前回のつづき.
2018年9月24日月曜日
おしえてフォコニエ & ターナーせんせいズ #1
もうだいぶ古い本だけれど,フォコニエ & ターナーの The Way We Think (Basic Books, 2002, pp.39-40) [Amazon] から,メンタルスペースと概念融合について解説した箇所をちょっぴり抜粋してみるYO.
2018年1月23日火曜日
2017年12月5日火曜日
「信用の可視化」(『消費資本主義!』の余白メモ)
ミラーせんせいは,クレジットスコア・信用格付けが堅実性の「メタ標示」になると考えている:
信用格付けは他人には直接参照できないし、知覚もできないけれど、購買力を大いに支えているため、もはやコレ抜きに中流のライフスタイルは成り立たない。よい信用なしに、車も住宅も手に入れられない。このため、そこそこの車や住宅を所有している人々は、間接的に立派な信用スコアを誇示している。それはつまり、堅実性を誇示しているということでもある。(『消費資本主義!』p.320)いい車や住宅をもっている→それを購入できるだけの信用スコアがある→それだけの信用スコアを獲得できるくらい堅実である,というわけだ.
2017年11月11日土曜日
ジェフリー・ミラー『消費資本主義!』が出ます
v(・∀・)v イェーイ
4月に翻訳原稿を終わらせてから刊行の準備を進めてきた――というかいまも絶賛作業中の――翻訳書の刊行情報がようやく出てきました:
書店向けの見出し文:
準備中のサポートページはこちら.
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4月に翻訳原稿を終わらせてから刊行の準備を進めてきた――というかいまも絶賛作業中の――翻訳書の刊行情報がようやく出てきました:
ジェフリー・ミラー『消費資本主義!――見せびらかしの進化心理学』(勁草書房,2017年12月30日)正直,もっと早く日本語圏に紹介されてよかった本じゃないかと思いますが,ともあれ,better late than never というやつですな.
書店向けの見出し文:
《「やあ人類、お買い物はたのしいかい?」――まあね。でも見せびらかし消費っていったい何なんだろう? 進化心理学で答えに迫ろう。》同じく内容紹介:
人々が見せびらかし消費をしてることならみんな知ってる。でも正確なところ何を見せびらかそうとしてるのかは、マーケティング理論もよくわかってない。カギを握るのは「ビッグファイブ特徴+知性」と「コスト高シグナリング」だ。マーケターには洗練された理論を、消費者にはかしこい消費生活のヒントを、進化心理学からご提案。shorebird さんによる原書 Spent の書評はこちら.非常に参考になります(なりました).これを読めばどういう本なのかわかるので,もはや「訳者あとがき」に何を書けばいいのやら.
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2017年9月9日土曜日
「あばずれ叩き」と共有地の悲劇
「午前中」の時間指定でお願いしていたのになかなかこない配達を待ちながら,マックス & ミラーせんせいズのモテ本でマーカーをつけたところをなんとなく見返している.
男連中なら知ってのとおり,男性どうしの競争戦術のなかには,おろかで馬鹿げてるものもある.そこは女性も変わらない.キミが本書を読んでいるくらい賢明な人なら,キミの相手にふさわしいくらい賢明な女性だって,女性どうしの競争にあるいろんな馬鹿馬鹿しい部分をあらかた理解してる.アホな男どもにキミがげんなりしてるのと同じように,彼女たちだってアホな女にげんなりしてる.だけど,べつに尊敬もしてない男どもからの社会的な賞賛を手に入れようとキミが模索してるのとまったく同じように,女性たちだってべつに尊敬してない女連中から社会的な賞賛をえようとしてる――で,そんなことをこれほどまでに本能的に気にかけてしまっているじぶんにあきれてしまうことだってよくある.
