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印度學佛敎學硏究第 70 巻第 1 号 令和 3 年 12 月 (211) 敦煌本『壇經』から『曹溪大師傳』へ ――八世紀後半の長安における荷澤宗の思想的變遷―― 伊 吹 敦 はじめに 六祖慧能(368-713)の傳記, 『曹溪大師傳』は後世の燈史の慧能傳に大きな影響 を與えた重要な文獻であるが,その成立は謎に包まれている.卽ち,本文中の記 載から建中二年(781)年の成立で, 「我滅度七十年後.有東來菩薩.一在家菩薩. 修造寺舍.二出家菩薩.重建我敎」と述べられていることによって出家と在家の 二人の「東來菩薩」が關與したものであることは明らかであるにも拘わらず,そ の二人が誰かを特定できないために,いかなる系統の人がどこで制作したかが分 からず,本書を禪宗史の中に正しく位置づけることができずに來たのである. もちろん,この問題を先學が放置してきたわけではない.例えば胡適は「壇經 考之一(跋曹溪大師別傳)」(1930 年)において, 「作者は預言の中に出てくる 「出家 菩薩」 であろうが,殘念ながら誰かは分からない」としつつ, 「江東か浙中の僧で あろう」と言い,その理由として,本書が成立した建中二年から最澄が越州で本 書を書寫した貞元二十一年(805)まで僅かに二十四年に過ぎず,當時の書物の流 布狀況から判斷すると,成立地からそれほど離れていなかったはずであり,また, 越州は東方にあって「東來菩薩」の故鄕と言いうると論じている(柳田聖山主編『胡 適禪學案』中文出版社,1981 年,67-68 頁).しかし,二十四年間における流布がその ように限られたものであったか大いに疑問の餘地がある. 一方,柳田聖山は,この出家と在家の二人の「東來の菩薩」を, 『曹溪大師傳』 において慧能の滅後に宮中での供養のために傳衣を持參したとされる僧の惠象と 俗人の永和に充てている(柳田聖山『初期禪宗史書の硏究』法藏館,1967 年,222 頁). しかし, 『曹溪大師傳』はこれを乾元二年(759)のこととしており,滅後七十年 とはかけ離れている.また,どうして彼らが「東來菩薩」と呼ばれるのかが全く 說明されていない. また,印順は, 『曹溪大師傳』を荷澤宗の系統で作られたものとしつつ(印順(拙 ― 312 ― (212) 敦煌本『壇經』から『曹溪大師傳』へ(伊 吹) 譯)『中國禪宗史――禪思想の誕生――』山喜房佛書林,2004 年,315 頁),本書が寶林寺 を重視するのは寶林寺の傳承に基づくものであると述べている(同上,269-270頁). しかし,荷澤宗と寶林寺の關係については觸れられるところがなく,また, 「東來 菩薩」をどう見るかも明らかでない. 以上,從來の說を一瞥したが,いずれも確たる根據に闕け,單なる臆說と言う べきである.本拙稿は,これら從來の說に對して, 『曹溪大師傳』を中原の荷澤宗 の人々の著作と位置づけ,それが制作された經緯についての私見を公表しようと するものである. 1.敦煌本『壇經』・ 李舟撰『能大師傳』の成立と『曹溪大師傳』 最近,筆者は,敦煌本『壇經』と李舟撰『能大師傳』(佚書)の成立について, 次の二篇の論文を發表した. 1. 「 『六祖壇經』の成立に關する新見解――敦煌本『壇經』に見る三階敎の影響とその意 味――」 ( 『國際禪硏究』7,2021 年) 2. 「李舟撰『能大師傳』の內容とその歴史的意義」 (同上) 前者は,敦煌本『壇經』が 770 年前後に中原の荷澤宗の人々によって制作され たものであることを,後者は,李舟撰『能大師傳』の編輯が西堂智藏の影響下に 行われたもので,先行する敦煌本『壇經』と『曹溪大師傳』を綜合し,また,兩 者の矛盾を解消しようとしたものだったことを明らかにしたものであるが,これ らの論文は,同時に『曹溪大師傳』の成立についても新たな展望を開くものであ る.というのは,前者によって, a. 『曹溪大師傳』には敦煌本『壇經』の影響が窺えるが,兩者の成立の間には十年ほどし か間隔がなく,ほとんど相い前後して成立した. b.