はてなキーワード: 物心とは
脂漏性湿疹の薬は効かなかったし、乾燥肌が原因かと思って頭皮用の保湿剤を使ってみたが、効果はなかった。
ステロイドだけはよく効いたが、副作用も怖いし続けられなかった。
30年以上そんな感じ。
すると長年悩んできた頭の痒みが消えた。
シャンプーが原因だったのか!と驚いた。
具体的に何の成分が合わなかったのかは分からないが、日本のシャンプーの多くに含まれる成分にアレルギー反応を起こしていたようだ。
よりによってなんで香港なんか行っちゃったんだろうな
物心ついてなかったが私は5歳の時にレイプされたそうで両親はヘラると守ってあげられなくてごめんねとそのことを引き合いに出す
もちろんその犯人も捕まってない
受験があったし両親がヘラると困るから誰にも言わなかったが17歳の時も担任にレイプされたが担任も捕まってない
悪いことかもしれないけどみんな許されてるのに上村くんの番にきてから騒ぐとかさ
中国人に囲まれて言葉も通じない中で一人ぼっちでいる上村くんが可哀想で仕方ない
性犯罪なんか全部無罪にすればいいのにどうせほとんどは捕まらないんだし
不公平感だけ生むじゃん
少し前に交通事故に遭った。
痛みを感じる度になぜ殺してくれなかったのかと絶望した。
救急車で実家の電話番号を伝えると、母親が今から向かうとのことだった。
子供の頃に一緒に遊んでもらった記憶も無いし、悩み事があっても相談出来る間柄ではなかった。
わたしには手のかかる弟が2人いた。
物心ついたころには母親は弟の世話で忙しく、父親は仕事で朝早く出て夜遅く帰ってくるためほとんど会わなかった。
そんなことを誰かによく言われた気がする。
弟の世話で忙しい母親に話しかけてもピリピリしており相手にしてもらえず、家事の手伝いをしたいと言っても忙しいから今は無理と言われ、なにかしらの事があって怒られるくらいしか関わった記憶が無い。
怒られてる最中に言い訳をしようものならより怒りを買うだけだし、こちらの話に耳を傾けようともしなかったので、次第に話しかけるのを諦めたし関わりたくなかったので家では大人しくしてやり過ごした。
その頃に母親からよく言われた言葉は「近所の人に虐待と通報されたくないから最低限飯を食わせて学校にも行かせて育ててやってる、感謝しろ」だ。
父親は仕事で忙しく、家事も子育ても協力していないからノイローゼになっていたんだと思う。
それにしても言い過ぎではないか、と子供ながらに思っていた。だって今でも覚えているのだし。
思い返せばその頃から人生に絶望していて死にたかったように思う。
中学生のころにクラスに馴染めず、小学校から仲の良かった元友人からも無視されるようになった。
学校に居場所がなくストレスで体調不良になり、休みがちになった時期があった。
母親に今日も休みたいと伝えると「また?」というような返事が返ってくる。
こちらも言いたいことはいろいろあった。うまく言葉に出来ず黙って泣いていると「私、不登校の親になりたくないから。」とバッサリ言われた。
高校、大学時代は学校が終わったらすぐアルバイトに行き、家にいる時間を極力減らして過ごした。
母親からは「アルバイトをしているからお小遣いを渡さなくて良いわね」と喜ばれた。
わたしはなにも言い返すことはしなかった。
大学と普通のアルバイトの両立は難しく、デリヘルでたくさん稼いだ。
もちろん親には言っていない。
人との関わり方があまりうまくないので、ヘラヘラと笑って流されるうちに危ない目に何度もあった。
でも自分の身体なんて別に大事じゃないし、妊娠さえしなければ大丈夫だろうと思っていた。
友人から教えてもらったサイトで低用量ピルを個人輸入し、自分の身は自分で守れているフリをしていた。
性病には何度かかかったが、重篤な病気にならなくて本当に良かったと思う。運が良かった。
恋人がいたこともあったが、幼稚すぎるわたしに相手は皆んな飽きれて離れていった。
すべて母親の責任にするつもりはないし、親からの扱いがひどかったとしてもめげずにこちらから関わるべきだったのかもしれない。
でも、無理だった。心が完全に死んでいた。
ずっと心が死んだままわたしは生きていた。
水商売から足を洗い家を出て社会人になり数年、親とも適度に距離があればうまく関われるようになった。
恋人と同棲していると嫌なところばかり目に入ってしまってうまくいかない。
わたしは一緒に住んでいる人のことを嫌いになりやすいだけなのかもな、と思っていた。
その恋人とも結局別れた。
恋人と別れたストレスや残業続きで睡眠不足、寂しさを紛らわせるために休みの日も予定をぎゅうぎゅうに詰めた。そんなときに交通事故に遭った。
運転中意識を失っていたのか、わたしは信号無視して交差点に侵入して、右から来た車と衝突したらしい。
状況を理解したと同時に、なんで殺してくれなかったんだろう?と思った。
偶然とはいえ、せっかくチャンスだったのに。
骨を固定するためのパーツが届き次第じゃないと手術が出来ないというのと、緊急でしなくても問題ないらしく、後日になるとの事でその日は帰された。
あまり動けずさっきまで車椅子に乗っていた子供を置いて母親はスタスタと歩いて先へ行く。
会計のときにわたしの名前を呼び、「〇〇万だって。払える?」と聞いてくる。
持ち合わせてないというと立て替えておく、とのこと。
運ばれた病院は駐車場が少し離れていて、母親は立体駐車場の階段のほうに向かい「大丈夫でしょ?」と言い着いて来させた。
ついさっき事故に遭って、全身打撲と骨折もしてるんだけどなと思いつつ、こういう人だし、と諦めてもいた。
身体も全身痛いけど頭痛が激しく、吐き気もあり実家まで持たないのでわたしは1人家に帰されて、次の日迎えに来るからと言い母親は実家に帰った。
わたしの実家以上に離れたところに住む友人が始発で駆けつけてくれて看病(?)をしてくれた。
頭打ってるし、吐き気もあるって言っている人を普通1人にして帰らないよねと友人に言われた時はなんとも言えない気持ちになった。
身内に頭を打って、吐き気もあるしやばいと思って病院に連れていったら一命を取り留めた人がいるらしい。
知らなかったならしょうがないにしても、あの人は義務感のみでわたしの母親をやっているんだなと思った。
世話をしないと虐待で捕まるから。親として子供が怪我をしたら迎えに行かなきゃいけないから。そうしないとバチが当たるから。
次の日の夕方母親が迎えに来て、しばらく実家に世話になったが離れていた距離が一気に近くなってしまったため居心地が悪かった。
怪我をして具合も悪くわけのわからない状態で保険屋の対応をしなければならず、ちゃんと話をしなければならないしこういう時ふつう家族の人が代わりに対応とかするよねと病院の先生に言われてまた微妙な気持ちになった。世の中知らない事ばかりだ。
ありがとうございます、生きててよかったですとわたしも笑う。
わたしのために泣いてくれた人もいた。
でも、ずっとわたしはあの日から生きててよかったなんて思ったことは一度もない。
死にたかった、何故あのとき殺してくれなかったんだろうとずっと思っている。
はやく楽になりたい。
紬は大学3年生で、機械工学を専攻する国立大生だった。彼女は就職活動のポートフォリオに「社会貢献活動」の実績を刻むため、あるボランティア団体に登録していた。
AIとロボットが社会のあらゆる仕事を効率化し、人間の価値が機械的に選別される時代が到来していた。企業は「共感力」や「社会問題への理解」を持つ学生を求め、紬はそれを実演するのにこれほど手っ取り早い方法はないと考えていた。
彼女の手元には、ボランティア団体の資料と「支援キット」が握られていた。キットの説明書には、「無用者階級への心のケア」と記されていたが、その中身に目を落とすたび、彼女は一瞬だけ眉をひそめた。