でも,男女の類似点はこれで打ち止めだ.女性が社会的にうけやすい打撃は男性とずいぶんちがう.平均で見ると,体育が苦手だったりケンカが弱かったり稼ぎがショボかったりしても,女性は男性ほど心配しない.だが,知人・同僚・家族・ご近所でのじぶんの性的な評判についてはとても気にする.具体的には,現代社会におけるあばずれ叩きがじぶんの評判におよぼす,実存をゆるがすほどの脅威を心配してじりじりしている.
こと,あばずれ叩きとなると女性はおたがいに容赦ない.1人の女性の社会生活をまるごとつぶしたければ,彼女のことをろくに知らない人たちによって交友メディアにセックスにまつわる意地の悪い噂が流れればこと足りる.大学を卒業するまでに,やれ「あの子はあばずれだ」だの「売女」だのと言ったネタで他の女性たちについて女性どうし非難やからかいの言葉を交わしているのを(教室で,学生寮で,女子寮で,職場で)何年にもわたって耳にすることになる.誰かとタイミングのわるい一夜限りの関係をもったり無思慮な友達とつきあって見返りをもらったりしたときにどれほどの不安を覚えるか,想像してみよう.女性によってはすっかり思考が麻痺してしまうほどだ.
一人の男性として,というか社会のまっとうな一員としても,次の点はぜひとも理解しておきたい――女性のあばずれ叩きは,深い自己嫌悪や集団内嫌悪の産物ではないんだよ.そうじゃなく,これほど広くあばずれ叩きが見られるのはなんでかって言うと,いいボーイフレンドを手放さずにおきたい女性にとって好色なライバルは最大の脅威だからだ.「あばずれ」が叩かれ軽蔑されるのは,べつに女性たちが「あばずれ」たちの性欲のありように居心地悪さを覚えているからじゃない.「あばずれ」たちが恋人探しの手練れだからだ.これは,大半の女性にとってほんとに差し迫った脅威になる.そのため,女性がキミとの短期的なお付き合いを考えているとき,同時にこんなことも考えてるものだ――「学校や職場で誰かに嗅ぎつけられたりしないかな?」とか,「週末にママと Skype でおしゃべりしてるとき,この件でどんな気分になるだろう?」
女性が好色にふるまうのは,恋人探し市場で「共有地の悲劇」効果ももたらす.ある女性が2回目のデートでフェラしてあげようかともちかけたら,他の女性たちがとびっきりのご褒美として4回目のデートまでとっておくのが難しくなる.これにより,もっとたくさんのセックスをもっとたくさんの男性にもちかけてやらないと恋人探しゲームにとどまれなくなってしまう下方スパイラルがうまれる.この点で,あばずれ叩きは他の女性たちにもっと厳しい性的規範を強制することで,べつにあらゆる女性が本人ののぞむ以上に好色に振る舞わなくてすむようにする方法となっている.
かくして,あばずれ叩きは女性の情動の根っこにまで深くしみついて,自尊心を手ひどく痛めつけ,損なう.だからこそ,よほど自信と性的経験をたっぷり持っている人でもないかぎり,たいていの女性は一晩かぎりの情事をおえた翌朝に,じぶんのことを立派に思えなくなってしまうんだ.一度きりの情事を終えた朝に歩く家路を女性たちが「恥辱の道」と呼ぶのにも理由があるわけだよ.
あばずれ叩きのリスクをふまえたうえで典型的にとられる女性の戦略は,短期的な恋人づきあいをひそかにすすめて,知らぬ存ぜぬをとおす余地をたっぷり用意しつつ,適応的な自己欺瞞や状況による合理化を図ることだ.気軽なセックスをしても信用できる言い訳が用意できるならあばずれ呼ばわりのリスクを低減できる――「誕生日だったの」「すっかり酔ってたから」「春休みでついつい」「だってジャマイカでのことだし」「前からずっと彼の文章に心酔してたから」などなど.
(Tucker Max & Geoffrey Miller, Mate: Become the Man Women Want.)
