・モデル / ザ・ベスト・オブ・ニューエスト・モデル 1986-1993(24bit/48kHz)
【配信形態】
ALAC / FLAC / WAV / AAC(24bit/48kHz)
【価格】
まとめ購入のみ 3,000円(税込)
【Track List】
DISC1
01. オモチャの兵隊 <4 Head Crash Version> / 02. ソウル・ダイナマイト <4 Head Crash Version> / 03. センスレス・チャター・センスレス・フィスツ / 04. ニュークリア・レース・オア・ヒューマン・レース / 05. ソウル・トゥ・ソウル / 06. プリティ・ピクチャー・ブック <Dangerous Rumors Version> / 07. フィーリング・ファッキン・アラウンド / 08. エンプティ・ノーション / 09. 雲の下 <90 Single Version>/ 10. ソウル・サバイバーの逆襲 / 11. こたつ内紛争 / 12. デイズ / 13. まどろみ / 14. イン・ザ・ホリデー・ムード /15. 追いつ追われつ / 16. 青春の翳り / 17. 雑種天国 / 18. 秋の夜長 / 19. 乳母車と棺桶
DISC2
01. ひかりの怪物 / 02. みんな信者 / 03. 杓子定木 / 04. 世紀の曲芸 / 05. 車といふ名の密室 / 06. 遊園地は年中無休 / 07. 外交不能症 / 08. もっともそうな2人の沸点 / 09. 知識を得て、心を開き、自転車に乗れ ! <Part.1> / 10. ソウル・フラワー・クリーク / 11. 十年選手の頂上作戦 / 12. もぐらと祭 / 13. 地平線騒ぎ / 14. 渡り廊下にランプを / 15. 報道機関がやさしく君を包む <Part.2> / 16. 蒼白の祈祷師 / 17. 独り善がりの風
INTERVIEW : 中川敬
ニューエスト・モデルとの出会いは、1990年のアルバム『クロスブリード・パーク』だった。「みんな信者」に登場する沖縄音階や、「杓子定木」のアイルランド音楽へのアプローチに驚いたものだ。さらに、1992年にリリースされた『ユニバーサル・インベーダー』では、冒頭からラップの「ソウル・フラワー・クリーク」に度肝を抜かれた。そして、『ユニバーサル・インベーダー』というアルバムに記録された熱量を反芻するかのように、幾度となく聴き返したものだ。
ニューエスト・モデルは、メスカリン・ドライヴとともに1993年にキューン・ソニーに移籍したが、そこで両バンドは解散・合体し、ソウル・フラワー・ユニオンが生まれる。彼らは3年後の1996年、『エレクトロ・アジール・バップ』という傑作を発表して、日本のミクスチャー・バンドの頂点に立った。
今回リリースされるニューエスト・モデルの結成30周年記念ベスト・アルバム『ザ・ベスト・オブ・ニューエスト・モデル 1986~1993』を聴いていると、ニューエスト・モデルはビジュアルこそパンクながら、結成当初から音楽的には多彩であったことに驚かされる。ニューエスト・モデルは、どうしてこれほど貪欲な音楽性だったのだろうか? ニューエスト・モデル、ソウル・フラワー・ユニオンとバンドを主導してきた中川敬に話を聞いた。
インタヴュー& 文 : 宗像明将
頭の中には雑多な音楽がガッツリと詰まってた
――『ザ・ベスト・オブ・ニューエスト・モデル 1986~1993』の選曲のポイントはどんなものでしたか?