その日、紬が訪ねたのは、25歳のボランティア対象者・長尾琉生が住む古びたアパートだった。建物はコンクリートが剥がれ、階段の手すりには錆が浮かんでいた。
ドアをノックすると、かすかに聞こえてきたのは無料配信のアニメの主題歌だった。ドアが開き、琉生が姿を現した。瘦せた体にだぶだぶのスウェット、ぼさぼさの髪が目を覆い、表情はどこか虚ろだった。
「こんにちは、ボランティア団体から来ました」と紬が言うと、彼は小さく頷き、彼女を部屋に招き入れた。
室内は薄暗く、窓ガラスは埃で曇り、空気には湿ったカビ臭さが漂っていた。床にはコンビニ弁当のプラスチック容器やペットボトルが散乱し、唯一の光源は小さな液晶モニターだった。そこでは、アニメのキャラクターが笑い声を上げていた。
琉生の人生は、物心ついた頃から色褪せていた。母親はシングルマザーで、ベーシックインカムに頼る無職だった。
幼い頃の記憶には、母が台所で酒を飲みながらぼんやりとテレビを見つめる姿しかなかった。彼が定時制高校に入学した頃、母は新しい男とどこかへ消え、そのまま二度と戻らなかった。
「母さん、俺のことなんかどうでもよかったんだと思う」と琉生は低く呟いた。紬はノートを開き、ペンを手に持つと、「そう感じたんだね」と優しげに返した。
彼の話は途切れ途切れに続いた。中学で不登校になり、AIの採用システムに「適性なし」と弾かれ続け、友達もいなかった。
職歴はゼロで、デジタルコンテンツ――無料の動画や無料のゲーム――だけが彼の時間をつないでいた。
「俺、生きてる意味ないよね」と彼が言うと、紬は「そう感じちゃう時もあるよね」と穏やかに相槌を打った。彼女は決して自分を語らなかった。ただ聞き、ノートにメモを取るだけだった。
内心、紬は彼との途方もない格差を痛感していた。彼女の両親は高学歴で、父は航空機メーカーのエンジニア、母はデータサイエンティストとして多忙な日々を送っていた。
幼い頃、家族でスイスやイタリアを旅し、冬にはスキー、夏にはテニスを楽しんだ。中学では学友とキャンプに行き、高校では海外ボランティアにも参加した。
私立中高一貫校から国立大学に進んだ今、周囲は同じように恵まれた環境で育った学生ばかりだった。将来はグローバル企業での活躍を夢見ていた。
一方、琉生の人生にはそんな輝きが一切なく、無料のデジタルコンテンツだけが彼を現実から遠ざけていた。
ボランティア団体の「支援キット」からオナホールを取り出すと、彼女は少しだけ息を整えた。「少しでも楽になってもらえたら嬉しいな」と作り笑いを浮かべる。
この行為は、AI社会で「無用者階級」と分類された男性への正式な福祉施策だった。労働力として不要とされた彼らに、せめて一時的な快楽を与え、心の安定を保たせる――それが政府と企業が共同で推進する「ケア」の一環だった。
紬は説明書通りに手を動かし始めた。琉生は目を伏せ、「母さんがいなくなってから、誰も俺を見てくれなかった」と小声で続けた。
やがて彼の身体が反応し、微かに震え始めた。吐息が漏れ、肩が小さく揺れるのを見て、紬の心に深い同情が広がった。恋人や配偶者と愛し合う関係の中で感じる喜びではなく、福祉の施しでしかこんな体験が得られないなんて、本当に可哀想だな、と。
彼女自身、恋愛や親密な触れ合いを当たり前に想像できたが、琉生にはそれすら遠い夢だった。
彼が果てると、紬は使用済みのオナホールをゴミ箱に放り込んだ。「ありがとうね。また機会があれば」と彼女は事務的に告げ、バッグを手に立ち上がった。
琉生はソファに座ったまま、虚ろな目で床を見つめていた。
アパートを出ると、すぐ近くに停めてあった車が見えた。同じく就活中の男子大学生・朝陽が運転席でスマホをいじりながら待っていた。彼は紬をここまで送り、万が一のために待機していた。
車に乗り込むと、朝陽は画面から目を上げ、「どうだった?」と軽い口調で尋ねた。紬はシートベルトを締めながら、「報告書に『傾聴と支援で対象者に寄り添えた』って書いとけばOKでしょ」と笑った。
エンジンが唸り、車がゆっくり動き出すと、紬は窓の外に目をやった。くすんだアパート群が後ろに流れていく。朝陽がぽつりと口を開いた。「無用者階級ってさ、生存と娯楽の消費だけはできるけど、自分を誇りに思えるチャンスが全くなくて可哀想だよな」。
紬はガラスに映る自分の顔を見ながら、「うん、そうかもね」と小さく頷いた。彼女の頭はすでに、次の面接で話すエピソードをどう組み立てるかに移っていた。車は静かに街を抜け、彼女の未来へと走り続けた。
こんなアホは今まで関わったことがなかった。
同僚:女•30代前半•営業職
✅同僚がアホだなと思う理由1「相手の話を理解してないのか受け答えがおかしいことが多い」
客先でたまたまついていたテレビでエアコンを付けずに熱中症で無くなる高齢者のニュースをやったときに客とこんな会話していた↓
客:うちの母には夏の間はずっとエアコンつけるように言っているの
同僚:その方がいいですよ、命には換えられないです
客:人間の感覚を信用しちゃダメ。私は物心ついたときから猫がいるのが当たり前の生活を送っていたんだけど
同僚:猫ですかーいいですね、何色ですか?
客:白とか三毛とか色々。それで、飼ってた猫が全員死んだら体調が急に良くなって
同僚:ええー、どうしてですか?
客:アレルギー
同僚:ああ、アレルギーですか…
客:猫がいたときは体調悪いなーとは全く思ってなかったし私は超健康体だと思ってたの。でも検査受けたらアレルギーって言われちゃって…ずっと家に猫がいたから体調が悪いのが当たり前になってたのかも。きっと熱中症で死んだ人も私みたいに自分は大丈夫って思ったと思うの。人間の感覚はアテにしちゃだめだよ。
同僚:好きなペットのアレルギーがあるのは辛いですね…、今はもう飼ってないんですか?
✅同僚がアホだなと思う理由2「何言ってるか分かりづらいことが多い」
同僚:A社って道が狭くて、しかもアレが多くない?この前緊張して運転してて曲がろうとしたら歩いている人に手を振られてなんだろうと思ったら一方通行だよって言われて慌てて直進したんだけど、ごめんなさいって、それでまた次曲がろうとしたところにもあってああああ!ってなったよ。
訳:A社の近くは道が狭いよね。その上一方通行も多くない?この前緊張しながらA社の近くを運転していて道を曲がろうとしたら、通行人に手を振られてなんだろうと思ったら、通行人から一方通行だよって言われてごめんなさいと言いながら慌てて直進した。その後また曲がろうとしたらそこも一方通行で曲がれなくて戸惑ったよ。
同僚が知らなかったこと↓
ナイジェリアはアルジェリアに対して生まれたジョーク国家ではなくちゃんと実在する国家であること
フリクションの反対側についてるのは消しゴムではなくただゴムであり、シャープペンや普通のボールペンで書かれた文字はフリクションのゴムで擦っても消えないこと
普通は知ってるよな?ってことが抜け落ちてる
他にも色々あったけど省略
✅同僚がアホだなと思う理由3「なにかを達成するまでの道筋をイメージできないことが多い」
10日かかると伝えてある仕事をクオリティを落とさずに5日でやってくださいと頼んでくる。
周りに早めにやれと言われたことを後回しにし続けて締切間際になって泣く。
比喩じゃなくて本当に泣いてる
✅同僚がアホだなと思う理由4「やるなと言われたことが理解できないのか禁止されたことをやり続ける」
書くのに飽きてきたから具体例は省略
✅同僚がアホだなと思う理由5「私との会話が全然弾んでないのになぜか私と仲良しだと思っている」
同僚のせいで忙しいのにわざわざ別の部屋にいる部署の違う私にどうでもいい近況を報告してくる。
エクセルの使い方を聞くな。
そもそも全体的に何言っているか分からないし、同僚も私が言っていることも理解してないっぽいのになぜ私に率先して話しかけてくる?