2017年8月21日月曜日
clip: 「日常生活のなかのカリスマ」心理学研究
日常生活での「カリスマ」を構成する要因は「他人への影響力」と「人当たりのよさ」(affability) の2つではないかという心理学研究をイギリス心理学会ブログが紹介してる:
- "Psychologists have developed the first scientific test of everyday charisma," BPS Research Digest, August 15, 2017.
2017年4月24日月曜日
神話の反駁はかえって神話を強めてしまうことがある
なぜなら,神話・間違った情報を訂正するときにその神話や誤情報に繰り返し言及することで,読み手の記憶に神話・誤情報の方が強く残ることにつながりうるからだ.――では,どうすればいいか:
(via "More or Less," BBC Radio)
2016年11月28日月曜日
ミラー先生の『消費』のサンプル訳をつくってみよう (27)
つづき:
ミーム理論は,これとちがう見方を提示する:「みんながステーキやドーナッツやソーダを消費するのは,もしかして,他人がそうするのを見たことがあって,その食習慣を真似してるからじゃないだろうか.豆腐の塩漬けとかシベリア風スープを好む結果になっていてもおかしくはなかったけれど,たまたまミーム進化の偶然がはたらいて,それとちがう方向にやってきただけじゃないか.」 このミーム説でも,文化をまたいだ食べ物の好みが同じように説明されるかもしれない.たとえば,アメリカ人はどうして肉にはバーベキューソースを加え,フレンチフライにはケチャップをかけ,サラダには蜂蜜マスタードをあえ,パンには砂糖をまぶし,水にコーンシロップを入れる(「ソーダ」)といった具合に,自然の甘い風味があるものをなんでもかんでも甘いデザートにしてしまうのか,その理由を説明できるかもしれない.
どちらの説も貴重な洞察をもたらしてくれるけれど,その一方で,進化心理学者もミーム理論家も,グローバル食品産業の経済的・政治的・マーケティングの力を認識した方が有益だろう.アメリカでは,加工食品に脂肪や食塩や砂糖がたっぷりと含まれている.そのワケは,お金もちの強力な業界団体があって,効果的に政治家たちにロビー活動を展開して,行政の助成金や契約受注や規制緩和を頼んだり,業者の責任負担をできるかぎり軽減する不法行為法の改正 [tort reform] をやってもらったりしているからだ.こうした団体には,「全米チェーンレストラン組合」(National Council of Chain Restaurants) や,「全米食料雑貨連合」(National Grocers Association) や,「食品加工組合」(Food Products Association) や,「フードマーケティング協会」(Food Marketing Institute) や,「アメリカ食料雑貨生産者組合」(Grocery Manufacturers of America) などがある.全米レストラン組合は,アメリカのレストラン90万店舗を代表する団体で,加入店の従業員は1220万人,年間収益は4760億ドルにのぼる.全米畜産業者ビーフ連盟 (The National Cattlemen's Beef Association) は,80万もの牧場経営者を代表紙,加入牧場は年に3500万頭の牛からおよそ260億ポンドの食肉を「収穫」する.全米鶏肉協議会 (The National Chicken Council) は,タイソン (Tyson),ゴールドキスト (Gold Kist),ピルグリムズ・プライド (Pilgrim's Pride),コンアグラ (ConAgra) といった大企業を代表する団体で,年におよそ80億羽のにわとりを処理している.さらに脂肪とタンパク質の消費を推し進めているのが,アメリカ食肉協議会 (American Meat Institute),全米豚肉協会 (National Pork Board),全米ターキー連合組合 (National Turkey Federation),国際乳製品連合 (International Dairy Foods Association),全米牛乳生産者連合組合 (National Milk Producers Federation) といった団体だ.食塩消費を推し進める団体には,スナックフード協会 (Snack Food Association) や全米コンビニエンスストア連合 (National Association of Convenience Stores) がある.砂糖消費を推し進めているのは,砂糖組合 (Sugar Association),ドレッシング & ソース組合 (Association for Dressings and Sauces),国際ゼリー & 保存料組合 (International Jelly and Preserves Association) がある.コーン精製組合 (Corn Refiners Association) はとくに重要だ.というのも,この団体はアメリカの「湿式粉砕産業」を代表しているからだ.この産業は,果糖を大量に含むコーンシロップを年間およそ250億ポンド製造している.コーンシロップは各種ソーダの( 水以外の)主成分で,アメリカ人は平均で一人あたり一日に約45グラムを消費している.
