はてなキーワード: 常人とは
禁煙して10年が経った。俺の禁煙方法を「現在喫煙者」の方で、しかし煙草を止めたい(でも、なかなか止められない)者たちに授けたいと思う。
二十台、三十台の俺は常人らしく、煙草とは切っても切れない関係にあった。とくに大学時代〜卒業後ブラック企業に勤めていた時期などはそれはもう、ひっきりなしに吸っていた。確実に1日/1箱半は煙にしていたと思う。しかし、12年前に編み出したある方法によって、俺は20年近く習慣化していた喫煙を、けっして無理矢理に止めることなく(月に数本程度吸いながら)、ニコレットを摂取することも、本屋に並んでいる数多の禁煙本にすがることもなく、どんどん本数が減っていき、現在では全く吸わなくなった。
何ィ、そんな方法あるのか? 早く教えろ!という方。
拍子抜けしただろうか? しかし、せんじ詰めればこれだけである。
ちなみにその喫煙場所においては、何本吸ってもかまわない。ただし、*「特定の(自分で定めた)屋外2ヶ所のみ(自宅付近と職場付近)で吸う」。
これだけは固く決意し、実行して頂くことが「大前提」になる。そして、じつに固い意思でこの習慣を遂行しても、すぐには断煙できないということも頭に留めておいてほしい。個人差はあるだろうが、煙草からすっかり離れられるまでに、おそらく3ヶ月〜長くて1年くらいかかるだろう。俺の知人3名もこの方法で煙草をやめることに成功したが、期間に関しては個人差がかなり大きかった(1人はすっかりやめるまでに2年かかった)。
俺に関して言えば、最初から「喫煙場所を屋外のみにできれば、やがて煙草を止められるだろう」と意図してやったわけではない(「あわよくば本数を減らせるかも」という期待はあったが)。
まず、「今後も煙草を止められないかもしれないが、とにかくもう屋内では喫うまい」と固く誓いを立てた。とにかく、そこが「喫煙可」の場所であろうとそうでなかろうと、「屋内では絶対に煙草に火を点けない」というルールを設けたわけだ。ただ、やってみればわかると思うが、これはなかなか大変である。たとえば、友人と喫煙可の飲食店で飲んでいる時、どうしても煙草を喫いたくなったら、携帯灰皿を持っていちいち外に出なくてはならない。
そこが繁華街の雑居ビルの中の最上階の店だったりすると、エレベーターでわざわざ1階まで降りて、繁華街の人の少ない場所を探して立ち止まって吸うしかない。これ、かなり一苦労、というか相当に面倒である。当時は2時間の会社の呑み会などで、たいてい5回以上外に出ていた。
おまけにこの行動を続けていると、同僚喫煙者たちからはかなり白い目で見られる。「あー、はいはい、君は喫煙者なのに俺らと違ってモラルがあるよねえ」みたいな無言の嫌みたっぷり目線をひしひし感じるし、非喫煙者たちからも「そんなに何度も外に出てまで喫いたいんか……やっぱり喫煙者って完全に依存症だよな」と、これまた白い目で見られる。
それで、半年くらいの屋外喫煙活動を続けた後、こうなったら、特定の場所でしか吸うしかあるまい。という結論に辿り着いた。
「今後、俺はお気に入りの某公園(自宅と職場から徒歩10分程度)でしか吸わない、いや、そこで1人で美味しく吸うのだ」そんなミニマムでピンポイントな喫煙決意を固めたわけである。これはいささか緊張した。はたして、そんなことが可能なのか?と。そんなことするより、すっぱり止めるほうが遥かに楽なんじゃないか?と。
しかし、それから否応なしに始まった屋外喫煙者としての日々……これは振り返ってみると、なかなか、いや、相当に思い出深い時間なのである。なにしろ大雨が降っていようと、強風が吹きすさんでいようと、雪が降り積もっていようと、夜中に強い喫煙衝動によって目が覚めると(この習慣を始めたばかりの1、2年はひっきりなしに夜中に目が覚めていた。吸えない時間が長く続くため、ニコチン欠乏症みたいな状態だったのだろう)、煙草とライターを上着のポケットにおもむろに突っ込み、傘をさし、公園を目指して足早に歩いていった。職場では、店には入ったり、同僚と食べると吸う時間がなくなるため、コンビニでパンと缶コーヒーばかりになった。
