はてなキーワード: 空気感とは
推しの子の話が話題になっていて、推しの子は少女漫画か?というので盛り上がっている。
ババア視点で言うと1990年代以前の漫画であれば推しの子は少女漫画足り得るし、1990年代以降であれば少女漫画は少女漫画以外の年代誌や性別誌へ対して制作技法や描画技法として広く普及し始め得たタイミングなので1990年代以降の漫画しか知らない若い世代であれば少女漫画ではないと感じるのではないかな。
少なくとも「1980年代の花とゆめへ掲載されていそう」と言われたら私はそう感じるし、逆に「1980年代の少年誌や青年誌では掲載されない」と感じ、年代で区切ると1993年以降にスクウェア・エニックスから発行された月刊Gファンタジー以降しか、年齢と識字能力の都合で、知らないのであれば間違いなく推しの子が少女漫画だなんて感じないでしょうね。
月刊Gファンタジーは前述したように少女漫画以外の年代誌や性別誌へ対して制作技法や描画技法として広く普及し始め得たタイミング、それを当たり前にしようとした、当たり前にした、当たり前になった辺りの分水嶺と解釈できるんじゃないかな。
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今度は男性キャラクターの話に移りますが、古い話になって悪いけれど「男性キャラクターを創造するにおいて大事であることが3つある」と、師や担当編集者、当時の編集者に習ったことを伝えます。
それは「少年か大人か」「善か悪か」そして「漢か紳士か」です。
最後の3つ目が当時の少年漫画と少女漫画を区分けする大きな要素で、登場する男性キャラクターに漢が多ければ少年漫画、紳士が多ければ少女漫画になる。これは絶対的な基準ではないのだけれどゼロからキャラクターを作るのに良い指針であると当時は習った。
今では紳士な男性キャラクターで占められている男性向け漫画なんて普通だから使いにくい指針ではあるかな?ただキャラクターを作る際はまだまだ参考に出来る指針ではあると思う。
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さて続いて、読者の感情移入先という話になるのだけれど、推しの子が少女漫画である場合に主人公が星野アクアであるならば感情移入しにくいのではないか?という疑問が湧きます。
ただそれは、例えばはてなの主要年齢層を推測し、わかりやすい例を出すならば「赤ちゃんと僕」や「っポイ!」で当時の読者が感情移入できなかったのか?と言えばそうではないはずだよね?
「赤ちゃんと僕」や「っポイ!」は前述したように少女漫画以外の年代誌や性別誌へ対して制作技法や描画技法として広く普及し始め得たタイミングで登場した漫画で、まだ1990年代以前の少女漫画の空気感が流れていて、「赤ちゃんと僕」や「っポイ!」に登場する男性キャラクターは紳士が大半となっている。
そういう目線で見ると、推しの子の男性キャラクターは紳士ばかりなのです。
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さてさて、更に続けて推しの子のキャラクターを見ると面白いことがわかってくる。
SNSなどでリアクションを確認していると、非常に低年齢だと思われるアカウントでは星野ルビーに共感し、高校生前後くらいだと思われるアカウント以上になると有馬かなへ共感を示す傾向がある。
実際に、プリキュア卒業組の女の子に推しの子はウケたと言われ、その子達がアニメイトなどで手にしているグッズを見ると小学生くらいの女の子は星野アイや星野ルビーのグッズを、高校生くらいになると有馬かなやMEMちょ、黒川あかねなどのグッズも手にするようになっているのを見ることができちゃう。
つまり、低年齢組が推しの子の世界を見るときの視界は星野ルビーで、それ以上になると視界が有馬かなやMEMちょ、黒川あかねになる傾向がどうやら少しだけあるようなんだよね。
星野ルビーの視界で見ると大好きなお兄ちゃんと頼りになるお姉さんたちの居る世界、有馬かなの視点で見ると大好きな男の子とその妹や女友達の居る世界、MEMちょの視点で......みたいな感じで様々な推しの子の世界が見えてくるんだ。
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ではなぜ推しの子の主観のほとんどが星野アクアなのか?と言えば媒体が青年誌だからだ。
でも星野アクアは少女漫画的な紳士である、ここに青年誌と推しの子にミスマッチが起きるのだけれど赤坂アカ先生はこのミスマッチを解消する面白い解決策を使った。
推しのアイドルの子として転生したいというオッサンの汚い欲望みたいなコメントがあったけど、指摘は間違っていないんだ雨宮吾郎がその投影を担っている。しかし星野アクアはそれを担わず紳士として振る舞った。
推しの子の主人公は漢であり紳士、これが最大の面白さであり納得しにくい部分だったんだ。
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星野アクアとして転生してからずっと紳士として振る舞ったが、最後の最後に星野アクアは漢として振る舞った。
読者は唖然だ「星野アクアは紳士じゃなかったのか?」と。「まさか漢の王道を最後に持ってくるとは」と。そしてこれまでの全てを吹き飛ばして「この漫画誌はりぼんではなくジャンプです!!!」と宣言した。
現代は女の子もジャンプを読むしジャンプには少女漫画風の作品も掲載されるという時代、そこで「ラストにジャンプする」というオチ。
ここがりぼんなら「可愛い女の子主人公の腕の中で」くらいの演出はあるだろうけれど、漢は無様を晒さないのでたった1人でケリを付ける。
ヤングジャンプに掲載された推しの子は雨宮吾郎ではじまり、星野アクアで物語の大部分を進めて、雨宮吾郎で締めることを選んだんだ。
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これがりぼんならば星野アクアで締めたと思います。そういう意味で推しの子は少女漫画であり少年(青年)漫画でありました。
だからこそ、少女漫画であると評価する古い感性の人が居て、プリキュア卒業組にウケ、男性読者も多数獲得し、少女漫画なわけがないだろうと新しい感性の人が居て、実写化へ新しい感性の女性ファンが詰め寄っているわけです。
ちゃくちゃくと仕事が忙しくなってきたから正月頃と比べると娯楽に使える時間が半分ぐらいになってきた。
無料チャンスのペースは下がってきてるんだけど、そもそも休日以外は遊びに使える時間が少ないからあまり関係ない感じ。