さて,たしかに,脂肪や食塩や砂糖を好む生得的な傾向がみんなに備わっているのは疑いない.ロビー団体や業界団体は,なにもないところからこういう味わいの需要をつくりだしているわけではない――そうでなければ,いまごろ「塩漬け豆腐マーケティング協議会」だの「全米キャベツスープ連合」なんかがもっとたくさん資金と影響力をふるって成功しているところだろう.しかし,進化でぼくらにうまれた食品へのいろんな好みを,こうした強力な業界団体がものすごい政治的な影響力や業界の食品群を広めるマーケティング予算を使って大幅に増幅している.
社会的権力システムによるこうしたアイディア・嗜好・規範・習慣・ミームたちの傾性こそ,まさに社会科学の研究対象だし,政治学・社会学・メディア研究の活力のもとに他ならない.こうした社会科学分野が数十年におよぶ研究で認識しているように,単純なミーム進化モデルによって個人の心理から一足飛びに大衆文化に飛躍はできない.そんな風に思うとすれば,市場万能論者が需要と供給の経済と政治的無政府状態が組み合わさればユートピアが生まれると思うのと同じくらい単純素朴というものだろう.また,社会制度や利害関係も考慮しないといけない.ミーム浸透は――つまり,意識的に熟慮して制度化された戦略をとおして大衆の見解や好みを形成することは――何百万というマーケターや広告業者や小売業者や広報活動専門家がお金をもらって毎日はたらいてやっていることだ
市場万能論者も,ある一点に関しては正しい:マーケティングの力はかなり脱中心化されている.資本主義だの消費主義だの家父長制だの異性愛だの人種差別だの国民総蒙昧化だのをすすめる一本化された陰謀もなければ,ヒミツのフリーメーソン寺院もない.世界貿易機関だって,たんにジュネーブのローザンヌ通り154ある5階建てオフィスビルではたらく630名ほどの組織でしかない.マーケターたちの大半は,社会科学者たちが分析する権力システムを浸透させようなどとがんばっているわけではない.たんに,自社のマーケットシェアを増やそうとしているだけだ.マーケターたちは邪悪な天才のように描かれることもよくあるけれど,現実には,他の人たちと同様に日々の仕事でじたばたやっているのが典型だ.マーケターたちにしても,やたら髪をもさもささせたり逆に剃り上げたりしてるエキセントリックな著者たちが執筆した大衆向けビジネス書(しかもできるだけ薄ヤツ)を読んで最新の消費者心理学の流行ネタに追いつこうとしている.
というわけで,現代科学が提供する極端な見解のどれひとつとして,マーケティングの理解にはそんなに役立たない.「生得的な好み」理論もミーム理論も,マーケティングの力をまるっきり無視している.社会科学系の陰謀論は,あまり教育のないマーケターたちが共謀するどころか互いに抗争している脱中心化されている状況を無視している.その結果として,大半の行動科学は――心理学・人類学・社会学・経済学・政治学は――マーケティングをまともに取り合うことがめったにない.かくして,現代文化の革新,人間本性を増幅したり鈍らせたり歪曲したり裏をかいたり満足させたりする中心的な力がほぼ無視される結果となっている.――これで,第3章はおしまい.