中川敬(以下、中川) : 79分55秒のCD2枚の中に収めなあかんから、内々では第4案まで出たよ。ニューエスト・モデルの全曲を知っている友人10人ぐらいでメーリングリスト的にネットで会議したんよ。俺の第1案はハードパンク時代の曲が多かったけど、『クロスブリード・パーク』(1990年)と『ユニバーサル・インベーダー』(1992年)の2枚こそが青春だったという人が多くて、みんなの意見を聞きながら、最終的に俺が決めたらこうなった。「『底なしの底』(1990年)が何で入ってないの!」とか言われるんやけど、あれは8分あるから、入れたらハード・パンク時代の曲を2、3曲削らなあかん(笑)。
――1987年の「オモチャの兵隊」から始まりますが、ニューエスト・モデルの音楽的な雑食性はソウル・フラワー・ユニオンまで30年ぐらいほとんど変わっていませんね。
中川 : ニューエスト・モデルを始めた19歳の段階で、俺は相当なロック・リスナーやったからね。演奏者としては引き出しがなくて「なんでこんなこともできないんや、俺らは下手やな」とか思ってたけど、頭の中には雑多な音楽がガッツリと詰まってた。ロックとの大元の出会いはビートルズ。幼少の頃から歌謡曲少年で、小学校高学年のときにチューリップが大好きになって、ラジオから流れてきたビートルズの曲に脳天を撃ち抜かれて、赤盤(『ザ・ビートルズ 1962年~1966年』)と青盤(『ザ・ビートルズ 1967年~1970年』)を買って、擦り切れるように聴くのが中学生時代。ビートルズを全作制覇したら、ウイングスとジョン・レノンを順番に聴いていって、高校生でローリング・ストーンズ、ザ・フー、キンクス……。当然金がないから、ひたすら昼飯代を貯めてレコードを買ってたね。いちばん最初に聴いたストーンズは『サタニック・マジェスティーズ』なんやけど、実はあれでハマってね。
――『サタニック・マジェスティーズ』は、ニューエスト・モデルやソウル・フラワー・ユニオンの世界に影響を与えていますよね。
中川 : よくご存知で(笑)。最近でも(ソウル・フラワー・ユニオンの)『カンテ・ディアスポラ』の「スイミング・プール」あたりは、『サタニック・マジェスティーズ』がちょっと入ってるよね。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、キンクス、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、スモール・フェイセス、ドアーズ、同時代ではジャム、スタイル・カウンシル、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、ストラングラーズあたりは、十代の頃、まさに擦り切れるほど聴いてたから、いちいち引っ張り出してこなくても頭に全音入ってる。
――中川さんは10代のときから体系的に音楽を聴いていた印象があります。
中川 : 高校1年生の15歳の頃から、大阪ミナミのロック喫茶の常連になって、そこで10歳ぐらい年上のグラム・ロック世代の連中に可愛がってもらって、一通り悪いことも教えてもらう(笑)。俺は60年代マニアで、70年代のロックはあまり知らなかったから、T・レックス、デヴィッド・ボウイ、ニューヨーク・ドールズ、村八分、ブルース、ソウル・ミュージックあたりは、そこで教えてもらった感じ。バンドを始めるにしても、エレキ・ギターをどう弾いてるか見たいやん? 時代は80年代前半、当然YouTubeなんてないし、VHSが1本2万円とかする時代やからね。俺が行ってたそのロック喫茶には膨大なロック映像があったんよね。ひたすらそれを見るために通ってたね。
――「オモチャの兵隊」や「ニュークリア・レース・オア・ヒューマン・レース」(1988年)のような反戦、反核をテーマにした歌詞を若くして書いていた理由はなんだったのですか?
中川 : 親が新聞記者で、家で新聞を5紙ぐらい取ってて、なんとなく新聞を読むガキやったんよね。もちろん子どもの時、政治はわからんかったよ。でも社会事象には興味があったな。好きなミュージシャンのインタヴュー発言とかも大きかったんじゃないかな。それに、親の仕事で2、3年おきに転校ばっかりで、それこそが俺の性格を決定させたと思う。いい風に言うと社交的やけど、悪く言うと「すぐ引っ越すねんから、言いたいことを言えばええんや」っていう感覚(笑)。当然のことながら、どこに行っても教師との関係は悪くて、人気者グループとの相性も悪い。喧嘩も絶えない(笑)。中学生の頃は友達とも遊ばずに、ずっとビートルズを聴いて、アコースティック・ギターを弾きながら歌ってたね。
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――初期音源はパンクやサイケデリックですが、「ソウル・ダイナマイト」(1987年)は早くもソウル濃度が高いじゃないですか。結成時の音楽的な構想はどんなものでしたか?
