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はてなキーワード: 京本とは

2024-12-29

anond:20241229144333

主演声優花江夏樹中学生の頃からニコニコ動画配信者やってて

高校がつまらいからと強制参加の文化祭の日はトイレにこもってソシャゲ配信やってるような陰キャだったな

鼻声からハナゴエと呼ばれてそれをHNにするようになって、「花江」も「ハナゴエ」が由来の芸名

両親の結婚の経緯は複雑で、若い母親が年食った父親の2号さんを長らくやっており、

父親の妻が亡くなったので再婚したが、普通の家庭と違うことに孤独感があったという

しばらくして両親が相次いで亡くなったが、タイミング的には高齢父親自然死して母親が後追いしたんだろうな

20歳ぐらい年上の腹違いの姉の家に世話になったり、祖母の家に預けられたり、波乱万丈だった

声優になりたくて山寺宏一音源身上語りをした文書を送りつけられたら気に入られてオーディションなしで事務所に起用の破格の待遇

今では花江は結婚して太ったが、デビューしたてのころは50kgもない細身の体で、

山寺の膝の上に乗せられて可愛がられていたという

家庭の事情が複雑で不足していた父性山寺で補っていたんだろうな

花江の嫁は、このままだとAV堕ちしかもうルートがないという過激IVに出まくっていた京本有加

その時期に花江は祖母を亡くしており、腹違いの兄や姉は実質他人なので天涯孤独になっていた

寂しがる花江と、AV堕ちを回避したい京本を引き合わせたのは安元洋貴だった

安元洋貴は男女の声優、またタレントAV系、グラビア系などを集めては合コンさせて仲人するのが趣味として知られている

声優結婚の背後に安元人脈が見え隠れすることがあり、推しに安元が近づくと結婚させられるぞと恐れられている

安元の目論見通りに花江と京本結婚し、双子女児を授かった

夢があるよな、文化祭サボってトイレに篭ってた陰キャが大物声優に寵愛され売れっ子声優になって料理上手のエロ美女結婚して双子女児に恵まれるとかさ

2024-11-19

anond:20241119162935

最近だとルックバックの京本がそんな感じだな

苔の一念型って、今は主人公じゃなくて主人公のバディでないと難しいのかもしれん

2024-08-05

anond:20240805162353

藤野努力によって中学生離れした画力を身に着けてる

一方で京本は背景しか描けない

背景を描くのはアシの仕事範疇だよ

ちょっとリアル風景画を描けるくらいで天才とかならんしね

天才藤野であって、京本はそのおまけでしかない

からこそ京本もっと実力をつけたくて美大へ行くんだし

anond:20240805162353

藤野キョウ」の「キョウ」は京本のキョウだろ

2024-07-19

ルックバックの何がそんなにいいのさ?

クリエイターとしての共感という目線賞賛している人がやけに多いが、天才が描いた天才たちの物語共感もないだろう。

藤野京本も (通り魔さえもが) 常人離れした能力の持ち主で、特に挫折や失敗を描いているでもないので、逆に一般人共感など寄せ付けない取り付き難さを自分は感じた。

要するにクリエイターの美しさだけが徹底して高潔に描かれていて、これに共感できますというのはあまりにも自己愛的でないか

しろそうしたこじれた自己愛は本作では描かないという立場を作者は取っているわけで、それに臆面もなく共感してしま自己愛まみれの自称クリエイターとの間には大きなズレを感じてしまう。

ところで、原作に関して「映画的な構図が素晴しい」というこれまた素人離れした感想がよく見られたのにも首を傾げてしまう。

じゃあ映画で良くないですか? (今回晴れて映画になったわけだが。)