しかし、ようやっと辿り着いた静かな公園のベンチでありついた煙草の美味しさといったら、筆舌に尽くしがたいものがあった。「気兼ねなく、大きなため息をつく」というのはこういうものなのだなあ……と心の底から思った。
そう、じつは、この行為が習慣化してからというものの、奇しくも、「ああ、煙草ってじつにいいものだ(止めるなんて勿体ない)」と初めて実感できたというところがある。
これまでは、自分に対しても他者に対してもある種の罪悪感と気後れを感じながら吸っていた。しかし、この「屋外喫煙」によって誰の目も気にすることなく、季節によってその様相を変える景色と外気の中、微妙にその香味が変わる煙草の煙をゆっくりと味わう時間は、控えめに言って素晴らしかった。仲の良かった友人と煙草片手に話したい時などは、事情を説明して、そこまで連れていった(相手が喫煙者だったりするとまだ良いのが、相手が非喫煙者で、しかも寒い冬の夜だったりすると、かなり申し訳ない気持ちになった)。
ただ、上記のような例外はあっても、たいてい喫煙所である公園では1人きりだった。夜中や早朝に部屋を出て、片道10分程度のウォーキングをして、公園のベンチに座って1人で吸う、という時間が、自分の性格に合っていたのだろう。何か、自分だけの心地よく秘密めいた場所と習慣を持っているような、心地よく秘密めいた気分がこの「隠遁喫煙生活」を輝かせてくれていたように思う。
この「一ヶ所のみでの喫煙習慣」は、思ったよりずっと長引いた。当時つけていた日記やブログなどで遡ってみたのだが、俺は律義に1年半、ほぼ毎日自宅と職場から公園まで通って喫煙を続けていたようだ。寒い日も、暑い日も、雪の日も、氷雨の日も。やはり喫煙者というのは律義な依存症患者なのだ。ということを身をもって覚った。
しかし、公園に煙草とライターを持って赴く日は年々ゆっくり(毎日→週5→週4→週3→週末のみというように)、確実に減っていき、10年前、ついに俺はその公園喫煙習慣を知らず識らずのうちに止めていた。
ただ自分の場合は、もともと煙草を愛していたし、初期段階では止めるつもりはさらさらなかったから、1年半もの公園通いが続いたのだろう、という気がする。もし「煙草を止めたい」と心底強く思っている方は、もっと早く(数ヶ月とかで)吸わなくなるのではないだろうか。
さて、上記の方法で、おそらく煙草を止められるだろうと思うが、必ず守ってほしいことが3つある。
最後に。この公園喫煙習慣を卒業した今でも、俺は煙草をすっかり止めたつもりはない。いつかまた真夜中や明け方にぱちっと目が覚めて、無性に重苦い煙を心から欲し、暗いうちからそっと部屋を抜け出し、あの公園に赴くのではないか……ある意味では、その日を楽しみにさえしている。また、このように煙草に対して大人びた余裕を持てているということが、「煙草をすっかり止めた」ということなのだろうと思っている。
X子さんと推測されている人のインスタ見るとライン超えの投稿ばっかだぞ
常識的に考えたら YouTube 活動すら無理だろ・・・って思ってたが、
ワイはジャニオタの狂気と国民的アイドルの持つファン数を見誤ってたわ
あの調子なら YouTube なら時間が経ったらイケるんじゃないかな
常識の基盤が土台から異なる文字読めない人に説明は不可能だしな
AIなら自分の理解に合わせて説明してくれると思うぞ。Claude、ChatGPT-4o の無料枠で尋ねればいいんじゃない?
社会通念の話じゃなくて、ゴシップの話をしたいなら、X子さんのインスタがヤバいことになっててドン引きしたわ
まことしやかに言われている人が被害者だとは別に確定してないでしょうよ
「被害者じゃないならなぜ匂わせをしてるんだ💢」って言ったって、あれはフツーにライン超えじゃないですかね
中居くんはYouTubeも無理でしょって思ったが、あのライン超えしている人たちを見るに、YouTubeなら時間経ったらいけるんじゃないか?