中川 : 16歳ぐらいでレモン・スクイーザーというバンドを始めて、俺がリーダーやったけどヴォーカルは別にいてね。高校卒業後ぐらいまで、俺が聴いてた音楽を体現するバンドやったね。ローリング・ストーンズ、ザ・フー、ニューヨーク・ドールズ、T・レックス、村八分、ドクター・フィールグッドのカヴァーをして、ちょこちょこオリジナルも書き始めた。18歳で前述のロック喫茶の店員になって、常連客のやってたバンドにギタリストの欠員が出て、「おい、ちょっとギターを弾いてくれよ」ということになって、レモン・スクイーザーをたたんで入ったり。で、1年ぐらいでそのバンドは解散して、まさに解散したその日にレモン・スクイーザーのベース(高木基弘)とドラム(田中勉)に電話をして、「トリオで、初期のジャムみたいな感じのバンドをやるぞ。次は俺が歌う」っていう感じで始まったのがニューエスト・モデル。
――初期のニューエスト・モデルのライヴハウスでの反応はどんなものでしたか?
中川 : あらゆるタイプのバンドと対バン形式でライヴをやりまくって、徐々にお客さんが増えていったね。ファースト・ソノシートのレコード評が「ぴあ」や「Lマガジン」に載るだけで嬉しかったよ。東京では「シティロード」に長い文章が載って、西村茂樹が紹介してくれた。「DOLL」や「宝島」、「FOOL'S MATE」にライヴ評が載ったりして、みるみるお客さんは増えていった。ラウドマシーン、ニューロティカ、グレイト・リッチーズ、The ピーズとよく対バンしたな。関西ではコンチネンタル・キッズ、ガーリック・ボーイズ、OUTO、S.O.B、名古屋には原爆オナニーズやGODがいて、年がら年中対バンしまくってたね。
――当時、周囲に音楽的に近いバンドはいましたか?
中川 : いなかった。だから広義の意味でパンク・バンドであればどんなバンドでも対バンしたよ。ヒデ坊(メスカリン・ドライヴの伊丹英子)とは音楽の好みや考え方が近かったから、やっぱりメスカリン・ドライヴとニューエスト・モデルはしょっちゅう一緒にやってたね。結成2年後には一緒に『ソウル・フラワー・レーベル』を立ち上げるし。
「雑種天国」にはあの時代が詰まってるね
――「エンプティー・ノーション」はピアノにニューオリンズ風味が入っいますが、これは1988年なんですよね。変化が早いし、早熟なバンドだったと感じます。
中川 : いやー、俺が鬼監督やったからね。とにかく練習あるのみ。広島カープの2軍的な(笑)。落合中日の1年目のキャンプ、第一次長島政権の地獄の伊東キャンプ(笑)。メンバーは大変やったと思うよ。でも俺は、シャブをキメてるかのように、壊れたおもちゃのようにとまらない(笑)。
――10曲目でもうメジャー・デビュー・シングル「ソウルサバイバーの逆襲」(1989年)です。終わり方がビートルズの「A Day In The Life」で、こういう遊び方をメジャーの最初からしているんですよね。
中川 : キングレコードに「シングルはラジオのことがあるから3分半ぐらいにしてほしい」とか言われて、「分かった。ならば、7分にしよう」みたいな(笑)。キングレコードとの契約の条件は、「関西在住のまま、外部プロデューサーはつけないで、自分たちでリリースの時期も決められる。(ニューエスト・モデルとメスカリン・ドライヴが所属する)ソウル・フラワー・レーベルごと契約」やったからね。当初、メジャーでやるのは嫌やってんけど、1988年の年末にメンバー全員バイトを辞めて、1989年の年明けに山中湖のリゾート・スタジオで曲作りリハーサルをやったときに気づいたんよ。