2024-07-08

anond:20240708103107

自分は泣いたりしなかった

というか京本の部屋の扉越しに4コマでやりとりするシーンが結局藤野妄想ってわかった時に

京本ならこんな4コマ描いたかもしれないと自分想像して描いた自分応援する4コマ漫画」を事務所の窓に貼り付けてんのなんで?みたいなモヤモヤが残った

2024-07-03

映画ルックバック』を観た。

 顔がぺしょぺしょになるくらい泣いてしまった。

 原作をあまりきじゃないので、映画前評判がよくても観るのどうかなあ? と躊躇ったんだが、観てよかった。

 映画版のどこが好きかというと、京本藤野に対する感情が丁寧に描かれているところ。原作でも、京本藤野に対して盲信レベル好意尊敬の念を懐いているのは解りやすくかかれているけど、映画版で良いと思ったのはそこじゃなくて(そこは原作に忠実にえがかれているが。)、いつも藤野に手を引かれ、彼女背中を見つめていた京本感情の大きさの描写だ。

 自分のことを子供部屋から外へ連れ出してくれて、外の世界を見せてくれた藤野背中が、京本の目にはどんなに頼もしく、そして眩しく映ってたのかということ。繋いだ手はやがてするりと抜けて離れてしまいそうになるが、指先だけが引っ掛かかっているだけになっても、藤野京本の手を離さない。

 だが、共に外の世界を歩きまわるなかで、京本自分自身の興味関心ごとを見つけ、藤野の手を離れ立ち止まる。

 原作を読んだとき、あまりこの話好きじゃないなーとおもった原因が、京本気持ちいまいちよくわからなかったことだ。彼女藤野とは別の道に進もうとするのは、単純に絵が上手くなりたいという欲求だけでなく、心の底に隠し持ち燻らせてきた不満がそうさせるのではないか? と邪推してしまった。京本のそんな様子が藤野に寄った視点で描かれていたので、藤野気持ち天才肌な友人に対する嫉妬支配欲の発露なのかと思ってしまった。

 高慢性格努力家×卑屈な性格天才

 という、どこまでも交じりあわない、噛み合わせの悪い二人、という印象が、原作を読んだときには京本得体のしれなさにより強化されたように感じた。

 けれども映画では京本感情よりクリアなので、藤野とは別の道を歩むと彼女告白したとき、そこには藤野に対して何らかのネガティブ感情があるわけじゃなくて、本当に自分のしたい事が見つかったこと、そして自分藤野のように自立し自由に歩いてみたくなっただけで他意はないということが伝わってきた。それに連れて、そのとき藤野の心情の解釈もかわった。支配したい、足を引っ張りたいというより、唯一無二の友人が去っていこうとしていることへの淋しさ、置いて行かれることへの不安。いつも自分の足で立ち果敢に前進していた藤野だが、京本なしには心もとなくて歩いて行けない。

 噛み合わないと思われた二人だが、漫画という共通点で繋がり、共に漫画を描いた日々を過ごしたなかで、唯一無二の親友同士になっていた。その関係性の精緻描写のお陰で、観ていて変な邪念が湧きづらかった。

 藤野京本彼女たちが互いの持ち味でもって共同し漫画に打ち込んでいた日々。それは藤野はもちろん京本にとっても楽しく幸せな日々だった、というのが、作中のリアル時間軸ではなく、思い出として物語の終盤で示されるのも、良い演出だった。

 

2024-06-29

で、「ルックバック」どうだった?

すっかり忘れてたけど今週の金曜から劇場公開らしいよ。

俺もすっかり忘れてて昨日近所の映画館スケジュール確認してて見つけたんだよね。

 

個人的には怖いほど藤本絵に似せてんなぁ……ってことと、

最近アニメ映画にしては地味だな

って感想だった。

アニメ劇場公開版だと恐ろしくクオリティが上がっていて、そんなものばかり見てたせいで「これが映画クオリティなんだ」ってラインを上げすぎてたな。

配信ova用とかなら十分だけど映画館で見るにはちょっとキツい。後なんか背景とか演出にそこまで派手さが無い。「花とアリス殺人事件」みたいな映画

徹頭徹尾藤本タツキに寄せようとして、派手なこと何もしてない。

チェンソーマンがある程度線を単純化して、派手さ優先してたのとは逆だね。

まあ、そこまで好きな漫画ではなかったが、映画及第点ではないだろうか。特にアニメチェンソーマン嫌いは持ち上げるだろうな。前半のシーンは良かった。後半になるとそこまででもないんだけど。というか、やっぱり、漫画家にならなかった藤野のシーンが割と謎な気がする。原作では何かの奇跡世界分岐したのか?みたいな解釈も出来たけど、アニメだとその後の寒々しいシーンが凄くて、「ああ、京本助かったんだ」みたいな希望を「でもそうはならなかったんだよ」と叩きつけてきてて辛かったな。