ゆーて振り返ると結構遊んでるな。
マガポケやジャンプラの週刊連載は普通に読んでるわけだし、結局は丁寧な生活の時間を使ってダラダラ遊んでしまっているというわけだな。
ここから更に忙しくなるといよいよ毎週やってることをただやるので精一杯になって一週間限定無料とか追わなくなりそう。
ゼンゼロの新章
・衛府の七忍
「テヘペロでやんす」の辺りからワードセンスがいよいよぶっ壊れだして作風が確立してくのが面白い。山田風太郎は時代劇でメートルを使うという概念をぶっ込んだけど、この漫画は江戸時代のキャラが現代人でもネットでしか使わんような喋りをすることで育ちの悪さをアピってくるから凄い。これが娯楽作品って奴なんだな。
やっぱ文章より動画の方が色々と分かりやすいな。全体の空気感とか、細々したトリックの流れとか、ゆうて映像で見るといよいよ持って「◯◯◯の◯◯◯」が見分けつかねえっていうか、これトリック使った奴もあんな証明弱かったら「ん?ん?」とやってるうちに怪しまれるんじゃねーか感がマシマシやったぜ。
ピッコマ
・衛府の七忍
ビッコミ
・南緯六〇度線の約束
・Dragonsweeper
令和のタナソー
「AVは瀬戸環奈以前と以後に分かれる」。この言葉が単なる誇張でなく、むしろ控えめだったことに気づいたのは、この作品を観た瞬間だった。彼女のデビュー作は、AV史を一度解体し、そこに新たな世界を築き上げたと言っても過言ではない。
まず、彼女の登場シーンから既に“ただならぬ空気感”が漂っている。画面越しにこちらを見つめるその瞳に、一瞬で心を射抜かれる感覚。「あ、これはヤバい」と思う間もなく、心が奪われ、身体がリモコンから離れなくなる。デビュー作にありがちな緊張感も確かにある。だが、それさえも彼女の持つ天性のオーラに吸収され、完全に「演出」と化しているのだ。
視聴中、画面の美しさに圧倒されるあまり、思わずテレビの明るさ設定を確認した。そして気づく。「いや違う、これは瀬戸環奈が放つ光そのものなんだ」と。作品が終わる頃には、こちらの網膜に刻まれたその輝きが消えず、画面を消してもしばらく残像として彼女が浮かび続ける。これはみんなもよく知ってる、いわゆる“環奈残光”である。
しかし、視聴後に待っていたのは、深い喪失感だった。街に出ても、風景が灰色にしか見えない。夕陽を見ても何も感じない。花屋の店先に並ぶカラフルな花々すら、まるでモノクロ写真のようだ。「この世から色が消えた」というのが、これほどまでリアルに感じられるとは思わなかった。唯一、色が戻る瞬間は、彼女のデビュー作を再生するときだけ。これを“瀬戸依存症”とでも呼ぶべきだろうか。
眼科に行こうと思った。しかし、そこで「先生、目に映る世界が灰色なんです」と言ったところで、「この作品を見てからです」と告白すれば、医者も冷静でいられないだろう。「ちょっと待って、それ僕も診断しないと」と言い出しかねない。それほどの衝撃を、この作品は与えるのだ。
ラストチャプター、魂を根こそぎ回収され、気づけば白旗を全力で振る自分。「すまない、父…俺は負けた。」思考回路すらリセットされた壮絶な瞬間だった。
総評:瀬戸環奈のデビュー作は、ただの映像作品ではない。これは文化だ。色彩を取り戻す革命だ。そして、私たちは今、AVの“瀬戸環奈以後”に生きている。こんな不安定で曖昧な世界で、唯一確かなことがある。このレビューを書き終えたあと、私はまた眼科の予約を忘れ、「もう一度だけ」と再生ボタンを押しているのだろう。「色彩」を取り戻しに...。
弱者男性だが、当然のようにオタク趣味があろうがなかろうが、俺は一昔前ならオタクというレッテルを貼られる人間だ
過去に何度も↓のURLを貼ってるけど、見ないふりばかりしてるので何度でも貼る
分かりやすいから貼ってるけど、当時の空気感はこれ見れば一発で分かるんだ
https://twitter.com/lautream/status/987667478028300288?t=KwUOfZKNPanDFg-yxjTM7Q&s=19
リベラルというのはオタクの容姿やステータスを何度もバカにし嘲笑し誹謗中傷罵詈雑言も当たり前だった
オールドメディアからのオタクの扱いも当然カスのようなもので、今の時代からすると化石のような保守おじいさんや、進歩的でリベラルな人たちも関係なく
むしろ進歩的でリベラルな人たちこそがネットではオタクを執拗な攻撃対象にしていたかもね
フジテレビが嫌われてるのは、過去のオタクにとても嫌われていた事も無関係とは思えない
この手の人間は今もれなく全員嫌われてるよね
2025SSのパリコレでdoubletが昔リベラルが馬鹿にしていたオタクを題材にして出ている
ダメだと思って隠してきて結局別れたんだが、肝心なところを隠して友達に話してたせいで「なんで別れた!?」って空気になって苦しい。
別れたし言ってええかなー
元カノのことを悪く話したいわけじゃないんだが、別れた理由詳しく説明するとどうしても悪口みたいになってしまう。
もう少しほとぼり冷めるまで黙ってるか
(追記)
私がSMAPというグループと出会ったのは、小学生の頃にテレビで偶然見た音楽番組がきっかけでした。最初に目に留まったのは、センター付近に立って元気に歌い踊る5人の姿。その中でもひときわ明るい笑顔で、パフォーマンス中にも関わらず絶え間なく周囲にツッコミを入れたり、メンバーをいじったりしていたのが中居正広くんでした。当時は「歌っている最中なのに、こんなにしゃべっていて大丈夫なのかな?」と幼心にも不思議に思ったのを覚えています。けれど、その自由奔放な雰囲気がとても面白くて、気づけば私はすっかりSMAPの番組を追いかけるようになっていったのです。
バラエティ番組での中居くんは、他のアイドルとはひと味違う存在感がありました。いわゆる「アイドルらしさ」よりも、芸人さん顔負けの切り込み方や、気の利いたコメントで場を盛り上げる姿が際立っていたのです。もちろん、格好良く歌い踊る姿も素敵でしたが、それ以上に私が惹かれたのは中居くんが見せる“MC魂”のようなもの。言葉で人を笑わせ、安心させ、時には厳しく指摘もするけれど、最後にはその場にいるみんなをちゃんと大事にする。その姿勢がSMAPというグループの垣根を超えて、多くの芸能人や視聴者から愛される理由だと感じていました。
SMAPを語るうえで欠かせない番組のひとつが、やはり『SMAP×SMAP』です。バラエティとコント、トーク、そして料理コーナーの「BISTRO SMAP」と、まさに総合エンターテインメント番組と呼べる内容でした。そこでも中居くんは、進行役やツッコミ役として重要なポジションを担っていました。毎回ゲストを交えながらのトークパートでは、中居くんならではの話の引き出し方が際立ちます。ゲストの経歴や最近の出来事を聞きだしながら、時にはメンバーを巻き込んで笑いを作る。そして相手のちょっとした仕草や失言を絶妙につつきつつも、どこか愛情を感じさせる口調でまとめ上げる。そのやり取りを見ていると、ゲストも居心地の良さそうな雰囲気を醸し出していたのが印象的でした。