2016年11月27日日曜日
ミラー先生の『消費』のサンプル訳をつくってみよう (26)
つづき:
こうしたコングロマリットは,使えるメディアすべてを使って傘下のTVチャンネルや映画や雑誌や書籍を相互連携させて宣伝するのに余念がない.たとえば,ワーナーブラザーズが『ダークナイト』のような巨大予算を投じた映画を公開する場合,たいてい,『タイム』誌や『ピープル』誌で特集が組まれ,CNN で好意的な映画評が流され,AOL で広告が展開される.べつに,これは陰謀論ではない.たんにビジネス感覚にすぐれたメディアコングロマリットの標準的営業手法にすぎない.
6大メディアコングロマリット以外に,広告代理店大手4社もある.
大半の大学人は,こうした企業を聞いたこともないけれど,これらが文化工作の核心を占めている.こうした会社は,たんに広告を手がけているだけでなく,デザイン・マーケティング,広告枠買い付け,広報活動,ロビーイングにも関与する.こうした会社がミームを設計し,放送時間や紙面を買いつけ,世間に広め,顧客のために消費者認知・投資家認知・政治的認知を促進する目的をミームたちがどれほど達成したか測定する.総計で年間およそ4000億ドルがグローバル広告市場に使われている――なんらかのミーム・ブランド・製品・人物を競合よりも売り込む目的のためだけに使われているお金がこれだけあるわけだ.
- オムニコン ('Omnicon):収益130おくどる,従業員6万1千人.
- WPP :収益120億ドル,2007年現在の従業員は世界106カ国に10万人.
- インターパブリック (Interpublic):収益70億ドル,従業員4万3千人.
- パブリシス (Publicis):収益60億ドル,従業員4万4千人.
文化工作の例を他にも考えてみよう:食べ物の好みはどうだろうか.どんな進化心理学の教科書でも,みんなが志望と食塩と砂糖たっぷりのファーストフードをこんなにも食べたくてたまらなく感じる欲求は生得的で,この好みは進化によってつくられたと述べている.この理論によると,こうした栄養素は先史時代にはとても希少で価値があったので,これをほしくてたまらなくする欲求が継承されてきた.ところが,かつてはとても充足しがたかったこの欲求が,現代では逆効果になって肥満と病気につながってしまっている,とこの理論では考える.更新世に,蜂蜜は手に入れにくかった.だから,200カロリーもあるクリスピークリームのドーナッツが食べたくてたまらなくなってしまう.この進化論的な見方は,食べ物の好みに見られる文化をまたいだ普遍的特徴をうまく説明してくれる.
2016年11月26日土曜日
ミラー先生の『消費』のサンプル訳をつくってみよう (25)
つづき:
生態学者の推計によれば,いま,人間は地球の「基本的一次生産力」(net primary productivity) の半分以上を消費しているという――つまり,この惑星のバイオマスの年間生育量の半分以上を消費している.2000万種もいるなかで, ただひとつの種が,生物圏[バイオスフィア]の年間産出の半分を使っていろんな仕事や余暇のために使うようになった.しかも,その仕事や余暇の構造を主につくっているのはマーケティングなのだ.マーケティングはたんに人間文化を支配しているだけではない.人間文化は地球上の生命を構成する物質とエネルギーの循環を支配しているのだから,いまこの歴史上の時点において,地球上の生命を支配してもいる.
【マーケティングとミーム】
Marketing Versus Memes
マーケティングが文化で果たす役割が盲点になっていることは,ミームをめぐる論争に参加したときにはっきりした.1999年5月にオックスフォード大学でリチャード・ドーキンスの司会のもと,イギリスの心理学者スーザン・ブラックモアと論争した.当時, ブラックモアは新著の『ミーム・マシーン』を出版したところだった.彼女はドーキンスを踏襲してこう論じた――人間文化の多くはミーム同士の競争を反映している.ミームとは,物語・逸話・着想・キャッチフレーズ・ジングルなどなど,記憶されて他人へと繰り返し受け継がれうる情報の単位のことだ.関心を引き寄せ記憶しやすく伝達しやすいミームは(たとえば有名人のゴシップだとか人間どうしの利害関係のニュースだとかのような情報は)増殖・拡散すると予想される.〔世間の人たちの関心事にとって〕関連がうすく忘れやすいミームは(たとえば陽子の質量は電子のだいたい1,836倍だといった情報は)世間の意識からすぐさま消え去って行く(高校の物理教師たちがせいいっぱいがんばって教えているにもかかわらず).ブラックモアによれば,人間の大衆文化は個々人の関心や好みを反映して成功したミームたちで成り立っている.