敦煌本『壇經』の末尾には,嶺南で『壇經』が傳授されてきた系譜が記されているが, これは『壇經』が慧能の傳記と思想を傳える言行錄であることを證據づけるための假 託である. という二點が明らかとなり,また,後者によって, c.李舟撰『能大師傳』の成立は,建中四年(783)に虔州刺史になった李舟が當地で化を 振るっていた西堂智藏に師事してから貞元三年(787)に亡くなるまでの間である. という一點が明らかになったからである.この意味するところは極めて重大であ る.というのは,從來, 『曹溪大師傳』には嶺南に關する敍述が多いことから,嶺 ― 311 ― 敦煌本『壇經』から『曹溪大師傳』へ(伊 吹) (213) 南の弟子たちが何らかの形でその制作に關わったと考えられてきたが,これらの 事實が明らかになったことによって,その束縛から脫することができるからであ る.即ち,南地の弟子たちが『曹溪大師傳』の編輯に關わったとする從來の考え に從えば,a と c によって,770 年前後に中原で製作された敦煌本『壇經』が,そ の後,嶺南まで傳わり,781 年に當地でその影響下に『曹溪大師傳』が制作され, 更に,787 年までに李舟がその『曹溪大師傳』を入手して新たに『能大師傳』を 編輯したというかなり無理な想定をしなければならなくなる.しかし, 『曹溪大師 傳』の嶺南に關する記述は,その內容の信憑性を高めるための b に倣った作爲に すぎないと見做し,その編輯を中原でのことであると考えるのであれば,その成 立が敦煌本『壇經』の十年後であっても一向に差し支えないし,李舟は, 『曹溪大 師傳』が成立した建中二年(781)の少なくとも五月以前は中原にいたと見られる から(陳冠明「李舟行年考」『杜甫硏究學刊』45(1995 年第 3 期),62 頁),その入手も不 可能ではなかったと考えられる. 上記のように『曹溪大師傳』を中原での制作と考える方がむしろ合理的である ならば,その成立を明らかにする上で肝心要の位置を占める「東來二菩薩」につ いて,從來とは全く異なる新たな見解を提示することが可能となる.次にこの問 題を考えてみよう. 2. 「東來二菩薩」についての新見解 『曹溪大師傳』の「東來二菩薩」の內,少なくとも出家の菩薩に該當する人物は 次の三つの要件を滿たさなくてはならない. 1.出家の菩薩は慧能の系統を受け繼ぐ人物である. 2.東から移動してきた人物である. 3.781 年の時點で, 「東來菩薩」という呼稱ですぐに分かるほどの顯著な活躍をした人物 である. これを滿たすことは非常に難しいように思われるが,實は,一人だけ該當する 人物が存在するのである.それは荷澤神會(684-758)の弟子,慧堅(719-792)で ある.卽ち,慧堅の塔銘, 『唐故招聖寺大德慧堅禪師碑』(楊曾文「《神會塔銘》和 《慧堅碑銘》的注釋」『佛學硏究』7,1998 年)には, 厥後奉漕溪之統紀.爲道俗之歸依.則荷澤大師諱神會.謂之七祖.昇神會之堂室.持玄關 之管鍵.度禪定之域.入智慧之門.則慧堅禪師乎. ― 310 ― (214) 敦煌本『壇經』から『曹溪大師傳』へ(伊 吹) のように荷澤神會の後繼者であることが明示されており,また,嗣虢王李巨(?- 761)の外護を得て洛陽の聖善寺に住したが,安史の亂に際して長安に移住し,化 度寺や慧日寺に住したことが, 乃去山居.游洛下.時嗣虢王巨.以宗室之重.保厘成周.慕禪師之道.展門人之敬.乃奏 請住聖善寺.屬幽陵肇亂.伊川爲戎憑陵.我王城盪爇.我佛剎高閣隨於煙焰.修廊倏爲煨 燼.唯禪師之室,巋然獨存.則火中之蓮.非足異也.時虜寇方壯.東郊不開.禪師以菩薩 有違難之戒.聖人存遊方之旨.乃隨緣應感.西止京師.止化度慧日二寺. と記されている.正しく東の洛陽から西の長安へと活動の場を移した人物なので ある.もっとも洛陽から長安に移ったことをわざわざ「東來菩薩」と稱すのは不 自然であると思われるかも知れないが,實は,これは荷澤宗にとって劃期的なこ とであった.というのは,荷澤神會が洛陽の荷澤寺に入って以來,洛陽では無名 (722-793)などの活動も見られたが,長安で化を振った人物は一人も知られていな いからである.