さらに印象深いのは、メンバー間の関係性です。木村拓哉さんがグループの顔としてクールなオーラを放ち、草彅剛さんが少し天然めいた穏やかさで空気を和ませ、稲垣吾郎さんが知的でスマートな振る舞いを見せ、香取慎吾さんがアーティスティックかつお茶目なアイデアマンとして盛り上げる。その中心で、中居くんはまるでお兄ちゃんのように全員の特徴を把握し、それぞれに合わせた的確なツッコミやフォローを入れていました。SMAPのバランスを保つ“司令塔”というか、“まとめ役”としての役割があったからこそ、あの自由奔放な個性派の集団が一つの大きなエンターテインメントを生み出すことができたのだと思います。
中居くんの思い出を語るなら、『うたばん』も外せません。石橋貴明さんとタッグを組み、ゲストアーティストを迎えてのトークは、時にアイドル番組とは思えないほど鋭いツッコミとボケが炸裂し、毎回手に汗握るような面白さがありました。アイドルなのに、ここまで突っ込んで大丈夫なの?と心配になるほどの攻めた展開。でも中居くんも石橋さんも、相手の魅力を引き立てるために全力で盛り上げているのが伝わってきました。ゲストとの絡みの中で、ちょっと厳しいことを言っても笑いに変える技術や、相手が負担に感じないように言葉を選ぶバランス感覚は、まさに“番組MC”としての腕前そのもの。多くの人気アーティストが『うたばん』に出たがる理由の一つに、中居くんとの掛け合いが生む“ハプニングからの面白さ”を求めていた、というのも納得でした。
また、『FNS歌謡祭』や『NHK紅白歌合戦』など、大規模な音楽特番でも中居くんはMCや司会として活躍してきました。特に長時間の生放送において、時間管理や進行、そして突然のアクシデントへの対処など、さまざまな能力が求められます。そんな状況でも、中居くんはほとんど動じることなく、次に話を振る相手を見据えて瞬時にコメントをまとめあげる。その柔軟性と仕切りのうまさは、幼い頃にバラエティで見せていた“自由さ”と表裏一体だったように思います。即興のやり取りが求められる中でも、彼が必ず忘れないのが「周りへの気配り」。カメラに映っていない場面でも、共演者に小声で指示を出したり、笑顔でフォローしたりと、その人柄がにじみ出ていました。
そして、一ファンとして忘れられないのが、ライブでの中居くんの存在感です。ダンスや歌のスキルに関しては、他のメンバーのほうが得意とされることも多かったかもしれません。だけど、中居くんがステージの真ん中で煽りの声を出すと、会場全体がぐわっと盛り上がるのを肌で感じた瞬間が何度もありました。MCタイムでは、時にメンバーをからかいながら、時に客席に向かってユーモアたっぷりに語りかけながら、あっという間に空気を一つにしてしまう。あの空気感は、リーダーとしてファンとの距離を一番近くに感じさせてくれる、特別なものだったと思います。
また、中居くんは時に“ヘタレキャラ”を自称することもありました。運動会やスポーツ番組などでほかのメンバーに比べて活躍が今ひとつだったり、本人が「オレ運動苦手だから」と照れながら言い訳をしたりする場面もしばしば。でも、そういうところも含めて、ファンとしては親しみを感じるポイントでした。完璧すぎないところがまた魅力で、「自分を落とすことで周りを立てる」というサービス精神が根底にあるように思います。
バラエティの場面だけでなく、人をサポートする姿勢はSMAP全体にも影響していました。メンバー同士がバラバラの仕事をたくさんこなす中で、それぞれが様々な経験を積み、時に悩んだり迷ったりすることもあったはずです。そのときに「チームとしてどう進んでいくか」を考える上で、中居くんがリーダーの立場から柔軟にメンバーを受け入れ、必要に応じて背中を押したり、時には厳しく叱咤したりしてきたのではないかと感じます。表向きには冗談混じりで「俺がリーダーだって言ったことは一度もないんだよね」なんて語ることも多かったですが、実質的には最年長としてグループをまとめる心配りを常にしていたように思えました。
個人的に好きだったエピソードの一つは、番組収録の合間や楽屋で他メンバーと何気ない会話をしているときの話。メンバーが新しく始める企画やドラマに対して、中居くんは「それ、いいねえ!」とすごく興味を示しつつ、具体的にどう盛り上げられるかを一瞬で考えていたというエピソードです。それを聞いたとき、「ただ楽しいねって言うだけじゃなくて、どうやったら番組として面白くなるか、どうやったら視聴者がワクワクするかを常に考えているんだな」と感心しました。アイドルでありながらプロデューサー的視点を持っている、そんなところが中居くんのかっこよさの一つだと思います。
SMAPが多くのヒット曲を世に送り出し、国民的なグループとして君臨した理由はさまざまあるでしょう。メンバー一人ひとりのスター性や楽曲の良さ、ドラマや映画での活躍などの要因が重なり合っての成功だったと思います。でも、その大きな渦の中心にいたのが、中居くんの存在ではないでしょうか。ライブや番組の構成を考え、グループの方向性を冷静に見極めながら、必要なときに自分が矢面に立って場を和ませる。その絶妙なバランス感覚が、SMAPを一つにまとめる大きな支柱になっていたように思います。
長い年月を経て、SMAPというグループは大きく形を変えました。それでも、私たちの中にはSMAPが残してくれた多くの思い出や楽曲、番組での名シーンが色あせることなく生き続けています。特に、笑顔あふれる中居くんの姿は、当時のファンにとっては鮮明に焼き付いているはずです。自分たちが楽しむだけでなく、視聴者やファン、そして一緒に仕事をする仲間を思いやる彼の振る舞いは、バラエティ番組を中心にした日本のエンターテインメント界にとって一つの理想像だったといえるのではないかと思います。
もちろん現在の活動でも、その経験値をフルに活かして、さらに磨かれたトークスキルを見せてくれています。しかし、私たちファンが時々思い出すのは、まだ若くて少しやんちゃさもあり、どこかいじられキャラでもあった“旧SMAP時代”の中居くんの姿。テレビの前で腹を抱えて笑ったり、ライブ会場で一緒に声援を送ったりしていたあの頃は、私にとっても青春の一部でした。彼が楽しそうにメンバーとの掛け合いを見せてくれるたびに、「ああ、SMAPって本当に仲がいいんだな」と感じられて、それだけで明日からの元気をもらえたものです。