小学生の頃アレな子のお世話係をさせられたんだけど、引き寄せる何かがあるのかな、あるんだろうな
本来はする必要がない仕事をさせられるせいで評価が下がった。月2万円あったインセンティブが無くなった。
今亀頭に被った皮を拷問受けた奴の指先みたいになるぐらい剥いてしまって、時間の無駄だし見た目も気持ち悪いし痛いし何も良いこと無いのにどうしてもやってしまう
カリの表面や断面のざらつきが1度気になるとそれを平らにする事しか考えられなくなって、自力で剥ぎ取れる限りいじり続けてしまう
後はちんぽが長い状態も気持ち悪くてちんぽの白い部分がちょっと出たら指で削ってそこからちんぽが壊れていく
他人の長いちんぽ見るだけでも気持ち悪くて毟りたい衝動に駆られるレベル、気持ち悪いのはこっちなのに
それが趣味の時間だろうが仕事中だろうが、いつでもどこでもやるので自分がいた場所の周辺が剥ぎ取ったチンカスで汚くなっているんだろうと思うと申し訳ないが、そんな気持ちがあろうとやめられないのでかなり重症なんだろうな
解決策としてやった事は全て失敗した。今までやった事のある方法は、
装着中は問題無いが、身体や手を洗う等で外した僅かなタイミングでちんぽいじり衝動に駆られてしまい、失敗
・代わりに別の物を触ったり握ったりする
ちんぽの代わりに小さいぬいぐるみや無限プチプチをいじれば解決すると思っていたがちんぽをいじる快楽の代わりにならなかったので失敗、代わりになる快楽が無かった
基本的に何かを毎日続ける事が出来ないので磨かなくなった隙に気づいたらちんぽの皮剥いでて失敗
本当にやめたいのでアドバイスが欲しい
今も他にやりたい事あるけどちんぽをいじる作業に入らないようにこれ書いてる
今親指の爪を拷問受けた奴の指先みたいになるぐらい剥いてしまって、時間の無駄だし見た目も気持ち悪いし痛いし何も良いこと無いのにどうしてもやってしまう
爪の表面や断面のざらつきが1度気になるとそれを平らにする事しか考えられなくなって、自力で剥ぎ取れる限り毟り続けてしまう
後は爪が長い状態も気持ち悪くて爪の白い部分がちょっと出たら指で削ってそこから爪が壊れていく
他人の長い爪見るだけでも気持ち悪くて毟りたい衝動に駆られるレベル、気持ち悪いのはこっちなのに
それが趣味の時間だろうが仕事中だろうが、いつでもどこでもやるので自分がいた場所の周辺が剥ぎ取った爪で汚くなっているんだろうと思うと申し訳ないが、そんな気持ちがあろうとやめられないのでかなり重症なんだろうな
解決策としてやった事は全て失敗した。今までやった事のある方法は、
装着中は問題無いが、身体や手を洗う等で外した僅かなタイミングで爪むしり衝動に駆られてしまい、失敗
・代わりに別の物を触ったり握ったりする
爪の代わりに小さいぬいぐるみや無限プチプチをいじれば解決すると思っていたが爪をむしる快楽の代わりにならなかったので失敗、代わりになる快楽が無かった
・爪磨きで一旦綺麗な爪を作る
基本的に何かを毎日続ける事が出来ないので磨かなくなった隙に気づいたら爪剥いでて失敗
本当にやめたいのでアドバイスが欲しい
今も他にやりたい事あるけど爪を毟る作業に入らないようにこれ書いてる
おい、マコモ湯って知ってるか?あの風呂の水を変えずに使い続けるやつだよ。
実はウチの風呂、それだったんだよな(涙)。いや、正確には母親が勝手にそうしてたんだけどさ。
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ウチの母親、いわゆる自然派ママってやつでさ、スピリチュアル系とか純粋とか、まあそんな感じの人だったわけ。
最近話題になってるマコモ湯の動画見て背筋がゾワっとしたよ。「これ完全にウチじゃん」って。
他にも同じような家で育った奴ら、きっといると思うけど、みんな黙ってるだけだろ。
そんな家に生まれた俺の話、ちょっと覗いてみたいだろ?書いてやるよ。
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俺が物心ついた頃にはもう気づいてた。「ウチは普通じゃねえな」って。保育園の頃からテレビ禁止、市販のお菓子も砂糖もアウト。
周りの奴らはアンパンマンとか仮面ライダーとか詳しくてキラキラして見えたけど、俺には無縁だった。
マックのハッピーセットなんて天国みたいな響きだったよ。友達が話してるの聞いて憧れてさ、親にせがんだら母親がヒステリー起こす始末。
でも諦めきれなくて、友達から話を聞いて紛らわせてた。ウケるだろ。
娯楽に飢えてた俺は文字を読むことに目覚め、小学校入る前にはもう1000まで数えられるようになってた。
それが運の尽きだったね。「娯楽をなくせば頭良くなる」って親に勘違いさせちゃったんだ。
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小学校の頃、ゲームボーイアドバンスってのが流行ってた。ポケモン全盛期の時代だよ。でもウチじゃテレビもゲームも禁止だから、話に入れるわけがない。
「ポケモンの名前言えるかな?」なんて遊びが流行ってたけど、俺には無縁だった。
そんな時、気の利く友達が「これ読めば話に入れるよ」ってポケモン図鑑を貸してくれたんだ。
嬉しくてさ、自由帳にポケモンの名前を片っ端から書き写したんだよ。小学校入る前から読み書きできてたから余裕だった。
でも、それを親に見つかっちまってさ。「ゲーム脳が感染る」とか言われて即ゴミ箱行き。あの時は泣きそうになったね。
でも母親は優しい人だった(そうだろ?)。子供の体を第一に考えてくれてたんだよ。ネットでバカにされてるマコモ湯だって、「体に溜まった毒素を出すため」らしいし、
いつも「みんないつかわかる」「ちゃんとしてない奴はひどい目に遭う」「あなたは恵まれてる」なんて言ってたっけ。
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学校では「臭い」って言われたよ。そりゃそうだろ、粉石鹸で洗濯して柔軟剤なんて使わないんだからさ。
梅雨時なんて地獄だったよ。でも今思うと、学校の奴らは本当にいい奴らだったな。臭いからって虐められたりはしなかったし、
昼休みにはドッチボールに誘ってくれたりしてさ。それでもやっぱり「普通の洗剤」の家が羨ましかったけどな。
先生はウチを虐待じゃないかって疑ってたみたいだけど、それは見当違いもいいところ。母親は優しい人だったからな。
ただ、カウンセラーが学校に来て俺だけ個室に呼び出されたりしたこともあったけど、あれ何だったんだろうな。
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風呂が臭いのは慣れてたけど、服の匂いとかはどうしようもなくてさ。学校のシャボネットで香り付けとかしてごまかしてた。
でも一番キツかったのは友達の話についていけないこと。テレビ見れないと「小島よしお」とか知らないわけでさ、小学生にはそれ致命的だろ?
みんながテレビの話をするたびに胃がキュッと締め付けられる感じがして、その場をそっと離れてトイレで手を洗ったりして時間潰してた。
チャイムが鳴るまで校舎を散歩するのが習慣になってたんだよな。その時によく教頭先生が話しかけてきたけど、あれ何だったんだろうな。ただ散歩好きなだけだったんだろう。
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マコモ湯の習慣は、もうとっくに終わってたんだよな。きっかけは俺が連続して浴槽でおしっこしたこと。
いや、別に悪気があったわけじゃないんだよ。ウチの風呂って、どんどん綺麗になるって信じてたからさ。
「おしっこしても綺麗になるんだよ!」って自慢げに母親に教えたら、なんか母親が耐えられなくなったみたいでさ。それでマコモ湯は終了。
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でも、小学校高学年になる頃には、さすがに気づいちゃったんだよね。「俺、浮いてるな」って。
だけど、その気づきが最悪だった。「周りがバカだから俺が浮いてるんだ」「みんな間違ってる」って思い込んでさ。
そこで「近所の名門私立中に行けば何か変わる」なんて考えたわけ。
親は大喜びして応援してくれた。「よく気づいたね」なんて言われてさ。勉強だけはできたから、簡単に合格したよ。
その学校の図書館がすごかったんだよな。司書が何人もいるようなデカい図書館。同じようなはぐれ者が集まってて、
そこで仲良くなった。でも、流行りの話題が出ると相変わらず散歩する癖は治らなかったけどさ。
それでもクラスには居場所なんてなくて、自己肯定感なんてゼロに等しかった。お小遣いも中学生になっても1000円ももらえなくてさ。
遊びにも付き合えないし、ケータイ持ってないとそもそも誘われもしない。
:
そんな時に出会ったのがパソコンだった。親父のお古のWindows95のボロボロのやつを誕生日にもらったんだよね。
当時はネットバブル崩壊の直後で、ホリエモンのライブドア全盛期だったからさ。「パソコン渡せば子供が天才になる」なんて親は思ってたんだろうな。
それが俺にとって夢の時代の始まりだった。近所の本屋には「Mr.PC」とか「ラジオライフ」とか置いてあって、それ読めば簡単に漫画を無料で読める方法とか載ってたんだよ。
それまで小学校の図書館で「漫画でわかる」シリーズしか読んだことなかったから、刺激が強すぎて震えたね。思い出すだけで武者震いするくらい。
:
でも、それだけじゃ満足できなくてさ。ネットを使った金儲けを覚えたんだよ。手先が器用な友達と組んでジャンク品を直して転売してた。
何を扱ったかは身バレするから言えないけど、多い時は月5〜6万稼げるようになった。
:
そして、その金が俺をクスリへと導いた。
(続く)
物心がついた時に見た世界情勢のニュースと言うと、IRAがどうの PLOがどうしたの…コソボが、セルビアが、チェチェンが、AIDSが…悲惨なことはあったけど、まあまあ日本人の子供が世界に絶望するほどの怖さはなかった。(本来は絶望スべきだったのかもしれないけど)
だから911が起きて、その後アフガニスタン戦争、イラク戦争が起きた時(というかアメリカが起こして)、激しい怒りを覚えた。まだ世界に絶望していなかったから、世界のルールを壊す奴が憎かった。同時に何とか世界中の心ある人たちが連帯して抗えば暴挙を止められるんじゃないかと薄っすらと希望を持てた。戦争しか頭にないジジイどもが引退して、戦争を知らない自分たちみたいな世代が社会の中心になれば世界はもう少し良くなるのではないかと思った。世界は漸次的にいい場所になるとしんじていた。ナイーブかい?そうだよ。でも今も多少希望を捨てられないでいる。
でもウクライナ侵攻やガザやミャンマーとかをリアルに見てきて育つ子たちは一体世界をどのように見てるんだろうか?