その點で長安の人々から見て慧堅の存在は目新しく,正しく「東 來菩薩」と稱すべきものであったのである. 更に塔銘には,その後,大曆中(766-779)に敕命で招聖寺に住し,また,國費 で觀音堂を建立してもらい神會に至る七祖の顯彰を行ったとして, 大曆中.睿文孝武皇帝以大道馭萬國.至化統群元.聞禪師僧臘之高.法門之秀.特降詔 命.移居招聖.俾領學者.且爲宗師.遂命造觀音堂.竝繢七祖遺像.施錢於內府.征役於 尚方. と記されている.これが僧侶として顯著な活躍であることは間違いなく,また, 內容的にも『曹溪大師傳』の「東來」して「我敎を重建」したに當たるものであ ることは疑う餘地がない.ここに出てくる「招聖寺」は,他には全く記載がなく, 慧堅のために建立された寺ではないかと疑われる.そこに「觀音堂」を敕建した というのも,いまだ寺として十分な堂宇を備えていなかったためであろう. 慧堅は大曆の末年(779)でも五十一歳であったのであるから,敕命で招聖寺に 住し,國費で觀音堂を建立してもらったというのは,大曆年間でも比較的末期に 近い時期のことであろう.だとすると,建中二年(781)の『曹溪大師傳』の編輯 は,これを慧能―神會―慧堅の系統が皇帝から認められたものと見做し,それを 契機として行われた可能性が強いことが推察される. このように,慧堅の經歷と活動は,正しく「東來二菩薩」の「出家菩薩」とし ての要件を滿たすのであるが,從來,この點は全く考慮されてこなかった.實は, ― 309 ― 敦煌本『壇經』から『曹溪大師傳』へ(伊 吹) (215) 慧堅の存在が知られるようになったのは,冉雲華の論文「 《唐故招聖寺大德慧堅禪 師碑》考」(『中華佛學學報』7,1994 年)に依るのであるから,先學たちが「東來菩 薩」の候補に擧げなかったのは當然であるが,假にその存在を知っていても,先 學たちは『曹溪大師傳』の成立を南方と結びつけていたのであるから,中原で活 躍した慧堅をその人に充てたかは疑問である. 問題は, 「在家菩薩」の方である.慧堅の塔銘に出てくる外護者は,先の引用に 見られる李巨のみである.李巨は洛陽で慧堅の外護者として聖善寺への入寺の便 宜を提供した.慧堅の長安移住は 760 年頃と見られるから,それも李巨の配慮に よる可能性も考えられる.李巨は,神會の遺體を龍門に迎えた際の中心人物であ るから,もしも「在家菩薩」が李巨であれば, 『曹溪大師傳』にいう「寺舍を修造 した」とは,この事件が契機となって,その後,神會の墓所に寶應寺が整備され たことを言ったものと見えなくもない.しかし,李巨自身は寶應寺の造營に關與 していないこと,年代的に七十年懸記に合わないこと等を考えると,やはり無理 であろう.恐らく「在家菩薩」は,皇帝に慧堅を紹介し,招聖寺を建立した人物 を指すと考えねばならないであろうが,その人物の名前を明らかにする術がない. あるいは,781 年の段階では慧堅との關係が廣く知られていた有力者で, 「東來二 菩薩」の「在家菩薩」という呼稱ですぐに分かるような人物であったが,慧堅の 塔銘が建てられた 806 年の時點では,それに言及することが憚れるような狀況に あったため,塔銘には言及されなかったという可能性も考えられよう. 3.敦煌本『壇經』から『曹溪大師傳』へ 上に論じたように, 『曹溪大師傳』は長安の慧堅の周圍で編輯されたものと見ら れるが,敦煌本『壇經』も同樣であったと考えられるから(前揭「『六祖壇經』の成 立に關する新見解」を參照) ,敦煌本『壇經』から『曹溪大師傳』への慧能傳の變化 は,慧堅一派の思想的變化を反映するものと見ることができる.そこで, 『曹溪大 師傳』の内容を敦煌本『壇經』と比較すると,次のような相違を指摘できる. a.敦煌本『壇經』では,慧能が弘忍に參ずる契機が『金剛經』であったとされ,また, 弘忍の慧能への傳法において『金剛經』を說いたとするように, 『金剛經』が絕對視さ れているが, 『曹溪大師傳』にはこれがない.