 

個人的には「さよなら絵梨」の方が好きなんで、もしこれ興行収入良かったら続けてアニメ化してくれたらいいな

 

あともう気になったのが、作中の藤野最中を見てこれからの決意みたいなのが見て取れたんだけど、

現実藤本タツキは何で未だにチェンソーマン第二部をクソ詰まんないままダラダラ続けてるんだろう。

まあ、大半そんなんどうでも良いだろ現実とごっちゃにすんなって言うだろうけど、流石にあれ見た後だと二部は迷走してんなって言いたくなってしまう。

何やってんだよ藤本タツキ

もしかして二部終了後の読み切りのための仕込みなのか?

ルックバックの感想

創作したことないやつはこの映画みても100%からなくて可哀想」って言ってるやつ見たけど

藤野のようなジャンプ連載してアニメ化までいく才能もあるし、京本のようなずっと一緒だった友もいるような人なんだろうな

2024-04-19

ルックバックがわからない

感動ポイントがわからない。誰か説明してほしい。

現実世界では、二人は出会って友達になった。京本美大に行き、死んだ。

二人が出会わなかった世界線では、京本はやはり美大に行っているが、死なない。二人は友達になる。

卒業式の時点で出会っていなかったら、京本は死なないで済んだし、二人は大人になってから友達になる。じゃあ、二人は出会わなかったらよかったんじゃないの?

出会えてよかったね、友達になれてよかったねって話じゃないよね? だって出会わなければ京本は死ななかったし二人は結局友達になるんでしょ? 出会わなければよかったんじゃないの?

要するに、藤野売れっ子漫画家になるには京本の死が必要だったって話なの? 京本死ぬ世界線じゃなかったら売れっ子漫画家にはなってなかった。これって感動する話じゃなくて不気味な、後味悪い話じゃないの?

本当にわからないのでだれか説明してほしい。

2022-04-29

ルックバックでわからなかったとこ

さらルックバックの話なんだけど、ファンの人が感動しているポイント自分はまったく感動できなくて、逆になんで感動するの?と思ったので、教えてほしい

 

藤野京本小学校卒業式出会い一緒に漫画を描くことになった世界世界A)では、二人は数年一緒に活動したのち道を違えることになり、美大に進学した京本キャンパス侵入してきた通り魔に襲われて死ぬ

藤野は、京本自分出会っていなければ美大に進学することもなく、ひいては通り魔によって命を落とすこともなかったと思って自分を責める

一方卒業式出会わなかったほうの世界世界B)でも京本世界Aと同じ美大に進学し、同じように通り魔に襲われるが、たまたま藤野に助けられる

藤野小学校ぶりに漫画を描くのを再開したと京本に話し、雑誌に連載することができたらアシスタントになってくれと彼女に頼む 二人の友情がここから始まることを示唆して世界Bのほうのエピソードは終わる

 

藤野京本卒業式出会っていようといまいと、いずれ京本引きこもり自発的にやめて美大に進学して通り魔に襲われていたのだから藤野自責の念を抱く必要はない、という結論はわかる

しかし、それと同時に、卒業式出会っていようといまいといずれ藤野漫画を描いていたし、二人は出会って友情を育んでいた

藤野漫画を描くことになった」「二人は友達になった」はどっちも藤野人生にとってトップクラス重要出来事

世界Aと世界Bのどちらでもその二つの出来事は起こる ただし世界Aでは京本死ぬ

だったら世界Bの方がよくない?

卒業式の時点で二人は出会ってなければよかったんじゃないの?

なので「じゃあ藤野ちゃんはなんで(漫画を)描いてるの?」という京本の問いかから始まる一連のエモいシークエンス(はっきりと言葉にされるわけではないが、「京本に読んでほしかたから」という藤野気持ち表現されている)も萎えしかなくない?