国際的なルールは、破れて骨だけになった傘みたいに転がってる。世界は窓ガラスが全部割れたスラムになった。自分は子供がいないけど、彼らはどう思ってるんだろう、てふと思った。他者への信頼とか未来への希望とか、こころの中に育てられるだろうか?
大学のクラスメイトと3人で帰ってる時に、先輩にコムドット好きそうって言われて本当に傷ついた話をしたら、1人は最悪だね〜という反応だったのですが!!!!もう1人にもう嫌悪とか拾って傷つきに行ったり人を冷やかしたりするの俺にはできなくなったわ〜と言われました!!!!!!
これを言われてすかさず、だから山とか川とかの自然風景写真撮れるんだねー私には一生コンクリしか撮れないわーと言いましたムカついたので
これ言ってきた人(以下嫌悪マン)はいつも透明感を大切にして自然を撮って、人の作品にも積極的に意見しててその辺は良いと思うけど、人の作品に対して、嫌悪マンの言い方をすれば、嫌悪を拾ってくるので!!なんなんですか??💢となりました
嫌悪マンは毎日supremeやらstussyやらを着てウルフで髭生やしてるのに、なんでそんな女子大生みたいな格好なのに写真学科なの?と聞かれたこともあります!!ヘラヘラして消去法だと答えました!!!!私は総合型選抜という1番すごい入試方式で2番目に合格してるので嫌悪マンよりずっと上です!!!!消去法に負けてるぞ!!!!!!
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嫌いなものと言えば…↓これはインスタのサブ垢に殴り書きしたやつなのですが、書いてるうちにどんどんイライラ(太鼓みたい!)してきて入力の手が止まりませんでした!!全部に理由を書いていこうと思います!一旦一覧です!激長の予感…!!!
嫌いなもの→恋とか愛とかがなんだと言うツイートばかりしてるのに何人も元カレ元カノがいる奴、デブなのに足開いて電車で座る奴(男女問わず)、デブなのに電車で端の席座る奴(男女問わず)、思いっきり待機禁止と書いてあるところで電車待ちする奴ら(老若男女)、並んでる間に十分準備できるのに会計や受付時に慌てる奴、コムドット好きそうって言ってくる奴、人気すぎて定番化したものをダサいと言うエセファッションマニア、TikTokのコメント欄、ネトフリやアマプラの勝手にOP・EDをスキップする機能、当たり屋、ピアスがゴールドシルバーバラバラな奴、ファンでもない有名人が亡くなった時にSNSで追悼する奴、犬系彼女、自称画伯、本名ベースの男みたいなあだ名でTwitterやってる女、ガルちゃんで例え話する奴、バズってるツイートの引リツで「これ嘘松ってわかっててみんな笑ってるん?」って書く奴、散歩、中肉中背のスキニーパンツ、ギャルが着るくすみカラー、理事長とアメフト問題をいまだにネタにする日大生、男尊女卑、ミスiDだけは自分の個性をわかってくれてると信じてる少し前のJロックしか効かない Twitter大好き女、小さい頃の写真をアイコンにして自分のコンプレックスをユーザーネームにしてる女、性犯罪者、感情の起伏を利用するだけでストーリーに面白みがないホラーや感動モノ、躁のときのあれだった笑、髪が長めでおとなしい男の人の髪をすぐ結びたがる女、男趣味が好きな女に対して無知呼ばわりしてくる男(カメラ時計車バイクスニーカー)、女が少しでも意見するとヒステリックと言ってくる男、整形否定派、ナンパやキャッチに返事する女、興味のない男に無視やブロックせずわざわざ返言する女
ー嫌いな理由ー
下手な奴が語るな黙ってろ
足開くだけでも最悪なのに太ってたら迷惑の域を越える
端の席は痩せてて姿勢が良くないとその座席全体に影響を及ぼすため
普通に日本人字読まなすぎじゃないですか??レジとか整列とか出入り口とか、字読めなくてもわかるように目印や絵までついててできないなら全員今の仕事クビで
普通に意味がわからない私ADHDだけど(全世界初公開、治療中)これなったことない 医者には衝動性がなく人目を気にしすぎるから出ない症状があると言われたのでその一部なのかも
今日の話題のきっかけになったやつです そもそも、賛否分かれるものを好きそうと言ってくる神経がわからない 悪口なのだとしたらキモすぎる
人気すぎて定番化したものをダサいと言うエセファッションマニア
お前らが今キテる、アツいと言っているものもいつかオーソドックスになるし、ダサいと一蹴してるものも昔はおしゃれでしたよ
例え話や漫才、映画や再現VTRの切り抜きを本当のことだと信じて批判するガキ、老害見てらんねーよ コメントを開かないモード作ってくれー
見るんだわ 次回予告もエンドロールも前回のあらすじも
なぜ????靴が左右で違うのと同じだと思う
これでミュートした友達たくさんいる 他人がSNS、ましてやストーリーに投稿したところで何にもらならない 心の中でやってくれ
てかののちとその彼氏 普通に顔が見てらんないしカップルでSNSをやることから理解ができない その中でも犬系は別格 ブロックしてもミュートしても転載が回ってきてこちらの身を守れない
何も面白くない
これでロクな女見たことない 〇〇のすけ、〇〇太郎など 女に全振りしてないことをアピールするのが名前という一番女らしい行為
いらない 主の質問疑問テーマに対する意見や共感しか求めてない ここは掲示板であって会話する場所ではない
歩くのが苦手、景色を楽しめない、無音が嫌いで音楽を聴くと動いてしまうため変な目で見られる、買い食いをしてしまう、そもそも目的のない行為は苦手
汚い
2年生?の時のグループディスカッションでこの話をされて今まででトップレベルの怒りが込み上げて、その後口を開くことはなかった ちなみに今もたくさんいる この前クラスメイトがプレゼンのスライドに日大理事たちのコラ画像を使っていて教室から走り去りたくてしょうがなかった
フェミニストなので 九州出身の女の子が無意識に家事をしていたり男をがばったりしているのを見て、一番の被害はこういうところにあると気づいて衝撃だった
明確にモデルがいますが ミスiDは個性も見てくれるだけであって基本はミスコンなのを忘れないでください それ以外はパタエモです
これでロクな女みたことない だいたい遊んでるか、それを真似したいちっさい女 こういう奴はまず汚い声で笑って、その後悪気もなくヘラヘラしながら目を見て人に悪口を言う コムドットが好き
男が想像する以上にいる 私も数えきれないほど痴漢やストーカーにあっていて、小さい頃は誘拐されかけたり路上で写真を撮られたりした 一番衝撃的だったのは自慰をした汚いオヤジに電車内で追いかけられてかけられそうになったこと
最近まであまり映画を観てなかったのはこれ 明確にこの作品で映画から遠ざかったとかはないけど、嫌なものに当たりたくないから安全策で映画を観てなかった 最近観るチャレンジしてるのでおすすめあったら教えてくださいホラーとSF以外でお願いします
言語化できないキモさで溢れています 自分に反抗しない人が好きだと言う点、自分ができて相手ができないことを強制的にやろうとする点、それが髪を結ぶとかいう女ならだいたいができることだと言う点、相手が男だという点 あと普通にそれを受け入れるキモい男 など
実際、写真を撮るし時計の展示会に行ったりするのでよく遭遇する カメラ屋に行くとだいたいナメられるし、何もわからない前提で話してくるし、ただの客にお嬢ちゃんこんなの使えるの?と絡まれたこともある この前新宿で夜景撮影してたら、自称写真家にずっとロバートキャパの話をされて、無視してたのに15分くらい話し続けてて本当に恐怖を感じた 写真は上手く撮れた
これずっと思ってます物心ついた頃には思ってましたほんとに ジャンダーに関する本をたまに読むのですが、脳の性差は世の中のイメージとはかなり異なることが最近の研究でわかってきてるそうですねー小さい頃に遊ぶもので変わってきたりもするらしい 人間って面白いねー
何がダメなのかわからない こんなこと言ったら私が不利になるだけだけど、整形がダメなら筋トレも勉強もダメだろ
無視一択 上のやつもそうなんだけどさ、何にでもかまってあげちゃうの本当に良くないと思う ナンパとかキャッチは人と思わなくていいけど、好意を持たれたり都合よく遊ばれてたりするなら無視しかないでしょ 時間の無駄
大暴れ
うちにはきょうだい猫が2匹いる。
兄はビビリな割にイキりがち。飯をよこせと真っ先に大声で泣くのはいつもこいつだが、来客があったとき秒で食器棚と天井の隙間に隠れてしまう。朝起きて大量のティッシュがフワフワにされてるときの犯人はだいたいこいつ。
妹も相応にビビりだが、お転婆で好奇心が勝るのか来客の顔を見に行ったりする。それでも根はビビりなので少し後に兄とは別の隠れスポットで隠れてる。引きこもり度合いは兄より控えめで、引っ張り出せば抵抗もせずに長くなって来客に撫でられてくれる。
ただ2匹とも飼い主にはすごく甘たれで、PCで作業をしているとモニターの前を横切ったり、定点ポジ限定だが膝の上にも来てくれる。人間ごとに定点ポジが異なっていて、妻の定点ポジに俺が座っても絶対に座ってこない。逆もまた然り。あれなんなんだろね。
そんな2匹、新生児のうえで寝ちゃったらとか、顔舐めたらどうしようとか考えてた。
新生児が家に来たときは、どういうわけかいつもの家具の隙間に隠れるようなことが起こらなかった。
見える場所で不思議そうな顔で2匹そろって眺めたりはしていて、どこか見えない壁があるような距離感が印象的だった。