すなわち,弘忍に參ずる契機となった經 典が『佛爲心王菩薩說頭陀經』という僞經に差し替えられており,慧能への傳法の場 面でも『金剛經』は登場しない. b.敦煌本『壇經』では, 『壇經』を稟承することの必要性を繰り返し說かれるが, 『曹溪 ― 308 ― (216) 敦煌本『壇經』から『曹溪大師傳』へ(伊 吹) 大師傳』では,それに類する主張は見られない. c.敦煌本『壇經』では,慧能は弟子たちに滅後二十年の滑臺の宗論での神會の活躍を懸 記するが, 『曹溪大師傳』では,神會に對して滅後七十年の「出家在家の二菩薩」の活 躍を懸記する.つまり,神會よりもその弟子たち自身の正統化に重點が移っている. d.敦煌本『壇經』では,三階敎の思想を導入して論爭や他者への批判を諫めつつも,神 秀や北宗に對する慧能や南宗の優位が強調されているが, 『曹溪大師傳』では, 「神秀」 や「北宗」という言葉は全く登場せず,慧能と神秀,南宗と北宗の優劣について論及 されることはない. e.敦煌本『壇經』では,慧能と帝室との關係に全く觸れないが, 『曹溪大師傳』では,慧 能を招聘する敕命を載せたり,慧能滅後における袈裟の入內を說くなど,皇帝との關 係を強化しようと努めている. f.敦煌本『壇經』では,慧能は付法を受けた後,五年間の隱遁期間があったとするのみ であるが, 『曹溪大師傳』では,隱遁期間を五年間とする說を繼承しつつも,傳法の後, 三日にして弘忍が入寂したとして,傳法と弘忍の入寂を結合させている. これらの變化がどうして生じたかを考えてみると,先ず a については,荷澤宗 では,長安の大安國寺に住した淨覺(生歿年未詳)の『楞伽師資記』が八世紀半ば 以降,急速に流布し始めたことに反撥して,神會の般若波羅蜜の絕對視を『金剛 經』という特定の經典に集約するようになったから(拙稿「『師資血脈傳』の成立と 變化,竝びに他の神會の著作との關係について」『東洋思想文化』7,2020 年,48-49 頁) ,敦 煌本『壇經』のこれらの記載は,それを慧能傳に反映させたものと見ることがで きる.しかし,これは客觀的に見れば,極めて奇怪な說であるから,時間を經て 冷靜に反省することができるようになると,そのことに氣づき,放棄するように なったのではないかと考えられる. 次に b の『壇經』の稟承は, 『壇經』が南方で祕密裏に傳授されているという虛 僞を書き込むことで,突然現れた敦煌本『壇經』が慧能の言行錄であることの信 憑性を增し,また,その價値を高めようとしたものと見られるが,馬祖道一の弟 子,韋處厚(?-828)が撰した馬祖の弟子,鵞湖大義(746-818)の碑文が, 洛者曰會.得總持之印.獨曜瑩珠.習徒迷眞.橘枳變體.竟成壇經傳宗.優劣詳矣. ( 『全 唐文』715) と批判しているように,この說も一般には奇怪で非常識なものと見られたから, 捨て去るよりほかなかったのであろう.また,敦煌本『壇經』では, 『壇經』が南 方で祕密裏に傳授されており, 『壇經』を稟承しなければ正統な弟子とはいえない と主張しながらも,神會が活躍したのが中原であったため,その系譜內に荷澤神 ― 307 ― 敦煌本『壇經』から『曹溪大師傳』へ(伊 吹) (217) 會を入れることができず,結果的に神會の正統性を主張できなくなってしまった のであり,この點からも,この說には大きな問題があった(これらについては前揭 「『六祖壇經』の成立に關する新見解」を參照). c については,慧能の懸記によって神會を後繼者と認定し,その兒孫である自 らを間接的に正統化するよりも,神會に導かれて發せられた慧能の懸記によって 自らを直接に正統化する方が效果的と考えた結果であろう.それは敕命によって 招聖寺に入り,國費で觀音堂を建立してもらったという慧堅の事蹟が,神會に優 るとも劣らないとの認識を持つに至ったことによると考えられる. 神會と慧能との問答によって七十年懸記が導き出されるのは,明らかに敦煌本 『壇經』の二十年懸記を下敷きとしたものであり,一見すると,神會は單にダシに 使われているようにも見えるが, 『曹溪大師傳』では,神會は慧能の最初の說法の 時に,沙彌でありながら卽座に慧能の付囑を得たとされている.