世界Bでは「京本に読んでほしい」というモチベーションがなくとも漫画を描いているのだから世界Bの話を挿入することは、世界Aにおける「京本に読んでほしかたか漫画を描いてきたし、これからもそうする」という決意を感動的なものにするどころか「え、じゃあ出会ってなくてもいずれは漫画描いてたし、京本通り魔に襲われた時点で藤野漫画家になってなかったら京本は死んでなかったんじゃん、後味悪〜」と思わせるだけなのでは

少なくとも自分はそうだった

みんなあれの何に感動したの?

2021-08-03

anond:20210803132548

>同じちから作用した結果人を殺すに至る

 

京本嫉妬した美大生を殺人犯にしたら済む話ではあるな

タツキは京アニ大量殺人事件に寄せたくて寄せたくてたまらんのだよ

キャラ修正しない、セリフだけ変えて通り魔殺人犯に仕立て直したのは手抜きかつ皮肉のつもりだろう

anond:20210803124050

俺が本歌取りって安直な発想するのはまあしゃあないと思って大目に見てくれや。

こちとらド素人だ。

そのド素人から見てさえ今回の修正は雑だって話だからよ。

実際、本歌取りの方がマシだったんじゃねえか?

創作藤野調子こかせ、京本の目を輝かせ、京本に絵を描かせ、藤野に絵を練習させ、

なんやかんやで引きこもりを部屋から出して美大に行かせるくらいになった、

その過程感情移入できるほどの密度で描いてきたくせに、

京本を殺すやつは「絵から罵倒が聞こえたと宣うあたまのおかしい男」ってのはなんかこう、フェアじゃない。

それまでずっと「創作のちから」「表現のちから」が作用して人の人生変える様子を描いておいて、同じちから作用した結果人を殺すに至る方、そっちは病的な言動象徴させてブラックボックス化すべきじゃなかった。

そうしなくたって「理不尽な死」と「それは「創作のちから」がもたらした」って状況は描けるはずだ。

修正後はもちろん雑だが、そういう意味では修正だって雑というかご都合主義だった。

要するに、

藤本タツキは下ッ手くそだっつう話だな。

>親が訪ねてきて喧嘩になって結果的殺人事件が起こる

同級生の男の告白あいまいな返事をして切れた男に刺殺される

トラックに轢かれる

違法建築で足場が崩れる

皮肉で書いてんのか知らんがマジレスしとく。

全然だめ。わかってない。

創作物もつから京本を部屋から出し、また(事件被害者というかたちで)死に至らしめた」という因果描写大事なんだ。

なぜならそのあと、膝から崩れた藤野がちぎった4コマの一コマパラレル京本の元に届いて「部屋から出るな」と叫ぶ描写があり、そこから空手家藤野京本を救う未来分岐していく描写があるから

創作物もつから京本いのちを落とさな世界線さえ生じ得たというクソ理不尽な救いを描いていて、その救われた世界線からメッセージ京本の死んだ世界線創作物のかたちで届く、という描写があるからだ。

これは創作すること表現することの業の深さ、それが何を生むか(人を生かしも傷つけも殺しも再生させもし得る)ということが描かれている作品からだ。

死因が現実的かどうかはまったく本質的問題じゃない。

しろその死因が「創作のちから」「表現のちからから離れていくほどテーマボケて駄作になっていく。今回の修正みたいな「誰でもよかった」とかな。

から「雑な仕事」なんだよ。


https://anond.hatelabo.jp/20210803113051

https://anond.hatelabo.jp/20210803113609

https://anond.hatelabo.jp/20210803113748

anond:20210803083227

発達障害じゃないだろ。発達っぽいのはむしろ京本だろ。お前は半年ROMれ

2021-08-02

絵画から自分罵倒する声が聞こえた」→絵画の持つパワー

「誰でもよかった」→場当たり的なテンプレ台詞

に改変し、

「元々俺のをパクったんだろ!?」「ほらな!お前じゃん!」→犯人自身も絵を描いていた事が窺われる台詞、それゆえに京アニ事件連想させるとして批判されたが、犯人人間性付与する台詞でもある