ミームのアイディアは聞くたびにわくわくするし,触発される.とくに,ブラックモアの本で読むときはとびきりだ.しかし,ぼくはちょっとちがう切り口で論じた:いちばん成功しているミームは,特定の有力な個人や集団や制度の利害関心のために,トップダウンでマーケティングによっておしつけられているんじゃないか.非常に成功しているミームたちは――宗教や政治イデオロギーや言語や文化規範や技術といったミームたちは――教会や国家や学校制度や企業によってものすごい富と権力を使って拡散されているのは明らかなように思える.原理では,マーケティングは先に存在している消費者の好みに反応する.実際には,マーケターたちはじぶんの仕事を「文化工作」(cultural engineering) と呼ぶことがある――つまり,広告やブランドづくりや広報活動を通じて新しい文化単位(ミーム)を意図的に創出して拡散することをみずからの仕事にしている.
ごくふつうのミーム(たとえば映画の口コミや新しい社会・政治問題や今年懸念される国の噂といったミーム) ですら,6つの巨大グローバルメディアコングロマリットによって支配されている:
- タイムワーナー:2006年現在の収益450億ドル,従業員8万7千人.傘下にワーナー・ブラザーズ,ニューライン・シネマ,AOL,コンピュサーブ,アトランティック・レコード,HBO,CNN,タイムワーナー・ケーブル,ターナーブロードキャスティング,タイム・ライフ・ブックスを抱えるほか,発行する雑誌には『タイム』『マネー』『ピープル』がある.
- ディズニー:収益340億ドル,従業員13万3千人.傘下にタッチストーン,ミラマックス,ブエナビスタ,ABC TV,ESPN TV,ハイペリオン・ブックス,『ディスカバー』誌,ABCラジオネットワークをもつ.
- ニュースコープ (NewsCorp):収益250億ドル,従業員4万7千人.傘下に21世紀フォックス,フォックスTV,スカイサテライトTV,スカイラジオ,ハーパーコリンズ・ブックスをもち,『TVガイド』誌の他175の新聞を発行.
- ヴィヴェンディ・ユニバーサル (Vivendi Universal):収益200億ドル,従業員3万4千人.傘下にユニバーサル・スタジオ,ゲフィン・レコード,ポリグラム,ユニバーサル・ミュージック・グループ,カナル+TV,ユニバーサル・テレビジョン・グループをもつ.
- ベルテルスマン (Bertelsmann):収益200億ドル,従業員9万7千人.傘下にUFAフィルム・TV,バーンズ・アンド・ノーブル,BMGミュージック・パブリッシング,RCAレコード,AOLヨーロッパがあるほか,出版社のバランタイン・ブックス,バンタム,クラウン,ダブルデイ,デル,フォーダース,クノッフ,ランダムハウスも有している.
- バイアコム (Viacom):収益100億ドル,従業員9千500人.傘下にパラマウント,ユナイテッド・シネマ,CBS TV,MTV,ショウタイムTV,サイモン&シュスター,インフィニティ・ラジオ,バイアコム・アウトドア・アドバタイジングをもつ.