「バイトせんでええし、じっくりとアレンジ考えられるし、しかも、2ヶ月もレコーディングできんの!? ええっ、録音に生ピアノやブラスまで入られるの!?」って(笑)。昭和時代や(笑)。メジャー第1弾のサード・アルバム『ソウル・サバイバー』は、俺の聴いてきた音楽の原風景をもとに作ろうとしてて、幼少の頃からの、頭の中に残ってる音世界をそのまま娑婆に出そうとしたアルバム。「中川敬の音楽原風景の大爆発」が『ソウル・サバイバー』やね。欧米ロックへの「憧れの角度」はある程度仕方ないとして、そこを追い求めることはしたくないし、ちょっと勘違いが入るのが個性なんよ、とか、当時23歳で、そんなことばっかり言ってる(笑)。「ソウル・サバイバーの逆襲」はまさしく大いなる勘違いの大爆発で、イントロはブルース・ロックで、Oiパンクになって、ニュー・ソウル風のギター・カッティングが出てきて、ストーンズ風のサイケデリック・ロックになって、最後はビートルズ(笑)。当時は満足したよ、「かっこええやん! 日本にないで、こんなん。すごいやん俺ら!」(笑)。
――セカンド・ラインのピアノが響く「こたつ内紛争」(1989年)が、現在に至るまで歌われ続けている理由はなんだと思いますか?
中川 : 90年代後半に5年間ぐらいやらなかった時期もあったけど、やっぱりいい曲、消えなかったね。単純に曲が良くできてるよ。「ソウル・サバイバーの逆襲」と「こたつ内紛争」は、初期ハード・パンク時代のニューエスト・モデルの、ある種ピークやね。
――『クロスブリード・パーク』に収録されている「雑種天国」(1990年)はカリプソです。ここでカリブが突然顔を出しますね。
中川 : 当時ソカやカリプソが盛り上がっててね。
――マイティ・スパロウ?
中川 : そうそう、その辺。アロウとか。KUSU KUSUとイベントに一緒に出て、いいなと思ったり、BO GUMBOSにもそういう曲が出てきたりしてね。
――中川さんがKUSU KUSUを気に入っていたのは意外ですね。
中川 : 良かったよ。バンドブームって、どうでもいいのもいっぱいいたけど、面白いバンドもたくさんメジャーからデビューしてるんよ。あの時代じゃないと、JAGATARAやニューエスト・モデルがメジャー・デビューするとか考えられない。それに加えて、当時アナログからCDに急激に切り替わって、外資系のレコード屋が全国にできて、ロックやソウルの名盤がいきなり安く買えるようになって、嬉しくて仕方なかった時代。タワーレコードやWAVEへ行くたびに、レジに到達するときには10枚以上は手にCDを持ってるという。聴くもの聴くものが新鮮で、自分たちの音楽にも、音の魑魅魍魎がどんどん入ってくる。「雑種天国」にはあの時代が詰まってるね。
――「ひかりの怪物」(1990年)は、今聴くとラテン・ロックですね。
中川 : そろそろファンキーなものに手をつけたくなってね。リズム隊はパンク・ロックな人たちやったから、この辺からお勉強的なことも出てくる。俺の好きなものをひたすらメンバーに聴かせる日々。この曲を作るときは、ローリング・ストーンズの「アンダー・カヴァー・オブ・ザ・ナイト」やカーティス・メイフィールドの「ムーヴ・オン・アップ」あたりのビート感覚を取り入れようとしてる。『クロスブリード・パーク』はベーシックからJAGATARAのヤヒロ(トモヒロ)くんを呼んで、パーカッション入りの5人で「ひかりの怪物」や「みんな信者」を録ったね。
――そういう「お勉強」の要素が入ってきて、メンバーから反発は受けなかったんですか?