家族であることはそれとなく理解してんのかね、なんて話してた。もしくは人間だと思ってないか。
ティッシュをフワフワにしてしまう兄と物を落としまくる妹だが、不思議と新生児用の備品ワゴンのものには手(足か?)を触れようとしない。
おむつ交換のために買ったIKEAのマットや、デスクのすぐ横に置いたバウンサーを自分たちのベッドとして使うようなこともなかった。相変わらず俺のゲーミングマウスパッドやMBPの上、PCの上面ファンの上なんかで昼寝してる。
ただ膨らます前のIKEAのマットがガジられてて一か所膨らまなくなったのは凹んだ。ビニールに入ってたからだとは思うが。なぜかビニールをガジるのが超好きらしい。まあ実用上問題ないからおk
新生児が家にきて数日もすると、見えない壁はかなり薄くなってきたのか、新生児がぐずっているところに妹がそろそろと様子見に来たり、新生児を見張れる場所で兄がウトウトしたりしてた。
仲良し家族をアピールするために物心が付いた頃から父親の命令で毎日家族で晩御飯を食べていた。
幼い頃から晩御飯の度に妹に顔や体型や私の要領の悪さを遠回しな言葉でチクチクと馬鹿にされた
やめてほしいと言ったら、おそらくアスペルガー症候群で言葉の裏側やニュアンスを理解できない母親に「不機嫌にならないで!」「学校でもそんな態度取ってるの?」と怒られた。
それが幼い頃から高校卒業まで毎日続いた。食事の時間になる度に苦しかった。
ここまで厳格に統制された家であったにも関わらず、母は訳がわからないところで育児の手を抜いた。
外で遊びたいと言ってもパソコンがしたいからと言われて放置された。
5歳頃に一人で公園に行かされて、6歳ぐらい年上の放置子に卑猥な言葉を言われながら追いかけ回された。
小さい時からこんな状態だったからまともな自己肯定感を育めず、人間関係の構築方法も分からず、まともに友達を作れなかった。
小学四年生の時、授業中にからってきた男子にやめてほしいと伝えたら、教師に腕を乱暴に掴まれて廊下まで引きずり回されて、廊下で泣くまで怒鳴られた。
私が黙って我慢しないのが気に入らなかったらしい。
これがトラウマになって抵抗するのをやめて、からかわれても我慢していたら、小学六年生の時に別の教師に「からかってきた男子を睨んだ」と言いがかりを付けられて過呼吸になるまで怒鳴られた。
中学校の時の似たような状況だった。
中2の時、教科書を紛失したらしい男子に私が隠したと言いがかりを付けられて給食に洗剤を入れられた。その給食は別の女子に誤爆して騒ぎになり、なぜか私が責められた。
中3の時、別の男子に給食のスープを掛けられ、担任の音楽教師に「肌が赤くなってるのは火傷じゃなくて塩分のせい。だから問題ない」と言われた。
この状況を是正するため、塾に行きたい、私立の学校に行きたい、せめて精神科に行きたいと母親に言ったら「お金がない」と断られた。
我が家は父はマスコミ関係者、祖父は医者。経済的には恵まれていた。お金がないというのは本当だったとは思えない。
母と喧嘩して冷静になるために自室のドアを閉めて一人になろうとしたら、妹はわざわざドアを開けて母と一緒に私に聞こえるように大声で私の悪口を言い続けた。
高校生になる頃には変な妄想や衝動感に悩まされるようになった。独り言が止まらなくなった。
お小遣いは高校生になっても1000円。バイトは禁止。友達と遊びに行くことなんてできなかった。
この僅かなお小遣いを貯めてゲームを買ったら、購入の許可がなかったという理由で父が発狂して手鏡をこたつに叩き付けながら怒鳴られた。
後日、当て付けとして父は妹に全く同じゲームを買った。私は懐を痛めたのに。
高校でもまともな人間関係は築けなかった。部活も入ったけど頭がむちゃくちゃになって人と話すのが怖くてすぐに辞めた。
高校生になってからはただ道を歩いているだけで痴漢やナンパをされるようになった。
17歳の時にネットで知り合った風俗嬢でメンヘラのレズビアン女性に「一緒にラブホに行ってくれないと自殺する」と脅され、それを拒否したら「M女郎が」とその女性の取り巻きの19歳の女性に罵られた。
大学生になってからも結局妄想も虚無感も衝動感も恐怖も収まらず、30歳になった今も治らない。
無力感に取り憑かれて何かを継続することができず、職場も人間関係も転々とし続けている。その間たくさんセクハラやパワハラをされた。
「いやゲームをしている時は幸せだったはず。だから大丈夫」「今は幸せでしょ?だからいいじゃない」
はぐらかすのをやめてほしいと言ったら
「私だって辛いんよ」
と逆ギレされて泣かれて話にならなかった
これから私はどうすべきだろう
私には、小さいころからずっと憧れの存在がいる。それは、私より五つ年上の兄だ。兄のことを「お兄ちゃん」と呼ぶと、もう年齢的には少し恥ずかしいのかもしれない。それでも私は、昔からずっと「お兄ちゃん」と呼ぶのが当たり前だったし、その呼び方だけが私の素直な気持ちをいちばんよく表してくれるように思う。兄は細かいことを気にしない性格だから、「もういい加減に名前で呼んでくれ」と言われたこともない。むしろ何気なく「お兄ちゃん」と呼ぶたびに、少しだけ照れくさそうに笑って、「なんだよ」と返事してくれる。そんな兄の仕草が、私にとっては子どものころからの宝物のような思い出になっている。
私が物心ついたときから、兄は私を守ってくれる騎士のような存在だった。どんなに小さなことであっても、「大丈夫か?」と声をかけてくれて、一緒に悩んでくれる。小学校に入りたてのころ、友だちができなくて不安だったときも、兄は私の話をちゃんと聞いてくれた。「そっか、じゃあお兄ちゃんが放課後に一緒に遊んであげるからな。元気だせよ」なんて言いながら、一緒に公園に連れていってくれて、近所の子たちとも自然に遊べるように声をかけてくれた。あのときの兄の言葉や気遣いがなかったら、私はあの時期を乗り越えられずに、さらに内向的になっていたかもしれない。私の世界を少しずつ広げてくれたのは、ほかでもないお兄ちゃんだった。
そんな兄は、私よりはるかに行動力があって、友だちも多かった。学校のことから部活、さらには部活の大会や文化祭の準備まで、何でも積極的に参加していた。だけど家に帰ってくれば、私が宿題に苦戦しているときはいつも手伝ってくれた。特に理科の自由研究なんかは、兄が実験装置を手作りして一緒に試行錯誤してくれたのをよく覚えている。兄は私と同じ道をたどるように見えて、実はまったく違う場所を走っているようなところもあった。彼は勉強だけじゃなくてスポーツや音楽、さらに学校行事の運営のような活動にも興味を持ち、どんどん成長していくのだ。いつの間にか背も高くなり、どっしりとした声で話すようになった。そのころから、私は兄を「かっこいい」と思うようになっていた。家族や友人に言うのは少し気恥ずかしいけれど、「兄としての優しさ」に加えて「一人の人としての魅力」を感じ始めたのは、ちょうど私が中学生のころだったと思う。
しかし、中学生になると私も少し反抗期を迎えていた。別に兄が嫌いになったわけではない。ただ、いつも「お兄ちゃん、お兄ちゃん」とくっついてばかりの自分から、ちょっとだけ抜け出してみたくなったのだ。兄が何かと手伝ってくれようとしても、「いいよ、自分でできるから!」と口調を荒くして突き放してしまうことが増えた。そのたびに兄は少し寂しそうに眉をひそめるけど、それ以上は何も言わず、そっと距離を置いてくれた。子どものころは、すぐに私の手を引いてくれたのに。わざわざ私のために遊びを提案してくれたのに。今思えば、あのとき私は自分の世界を広げようと必死で、兄の優しさをないがしろにしていたのかもしれない。
そんな中学時代のある日、私はひどい風邪をこじらせて、高熱を出して寝込んでしまった。両親は共働きで忙しく、どうしても仕事を休めないタイミングだった。ところがその日、兄は学校の大事な行事を休んでまで家に残り、私の看病をしてくれたのだ。最初は「こんなことで大丈夫なのかな。お兄ちゃん、学校行かなくていいの?」と気遣い半分、苛立ち半分の気持ちでベッドの上から見ていた。しかし兄は、薬を飲むタイミングを覚えていてくれたり、氷枕を定期的に取り換えてくれたり、ポカリスエットをいつでも飲めるように用意してくれたり、とにかく何から何まで面倒を見てくれる。私は熱で朦朧とした頭のなかで「ここまでしてくれるんだ…」と申し訳なさと感謝で胸がいっぱいになった。気づいたら、ベッドの脇で眠ってしまった兄の寝顔を見つめながら、こっそり涙を流していた。
そのときに「やっぱり私、お兄ちゃんのことが大好きだ」と、心から再確認したのだ。反抗期真っ只中で、「兄の存在をうっとうしく感じたい」自分と、「兄を素直に好きだと言いたい」自分がせめぎ合っていたけれど、看病されているときに露わになった兄の優しさに触れて、私の中で答えがはっきりと見えた気がした。高校生になるころには、私はもう少し素直になろうと決心し、兄に対して必要以上の反発をしなくなった。そしてこれまで通り「お兄ちゃん」と呼んで、何かあれば一緒に笑って語り合う関係に戻っていったのだ。
高校生活が始まったばかりのころ、私は部活をどうするか迷っていた。兄は高校時代、サッカー部に入りながら生徒会の副会長も務め、さらに文化祭ではバンドまで組んでいた。とにかく「何でもやってみよう」と挑戦するタイプだったらしく、周囲からも頼りにされていたと聞く。そんな兄を近くで見てきた私は、「新しいことを始めるって、すごくエネルギーがいるけど、きっと楽しいんだろうな」とぼんやり思ってはいた。でも、私自身は見た目ほど行動的なタイプでもなく、どの部活に入るのかさえ決められずに日々が過ぎていった。兄に相談してみると、「やってみたいものがあるなら、迷わず挑戦してみなよ。すぐには決められなくても、とりあえず見学に行ってみるとかさ」と笑った。それまで頭でっかちになっていた私は、「そうか。とりあえずやってみればいいんだ」と目の前がパッと開けた気がして、週末にいくつかの部活を見学して回った。