時間も経って私の怒りも落ち着いたので、あわよくば同じく統失、激しいメンタル疾患の友達と喧嘩した人の気晴らしになればいいなー、と思って書く。
と書き出してみたのだが、気持ちが凪いでしまい、今となってはほとんど書くことがない。どうしよう。
上澄みだけ書いてみる。
まず、なんかしらんがやたらハイテンションなメッセージがたくさん来るようになって、「大丈夫か?」と思っていたら私が転職を始めた話をしたことをきっかけに大爆発を起こした。
転職はビッチのすることであり、人事のチンポをしゃぶって職にありつこうとする卑しい行為だという。付き合いの長い自分の方があなたのことを理解しており、卑しくも人事のチンポを咥え込む立場となることは勘弁してほしい。あなたは独身だがそれは謙虚さに欠けるからだ。自分の母も配偶者も心配している。云々。
当時こそ訳が分からなかったが、おそらくきっかけはなんでも良かったんだと思う。全能感がバキバキのテンション高い時期に、私が思い通りの反応を示さなかったのでブチギレたというか。
こうなってしまうとどうしようもない。もうその人は早いとこ医療の手に預けるしかない。ちゃんと寝かせて食わせて薬を飲ませる。常人にはどうしようもない。
本人はそれでなんとかなる。
メンタル疾患の大爆発に巻き込まれると、滅茶苦茶ダメージを受ける。
正直、カウンセリングに行ってもいいと思う。友達だった人の豹変は大変なショックを与える。
私はカウンセリングには行かなかったが、とりあえず自分の受けたショックを整理した。疾患の悪魔が言わせていることもある。でもそれは友達が普通の時もうっすら思っていたであろうことをなんとなく感じ取ってしまう。もしくは思っていなくても、「効果的に私を傷つけるにはどうしたらいいか」をわかって発しているといるという時点で言いようもなく不愉快だ。
爆発を起こしたことに対して罪悪感を感じることもないではない。
でもおそらく、それに関しては毎日会っているとか一緒に住んでいるとかでない限り(というかそうであってもおそらく)、メンタル疾患の人の大爆発は起こるべくして起こったなにかであり、きっかけになった人、こと、ものに大きな責任はない。
多少の咎はあっても責任を取るほどではない。遅かれ早かれ爆発していたものだと考えた方がいい。
そのあとジャッジをする。メンタル疾患の人は裁判で責任能力なしで無罪になることがあるという。責任能力がないということは、もはや責任を取る権利もないということだ。ならば責任能力のある私には、この関係を一方的にジャッジする権利がある。
私はもうこれをいい機会に、連絡を断つことに決めた。連絡先は全部ブロックした。付き合っていられない。
病気という悪魔が言わせているからその人は無実だという考え方もあるかもしれないが、無実だからと言って付き合いを強制される謂れもまたない。
共通の友達経由で、私と「仲直り」がしたいと言っているらしいと聞いた。
「謝罪したい」と思っているわけではないらしい。
吹っ切れた。もう2度と連絡はとらない。
性質は違うが、うちも結婚後に互いに成長するうちにそういった性質を乗り越える、あるいは衝突しない方法を見出すものだと思っていた。
だが、蓋を開けてみれば、その性質を認めない、認めないゆえに自分の非ではない、非ではないならそれは自分が変わる所ではない、変わるべきは増田だ、という認識に”なった”。
15年戦った。
ほんのつい先日、もう無理だという事を前提に何十回目かの話し合いの結果、ようやくまともに取り合う”気”になってくれた。
自分で言うのもなんだが、これは俺が常人よりも我慢強く諦めず、妻がほんの少しだけ柔軟だったから得られた奇跡だと思っている。
もし未来から俺が訪れてこの結果を話したなら、恐らく結婚していないだろう。
性質は、どうしようもなく変わらない。
TBSがお送りする、年末の大型スポーツバラエティ番組といえばSASUKEである。もともとは「名もなき男たちのオリンピック」を標榜し、SASUKEオールスターズに代表される一般人の参加を中心に据えていたこの番組だが、近年は芸能人の参加が目立っている。ゴールデンボンバーの樽美酒が著名だが、芸人やアイドルや業界問わず多数参加している。
一部のSASUKEファンはこの変化をよく思っていないらしい。とりわけ、人気アイドルグループSnow Manのリーダーである岩本照を取り上げすぎている、という声が時折聞かれる。彼はまだ自力で3rdに到達しているわけでもないのに、番組で尺を取りすぎている。もっと当初のように、名もなき一般人に焦点を当てるべきだ、というわけだ。