今振り返ってみても、あれほど多種多様な才能を持ち寄りながら、しかもバラバラな個性をしっかりまとめ上げるグループはそう多くないように思います。中居くんはその中でも特に、「自分が楽しいと思うこと」を軸に、周りの人たちにも楽しさを広げる才能があるのだと感じます。彼が時折見せる優しい表情や、言葉の端々ににじむメンバーへの思いは、画面越しでも十分に伝わってきました。だからこそ、笑いにあふれたSMAPのバラエティやコンサートを思い浮かべると、自然とこちらも笑顔になるのだと思います。
旧SMAPの中居くんを思い返すとき、私が一番大切にしているのは「温かさ」と「笑い」です。さまざまな番組やライブの中で、彼がファンや共演者、そしてメンバーに注いでいたものは、アイドルを超えた一種の“人間らしさ”のような気がします。ステージの上でギラギラと輝くだけではなく、どこか隣にいそうな親しみやすさで、でも気づけばしっかりと中心に立って場を回している。そのギャップこそが、中居くんを唯一無二の存在にしている理由ではないでしょうか。
私にとってSMAPというグループは、思春期から大人になっていく過程で、たくさんの楽しみや感動を与えてくれた存在でした。その中心でいつもバラエティ豊かな笑いを提供してくれたのが中居くんです。リーダーでありながら「リーダーらしくない」態度を取りつつ、それでも大事なところでメンバーを一つにまとめる。そんな中居くんの姿に、今でも私は元気や勇気をもらいます。たとえ環境が変わり、活動スタイルが変わっても、あのころの明るい笑顔と思いやり溢れるトークは、ずっと色褪せずに心に残り続けるのだと思います。
こうして改めて振り返ってみると、“旧SMAP”という一つの時代を象徴する存在の中で、中居正広くんがどれほど重要な役割を担っていたのかを再確認することができます。彼が築き上げてきたバラエティでのポジションやメンバーを支えるリーダーシップは、簡単に真似できるものではありません。これから先、さらに活躍の場を広げ、より自由な形でエンターテインメントを創造していく中居くん。その姿に触れるたびに、私は「やっぱりあの頃のSMAPは最高だったな」と、懐かしさとともに温かい気持ちになるのです。今でも繰り返し見たくなる映像やライブ音源がたくさん残っていることを幸せに思いつつ、これからもずっと、あの輝かしい記憶を大切にしていきたいと思います。
ドナルド・トランプがついに大統領になる――このニュースは、2016年の大統領選挙戦の余波を大きく揺るがし、世界中で驚きと議論を巻き起こしました。アメリカ国内の政治的分断が深まる中、トランプ氏が「ワシントン政治の打破」「アメリカ・ファースト」を掲げて突き進んだ結果、メディアの多くの予想に反して勝利を収めたのです。その勝利宣言は、国内外の政治的・経済的風景を一変させる合図のようでもあり、アメリカ史において新たな時代の到来を告げるものでした。本稿では、トランプ大統領誕生に至るまでの道のりと、彼が就任によってもたらすインパクト、さらに当時同時進行的に注目されつつあったビットコインなどの新技術の話題にも触れながら、複雑に絡み合う政治と社会の背景を考察してみたいと思います。
まず、トランプ氏が大統領選に名乗りを上げたとき、多くの人々はその可能性を疑問視していました。「不動産王」として高層ビルに名を刻み、テレビ番組のプロデューサー兼ホストとしてエンターテインメント業界でも名を馳せた人物が、果たして政治の世界で通用するのか――そうした声はアメリカの政治分析者からも多く挙がっていたのです。しかし、トランプ氏のキャッチフレーズ「Make America Great Again」は、経済格差に苦しむ層やグローバリズムの荒波に翻弄されてきた層の心を強烈につかみました。いわゆる「忘れられた人々」と称された中西部の白人労働者層を中心に、既存の政治家とは異なるアピールが幅広く受け入れられたのです。
他方、トランプ氏はその強烈な個性ゆえに多くの批判も浴びていました。過激な発言や差別的と受け取られかねないコメントは多方面から反発を買い、メディアとの緊張関係を高める一因ともなりました。主要メディアの多くは、彼の当選を否定的に予測していたこともあり、選挙結果発表直後は「世紀の番狂わせ」とも呼ばれるほどの大きな衝撃が走りました。ヒラリー・クリントン元国務長官は経験豊富な政治家として、多くの財界やメディアの支援を受けてきましたが、その支持基盤だけではカバーできない層の不満と怒りが、トランプ氏を大統領の座へと押し上げたのです。
トランプ氏の就任演説は、そのまま自身の選挙公約を体現する内容でした。「アメリカを再び強くする」「国境を守り、雇用を取り戻す」というメッセージは、一方では保護主義的な色彩を強めることを示唆し、もう一方ではアメリカのエスタブリッシュメントに対する痛烈な批判とも読めました。就任初期から彼は、オバマ前政権が取り組んできた政策の方向転換を図り、国際的な取り決めからの離脱や関税引き上げなど、賛否両論を巻き起こす決定を相次いで行っていきます。もとより政界外からの参入という形で大統領に就任した人物であるだけに、その手法は既存の政治家と大きく異なり、混乱と躍動が同時に渦巻く中で「トランプ政権」が幕を開けたのです。
こうした政治的大変動のさなか、世界の経済市場もまた大きく動揺しました。トランプ氏の就任後、彼の発言や政策見通しに応じて株価が上下動を繰り返し、不透明感が増したことでドル相場も敏感に反応していました。一方、当時まだ「投機対象」としてのイメージが強かったビットコインも、政治リスクの高まりや経済の先行き不透明感を背景に注目を集めはじめていた時期です。とりわけ、トランプ政権発足後に進む金融規制の変化や大手金融機関の動向が、暗号資産(仮想通貨)市場にとってどのような影響をもたらすのか――その点が専門家の間でも度々議論の俎上に上りました。
実際、2017年はビットコインにとって劇的な一年となりました。価格は急騰と暴落を繰り返しながらも、年末には一時2万ドルに迫る水準にまで高騰したのです。トランプ大統領の就任が直接的な原因と見る向きは少ないものの、世界的に低金利政策が続いたことや、トランプ政権の保護主義的な政策傾向が市場に与えた心理的影響が、リスクヘッジ先としてビットコインの存在感を高めたという説もあります。当時、ビットコインの実用性よりも「これから先、世界経済はどうなるかわからない」とする不安や投機熱が、暗号資産全般への注目を押し上げていたのもまた事実でした。