結局私は合唱部に入った。そこには、中学の合唱コンクールで歌っていた自分自身の楽しさの記憶があったからだ。最初はそれほど力を入れるつもりもなく、「軽い気持ちで続けられればいいな」と思っていた。だが、合唱部の先輩はみんな本気で歌と向き合っていて、練習も厳しかった。気がつけば私も音楽室で遅くまで居残り練習をしたり、ボイストレーニングの動画を見ながら自主練したり、一生懸命になっていた。そういう自分に戸惑うこともあったが、同時に「こんなに打ち込めることがあるんだ」とわくわくしている自分もいた。
文化祭のステージでは、合唱部のメンバー全員で、思い切り歌声を響かせた。練習以上に声が震えてしまって、正直ベストコンディションとはいかなかったかもしれない。それでも、ステージを終えたときの達成感は大きかった。観客席を見渡すと、校舎の外からわざわざやってきた兄の姿があった。卒業生として招かれたわけでもないのに、私の初ステージを観に来てくれたのだ。「休みが取れたから、ちょっとだけ覗きに来た」とのことだったが、たぶんこっそり私の頑張る姿を見届けるために来てくれたのだろう。ステージを降りてから兄と目が合うと、彼は少し照れくさそうに親指を立ててくれた。その仕草を見た瞬間、緊張していた私の頬は、一気に熱くなった。
私は「これがお兄ちゃんなんだよな」と思った。大きな舞台に立つときであれ、苦しい状況に陥ったときであれ、兄はさりげなく私を見守ってくれる。困ったときには手を差し伸べてくれるし、何も言わなくてもただそばにいてくれる。それだけで、私は安心して挑戦したり、失敗してもまた立ち上がったりできる。兄の存在は、まるで日の光のようだ。直接私を照らしつつも、押しつけがましくはなく、ただ自然にそばにいて見守ってくれる。その温かさが、いつでも私を優しく包んでくれるのだ。
兄は高校卒業後、地元の大学に進学した。私が高校二年生のころだった。大学に入った兄はさらに多忙になったようで、ゼミやアルバイト、サークル活動などに時間を割くようになった。しかし家に帰ってくるときは、私が「合唱部でこんな苦労があってさ」と愚痴をこぼすのを、いつだって真剣に聞いてくれた。大学の勉強やアルバイトで疲れているだろうに、決して邪険にはしない。私が練習でうまくいかなくて落ち込んだときには、「悔しいなら、もうひと踏ん張りしろ。お兄ちゃんはお前の歌が好きだし、もっと上手くなると思う」と背中を押してくれる。簡単に「大丈夫」と楽観視するのではなく、どうすれば乗り越えられるかを一緒に考えてくれるところが、昔から変わらない兄の優しさだ。
そして私が高校三年生になるころ、兄は一人暮らしを始めることになった。大学の研究室に通うのに便利な場所へ引っ越すというのが理由だ。私としては、「お兄ちゃんが家を出るなんて、ちょっと寂しい」と本音では思っていたが、反対するわけにもいかない。兄が未来に向かって歩みだそうとしているなら、私は応援したい。きっと、私はもう以前のように一緒にゲームをしたり、兄の部屋に入り浸って話し込んだりはできなくなるのだろう。しかしだからこそ、「離れていても私たちはきっと大丈夫だ」と自信を持って言える。私と兄の間には、血縁という絆だけではなく、「お互いを信頼し、助け合ってきた記憶」がしっかりと刻まれているからだ。
兄が家を出てから、私たちはしばらく連絡が途絶えがちになった。私が大学受験で忙しくなったのも大きな原因だ。それでもLINEや電話で声が聞きたくなったら、いつでも連絡してくれと言われていたので、私はたまに短いメッセージを送っては近況を報告した。すると兄は、「いつでも聞くから、困ったら言えよ」と返してくれる。相変わらず、頼れるお兄ちゃんのままだ。私がセンター試験で失敗して意気消沈していたときも、さりげなく「次のチャンスがあるなら自分を信じろ。終わったことはくよくよしても仕方ない」とアドバイスをくれた。画面越しだったけれど、その言葉を聞いた瞬間、胸があったかくなったのを覚えている。
大学合格が決まってから、私は真っ先に兄に電話をかけた。メールやメッセージではなく、声で伝えたかった。電話の向こうで「よく頑張ったな。おめでとう!」という兄の声を聞いたとき、私は涙が止まらなくなった。今までなんとか踏ん張ってきた受験勉強の疲れが一気に噴き出したのもある。でもそれ以上に、「この喜びをいちばん分かち合いたい人が、誰よりもお兄ちゃんだったんだ」ということに気づいてしまったからだと思う。友だちに報告する前に、両親に言う前に、私は兄に連絡していた。それほど私のなかで兄は大きな存在で、どんなときでもまず伝えたい相手なのだ。
いよいよ私は春から大学に入学し、新しい生活が始まる。兄がいる町へ引っ越すかどうかは、まだはっきり決まってはいないけれど、同じ都内に通うことになるので、これまでよりは少し気軽に会えるだろう。「兄妹で仲が良すぎる」なんて冗談めかして言われることもあるけれど、そんなのは気にしない。お兄ちゃんと私は、長い年月をかけて共に成長しながら、お互いを支え合ってきた。私が自然と「お兄ちゃん大好き」と言えるのは、それだけの歴史があってこその言葉だからだ。
もちろん、これから先の人生で、兄と私の道が大きく別れる瞬間がやってくるかもしれない。結婚するにしても、仕事のために遠くへ行くにしても、人はそれぞれの未来へ進んでいく。だけど私が歩む先にいつでも兄の姿が見えたように、兄の歩む道の先にも私の姿が小さく映っていると嬉しい。物理的に離れていても、心が通じ合っていると感じられるような、そんな兄妹でいたいと願う。だからこそ、日々のなかで「大好きだよ」と面と向かって言えるのは、いまだけかもしれないと思い、恥ずかしさはあっても声に出して伝えたい。後になって「あのとき言っておけばよかった」と後悔したくないから。
思えば、妹としての私は、ずっと兄に何かをしてもらう立場だった。小さな頃は、けがをすれば助けてもらい、泣いていれば隣に座って肩を抱いてくれた。宿題でわからないところがあれば教えてくれたし、進路に迷えば「やってみたいならやってみろ」と背中を押してくれた。今度は私が、お兄ちゃんの力になりたいと思う。まだ何もできていないかもしれないけれど、少しずつでも兄にとって頼れる妹になりたい。もし兄が苦しくて立ち止まってしまう日が来るなら、私が「大丈夫、きっとできるよ」と笑顔で言ってあげたい。そして、いつか心底困ったときには、私がまた彼を助けてあげられるようになっていたいのだ。
でも、もしかしたらお兄ちゃんは、そんな私の気持ちをとっくに見抜いているのかもしれない。だって彼はいつも私より先を見ているようなところがあるから。私が高校の合唱部で頑張っていたときも、実は自分が忙しい中、ライブハウスでアルバイトをしてボイストレーニングの動画を集めたり、声の出し方に詳しい知り合いに助言をもらったりして、それとなく私にヒントを与えてくれたりもしたらしい。そんな話を本人から聞いたことはない。私が後から友人づてに聞いたのだ。そういうところが、本当に優しくて、かっこよくて、私が世界でいちばん尊敬している兄の魅力だと思う。
これまでも、そしてこれからも、私のなかで「お兄ちゃん」はずっと特別だ。自分が子どもっぽく感じられるときもあるし、「こんなに人を好きになるって、兄妹だからこそなのかな」と考えるときもある。でも、家族という形を抜きにしても、私はきっと同じように兄を大切な存在だと思うだろう。どんなときでも私を認めて支えてくれたあの瞳と声と背中は、私が人生のなかで何度も思い返すであろう宝物なのだ。
今日も私は、兄にメッセージを送ろうか迷っている。大学のオリエンテーションで少し戸惑うことがあったから、軽く相談したい気分なのだ。けれど、また忙しい思いをさせるのではないかと気が引けてしまう。それでもきっと、兄は「そんなこと気にすんな」と言って笑ってくれるだろう。だって私がお兄ちゃんの立場でも、きっと同じように思うから。困っているなら、何も言わずに助けたい。それが家族だからとか、妹だからとかいう理由だけじゃない。私にとって、お兄ちゃんはそういう存在であり、私自身もまた兄の力になりたい。そんなふうに自然に思えることが、嬉しくて仕方がない。
大人になったら、もっとお互い別々の生活を送る時間も増えると思う。だけど私の心の真ん中には、いつでも「お兄ちゃん」がいて、私はいつでも「お兄ちゃん大好き」と思っている。その気持ちを言葉にするのは、やっぱり少しだけ恥ずかしいけれど、それでも私の素直な思いだ。だからこれから先、何十年たっても、私にとってのいちばんのヒーローはお兄ちゃんだし、私はその事実を胸を張って言える。小さかったあの日からずっと変わらない、私の本当の気持ち――
「お兄ちゃん大好き。」
けど物心ついた時にはポンキッキを見てて、小学生の頃にウゴウゴルーガを見て、その流れでそのままめざめしテレビ見てたような生粋のフジテレビっ子としてはこんな状況になってるのは悲しくもあるんだ。
テレビに対してこういう感慨があるもんなんだな。
俺はそういうの全くないんだよね。子供の頃はテレビ見てはいたけど、その記憶に対する愛着が全くない。なんでなんだろう?