だが考えてもみてほしい。この番組はすでに、山田勝己という狂気の一般参加者を輩出してしまっている。もう20年以上も前に、その後長きにわたりバラエティ番組で擦られ続けるかの名言を生み出した男だ。あの時代よりだいぶ平均的な倫理観が成熟した現代に、いったいどこに、山田を超える一般人エンターテイメントを生み出す余地があるだろうか。
*
SASUKEの総合演出を務める乾氏は、「SASUKEが生んだモンスターは2人だけ」と語っている。一人は人間ドラマとしての番組の方向性を決定づけた山田勝己、もう一人は現役最強のSASUKEプレイヤーである森本裕介だという。SASUKEの主人公になりたければこの二人のバケモノのどちらかに勝たなければならない。森本に実力で勝つか、山田勝己を越える人間ドラマを演出するか、二つに一つだ。
前者がかなり厳しい道のりであることは論を俟たないだろう。第40回のファイナルステージ、森本は他二人のファイナリストに圧倒的な差をつけて鋼鉄の魔城の頂すれすれまで辿り着きかけた。第41回では愛媛銀行職員という新星が現れるも、彼すら森本と同じ位置で脱落してしまった。
*
とはいえ、もう一つのルートも険しいものだ。山田勝己はSASUKEに打ち込むために、およそ常人が捧げられるあらゆるものを捧げ尽くしてしまった。命綱なしでクレーン車からぶら下がってファイナルステージの練習をし、SASUKEの練習に熱中して仕事を首になり、にもかかわらずあっけなく失敗する姿を見て妻が涙をこぼしてみせる。命、仕事、家族、真っ当な人間なら犠牲にできないものを全て。そうして暗い沼地に落下し、「俺にはSASUKEしかないんですよ…」とこぼす。本当に全てを賭けてしまい、ドラマのようには美しく勝てなかった男の言葉を。
だから山田に勝つためには、山田が持っていないものを賭けるしかない。総合演出の「SASUKEにはまだ林業やっている人がいない」みたいな戯言を間に受けて林野庁に就職した若者は自分の未来を賭けたわけだ。広大な土地に膨大な労力を費やして、巨大な模擬セットを作成した選手も一人ではない。あの実力者の愛媛銀行ですら頭取のハンコを持ってきた。もちろん、もうちょっとばかし穏当な、家族とか友情とか起業とかそういうアピールもあるけれども、それらは大抵、当人たちのテレビ映えする立ち回りのうまさと、着実に前半をクリアできる実力とセットになっていたりもする。
*
そこにきて岩本照は、「トップアイドルとしての偶像性を捨てること」という間違いなく強いカードを持っている。彼は日本で最も売れているアイドルグループのリーダーだ。その彼が、割と平気で1stで落下する。初回はなんと冒頭のクワッドステップスで落ち、そこから少しずつ距離を伸ばして6回目にしてとうとう1stをクリアしたかと思いきや、新エリアの前にまた沈んだりする。特別回で3rdの良いところまで進める姿を見れば、練習はちゃんとやっているのだが、全体としての本番の成績は芳しくない。
要はぶっちゃけ、微妙なところで結構落ちてるのだ。きらきらとしたアイドルのリーダーが。あの汚い泥沼に。普通に考えて、アイドルがスポーツバラエティに出場する動機があるとするならば、その華麗な活躍模様をファンに見せつけるためではないのか。初回出場で1st最終エリアまで到達したり、あるいはクリアまでしている諸先輩後輩がそうであるように。
にもかかわらず彼はなぜか、「俺はこれだ」と確信し、自グループの冠番組でもSASUKEの番組名を連呼し、忙しい合間を縫って千葉の片田舎にあるセット練習に赴き、枕元には山田勝己カレンダーを置き、結果として見事にSASUKEキャラを確立している。他のメンバーがドラマとかダンスとか言ってる最中、リーダーのこの男のキャラ付けがSASUKEである。まあ冷静に考えたら何かがおかしい。まだアニメオタクとかの方が普遍的だし理解できる。トップアイドルがTBSの一企画にキャラクターを預けることがあろうか? あかつやクロちゃんじゃないんだから。例えばVS嵐のアトラクションに全てをかける後輩がいたら、相葉くんだってドン引きだろう。それでいて別に毎回クリアできるわけじゃないのだから、彼は間違いなく、ある種の「本物」なのだ。
SASUKEの熱心なファンは「SASUKEに全精力を費やすのは普通のこと」と考えている向きがあるようだがそんなわけがない。思い出してほしい。これは所詮、いちバラエティー番組なのである。
*
そんなたかがバラエティ番組で、輝くことを求められるアイドルが、時にぶざまとも言える失敗を見せる。しかし、どれだけ恥をかこうがなんだろうが決して諦めたがらない姿、それこそ山田勝己が紡いできた物語のそのまま続きと言えないだろうか?