トランプ大統領は選挙期間中から「アメリカの利益が最優先」というメッセージを繰り返しており、就任後の政策もその路線を忠実に示していきます。環太平洋経済連携協定(TPP)からの離脱表明、北米自由貿易協定(NAFTA)の再交渉、さらには移民政策の大幅見直しなど、「グローバル化」に対して批判的な動きを強める中、世界との関係性は大きく揺らぎました。保護主義が加速すれば、米国以外の国々との関税合戦がエスカレートし、国際協力体制にひびが入る恐れも高まります。トランプ政権の政策はアメリカ国民の一部に大きな期待を持って迎えられる一方で、グローバル企業や国際金融市場には新たなリスクを孕むことになったのです。
こうした「変化の渦」に巻き込まれるアメリカと世界の情勢を受けて、国際社会からは賛否が分かれる声が絶えませんでした。トランプ氏のリーダーシップは、大胆な政策決定と過激な発言力に象徴されますが、その背後には支持層が求める「既存の政治に対する反逆」というメッセージが常に存在しています。さらに、ソーシャルメディアを駆使した直接的なコミュニケーション戦略は、従来の政治報道の在り方を根底から揺るがし、大統領がツイートする一言一言がニュースの見出しを飾るようになりました。これに伴って、政府系の公式発表以外にも大統領本人のSNSが政策の意思決定過程を読み解くヒントとなる異例の事態が常態化し、「トランプ流政治」が確立されていったのです。
こうした動きは暗号資産の世界にとっても見逃せない要素でした。トランプ政権が金融業界にどのように介入し、規制を強めるのか、あるいは緩和するのかによって、ビットコインやその他の暗号資産の需要や信用度合いが変化する可能性があったからです。現に、SNSを通じてトランプ氏が貿易や為替、金融機関に対する批判を繰り広げると、瞬く間に市場が過敏に反応するような局面も散見されました。まだ当時は、ビットコインの価格がトランプ氏個人の発言によって大きく揺さぶられるところまでには至りませんでしたが、「強烈な言葉の一撃があれば何が起きるかわからない」という不安と好奇心が投資家の間に広がっていたのです。
トランプ氏の大統領就任によって世界中が騒然とする一方、アメリカ国民の間でも評価は大きく割れました。いわゆる「トランプ支持層」は、グローバリズムによって置き去りにされた伝統的産業や地域の再生を切望しており、トランプ氏の強気な姿勢が誇りを取り戻すきっかけになると信じています。しかし、自由貿易や多様性を重視する立場からは、人種・宗教・ジェンダーなど多面的な価値観を軽視するような言動は容認できず、国際関係の悪化によってアメリカが得るものより失うもののほうが多いのではないかという批判が続きました。国論が大きく割れる中で、政治はしばしば対立と停滞を余儀なくされ、民主主義の根幹が試される状況が続いていったのです。
就任から半年、一年、そして四年と、トランプ政権は折々に劇的なトピックを世界に提供しました。移民政策の強化や国境の壁建設、保護主義的な経済政策、さらにはSNSを舞台にした相手国リーダーへの鋭い批判や挑発。それらの動きの一方で、好調な株式市場や雇用指標が支持層の信頼をさらに固める要因ともなりました。そして、いつしか「トランプ時代」という言葉が定着し、保守層の熱狂的な支持とリベラル層の激しい抵抗が同時進行する、歴史上でも特異な大統領の姿が刻まれていったのです。ビットコインをはじめとする暗号資産市場もまた、この混沌とした政治的・経済的環境の中で少しずつ成長を遂げ、後の数年でさらに大きな盛り上がりを見せる布石を固めていくことになります。
振り返ってみれば、ドナルド・トランプ氏が大統領に就任した瞬間は、単に「ホワイトハウスの主が変わった」だけでなく、世界が新たな政治秩序へと足を踏み入れる始まりでした。従来の常識や慣習が揺らぐことで、多くの人が不安を覚えたのは事実です。しかし同時に、こうした不安定要素がイノベーションを生む土壌になっていく可能性を示唆する声もあります。ビットコインという新しい経済圏の動きは、その一つの象徴と言えるでしょう。これから先、暗号資産が既存の通貨体制や国際金融システムとどのように共存し、あるいは競合していくのかは、トランプ政権下での金融政策や規制の変化だけに左右されるものではありませんが、政治と技術が互いに影響を及ぼし合う時代の到来を予感させるには十分な状況でした。
こうして始まった「トランプ政権」の時代は、米国内だけでなく世界の政治・経済・社会に強烈なインパクトを与え続けました。何よりも注目すべきは、既存の政治や国際秩序に対する不信感と疲弊感が、多くの人々をトランプ氏のような“異端”へと駆り立てた点でしょう。その背景には、IT技術の急激な進歩がもたらす雇用の変化や、新自由主義的な経済政策で拡大した格差問題、さらには絶えず加速するグローバル化の負の側面など、解決が容易でない課題が山積していました。そうした状況下で、伝統的な政治への失望が頂点に達したがゆえに、トランプ氏が「最後の切り札」あるいは「新たな希望」として期待を背負ったのです。
結果的に、トランプ氏のアプローチはワシントンの常識や国際政治の慣習を大きく揺るがしましたが、その衝撃は同時に、世界中の人々が民主主義の在り方や経済の仕組みを問い直す機会を提供することにもなりました。激化する国内対立、揺れる国際協調、そして新しい技術革新――大統領就任とともに空気感が一変したアメリカと世界は、次なる展開を予測しづらい不確定な未来へ足を踏み出していたのです。その中で、ビットコインをはじめとした暗号資産が「個人が資産を守る手段」「国家や中央銀行の方針に左右されにくい通貨システム」として改めて意識され始めたことは、ある意味で必然だったのかもしれません。
ドナルド・トランプがついに大統領になる――それは一つの政治的大事件であると同時に、世界秩序を大きく再構築する引き金でした。国際協調と保護主義のせめぎ合い、従来の政治観と“トランプ流”の対立、そして暗号資産という新しい技術潮流の台頭。これらは偶然の産物ではなく、現代社会が抱える構造的な問題と変革への希求が交差する点に表出した、いわば必然の衝突でもありました。トランプ氏がホワイトハウスに足を踏み入れたあの日を境に、世界がまったく新しい物語を紡ぎ出した――そう思わせるには十分なインパクトが、あの就任式にはあったのです。今後、トランプ時代の政治的・社会的インパクトをどのように総括し、ビットコインを含む暗号資産が社会に根付くかどうかは、さらに長期的な視点で見守る必要があるでしょう。歴史は常に、予想を上回る形で動いていくものです。トランプ大統領の誕生とビットコインの台頭が重なった時代は、振り返ってみれば「新たな扉を開いた瞬間」と言えるのかもしれません。
いまごろ「ヒロシのぼっちキャンプ年越し4時間スペシャル」を見ている