「絵描いて馬鹿じゃねえのか」「社会の役に立てないくせしてさあ」→社会の役に立つかどうかという短絡的な視点、底が浅い

に改変する


もうこれ全然別物に思えるし、犯人動機には主人公藤野から京本への嫉妬や複雑な感情とも共通するものがあったと思うから

そこを削っちゃ作品テーマがブレるし駄目じゃないかと思うんだよなあ

2021-07-27

藤野「嘘」から読み解くルックバック

ルックバックの藤野発言はかなりの部分が「嘘」です。

嘘といっても人をだまそうという大げさなものではなく、普通の人が誰でもするような虚勢、虚栄のようなものですが。

ですがほとんどの会話が京本との間であり、京本に対しては「京本の憧れの藤野先生」であろうとするばかりにことさらに虚勢を張っていて、発話のほとんどが本心と裏腹なことを言っています。なので本編にある藤野セリフほとんどが「嘘」です。

藤野「嘘」をいうところの裏腹な本心が何かを追っていくことで分かりやすくなることもあるので、藤野の「噓」をたどって本編を追っていきたいと思います

この記事内のセリフジャンプ+に掲載された藤本タツキルックバック」より、研究/批評目的引用していますセリフ著作権藤本タツキおよび集英社に属します。文としての自然さのために一部本編にはない句読点を補っています

京本との出会いまで
京本との出会い以降

事件以降



  • 「だいたい漫画ってさ。私、描くのはまったく好きじゃないんだよね。」
  • 「楽しくないしメンドくさいだけだし。超地味だし。」
  • 「読むだけにしといたほうがいいよね。描くもんじゃないよ。」

「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」

この問答の後にセリフはなく、二人で楽しく漫画を描いていた日々の回想が入ります。あえて問いに対する答えを文にするとしたら「あなたと一緒に漫画を描けるからあなた漫画を読んでくれるから。」とかでしょうか。でもそれだけなのでしょうか?それだけであれば、京本とは袂を分かち、しかももう読んでくれることもありません。

ここまで見てきた藤野「嘘」本心に着目するならばこうではないでしょうか:

  • 「だいたい漫画ってさ。私、描くのはまったく好きじゃないんだよね。(私は漫画を描くのが好き)」
  • 「楽しくないしメンドくさいだけだし。超地味だし。(漫画を描くのが楽しい
  • 「読むだけにしといたほうがいいよね。描くもんじゃないよ。(漫画を描くのが楽しい!)」

「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」

無粋かもしれませんがあえて文にするならば「あなたと一緒に漫画を描けるからあなた漫画を読んでくれるから。そして、私は漫画を描くのが好きだから漫画を描くのが楽しいから。」

あなたは失われてしまったけれども、漫画が好きだという気持ちを思い出したから、もう一度立ち上がって、漫画を描くことにした。そういう話だという風に読みました。

最初に読んだときは「5000円しか使わなかった」は文字通りの意味だと思いましたし、雪のシーンが事件直後にある意味もよくわかりませんでしたし、「なんで描いてるの?」の答は上で書いたようなことと思っていました。藤野の嘘とその本心に着目して読んだところ、ここまで書いたような解釈に変わりました。幾分解像度高く読めたのではないかと思います

2021-07-24

ルックバックの殺人犯

ステレオタイプっていう話があるみたいだけど、漫画を読んだら当然そうなるよねという感想しかない。

殺人犯が出てくるあのシーンが想像であれ平行世界であれ、藤野の作った世界というのは明らか(なぜなら4コマを描かず京本を部屋からさないという世界藤野しか作りようがないから)で、じゃあ藤野の作り得る「犯人」はどういう人物になるかというと、犯人と直接の接点がない以上テレビネットなどの外部から知る情報で作られることになる。

それはニュース記事のような記述と共に犯人が登場することから結構分かりやす表現されていると思うし、犯人情報をさして知り得ない藤野の状況を考えればここでの犯人が「フィクションなどによく出てくるステレオタイプ殺人犯」となるのはごく自然でありそう描くのが誠実であろうとさえ思う。

当然藤野犯人の顔をよく知らないので犯人の顔もぼんやりしている。

もちろん犯人側にも事情があり犯行に至った経緯があるのかもしれないが、このとき藤野はそれを知りようがなく結果としてそれらを加味した「解像度の高い犯人」は作りようがないだろう。