この問答は敦煌 本『壇經』に載せられる慧能と神會との問答を改變したもので,弘忍が慧能の能 力を初相見で知ったとすることの應用と認められる.つまり,神會自身は非常に 尊ばれており,慧能―神會という偉大な師弟によって後繼者が明らかにされると ころに意味があったと見做すべきである. d は,敦煌本『壇經』の段階では,對立は望まないと說きつつも,一方で北宗 に對する南宗優位が強く主張されている.それは,當時はまだ南北兩宗の間で強 い對抗意識が存在していたためであろう.ところが, 『曹溪大師傳』では,このよ うな南北二宗を對立的に捉える視點が注意深く排除されている.敦煌本『壇經』 の冒頭の自敍傳では,有名な神秀と慧能による呈偈の應酬が說かれるが, 『曹溪大 師傳』では,この部分がなく,また,敦煌本『壇經』の慧能と志誠との問答(楊 曾文『敦煌新本 六祖壇經』上海古籍出版社,1993 年,47-49 頁)のように,南頓北漸說 を前提としたような記述も見られない.ここから,南北の對立を融和せんとする 配慮がより強くなっていることが窺えるが,慧堅の塔銘に記される「開示之時. 頓受非漸.修行之地.漸淨非頓.知法空則法無邪正.悟宗通則宗無南北.孰爲分 別而假名哉」という言葉こそは,正しくそれに對應するものと言えよう. e も,これに關聯するものであり,自らが國家權力から認められたことを背景 に,慧能の段階で既に國家の崇拝を受けていたことを強調しようとしたものと見 られる.國家佛敎の中樞に位置を占めつつあった慧堅は,同じく國家佛敎の一翼 をになってきた北宗との對決を避けなくてはならない立場に置かれることになっ たのである. ― 306 ― (218) 敦煌本『壇經』から『曹溪大師傳』へ(伊 吹) f において, 『曹溪大師傳』が慧能への傳法の直後に弘忍が入寂したとするのは, 東山法門の指導者としての地位が弘忍から慧能へ委讓されたことを明示しようと する意圖を含むものであって,d や e に見るように,國家への手前,表向きには 北宗との對決を避けつつも,自らの奉ずる南宗(荷澤宗)こそが正統であるとする 意識を強く持ち,それを示す方法を模索していたことを示すものと言える. 以上を綜合すると, 『曹溪大師傳』は敦煌本『壇經』の慧能傳の問題點を修正す るとともに,國家から正統性を認められた慧堅を懸記によって權威づけ,また, 國家との結びつきを慧能にまで遡らせることで慧能の權威を高めるとともに,慧 堅による禪の國家佛敎化を正當化し,一方で北宗との對決の姿勢を抑えることで, 自らが身を置くことになった國家佛敎の枠組みを守ろうとしたものと見ることが できるのである. 〈参考文献〉 胡適(1930)1976「壇經考之一(跋曹溪大師別傳) 」現代佛教學術叢刊編輯委員會編『六 祖壇經研究論集』現代佛教學術叢刊 1, 1-10. 柳田聖山 1967『初期禪宗史書の硏究』法藏館. ―――主編 1981『胡適禪學案』中文出版社. 楊曾文 1993『敦煌新本 六祖壇經』上海古籍出版社. 冉雲華 1994「 《唐故招聖寺大德慧堅禪師碑》考」 『中華佛學學報』7: 97-120. 陳冠明 1995「李舟行年考」 『杜甫硏究學刊』45(1995 年第 3 期): 59-64. 楊曾文 1998「 《神會塔銘》和《慧堅碑銘》的注釋」 『佛學硏究』7: 27-37. 印順(伊吹敦譯)2004『中國禪宗史――禪思想の誕生――』山喜房佛書林. 伊吹敦 2020「 『師資血脈傳』の成立と變化,竝びに他の神會の著作との關係について」 『東 . 洋思想文化』7: 116(31) (59) -88 ――― 2021a「 『六祖壇經』の成立に關する新見解――敦煌本『壇經』に見る三階敎の影響 とその意味――」 『國際禪硏究』7: 5-44. ――― 2021b「李舟撰『能大師傳』の內容とその歷史的意義」 『國際禪硏究』7: 151-182. (令和 3 年度科学研究費,基盤研究 (A) ,課題番号 17H00904 による研究成果の一部) 〈キーワード〉 曹渓大師伝,敦煌本壇経,荷沢宗,慧堅 ― 305 ― (東洋大学教授)