「ずっと鳴り響く草刈り機の音」「朝から爆音で聞こえるEDMの音」
に笑いが止まらなくなった
この番組でここまで笑い取れるの珍しい
ぼっちキャンプ、放送開始から5年ということで「何でこんなに続いてんのか」とヒロシが言っていたが
「You Tubeのキャンプチャンネルと大差無いから」だと思う
「テレビ!!!」って感じがしない
勿論映像は素晴らしく美しいし(なんか蟲師を感じる。異界っぽいのか?暗めだから?紗がかかってるから?)、スタッフと演者の良い関係も垣間見えるし、丁寧に作られていると思う
ヒロシが自身のプライベートキャンプを結構あげてくれてた頃と同じ感じがする
なごむ
先日、友人に誘われて初めて婚活パーティーに参加した。世間では「婚活市場は女性優位」と言われるが、実際に足を運んでみると、その空気感にはまるで女王様のような傲慢さが漂っていた。失礼ながら、そんな態度を目の当たりにしてしまうと、こちらからも一歩引いてしまうものだ。もちろん参加者全員がそうではないにしても、当たり前のように男性に条件を突きつける人々が多く、正直驚きを禁じ得なかった。
どんな条件を突きつけられたかというと、まず年収が最低でも500万円以上、身長は170センチを超えていてほしい、学歴は四年制大学卒業以上が望ましい……という具合だ。こういったリクエスト自体は、ある程度の価値観や希望を明確にするためには必要なのかもしれない。しかし、それを口にする際の態度が問題なのだ。まるで「私は選ぶ側にいる」という意識を隠そうともせず、相手が自分の条件に合致するかどうかだけを確認して、少しでも合わないとわかると容赦なく切り捨てる。あるいは、興味がない相手に対して挨拶もろくにしないというケースまであった。そうした姿勢を見ると、人として大切な部分が欠けているのではないかと感じてしまう。
実際に会話をしていても、自分の理想や要求ばかりを語り、こちらの話に耳を傾けようとしない女性が散見された。たとえば仕事や趣味の話を振っても、あからさまに興味がなさそうな表情を浮かべ、「へえ、そうなんだ」で終わりにされることもしばしば。まるで、男性をただの『条件の羅列』としか見ていないかのようだった。
さらに驚いたのは、そうした女性たちが「何でいい人がいないの?」と嘆いている姿だ。傍から見れば、その態度こそが「いい人」を遠ざけてしまう一因になっているのだが、当の本人にはなかなか気づけないらしい。もちろん、男性側にも問題があるケースはあるだろう。だが、少なくとも私が出会った場面では、多くの男性が真剣に向き合おうとしていた印象がある。それにもかかわらず、女性の側が高飛車な態度を取り続けることで、せっかくのチャンスを自ら逃しているように見えた。もしかすると、彼女たちは結婚そのものよりも「周囲から羨ましがられるような完璧な相手」を探すことに固執しているのではないか。もしそうだとすれば、それは本末転倒と言わざるを得ない。
もちろん、希望条件を持つこと自体は悪いことではない。誰だって、自分が幸せになれる相手を見つけたいのだから、ある程度の要望を抱くのは自然な流れだ。ただし、相手を思いやる気持ちやコミュニケーションを大切にする姿勢を忘れてしまえば、本来の婚活の意義はどこへやら、ただの『条件比較ゲーム』に成り下がってしまうだろう。お互いに譲れない部分はあるかもしれないが、最低限の礼儀と相手への関心を示すことは、人としての基本中の基本ではないだろうか。もし婚活で真剣にパートナーを探しているのならば、単に条件を並べるだけでなく、相手の個性や考え方を尊重し、自分自身も成長していくという姿勢が必要不可欠だと思う。にもかかわらず、傲慢な態度をとる女性を見るたびに、「なぜそこに気づけないのか」と残念な気持ちにならざるを得ない。結局のところ、自分自身を高める努力を怠り、相手にばかり理想を押しつける人は、どれほど条件の合う相手と結婚しても、心からの幸せを得ることは難しいのではないだろうか。
婚活はあくまでパートナー探しの場であり、相互理解と尊重が前提であるはずだ。もし女性が自らを“選ぶ側”と勘違いし、その立場を振りかざすような振る舞いを続けるのであれば、その傲慢さに呆れる男性は増えていくばかりだろう。真の意味で幸せな関係を築くためには、まずは謙虚さと思いやりを取り戻すことが大切だと強く感じる。
世間では「時間停止もの」なんて言ったところで、どうせ大半は撮影テクニックや編集、もしくはカメラ外での演出トリックで作られた“疑似”現象にすぎないと思われているらしい。実際、ネットの掲示板や動画サイトのコメント欄を見ても、「いやいや、絶対こんなの嘘だろ」「カメラが止まってる間に位置調整してるだけじゃん」といった声が大半を占めているわけだ。俺だって、そういう意見や憶測が出ること自体は否定しない。映像制作の現場に少しでも触れたことがあるなら、どのように編集して“それらしく”見せるかは、割と想像がつくものだからだ。けれど、俺はそんな世の中の風潮にあえて逆行してでも言いたい。「時間停止ものの九割は偽物かもしれないが、俺が作るのはその残りの一割、本物なんだ」と。
そもそも、どうして俺が「本物」を撮ることができるのか。その理由は簡単に言えば「俺自身が時間を止める能力を持っているから」にほかならない。……といっても、いきなりそんなぶっ飛んだことを言われても誰も信じないだろうし、下手すれば「都市伝説的なジョークだろ」「SFかファンタジーの話?」と片付けられて終わりだ。だが、俺は高校生の頃にその力に目覚めて以来、その“特殊技能”を使ってさまざまな実験を重ねてきた。もちろん、当初は「まさか自分がそんな非科学的な力を持っているわけがない」と思っていたから、これは自分だけの妄想ではないのか、本当に世界が止まっているのかどうかを確かめるために、あらゆる手段を講じたものだ。
たとえば、最初は時計を手に持ち、周囲の秒針と自分が認識している時間感覚とのズレを確認してみた。時間を止めたつもりで周りに何らかの変化を与え、それが再び動き出した後にどういう結果として表出するのかを丹念に観察した。結果は自分が期待していた以上に「本物」だった。針は確かに停止していたし、俺が止まっている間に手を伸ばして動かしたものの位置は、そのままの状態で再開後の世界に引き継がれていた。さらには友人や家族といった“他人”の意識や行動が、一瞬の遅れや戸惑いすらなく自然に続行されているのを目の当たりにしたとき、「これは俺の気のせいでは済まされない」と思ったわけだ。