SASUKEがもしも、完全制覇をゴールとする英雄の物語だけだったならば、Mr.SASUKEの称号は長野誠のものだっただろう。けれども、ここには山田勝己が代表してきた、人間の物語がある。見果てぬ夢を見て、敵わぬ敵と戦い、届かぬ壁に手を伸ばす。それは冷静に見れば滑稽で、傍目には理不尽とすら思える情念で、ときに哀愁すら漂い、しかし不思議な輝きを放つ、奇妙な人間讃歌である。その世界に岩本は、アイドルらしい視聴率を手土産に、アイドルらしからぬ泥臭さで挑んでいるのだ。
*
というわけで、一般人にもっとスポットを当てろという意見、お気持ち大変よく分かりますが文句はこの際、森本と山田に言いましょう。エリア難易度をインフレさせた森本と、人間ドラマをインフレさせた山田に。でも次回にこそは、とんでもない素人のドラマが現れるかもしれないという希望もかすかに抱いて。
そんな今年のSASUKEはクリスマス決戦、12月25日18:00からスタートです。岩本照で何回CMを跨ぐのか。みなさん絶対絶対絶対見てください。
興味のあるものをなんでもかんでも複雑なものまで脳にまるっと収められるオタクは脳の記憶スペックの上限値が上がっているから
実用的なことしか覚えようとしない人よりも脳の回路はハイスペックになる
だから頭のいいやつは勉強も遊びも常人とは桁違いにうまくやれるし色んなことに興味を持ちがちだ
オタクというのはある程度脳みそのスペックがないとなれもしないし逆に頭のいいやつはオタクにもなりやすい
勉強だけに集中って発想をしてる時点で基礎スペックの低い凡人かせいぜい秀才の低キャパな脳を前提としたソリューションと言える
陰キャは王子という身分ながら、呪われた予言を持って生まれたため
上手く使えば有用な能力を持つため生かされこそしたが、けして歯向かえないように両目を封じられ盲目、片足は切断され、残った足は鎖で繋がれていた
毒耐性が強い体なので常習的に毒を飲まされ更に耐性を強くすることを強要され、常人と違って死にはしないが日常的に吐血し体はいつも病んでいた
彼女は親を知らず、物心ついた頃からあちこちを転々として労働し、いつも「おいチビ」と呼ばれ名付けられたことさえなかった
不便なのもあって陰キャが名前をつけてやると、少女は嬉しそうだった
陰キャのそばにいると毒に蝕まれやがて死ぬので世話係はいつも使い捨てで、少女は最終的に死ぬことを知らされずに雇われてしまった
じきに死ぬことを知らされた少女は泣くが、声を上げて泣くとぶたれると学習している彼女は泣き声ひとつあげず涙を流す
盲目なので顔に触って表情を読む陰キャは涙に触れて泣いていることに気づき、声も上げられない少女の境遇を哀れに思った
陰キャが20歳ぐらいで少女が10歳ぐらいでビジュアルがだいぶロリコン
結局少女を毒人間仲間にすることに成功し少女の死亡を回避し、予言された通りに父王やその他大勢をぶっ殺して陰キャは監禁から解放され少女と共に外で自由に生きることにした
しかしようやく見た少女の顔は恐怖にボロボロ静かに泣いているもので、少女は大量殺人にびびってしまい、足が不自由な陰キャを置いて一人で逃げ去ってしまう
そして結局少女は健常者陽キャと恋をしてそっちとくっついてしまう
なんだよこれ!!!!!陰キャとの方がドラマチックな出会いだっただろう!!!!!