中川 : まあ、俺が前しか見てなかったからね。しんどかったんじゃない?(笑)。この頃は、なんらかのコンセプトがいつもあった。バーナード・パーディ風のドラムで、キーボード・アレンジはP-FUNK、そこにようこちゃん(メスカリン・ドライヴの内海洋子。現在の表記はうつみようこ)のラップが入るというコンセプトで「ソウル・フラワー・クリーク」を書いたり。バーニー・ウォーレルが参加してすぐの頃のファンカデリックというコンセプトで「十年選手の頂上作戦」を書いたり(笑)。
――「みんな信者」(1990年)では沖縄音階や、沖縄っぽいお囃子が出てきます。こういうストレートなアプローチはその後ないですね。
中川 : この頃には沖縄民謡も聴き始めてるね。チャンプルーズのベスト盤や、1970年代に竹中労が編纂したビクターの名盤群を聴いてた。曲の中に、8小節、16小節、違和感の残る箇所を作るという、意味不明なコンセプトも当時あって(笑)、「みんな信者」のあの転調はそれやね。ローリング・ストーンズの「ボーイズ・ゴー」で、最後の最後に女性コーラスが入るのがあって、それもあった。まあ、本当にいろんなものが交錯してるよね。
――「杓子定木」(1990年)ではアイルランド音楽の影響が出ます。この頃のアイリッシュは何を聴いていたんですか?
中川 : この頃というか、1988年が重要でね。あの年はヴァン・モリソン&ザ・チーフタンズの「アイリッシュ・ハートビート」が出て、ザ・ポーグスが超名盤「堕ちた天使」を出す。パブリック・エナミーのセカンドが出たり、「セカンド・サマー・オブ・ラブ」もあった。俺にとっては聴いたことがないものが急激に体に入り込んできた年で、その辺が「杓子定木」でようやく出てきてるんよね。そういや、音楽ライターに「なんで四畳半フォークみたいな曲を作るんですか?」って聞かれて唖然としたよ。「違う違う、アイリッシュ・トラッド!」(笑)。あの当時、音楽的な話ができたのは「MUSIC MAGAZINE」だけやった(笑)。
――『ユニバーサル・インベーダー』は大傑作ですね。冒頭の「ソウル・フラワー・クリーク」(1992年)からラップが始まって衝撃的でした。
中川 : とにかくPファンクが好きやった。俺にとってのファンクは、The J.B.'sでもないし、ミーターズでもないし、なによりPファンクやった。Pファンク的な雑多で猥雑な世界と、チンドン・ミュージックは俺の中でつながっててね。阪神・淡路大震災でチンドン(ソウル・フラワー・モノノケ・サミット)をやりはじめて、クラリネットの大熊(ワタル)くんがある曲を「もうちょっとアレンジしないか」って言ったとき、「いや、どこを切ってもチンドンなアレンジでいい。モノノケ・サミットはチンドンとP-FUNKとラモーンズの融合なんや」とかわけのわからないことを俺は言ってて(笑)。あの頃は、最終的にたどり着くのがいつもPファンクで、魑魅魍魎が暗闇でひたすら踊ってるというイメージがあった。ワン・ネーション・アンダー・ザ・グルーヴ!