しかし、この力を本当に「作品」として世の中に発表しようと思ったのは、もっとずっと後になってからだ。最初のうちは「この能力を人に見せたらどうなるか」なんて、怖すぎて考えもしなかった。国に連れていかれて研究対象にされるのではないかとか、社会から隔離されてしまうのではないかとか、そういうSF映画さながらの展開を想像しては自分の力を隠して生きていた。だけど自分の中で色々あって、ようやく「もしかしたらこの力を面白い形で世に出せるかもしれない」という発想に至った。どうせバレたって信じる人間は少数派だろうし、大半の人は「撮影トリックです」と言われれば素直に納得する。ならば、“時間停止もの”というニッチなコンテンツを通じて、この能力を遠回しに表現できないか……と、思い立ったわけだ。
最初に手がけた映像作品は、いわゆる自主制作の短編映像だった。役者は大学時代の演劇サークル仲間に頼んで、「ちょっと協力してもらえない?」と半ば強引にお願いした。もちろん彼らにも「時間を止める」なんて話はしていない。役者たちは俺が示す演出プランを、単に「このシーンでは合図をしたら全員ピタッと止まってね。息とか目線もできるだけブレずに」という程度の指示だと思っていた。俺はスイッチを入れて、本当に時間を止める。すると、役者たちは「命じられた通りにそのポーズを保っている」ように見えるけれど、実際には全世界が静止している。ただし、俺の目から見れば「止まる瞬間」を観察することはできるが、その後は俺が自由に動けるわけだ。その間にカメラの位置を変更したり、人物の配置をちょっと変えてみたり、まるで“セット”を自由に組み替えるような作業を行って再び時間を動かす。そして役者たちは元に戻った世界で何の違和感もなく演技を続行する……という算段だった。
撮影を続けるうちに分かったのは、俺が止めた時間の中でどれだけ動いても、その“しわ寄せ”は自分の身体にだけきっちり返ってくるということだ。要は、自分が動いている間の疲労や消耗はそのまま残る。一方で、周囲にいる人々は一瞬のうちに次の瞬間へ飛んだ感覚になるから、俺がやっていることには全く気づかない。結果、撮影が終わるころには役者たちは「いやー、一発撮りだから緊張したよ」なんて笑う一方で、俺は何度も繰り返し止めたり動かしたりをしているからぐったりと疲れ果てているわけだ。それでも撮影映像を見ると「これは明らかに“ただの演技”や“編集”じゃ再現できないだろうな」というほど、微妙な物体の配置や空気感が変わっていて、そのギャップが俺としては最高に面白かった。
作品を完成させたあと、俺は“ある種の実験”として、それをネット上で発表してみることにした。当然ながらコメント欄には「意外に完成度高い」「こんな自然に止まるのはすごい編集技術だな」といった評価もあれば、「いや絶対CGとか加工だろ」と冷静なツッコミもつく。でも、そのどちらも俺にとっては「しめしめ、狙い通り」と思える反応だった。最初から“本物”としては受け入れられないだろうという予想はあったし、むしろ「すごい特殊効果」として話題になれば十分な手応えがある。なによりコメントを読みながら、「自分が本当に時間を止めてるなんて想像もしてないんだろうなぁ」と密かにほくそ笑んでいた。
そこから次第に俺は“時間停止もの”を撮り続けるようになっていった。制作資金を捻出するために、撮影手法を“商業用”にアレンジして提案したりもする。具体的には「編集で繋いだようにしか見えないが、実は役者はリアルに止まっていたんですよ」と、企画書やプレゼン時に“冗談交じり”でほのめかすのだ。まあもちろん、誰も真に受けやしないけど、「この監督は演出のこだわりが強い」という評価になり、それが逆に営業トークとしては効果的に働いているらしい。実際にクライアントから「なんかすごい集中力で一発撮りをさせているらしい」「カットを割ってないのにアングルが妙に変化してるがどうやってるんだろう」といった不思議な噂が広がり、俺の下には「ちょっと不思議な映像を撮ってほしい」という依頼が舞い込むようになった。
もちろん、その全てを受けられるわけではない。実際問題、時間停止の能力を使うには俺の集中力と体力が相当必要だし、一度の撮影にどれほど長時間も止められるわけではない。あまり力を乱用すれば、どういう副作用が起きるか分からない危うさも感じている。それでも、普通に撮ったらちょっとしたVFX(視覚効果)やポストプロダクションが必要なカットも、俺が時間を止めれば“生撮り”でいけるというメリットはでかい。しかも役者たちには「本当に止まってる」とは言えないから、「カメラ外でしっかり指示を出して完璧な静止をしてもらいました」なんて体裁を装っている。現場では「監督、どうしてもピタッと止まるのって難しいですね」「いえいえ大丈夫、大変そうなところはうまく編集しますから」なんてやり取りが行われているが、実際には俺が時間を止めた世界の中でちょこちょこ微調整しているのだから、演者は“少し止まったつもり”なだけでOKなのだ。
こうして撮りためた“時間停止もの”の作品群を時々まとめて観返してみると、まるで俺自身が異能の魔術師になったみたいな気分になる。世の中の大半の人は「時間停止なんてSF。現実にはありえない」と考えている。だから、たとえそれが本当に時間を止めて撮影された映像であったとしても、皆、「よくできた演技」か「巧妙な編集」で片付ける。俺はそれで構わない。むしろ「そういうものだ」と思われたほうが、余計な疑いをかけられずに済むし、俺自身も面倒なことには巻き込まれない。しかし一方で、いつかは「いや、これは何かがおかしい。絶対にリアルだ」と確信してしまう人間が現れるのではないかという予感も、どこかにあるのだ。
その予感を後押しするかのように、最近、俺の作品を見た人の中に「これは本物に見える」と断言する人物が出始めている。ネット上では「これって実は違法薬物とか使って被写体を眠らせてるんじゃ?」「催眠術の一種だろう」といった妙な憶測も飛び交うが、それらを超えるレベルで「このカットの影の位置、物理的におかしくないか?」とか「人の髪の毛が微妙に揺れている瞬間が、どう考えても止めただけじゃ再現できない動き方をしてる」といったマニアックな指摘をする人が出てきた。映像に関する知識が豊富な人ほど、逆に“不可解”な点に気づいてしまうらしい。これをどう受け止めるかは難しいところで、俺の立場からすると「まあそこまでマニアックに観察されても困るな」と思う一方で、「もしかしたら俺の本当の力に気づいてしまったのか?」と少しドキリともする。