「お!岡田以蔵じゃん」
ただ龍馬伝の一オタクの好奇心から安易に手を出した事が私の生涯に於いての大きな過ちとなったのだ
人斬り以蔵と言えば世間一般のパブリックイメージとしては残虐非道にして悪逆な幕末の人斬り、シリアルキラーじみたものである。
見た目も粗野でニコリともせず瞳の濁ったアウトローといったところだろう。
私自身、龍馬伝の佐藤健演じる彼は彼として岡田以蔵の印象としてはそれに近いものがあり、その粗野さや狂気の中に時代の荒波に揉まれた英雄になれぬ1人の人間の悲哀を見出していたのだ。
それがどうだろう、パブリックイメージに近い陰鬱な空気感や粗野な印象を得た中に丸く大きな瞳、片目を隠した癖の強くコシのある太い髪には武市半平太の犬と称される程の幼さを称えた男がいたのだ。
その様を見た時の私は臓腑を撃ち抜かれたかのような衝撃を受けた。
幼い顔に剣を振るい極めた男の太い下腕が覗く一見アンバランスかつ、イメージ通りのようなイメージとは違うような姿。
今までのメディアに出演してきた岡田以蔵像とは一線を劃すその様に震えたのだ。
しかし臓腑を撃ち抜かれたとて命があるだけ暁光とばかりに私は片足を引きずりながら彼の人となりを知らなくてはお話にならぬとえいやと帝都に降り立つと「坂本龍馬」を自称する彼が待ち構えていた。
逆立ちしたとて坂本龍馬ではないというのに、彼は示現流を扱わぬと言うのに、土佐弁で名乗りをあげてしまうその武士の精神と想像通りの幼さに脳が揺れる感覚を覚えながらも進めていく。
やはり人斬り以蔵としての残忍さよりは幼さ、幼さと言うには刺々しく荒いそれは言葉を上手く紡げず噛みつくことしか出来ぬ手負の獣のような印象を受けたのだ。
恐らく彼は多くの誤解を受け、理解されずに来たのだろう。
だがマイルームボイスに随所に現れる彼の不器用さ、言葉の稚拙さを自覚した上でどうすれば良いのか分からぬ歯痒さを痛いほど感じてしまい、ただ一言「放って置けない」と思ってしまったのが、ここに来るまで気がつけなかったこの愚鈍な女の運の尽きであった。
静かに傷を負った私はそれは韋駄天の如し速さで龍馬伝を見返した。
幼馴染とした過ごした日々、どこからか食い違う歯車、皆から仲間外れにされても役に立ちたいと人斬り風情に身を落とし、友1人も切り捨てられず中途半端に罪人として後世に名を残した反英雄。
FGOにおいての岡田以蔵とは違うがどちらも「置いて行かれた」という意識、言葉がうまく紡げなかった事による下がり切った自己肯定感、今私が彼を切り捨てたのならばもう2度と彼は誰も愛せぬようになるのではと、それがどうにも悲しく思えて私は彼に誠意を尽くすべくありとあらゆる術を使った
近づけば近づくほど気安く、そして自信無さげにする彼がどうしてこうも愛らしく感じられるのか、いやどうして愛さずいられようか。
そして来るバレンタイン。
まだまだ春には遠く底冷えのする季節に生まれ、蒸し暑い梅雨の晴れ間に散った彼の生まれた日となればお祝いも込めてこれは感謝を伝えねばならないとそこ退けそこ退けとエネミーを掻い潜り彼にロックオンチョコレート、私の心臓を模った生前馴染みのないであろう西洋の菓子を手渡した。
おお、神よ
普段仏を拝む私が言うのはおかしな話ではあるが、こればかりは感謝をせねばならない
そして神に感謝し、擦れた彼らしく尊大な態度に微笑んでいたのも束の間最初の感想と言えば「最悪」の一言に尽きる
曲がりなりにも未成年の子供の部屋に行き、酒を浴びるほど飲み絡み酒、しまいには泣いて嘔吐すると言う最悪の男といえばこうという全てを済ませてしまうと言う暴挙に出たのだ