要するにあの犯人ステレオタイプステレオタイプとして描いているわけだから、それに対して「ステレオタイプを描くな」というのはかなり的外れだと思う。

「こういったステレオタイプ現実とは全然違う」という議論きっかけにするのは構わないと思うし、それによって5年後10年後にこの表現が通じない世の中になっているかもしれないが現時点での表現としては適切であろう。

https://note.com/tamakisaito/n/nbeac7a25626b

「ただし1点だけ。やむを得ないとは思うけれど通り魔描写だけネガティブステレオタイプ、つまりスティグマ的になっている。単行本化に際してはご配慮いただければ。」

って、本当に漫画を読んだのかって感想なんだよなあ…

他の登場人物が端役に至るまでイキイキと内面を描かれていて、その上で通り魔「だけ」がネガティブステレオタイプに描かれているのなら

こういう批判も分からないではないけれど。

クラスメイト藤野の描く漫画を持ち上げていたくせに年頃になるとオタクキモがる底の浅いミーハーバカだし

藤野家族漫画への反対をやめて彼女高卒漫画家をやるのを認めるに至った過程だって描かれていない。

京本家族に至っては登場すらしない。

この漫画一人称の、それも決して性格が良いとは言えない一人の人間の目を通した、主観的漫画という構成になっているでしょ。

ステレオタイプなのはメインの二人以外みんなそう。

それなのに主人公と深く関わりも無い通り魔けがそこから免れるとしたら却って自然でしょ。

2021-07-23

[]京本さんの手記

有名漫画家藤野キョウ」さんと私は小学校同級生でした。


同級生といっても、私はひきこもりで、ずっと部屋で漫画を書いていました。

彼女は学級新聞4コマ漫画を連載していて、私は彼女の大ファンでした。

彼女天才でした。

人気者で陽キャ彼女と、ひきこもり陰キャの私は、小学校卒業式の日に初めて出会い、そして、ふたり漫画を書くことになりました。

ひきこもりから救い出してくれたのは彼女でしたが、彼女は私を離しませんでした。

彼女学校に行っている間も、私は彼女の部屋で漫画を書いていました。

親は心配していましたが、私は絵を描くのは苦痛ではなかったので平気でした。

彼女が、私の絵を褒めてくれる事はなかったし、いつも命令口調だったけれど、ふたり名前から藤野キョウ」のペンネームを作ってくれただけで満足していました。

一年かかった読み切り作品入賞した時、ふたりで大喜びしました。

彼女が言いました。

「連載ができたら、すっごい超作画でやりたい」

彼女は話を作るのは得意でしたが、絵を描くのは面倒で、好きではないと言っていました。

客観的に見ても、作画に関しては、私の方が上手に描けていました。

そんな彼女が「藤野キョウの超作画」を目標に掲げてくれたのが本当にうれしかったです。

それから何本も読み切り作品作りました

彼女が出すアイデアからストーリーを膨らませたり、

作画表現試行錯誤したり、ふたりの共同作業は、楽しい時間でした。

作品の質もどんどん上がっていきました。

でも、連載が決まったとき、私はうれしくありませんでした。

だって、「藤野キョウの超作画」は、まだ完成していなかったから。

しかし、彼女は言いました。

あなたは背景だけだから別のアシスタントでも替わりになる。


藤野キョウ」はふたり名前だと思っていたのに、彼女から見たら私はアシスタントにすぎませんでした。

私は今、美術大学作品を作っています

ようやく満足のできる絵が完成間近です。

私の抜けた藤野キョウの連載作品大人気で単行本11巻も出ています

アニメ化も決まりました。

彼女はやっぱり天才です。



でも、その連載作品はあの頃にふたりが目指した「藤野キョウの超作画」ではありません。

過去の私の絵の模倣レベルです。


ずっと、彼女背中を見ながら絵を描いてきました。

でも、もう彼女背中は見ません。

自分と向き合うようになって、やっと「藤野キョウの超作画」が完成します。

もうひとりの「藤野キョウ」の作品

彼女には、この作品の声が届くはずです。

2021-07-22