――「もっともそうな2人の沸点」(1992年)は、シングルのジャケットはフセインとブッシュでした。
中川 : あのジャケットはヒデ坊の力作。あれを書くのに結構時間もかかって「おっさん描くの、もう嫌やわ」とか言ってて、書いた後は「街でハゲのおっさんを見たら描きたくなる」とか言ってたね(笑)。
――シングルなのに、歌詞が非常に批評的なのもニューエスト・モデルらしいですね。
中川 : 周りは反対してたよ。「中川、これはシングル向きじゃないんじゃない?」って。でも「いや、この曲、気に入ってるし、次のシングル」。あの頃の状況を端的に言うと、俺が人の意見を聞かない(笑)。
――1988年のパブリック・エナミーのセカンドから、「ソウル・フラワー・クリーク」でのラップまでは4年かかっていますね。
中川 : あの頃の俺らにはBO GUMBOSみたいな技量がなかったから。プロデューサーを立てるわけでもないし、そうサクサクとはいかなかったよね。だいたいにして88年は『プリティ・ラジエーション』やで。
――BO GUMBOSと同じシーンにいた印象もあったから、そう言われるとちょっと意外ですね。
中川 : ファースト・アルバム『センスレス・チャター・センスレス・フィスツ』を作ったすぐ後、大阪のバナナホールでBO GUMBOSを見て感銘と衝撃を受けて、終演後に楽屋に自分のレコードを持っていって、どんとに渡してるんよ。そしたら、どんとが当時男のバンドに一切興味がなかったらしくて、すぐにkyOn(Dr.kyOn)に「これ、あげる」って渡してる(笑)。それを聴いたkyOnがニューエスト・モデルを気に入って、俺らのバーボンハウスのライヴ終演後に楽屋に「BO GUMBOSのkyOnで~す」っていきなり現れて、一緒に呑みに行ったんよね。そこで仲良くなって、1年後の『ソウル・サバイバー』(1989年)では「こたつ内紛争」でアコーディオンを弾いてもらったり。俺にとって忘れられないのは、kyOnと初めて飲んだ日、なかなかうまくいかない苛立ちをkyOnに吐露してたんやと思うけど、「ストラングラーズなんかよりニューエスト・モデルのほうが既にかっこええやん」とか言われて、「そうかも」とか思ったんよね。乗せてくれたわけ。青春のパンチラインやね。
――『ユニバーサル・インベーダー』にもkyOnさんは参加していましたよね。
中川 : 「もっともそうな2人の沸点」のピアノはkyOnで、オルガンが奥野。『クロスブリード・パーク』ではギターも弾いてる。
――他にも、『ユニバーサル・インベーダー』は参加ミュージシャンが多いですよね。ラテンの「渡り廊下にランプを」(1992年)はオルケスタ・デ・ラ・ルスのメンバーが参加していましたよね。
中川 : 菊地(成孔)くんがブラスを担当してて、彼がメンバーを選抜してた。ニューエスト・モデルのブラスのアレンジは俺と菊地くんで考えてた。
――『ユニバーサル・インベーダー』は今日も聴き返してきたんですが、すごい情報量ですよね。
中川 : 無理があるよね、これ(笑)。「蒼白の祈祷師」(1992年)では割礼の宍戸(幸司)くんが素晴らしいサイケデリック・ギターを弾いてるし、「渡り廊下にランプを」ではザ・グルーヴァーズの藤井一彦が2ndギターを弾いてる。「もぐらと祭」(1992年)はサックスの梅津(和時)さんとの初めての出会いの曲。当時ライヴは4人で必死でやってたから、レコーディングは楽しみたいという気持ちが強くなっててね。ライヴばっかりしてたから、ライヴそのままの作品を作る気はまったくなかった。黄金期のストーンズがゲストをうまく使う感じ、あるでしょ? あのコンセプトやったね。
――『ユニバーサル・インベーダー』はオリコンで10位になりましたが、ニューエスト・モデルの作品でヒットを狙ったものってありますか?
中川 : ないかも。不思議なくらい「売れたい」とかなかった。なんやってんやろうな、あの感じ。今は売れたいね(笑)。「もっとたくさんの人に聴いてほしい」という気持ちは強かったけど、業界的な「売れる」ということには興味がなかったね。『ユニバーサル・インベーダー』の頃とか、街なかでジロジロと顔を見られるのも好きじゃなかったし。俺にとって19歳から26歳までのバンド。新しいことに邁進することに精一杯で、「売れたい」とか考える余裕がなかったとも言える。
世界的にも唯一無二のバンドやと思うね
――振り返ってみて、ニューエスト・モデルとは何だったと思いますか?
中川 : 「超」がつく青春の熱狂やね。濃密すぎる。「これが8年かよ?」って。
――逆に、ニューエスト・モデルがソウル・フラワー・ユニオンにならなかったら、どうなっていたでしょうね?