ここまでダメな男というのもめずらしく痛快さすら憶えたが、流石の私も辟易とし、こればかりは許せぬと憤慨した。
絶対に許さぬ、怒るところは怒らねばフェアではないと心に決めた矢先泣きながら他の男を呼ぶのだ
あぁ、もう私の心は粉々である
こんなにもダメな男であるのにも関わらずそんなに置いて行かれた迷子の子供のように泣き言を言われ、弱々しく謝られて仕舞えばこれは一種の彼の自傷行為に付き合ってしまったような遣る瀬無い気持ちに支配される。
そして肝心のお返し、それはそれとして怒らせていただきたい、このような自傷行為はやめなさい、他者も己も大事にしなさいと伝えねばと強い意志を持ち読み進めると態となのかと叫びたくなるほどにおいたがバレた子犬のようにバツが悪い顔で謝ってくるではないか
そして渡されたものは「木綿の襟巻き」
木綿はあまり防寒性はないが使いやすく、普段使いができるものだ
そして寒い日々が続く中使える襟巻きを渡してくるのはなかなかどうして素朴で暖かいお返しである
そしてなにより、当時の土佐の下士は木綿以外の衣服を身につける事が許されなかったのだ
その生前の負犬根性ともいえる卑屈な精神を引きずったどこまでも人間臭い彼が精一杯の誠意として用意したものがこの一つの襟巻きに集約されている
私はこの時骨の髄まで彼を生涯嫌う事も無関心になることも出来ぬ
彼が己を愛せるようになり、噛み付く以外の甘えを覚えるようになるその日がたとえ来なくとも私は根気強く愛そう
そう心に決めたのだ
追加
サイタマの彼に触れて
以前のバレンタインの岡田以蔵に引き続き、折に触れてサイタマでの彼について、そして2024年11月現在における彼への印象を書き記そうと思う。
まず前提としてのスーツの霊衣。
生前は袖を通すことの無かった洋装、しかもフルオーダーメイドの上等な衣服に身を包んだ彼はかつて京の都を恐怖に陥れた「人斬り以蔵」ではなく1人の人間としての生の謳歌を私の目に焼き付けてくれた。
己を着飾るには一定の自尊心、自己愛が必要であると言うのが私の持論ではあるが、既に2着も木綿の粗末な物とは違う絹の上等な衣服を得た彼は順当に自己肯定感を得たそれは生前の蟠りとの決別のように見えて酷く眩しく見える。
さて、霊衣についてはここまでとして「ぐだぐだ龍馬危機一髪 消えたノッブヘッドの謎」での彼の立ち回りについての思いの丈ではあるが、まず冒頭の護衛を任された際の笑顔。
今までの笑顔は絵がと及ぶにはあまりに下卑ており「ニヤケ顔」と呼ぶ方が相応しいようなどこか卑屈さの透けて見える、決して見ていて心から喜ぶことのできぬものであった。
心からの笑顔を見るだけでこの先どのような理不尽も耐え得る自信があるほどに愛している。
それが今回見ることが出来たのだ。
普段は凛々しく上がった眉とどこか睨みつけるような大きな目を下げ、自信たっぷりに「任せちょけ」とマスターへ迷い無く言ってのけるその様は正に“愛”
これほどに嬉しいことがあろうか。
私はこれがずっと見たかったのだと、一つの愛の答えを得たのだった。
きっと長く伸ばされた前髪に隠れた右目も同じく下がり破顔しているのだ。
それを見る事は私には余り有る贅の極みである。秘匿されているものこそ輝くが、彼はそのままでもすでに美しい。
この原石を数年かけ磨き上げた答えをお出しされたのだ。
愛を伝え続け、それに応えてくれるとは余りにも素直で愛らしい男ではないか。
そして降り立つサイタマ、生前の恩師であり確執ある武市瑞山の登場によりカルデアでの姿が嘘かのように、月が雲に隠されてしまったのだ。