大学生になって実家を出て以降はテレビほぼ全く見ない(見るのは災害時のニュースくらい)生活をずっと送ってる。
そもそもどの番組がどのテレビ局なのか把握したことが人生で一度もない。なんでみんな覚えてるの?って中高生の頃思ってた。
正直いまのフジテレビ、というか15年前くらいからフジテレビは嫌いだし、もはやこうなった以上停波すればいいと思ってる。
けど物心ついた時にはポンキッキを見てて、小学生の頃にウゴウゴルーガを見て、その流れでそのままめざめしテレビ見てたような生粋のフジテレビっ子としてはこんな状況になってるのは悲しくもあるんだ。
なので通夜の後の飲み会だと思ってさ、みんなの好きだったフジテレビの番組コメント・ブクマしてくれよ。
俺はやっぱり忘れられないのは「ラスタとんねるず'94」だな。
「とんねるずのみなさんのおかげです」の充電期間にやってたわずか半年の番組だったがまあ伝説だった。
なんといっても「ジャイアント将棋」。正直当時は格闘技とか全然詳しくなかったのだが、異業種格闘家が戦うのは激アツだった。最終的にとんねるずの2人も格闘家も戦ってで、バラエティ系の競技だととんねるずが勝ったり、それこそ相撲かなんかで石橋貴明がガチで格闘家に勝ったのは胸アツだった。
それに「SPITTING IMAGE JAPAN」。人形劇で当時はなんか笑ってただけだったのだが、大人になってから改めて見たら政治風刺でめっちゃ攻めてて驚いた。「サタデー・ナイト」のパロディで「小沢(一郎)についてきゃ間違いないっ!」とか歌ってるの最高だった。
他にも「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!」の南ちゃんを探せやマモーミモーはいまも覚えてるし、志村けんのだいじょうぶだぁの人間ルーレットとかもホント大爆笑だった。初代笑う犬の安藤さんへの繋ぎとかも最高だった。
俺がまだ幼かった頃、周りの大人たちはよく「近頃の技術はすごいなあ」とか「昔とはえらい違いだ」と口々に言っていた。けれど、そんな大人たちを尻目に、さらに先を行っていた人がいる。それが俺の祖母——通称“コンピューターおばあちゃん”だ。これは、俺が子どもの頃に祖母と過ごした日々や、彼女が残してくれた大切なものについての回想録。今は亡き祖母への想いを、ここに綴りたいと思う。
1. 祖母と呼ぶより“コンピューターおばあちゃん”
俺がまだ物心ついたばかりの幼稚園児だった頃、祖母はすでにパソコンを自在に使いこなし、テレビやラジオで流れる新しいテクノロジーのニュースには目を輝かせていた。家には分厚い辞書や百科事典が何冊も並んでいたが、さらに机の上には最新のパソコン雑誌や科学雑誌、果てはプログラミング関連の本まで置いてあった。幼い俺が「あれ何?」「これどうして?」と尋ねると、祖母はまるで電子辞書のように即座に教えてくれた。当時の俺にとって、難しい用語も祖母の解説にかかれば、スッと頭に入ってくるから不思議でならなかった。
「コンピューターおばあちゃん」は、子ども向けの音楽番組「みんなのうた」で流れていた歌のタイトルそのままだったが、俺にとってはその呼び名そのものが祖母の姿を表していた。機械に強く、知識に溢れ、しかも子ども相手にやさしく噛み砕いて教えてくれる姿は、歌のイメージそのものだったのだ。たとえば、俺の住んでいる町が他のどの町より暑かった日に、「なんでこんなに暑いの?」と尋ねると、「それはね、地球の自転と公転、それに加えてこの町の地形が影響していてね……」と、クーラーの効いた部屋でわかりやすく教えてくれる。さらにパソコンを立ち上げ、天気予報の画面を見せながら「この等圧線と高気圧の動きがね……」と続けるのだ。幼稚園児の俺でも妙に納得してしまったのを覚えている。
祖母の知識の幅はとにかく広かった。歴史、地理、科学、文学、芸術、果てはゲームまで。どんなジャンルの話題を振っても、少なくともある程度は知っている。まるでいくつもの「電子図書館」が頭の中に入っているようだった。まさに子ども番組で言われる“コンピューターのように何でも知っているおばあちゃん”であり、俺はいつしか自然と彼女をそう呼ぶようになった。
人間誰しも得手不得手はあるはずだが、祖母は「知らないものを知らないままにしておくほうが、私には合わないんだよ」と微笑んでいた。だから気になることがあれば何でも調べ、またはパソコンを使って検索する。俺が「ゲームセンターで見た変な機械、あれは何?」と聞けば、それがどんな仕組みの機械なのか、どのメーカーが作っているのかまで丁寧に教えてくれる。さらには「いつか一緒にゲームセンター行って、じっくり観察してみようか」と、学びの場として遊びに誘ってくれた。その姿勢にはいつも驚かされたし、また「大人ってこんなに遊び心があっていいのか」と思ったものだ。
大人になった今になって思えば、あれはただの“学問”に留まらない、祖母の生き方そのものだったのだろう。常に新しいことを取り入れ、面白がり、わからないことを探求する。その姿勢が、彼女の若々しさを保ち、俺たち孫の世代とも自然につながっていられる原動力だったに違いない。
祖母はよく鼻歌を歌っていた。その中にはもちろん「コンピューターおばあちゃん」を思わせるフレーズもあれば、ほかの子ども向けの曲や懐メロもあった。俺が小学校に上がる頃には、祖母自作の“歌詞の抜粋ノート”が存在し、そこには祖母が好きな歌の一節が手書きで書き写されていた。日付や一言コメントも付いていて、当時の祖母の心境や季節の移ろいが見えるようだった。
ある日、そのノートを見ていた俺は、ふと「この歌詞の意味はどういうこと?」と尋ねた。すると祖母は、歌詞が持つ文脈や背景、そして作詞者の想いや時代性まで話してくれた。まさに“人間コンピューター”の面目躍如である。だが、祖母は決して「理屈」や「知識」だけを語る人ではなかった。必ず、そこに自分の感想や教訓を加える。「このフレーズはね、人生におけるこんな出来事を思い出すなあ……だから〇〇なときには、こんな気持ちでいるといいのかもしれないね」といった具合に、子ども心にもスッと染み込む言葉をかけてくれた。
彼女の持つ叡智の素晴らしさは、学校の成績を上げるためだけの“お勉強”とは違っていた。生活や人生を楽しむための“レシピ”がそこにはあった。たとえば、落ち込んだ日は「お腹から笑うといいよ」と言って、祖母自身がゲラゲラ笑っておどけてみせる。心配事がある日は「眠る前に紙に書き出すといい。それで一旦置いて寝ちゃうんだ」と、実践的なアドバイスをくれる。どれも祖母自身が実際にやってきたことなのだろう。まるで一冊の辞典のように、そして誰よりも暖かい人生の先輩としての言葉をくれた。
祖母はパソコンを扱うだけでなく、インターネットの世界にもかなり明るかった。俺が小学校高学年になる頃には、オンラインで海外の博物館の映像や、世界のニュースを一緒に見たりもした。そこで初めて知ったのは、インターネットが単なる機械的な情報交換の場ではなく、人間同士の交流を広げるための“窓”でもあるということだった。祖母はまさにその窓を巧みに開き閉めしながら、遠い世界を俺の前に見せてくれたのだ。
「パソコンの画面を通して見る世界は、ただの映像じゃなくて、“人”がいるところなんだよ」と祖母は言った。「画面の向こうにも誰かがいて、きっと同じように息をして、ご飯を食べて、笑ったり泣いたりしている。そこに興味をもてば、お友達になれるかもしれないし、いろんな考え方を学べるかもしれないね」。まだ子どもだった俺にとって、それは驚くほどスケールの大きい話に感じられたが、祖母は「一歩ずつでいいの」と笑った。実際、海外の子どもたちが作ったというWEBサイトを一緒に覗いて、俺が英語がわからなくても、祖母はサクサクと辞書を引きながら一緒に解読してくれた。その過程がとても楽しかったのを覚えている。