中川 : どうなってたんやろうなあ。あっさり解散してるんじゃない? わからんけどね、そこは出会いやから。J-POPの売れっ子プロデューサーかなんかになって踏ん反り返ってたんじゃない?(笑)。やっぱり震災が大きくて、音楽人生の一大転機やったよね。もともと世界のトラッド、ルーツ・ミュージックが大好きで、好奇心旺盛でギンギンやったんよ。でも、自分で三線を弾きながら歌うとは思わなかった。震災から1週間後にヒデ坊が「歌いにいかへん? 避難所で年寄りが取り残されると思う。年寄りと歌遊びしようよ」って言い出してね。そういう場所で演奏すると、当然のことながらソウル・フラワー・ユニオンやニューエスト・モデルは知られていなくて、BO GUMBOSですら知られてない。でも、みんなブルーハーツは知っている。当時「一般の人」と出会うっていうのは、そういうことやった。俺らを知らない人の前で歌って、しゃべって、盛り上げて、酒を酌み交わす。それは「ROCKIN'ON JAPAN」や「MUSIC MAGAZINE」で評価されるみたいなのとはまったく違う世界で、まさに芸人として鍛えられてゆく。「ああ、これは芸事やな」って。「日本のパンクやロックっていう村社会の中にいて、その中であらゆる事象を判断してたな」って。まさしく、ようやく「自分の音楽」を手中に入れるんよ、俺らは。
――ニューエスト・モデルの日本ロック史における位置づけとはどんなものだと思いますか?
中川 : 唯一無二の世界的にも稀有なバンド。同時代ならザ・ストーン・ローゼズやプライマル・スクリームがいたけど、ニューエスト・モデルのほうが俺は断然好みやね。ライヴの技量は足りなくて、俺の理想には到達できなかったけど、音盤に込められた熱という意味においては、世界的にも唯一無二のバンドやと思うね。
――今回、デジタルリマスタリングを施されたハイレゾ音源が配信されますが、聴きどころはどこでしょうか?
中川 : そうなの? 今知りました(笑)。あ、それでOTOTOYでインタビューやってるんか(笑)。CDは、最後のカッティングの工程で音質が落ちちゃうからね。ハイレゾをOTOTOYで買って、CDも買う。加えてディスクユニオンだとTシャツ付きもあるので、全部買うと人格者認定されて、幸せになれます(笑)。
トリビュート・アルバム、2016年8月3日リリース!
V・A / ソウル・フラワー・ユニオン&ニューエスト・モデル・トリビュート
OTOTOY配信予定!
ソウル・フラワー・ユニオンの前身バンド、ニューエスト・モデル結成30周年企画の第2弾は驚愕のトリビュート・アルバム! !
参加アーティスト : 大森靖子、岸田繁(くるり)、the 原爆オナニーズ、スピッツ、曽我部恵一、チャラン・ポ・ランタン、怒髪天、仲井戸麗市、中田裕二、七尾旅人、二階堂和美、BRAHMAN、フラワーカンパニーズ、MONGOL800
中川敬 / ソウル・フラワー・ユニオン DISCOGRAPHY
ソウル・フラワー・ユニオン MUSIC VIDEO
【asfファイルとmp4ファイルについて】
・ Windows標準のWindows Media Playerをご使用の方 → asfファイル(WMV8)
・ mac標準のQuickTime Playerをご使用の方 → mp4ファイル
※Windows環境で、mp4を再生出来る環境の方はmp4をおすすめします。
ソウル・フラワー・ユニオン / 中川敬特集ページ
新→古
・『にじむ残響、バザールの夢』配信&中川敬インタビュー
・『アンダーグラウンド・レイルロード』配信&中川敬インタビュー
・『アンチェイン』配信&レヴュー
・『踊れ! 踊らされる前に』配信&中川敬インタヴュー
・「キセキの渚」ミュージック・ビデオ配信&レヴュー
・『キセキの渚』配信&中川敬インタヴュー
・2011年9月28〜29日 みちのく旅団 被災地ライヴ・ツアー レポート
・『REVIVE JAPAN WITH MUSIC』特集 第2回 中川敬
・『キャンプ・パンゲア』配信&中川敬インタヴュー
・ソウル・フラワー・ユニオン ミュージック・ビデオ一斉配信