ただ、だからといって「作品を公開するのをやめる」なんて考えは今のところない。むしろ「この力を最大限に活かす」方向で、作品のコンセプトをさらに突き詰めていきたいという気持ちが強い。なにせ俺だけに与えられた唯一無二の能力だ。使わない手はない。それに、俺は単に“時間を止められる”って能力が面白いから映像にしているだけではなく、この不思議な現象を通じて「世界の見え方」を問い直したいとも思っているのだ。人間の認識や常識をちょっと覆すような体験を、たとえ疑似的なものだと思われてもいいから作品として提示してみたい。その過程で「実は本当に止めているんじゃないか」なんて思う人がいたら、それはもう観客の自由な解釈だし、それで世界が少しでも豊かに感じられるなら嬉しいじゃないか。
もっと言えば、この“時間停止もの”というジャンル自体、実は昔から根強い人気があるように思う。マンガやアニメ、ドラマ、映画……どのメディアを探しても「時間が止まる」設定は数多く散見されるし、人はそれを観るたびに「もし本当に時間を止められたら何をするだろう」と想像する。だからこそ、多くの人が「本当に時間を止められるわけがない」と一方では知りつつも、“その可能性”にちょっとだけ夢を見てしまうのかもしれない。で、現実に「時間停止もの」は大半が小細工や演出だとわかっていながらも、いざ映像としての完成度が高いと「本当に止まっているようにしか見えない!」と感嘆し、同時に「いや、やっぱりウソだよな」と理性を働かせる。その矛盾をはらんだ感情こそが、このジャンルの魅力かもしれない。
そういう意味で言えば、俺が提供しているのは「本当に時間を止める」映像作品であると同時に、「どうせトリックだろう」という疑いも楽しんでもらうためのエンターテインメントでもある。事実、観客からは「どうやって撮影してるんですか?」と質問されるし、「このシーンは編集で切り張りしたんですよね?」と探りを入れられることもある。そのたびに俺はニヤッと笑って、「企業秘密です」と答える。まさか相手も「実は僕、時間を止められるんですよ」なんてセリフが返ってくるとは思っていないだろう。だからこそ、その“すれ違い”がまた面白いのだ。
さて、「時間停止ものの九割は偽物って言うけど俺はその残りの一割を作ってる」というのが、今の俺の胸を張った主張である。もちろんこれはやや誇張を含んでいる表現だ。実際には“時間停止もの”が100あったとして、そのうちの何本が“本物”であるかなんて誰にも分からないし、他にも俺と同じような能力を秘めている人間がいるかもしれない。でも、現状では俺は「自分だけが本物を作っている」と思い込むことで、この面白い世界を存分に遊んでやろうと決めている。大袈裟に言えば、それが俺の生きる意義のひとつになっているのだ。
いつの日か、もしかするとこの秘密が公になる時が来るかもしれない。誰かに能力を見破られたり、あるいは俺の側が意図的にバラすことだってあるかもしれない。だけどそのときは、そのときだ。今はただ「本物の時間停止もの」を撮り続けることに喜びを感じ、そしてその映像を観た誰かが「おいおい、また嘘くさいけど面白いぞ」と言ってくれることが、俺の創作意欲を支えている。例え“嘘くさい”と思われたとしても、真偽の境界線が揺らぐ瞬間を作り出せるのなら、それはまさに映像表現の醍醐味だろう。
そういうわけで、俺はこれからも「時間停止ものの九割は偽物って言うけど、俺はその残りの一割を作ってる」と胸を張って言い続けるつもりだ。世間がどう思おうと、ネットがどう騒ごうと、俺自身が“本物”であると信じている。それは単に俺に特異な能力が備わっているからというだけではない。俺自身がこの“時間停止”という概念に誰よりも魅了され、“嘘か本当か”を超えたところで映像を創り出すことに情熱を注いでいるからだ。疑う人は疑えばいい。信じる人は信じればいい。このグレーゾーンのどこかで、俺の映像がほんの少しでも視聴者の心をくすぐり、世界の見え方を変えてくれるなら、それで十分。そう思いながら、今日もまた俺はカメラを抱えて撮影現場に向かうのである。誰にも気づかれないように、ほんの数秒だけ世界を止めながら。
休みだからなんか勉強みたいなことしたり家事を片付けたり、そういうことをしたいのにさっぱりやる気が出ない。
今強くやりたいと思えるのはオナニーぐらいだ。というか最近は、オナニーと飲酒ぐらいしか欲求がない。どうなってんだと思う。「銀と金」でなんも刺激がない檻に入れられて自慰行為だけが生きる意味になってる人が出てきたが、そういう感じか?
妻子ある身では欲望のままに過ごすわけにもいかず、家族が家の中で元気に活動してる時間はシコれないし、今日が実際そうだが車を出す予定があったら呑むことはできない。早く呑みたい、早く抜きたいと考えて昼まで過ごしている。
ところで、世の中の人々がみんなそうではないことは承知しているが、俺にとっては、オナニーはかなりの部分がセックスの代替行為である。というより、セックスのうち、チンチン快感の部分だけを取り出した感じのものとしてシコっている。なんの話かといえば、俺はセックスがしたい、本当は。
しかし皆様御存知、俺の妻はまるでセックスが好きではない。かつてセックスを楽しんでくれていた時期もあったとは思うが、ここ3年ほどは全然やる気がないし、ここ1年ほどはもう時間の無駄だから絶対やりたくないという空気感だ。悲しい。
こういう話をすると外に男がいるんだよ的な勘繰りをされがちだが、もはやそのほうがマシだとすら思っている。どんな形であれ彼女が性行為を楽しんでいるならば、自分もおコボレに与れようと思えるからだ。しかしどうも、そうではないらしい。
妻でなくてもいい、とにかくセックスだと、而して性風俗サービスぢゃと、経済的に厳しくとも夜の巷に繰り出すこともある。実際セックスができるとかなり気分が安定する。何をやっとんだ俺はという気分にもなるが、ある程度前向きにもなれる。次の日はまあシコるぐらいはするかとはなれど、それほど狂おしい気分になることはない。
思ってみれば己の今までの日々というものは、性欲によって駆動してきたと言える。学生の頃はとにかくヤリたいのでシコる合間に色々やってとにかく彼女をアレしてそれから毎日毎日やっていた。理系の学位もセンセイの温情でなんとかしてもらったようなものだ。もちろん性欲がなかったところで俺の賢くもない頭と怠惰な体ではどうせそんなもんだったかもしれないのだが。性風俗サービスに払った金も家が建つほどではなかろうが、まあ新車ぐらいにはなったであろう。諸先輩方の中には車一台たあ小せぇ小せぇと思われる向きもあろうけれども、おれ基本的に風俗そんなに好きじゃねえんですよ、馴染みの子ができた時は良かったけど、それって要は会うのにやたら金のかかる彼女もどきみたいなものじゃないですか?結局イチャつきたいんすよね。奉仕は求めてねえの
それでなんだっけ。まあとにかく妻とセックスが致したいと、リモート勤務中にシコるのはもうよせと、僕ってどうしたらいいですかと、こういう相談です。よろしくお願いします。