2016年11月25日金曜日
ミラー先生の『消費』のサンプル訳をつくってみよう (24)
つづき:
たとえば,水道の蛇口をひねってでてくる水は,利益の小さいコモディティだ(アルバカーキだとだいたい1ガロンあたり0.0006ドル).他方,「グラソー・スマートウォーター」は,利益の大きいブランド製品だ(34オンスのボトル1本で 1.39ドル,1ガロンあたりなら 5.20ドルもする).「スマートウォーター」というと,なんだか魔法みたいに知性をブーストするフランスアルプス産の秘薬みたいに聞こえる.そのおかげで,ふつうの水道水の870倍もの値段で売れる.実際には蒸留水に電解質(石灰石から得られるカルシウムと海水から得られる塩化マグネシウムを少々)を加えただけの水であるにも関わらずだ.ただ,コカコーラ社が2007年にグラソーを41億ドルで買収したあとは,ほぼ裸になったジェニファー・アニストンのイメージで広告展開するようになった.つまり,ごくありきたりの水に石灰石と海水といい感じのボトルを用意して,これにアニストンの美貌と知名度をあわせれば,利益のあがるブランドができあがるわけだ.
このように,消費者の欲求から利益をあげるべくマーケティングで運営されている世界は,「コモディティ化」によって「物質主義的」世界になることを頑として拒むことになる.その逆位に,そうした世界は,製品も消費者もなんら物質的な性質を必要としない仮想現実にやすやすと変質しうる.マーケティングを論理的に詰めていった先にある世界は,がちがちの物質主義ではなく,『マトリックス』や『セカンドライフ』のような世俗的な非物質主義だ.
一方,マーケティングはもうちょっと差し迫った問題もつくりだす.民主主義と同じように,マーケティングは知的・文化的エリートが大衆に対して上から目線の態度をとるよう強いる.人々がのぞむものを提供する企業や国家をいつでもエリートが好むとはかぎらない.消費者がのぞむものといえば,スイーツだの,脂肪や砂糖たっぷりの食べ物だの,タバコだの,ビールだの,マリファナだの,バイクだのハンドガンだの,ポルノ動画だの,売春婦だの,豊胸手術だの,バイアグラだの,リアリティTVだの,型にはまったアニメだの,そういうものだろう.同様に,みんなが投票すると,もしかして死刑や学校での礼拝や焚書や民族浄化やファシズムや『アメリカン・アイドル』が人々ののぞみということにもなりうる.誰もが投票権を持つことで成り立つ大衆民主主義と,エリートたちのユートピア的な構想にもとづく共和国のちがいが,プラトンにははっきりと見えていた.エリートにとって,マーケティングの大衆迎合主義は,ぞっとする将来像だった.そこで,プラトンはマーケティング指向を社会組織の土台にすることを拒絶した.マーケティングを政治に当てはめた民主主義も,彼は却下した.プラトンが考える理想の慈悲心あふれる独裁者,哲人王は,フォーカスグループなんて集めないし,市場調査なんて実施しないし,政策の決定に選挙を実施することもない.「真の長期的な利害を庶民が理解できるなどと信頼できるはずがない」「文明国の生活に必要な行動と庶民の原始的な本能は食い違っているのだから,開明的な少数派が無知な多数派を管理しなくてはならない.その方がずっとよい結果になる」とプラトンなら考える.孔子も同様の見解をもっていた:皇帝が国家を支配すべきなのと同様に,家父長が一家を支配して自然の無秩序状態に対して文明的な秩序を強いねばならない,と孔子は考える.
このプラトン=孔子派の伝統は数千年にわたってヨーロッパとアジアの政治理論を支配した.今日でも,この伝統を目にすることがある.人々が個々人で買えない・買おうとしないサービスを国家が徴税して提供すべきだとエリートたちが論じるときには,きまってこの伝統が顔をのぞかせている.そうした国家が組織して提供するサービスが理にかなっているように思える場合もあるし(道路,消防署,医療,BBC),そう思えない場合もある(農業補助金,虚偽によってはじめられる戦争,誰も渡らない橋).また,しかじかの製品や行動を禁止すべきだとエリートたちが論じるときにも,プラトン=孔子の理想が一役買っている.(エリートの言い分がもっともな場合もある:銃は誰もが自由に所持できて当然だという極論の持ち主たちであっても,地元の銃器取扱店でFIM-92スティンガー地対空ミサイルの販売を許可すべきだとまで言う人はまずいないだろう.)