・「死ぬまで生きろ! 」ミュージック・ビデオ配信&中川敬インタヴュー
・「アクア・ヴィテ」ミュージック・ビデオ配信&レヴュー
・「アクア・ヴィテ」ハイレゾ先行配信&中川敬インタヴュー
LIVE SCHEDULE
ソウル・フラワー・ユニオン「続・ニューエスト・モデル結成30周年記念ツアー」
2016年9月18日(日)@福岡@voodoo Lounge
ゲスト : 中田裕二
問 : voodoo 092-732-4662
2016年9月19日(月・祝)@大阪Music Club JANUS
ゲスト : チャラン・ポ・ランタン
問 : GREENS 06-6882-1224
2016年9月24日(土)@下北沢GARDEN
ゲスト : 仲井戸“CHABO”麗市
問 : SOGO TOKYO 03-3405-9999
(全公演共通)開場18:00 開演19:00
チケット : 前売 4,500円 / 当日 4,900円
(ドリンク代別,オールスタンディング,整理券付)
7月23日(土)より一般発売開始
PROFILE
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ニューエスト・モデル
1985年、中川敬を中心に結成され、80年代関西パンク/ニューウェーヴ・シーンを席巻した屈指の伝説的ロック・バンド。当初はノーザン・ソウルやモッズ、ガレージなどの影響を感じさせるストレートなパンク・ロックを指向するも、次第に広汎なワールド・ミュージックを採り入れ、日本のミクスチャー・ロック・バンドのパイオニアとして活躍。
86年にファースト・シングル「爆弾じかけ」(カセット)、「オモチャの兵隊」(ソノシート)を立て続けにリリースし、シーンの注目を集める。89年6月にはシングル「ソウルサバイバーの逆襲」でキングレコードからメジャー・デビューし、その後3枚のアルバムをリリース。ニューエスト・モデル名義で の最後のアルバムとなった「UNIVERSAL INVADER」はオリコン週間チャートで10位にランクイン。
93年にレーベルメイトのメスカリン・ドライヴとの発展的解消~融合により、ソウル・フラワー・ユニオンを結成。幅広い音楽性を雑多に詰め込み、社会性に富む中川の歌詞を載せた独自のパンク・サウンドは、他の追随を許さない孤高の領域に達し、現在も神格化されている。
中川敬
ロック・バンド「ソウル・フラワー・ユニオン」のヴォーカル / ギター / 三線。前身バンド「ニューエスト・モデル」に始まり、並行活動中のチンドン・ユニット「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」や、アコースティック・ユニット「ソウル・フラワー・アコースティック・パルチザン」と、多岐にわたるバンド / ユニットのフロントマンとして、ライヴを通じて多くの人々を魅了している。また、トラッド、ソウル、ジャズ、パンク、レゲエ、ラテン、民謡、チンドン、ロックンロールなど、あらゆる音楽を精力的に雑食・具現化する、これらバンドの音楽性をまとめあげる才能をして、ソング・ライター / プロデューサーとしての評価も高い。
ソウル・フラワー・ユニオン
80年代の日本のパンク・ロック・シーンを語るには欠かせない存在であったメスカリン・ドライヴとニューエスト・モデルが合体する形で、'93年に結成。'95年、阪神淡路大震災を機にアコースティック・チンドン・ユニット「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」としても、被災地での演奏を中心に精力的な活動を開始。'99年には、韓国にて6万人を集めた日本語による初の公演を敢行。トラッド、ソウル、ジャズ、パンク、レゲエ、ラテン、民謡、チンドン、ロックンロールなどなど、世界中のあらゆる音楽を精力的に雑食、それを具現化する祝祭的ライヴは、日本最強のオルタナティヴ・ミクスチャー・ロックンロールと評される、唯一無二の存在として、国内外を問わず高い評価を得ている。
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