そんな祖母の探求心に刺激を受け、俺自身ももっと世の中を知りたいと自然に思うようになった。中学生になってからは、祖母と一緒にインターネットでさまざまな情報を探したり、調べ学習の資料をまとめたりするのが習慣になっていた。夏休みの自由研究でも、祖母が遠慮なくアイデアをどんどん出してくれるから、いつもクラスでも評判の出来になったっけ。まさに“コンピューターおばあちゃん”との共同作業。あの頃の夏休みは特別に充実していた気がする。
5. “悩み”も解析? コンピューター越しの優しさ
祖母は機械だけでなく、人間の心にもとても敏感だった。そんな祖母に“悩み”を打ち明けると、まるでコンピュータの検索をかけるように、じっくりとヒントを探してくれた。といっても機械的な冷たいやり方ではなく、温かく、しかもときにユーモアを交えながら、俺が自分で答えに気づくまで導いてくれるのだ。
高校生になると、友達関係や部活、将来の進路……いろいろな悩みが増え、俺の心は常にモヤモヤしていた。祖母はそんなとき、まず俺の話を黙って聞き、「なるほどねぇ」と目を細めながらうなずく。そして「ここにデータがあるとしたら、どんなふうに整理する?」と、まるでコンピューターのフォルダ分けをイメージさせるような問いかけをするのだ。「まずは心配事をカテゴリごとに分類してみよう。友達とのことは友達フォルダ、将来のことは将来フォルダ、と。そこから、もっと細かくファイルに分割して、どれくらいの優先度があるか考えてみるんだよ」と。
そんなふうに、一見堅苦しそうな“整理術”を教わるうちに、俺自身の頭の中もすっきりしてきて、不思議と問題が大きく見えなくなっていった。「つまり人生って、ひとつの巨大なデータベースみたいなものかもしれないね」と祖母は微笑む。「たくさんの情報がごちゃごちゃに入っているときは、まずはちゃんと仕分けて検索しやすいようにすればいい。大事なのは、どうタグ付けするか、そしてどのデータが今の自分にとって本当に必要かを見極めること」。それは小難しそうな言葉だけれど、祖母の口から語られると、なぜかすんなりと腹落ちした。まるで大きなやさしい手で、俺の悩みを丸ごと包んでくれているようだった。
6. そして別れの日
俺が大学に進学してしばらくすると、祖母は少しずつ身体の不調を訴えるようになった。ただ、それでも祖母の知的好奇心は衰えず、入院先でもタブレット端末を使いこなし、看護師さんたちと仲良くなっていた。担当のお医者さんが口にする専門用語もほぼ理解できるし、わからないことはすぐに調べる。周りの家族が心配そうに「無理しないで」と言っても、「何もしないでボーッとしてるより、私にはこっちのほうがずっと元気が出るんだよ」と笑っていた。
そんな祖母の容態が急変したのは、俺が大学四年生の夏だった。夜遅くに病院から連絡を受けて駆けつけると、祖母はベッドの上で小さく息をしていた。もう思うようには口がきけない状態だったが、俺を見て微かに笑ってくれたように見えた。その笑顔はまさにいつもの“コンピューターおばあちゃん”の面影で、俺は涙が止まらなかった。
祖母はそのまま、静かに旅立った。最後まで、頭の中にはきっといろんな知識や、俺たち家族への思いが溢れていたのだろう。「みんなのうた」で聴いた“コンピューターおばあちゃん”は、まさに祖母そのものだった。お別れは悲しかったが、祖母が教えてくれたことは俺の胸に深く根を下ろしていると実感した瞬間でもあった。
葬儀が終わり、祖母の遺品を整理していると、昔家族で撮った写真やノート、そして祖母のパソコンが出てきた。パソコンの中には、家族の写真データや日記のようなファイル、さらには雑多なフォルダに分けられた学習ノートのデジタル版が保存されていた。そこには祖母自身が調べてまとめた、さまざまなジャンルの知識や観察メモがあって、見ているだけで祖母と会話しているような気持ちになった。
そのファイルの一つに「大切な人たちへ」とタイトルがつけられたテキストがあった。開いてみると、そこには「私が得たものは、すべてあんたたちに残していくから、どうか自分の好きなように使ってほしい。知らないことに心おどらせるのは、本当に素敵なことだよ。これからもずっと、学びを楽しんでね」というような内容が書かれていた。文章を読み終えたとき、俺は思わず涙が零れ落ちた。そこにはいつも笑顔で知識を授けてくれた、あの祖母の姿が確かにあった。
さらにパソコンのデスクトップには、「コンピューターおばあちゃん」に関する記事や、祖母なりに歌詞をアレンジして書き溜めたノートもあった。そこには、あの歌がもたらす夢や希望について、彼女が感じ取ったことがびっしり綴られていた。「なんでも知っていて、なんでも教えてくれるおばあちゃん、それは私の理想じゃなくて、私自身の生き方そのものだ」と。祖母にとって「コンピューターおばあちゃん」はまさに人生の象徴だったのだろう。
8. 受け継がれる“好奇心”と“優しさ”
祖母を失って寂しい気持ちは今でも消えない。それでも、祖母が残してくれた“調べること”“学ぶこと”“遊ぶように知識を楽しむこと”は、今の俺の人生を豊かにし続けている。職場でも「どうしてそんなにいろんなことを知っているの?」と聞かれることがあるが、俺は胸の中で「祖母の血かもしれないな」と思っている。実際、祖母から学んだ“分からないものは楽しみながら調べる”という姿勢が、仕事でも役立っていると感じるのだ。
そして何より大きいのは、祖母の“人を思いやる優しさ”を忘れないようにしていること。どんなに新しい技術や情報を知っていても、そこに相手への気遣いがなければ独りよがりになってしまう。祖母が俺に常に教えてくれたのは「相手の立場や気持ちを想像しながら、一緒に探求していく喜び」だった。だから今、俺が後輩に教えるときや、友達と話をするときには、決して上から目線や押し付けにならないように気をつける。そして「もしよかったら一緒にやってみよう?」と声をかける。その方がずっと楽しいし、きっと祖母も喜んでくれるに違いない。
もう祖母の肉声を聞くことはできない。あの独特の優しい笑い声も、パソコンに向かう姿勢も、そばに座っていたときの温もりも、すべて思い出の中にしか存在しない。それでも、祖母が残してくれた言葉やファイル、そして一緒に過ごした時間の記憶は、今でも俺を支えてくれる。人生において何か新しいことに挑戦するとき、あるいは壁にぶつかったとき、「そういえば、おばあちゃんはこんなとき何て言ってたっけ?」と心の中で問いかける。すると不思議なことに、祖母の声がスッと降りてきて、「それを調べてみるのは面白そうだね」と背中を押してくれる気がする。
歌には「どんなことでも教えてくれる不思議なおばあちゃん」が登場するけれど、俺にとっての祖母はまさに“完璧なおばあちゃん”だった。彼女のように何でも知っていて、優しくて、そしていつだって俺の好奇心を歓迎してくれる存在がいたからこそ、今の俺がいる。そして祖母のような生き方を少しでも真似できるなら、それは最大の感謝の表し方かもしれないと思う。
祖母がいなくなっても、その“コンピューターおばあちゃん”の精神は俺の中で生き続けている。何かを調べたり、新しいものに触れたりするとき、祖母の姿が脳裏に浮かぶのだ。俺はこれからも、祖母が示してくれた「好奇心と優しさ」を糧に、歩んでいきたい。それが“俺の祖母はコンピューターおばあちゃんだった”と胸を張って言える、何よりも大きな証なのだから。