何せ以蔵の自白により最初に犠牲となったのは武市の親族である。武市の方も思うところある事は間違いないのだ。
その相手を相手に喜び再会を喜べる程岡田以蔵と言う男は恥知らずでも無ければ頭の回らぬ男ではない。
私はこの時既に胃の腑を握り潰されんばかりの心地となっていた。
やり方の問題もあった事は明白ではある。武力を用いた時点で武力により制裁を食らうことは必定なのだ。
そこに善悪は介入してはならない。
同じ敗者である彼らが気持ちの良くない関係性であると眼前に見せられる事は感情の行き場を無くしてしまう為、愚かにも感情移入が過ぎる私にはとても苦しいものがあった。
その時に癒してくれるもの、それは田中新兵衛の鍛え抜かれた豊満な肉体、赤く細くもコシの強そうな前髪で隠された片目、武市へ犬のような忠義を尽くす健気でありながらも1人の武人として気骨溢れるその様のみである。
話は以蔵へ戻し、私の悪い予想はいつも当たるもので直前に見せられた愛は濁り、彼に出会った頃以上の卑屈さや引っ込み思案な姿を見せた。
重なるように坂本龍馬を騙る何か、あの柔和な笑みはどこへやら邪悪な笑みで我々を翻弄するため私は田中新兵衛の胸筋と前髪にしか意識を向けることが出来ずにいた。
しかし良い事は長く続かないが悪い事も長続きはしないものである。
生前は武市に言われるがまま、それが良い事か悪い事か、したい事かしたくない事かを考える事をせずさながら「人斬り人形」として生きて来た男である。
これは私個人の意見ではあるが、彼はあの坂本龍馬を騙る何かを周りが違うと言う中「龍馬だ」と言ってのけ、どう見ても人型であるBBを人型判定しないなどありふれた表現をするならば「第六感」が発達しているのだ。
常人離れした観察眼を持ちながらもそれを他者へ共有する術を持たない彼は孤独であっただろうと夢想する。
人と違うものが見える人間は他者との共感を得られず、人一倍違和感や変化、情報が溢れる中で理解されないと孤独から塞ぎ込むか思考放棄をした方が楽であり傷付かずに済むのだ。
怠惰な天才はおそらくその傷付かないための術として武市は全ての思考を預ける事で心を守った事は私の想像するところである。
そんな彼はカルデアにて古今東西の英霊と出会い、思考を覚え、他者への共有を覚えた。
そんな彼であるから今回の件も龍馬へ「お前は龍馬か」と問い、武市の命に背いて「自身の意思」で行動出来たのであろう事、思考が回り自己完結をする幼馴染達へ言語化を促す事が出来たのだ。
それは彼が“変わった”のではなく子供まま目の前に映るものをそのまま見つめる姿勢を変えずに意識を変えることが出来たが故である。
1つ誤解ないように付け足したいが、私は彼を「善い人」とは思っていない。
しかし人間誰しも善悪併せ持つものであり、悪い面を隠す事を覚える大人にならず、剥き出し等身大の「人間」を体現して限りなく自然体に振る舞う男であると認識している。
そんな彼の存在は、誤魔化し波風立たせずのらりくらりと無味無臭を良しとする私含む大人には酷く眩しく見え、危なっかしく、そして羨ましく映るのだ。
彼は1人では何も成し遂げられはせず、輝く事はせず、常に誰かの力で立つものの強烈に惹きつけられ、人間臭く致命的に人とは違うさながら月のような男である。
無味無臭の現代を生きる私たち常人には決して辿り着けぬ圧倒的才能を持つ彼は、しかして常に剥き出しの人間臭さを忘れず突き放さず夜闇に上を見つめると静かに確かにそこにあり続ける月なのだ。
私はそのような月がこの先たとえ見えない日かあろうとも、そこに煌々と静かに輝く事を知っている。