まあ、ルックバックで藤野京本の手を引いて街を駆けるシーンはたしかにエノスミがTwitterにあげてた猫になる漫画最後のシーンに似てた

お互いちょっと似てるとこはあるよね

映画っぽい漫画技法というので収斂してるだけかもしれないが

ルックバック』は犯人統合失調症として描いているか

二番煎じ・三番煎じだろうけど書いておく。

結論から言えば、描いていると考えられる。

何故なら、作中のニュース記事等で「薬物中毒による犯行」と明言されていないから。

被害妄想幻覚幻聴統合失調症典型的症状である

と同時に、覚醒剤アンフェタミン系の精神刺激薬)の中毒症状における典型的な症状でもある。

発生メカニズム的にこの両者の症状はかなり近い(Wikipediaで「ほぼ同じ」と書かれているくらい https://ja.m.wikipedia.org/wiki/覚醒剤)ので、単純な症状の描写だけでは両者が区別できないのは当然と言える。

ところで、作中の犯人の男は明らかに理不尽に命を奪う」というイベントの引き金的に描かれている。

用意された悪役というか、憎まれるための舞台装置に近いポジションである

であれば、メカニズム的にも矛盾はないので、ヤク中だったとするのが最も角は立たない。

「ヤクやるような奴だから人を殺すのだ」は一般的に受け入れやすストーリーで、犯人が薬物中毒だったとしたら新聞記事ニュースでそこに言及がないのはほぼあり得ない。「薬物中毒者〇人殺人事件」という事件名がついたケースすらある。

逆に言えば、そういった描写をしないことで、明らかに作中では「精神を病んだ患者犯行」の可能性を匂わせている。

「いわゆる『頭のおかしい奴』との断絶」を強烈なかたちで描くことで、犯行現場へ駆けつけて京本を救うヒーローとしての「ありえたかもしれない藤野」のカタルシスを描いている。

「僕はきれいな部分とか、優しいものを描くなら残酷な部分を描かないといけないと思っていて。そのほうが優しい部分に触れたときに、映えるじゃないですか」と語る藤本氏がいかにも好みそうな「残酷な部分」の象徴として、精神疾患の犯人を描いているのである

これがヤク中の犯人では「残酷な部分」にはならない。ヤク中では掘り下げて描写しないと「クソ迷惑阿呆がヤクやって人を殺す」という、「避けられたであろう理不尽さ」が拭えない。

精神病はそうじゃない。ヤクはヤク打ちたくて打って転げ落ちるイメージがあるが、統合失調症患者はなりたくてなるようなもんじゃない。

なりたくてなったわけじゃないのに「そう」なって人を殺してしまう、というのは残酷な話だ。

からアクセントに使われた。

そう読む読み手がいるのは自然な話であり、精神病の当事者から抗議が行くのも自然な話だ。

普通に精神病への偏見助長するような、配慮の足らない描写であるからだ。

個人的にはかわいそうなやつだ、と思う。『ルックバック』の犯人の話である

ヤクか病かは知らないが、登場時点で明らかに被害妄想に苦しめられている。

正史というか京本ヒッキー世界線では、この後人を殺すという大罪を犯してしまい、世間からクソボッコにされるのだ。

ただでさえ日常意味もなく四面楚歌なのに、一線超えてしまったせいで本当に世界の敵になってしまうのだ。かわいそうに。

かわいそうと言えば藤野もかわいそうだ。「京本を部屋からさなければ死ぬことはなかった」が完全に正となってしまった。部屋からさなくてもいずれ漫画家とアシとして組めたというウルトラハッピー世界線描写が逆に後味悪い。あれを藤野が直接認識することがないのは救いだ。あんなん見てもうたら残りの人生ずっと「京本を部屋からさなければ良かった」に呪われて、再び歩き出せるようになるまでにえらい時間を食ったことだろう。

なお、『ルックバック』が京アニ放火殺人事件モデルにしているという言及があるが、京アニ犯人精神疾患があり過去に投薬治療も受けている。

京アニ犯人犯行当時責任能力があった」という言を以って『ルックバック』を擁護する向きがあるようだが、擁護になっていない雑な話と言わざるを得ない。

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