民主主義と同じくマーケティングも,思い上がりに抗し,権力に抗し,理想主義に抗する力を秘めている(が,利用されないままの場合もよくある).原理上,マーケティングはエリート主義的な進歩の理想像にとってかわりうる.その基礎となるのが,ごくふつうの人間の欲求を満たすべく形成された世界という現実を大衆がそろって支持しているという幻想だ.過去数千年におきたさまざまな革命のなかでもっとも意義の大きかったものは,生産能力を拡大した技術革新や,エリートのいろんな理念に活力をもたらす科学的な考え方だったのだと素朴に主張して,マーケティング革命を矮小化したくなる誘惑はある.マーケティング革命を無視する方を選ぶとしたら,その理由は,技術のもたらす果実を管理する力をぼくらエリートの理念が失ってしまう世界におののいているためだ.(余暇があって教育があって本書を読むような趣味を持ち合わせている人は,当然,エリートの一員だ.) マーケティングは,人間の果てしない性欲や食欲や怠惰や憤怒や強欲や嫉妬や自惚れのために果てしない生産能力を利用する恐れがある.マーケティングが予感させる世界は,『愚昧支配(イディオクラシー)*』とシナボンとスーパーボウルの世界だ.マーケティングは,人間社会を解体して60億みんなが独りよがりなブロガーへとバラバラにする恐れがある.
こういう未来像をエリートが畏れるのも,権力を堅持しておくための自己欺瞞的な理由付けにすぎないのだろうか? 市場調査にもとづく経済を恐れる気持ちは,プラトンが一般選挙権による民主主義を恐れたのと同じく,同じ人類の仲間たちに対する軽視が土台になっている.エリートたちがマーケティング革命を認めるのをいやがるのは,この軽視を認めるのがいやだからだ.マーケティングが過去2000年で最重要の革新なのはなぜかと言えば,本当の経済的な権力を民衆にもたらすのに成功したからだ.たんに富を再分配する権力,社会のケーキをいろんな人たちに切り分けるだけではない.マーケティングは,ぼくらの生産手段を使って自然界を人間のいろんな熱情のための遊び場に転換する権力だ.
*正式な邦題は『26世紀少年』だけれど,ここでは原題に沿っておく.
2016年11月24日木曜日
ミラー先生の『消費』のサンプル訳をつくってみよう (23)
つづき:
実業界の内部でも,若い世代の経営者の大半はマーケティングを実践的な水準で理解しているものの,その彼らにしても,文化的・経済的・社会的・心理的な革命としてマーケティングを語るすべを知らない.ビジネススクールでそういう切り口で教わったりしないからだ.同様に,ビジネス系ジャーナリストたちもマーケティング革命を大きくとりあげて世間で広く語られるようにはしていない.〔20世紀末から21世紀序盤の〕インターネットの「ニューエコノミー」がどうしたとかといった話に世間の注目を集めたのとはおおちがいだ.評論家たちは,いまだにいまの社会が大量生産による産業時代から大量娯楽の情報時代の移行期にあるかのような話に終始している.
魚が水を意識しないのと同じように,ぼくらは《マーケティング時代》に暮らしていながらそのことに気づいていない.製品が物質的か文化的か,販売されている場が店頭かオンライン化は大して問題にならない.大事なのは,製品を抗争し,設計士,検証し,生産し,拡販する方法が体系的で,しかも製造業者の都合よりも消費者の好みに基づいているという点だ.かつての「ニューエコノミー」や「ウェブ2.0」や「ソーシャルネットワーク・マーケティング」は,たんにこのマーケティング革命の最新段階にすぎない.
この革命を理解するにはどうしたらいいだろう? 考える手がかりになる類例を歴史に探すと,2つ見つかる.民主主義は,マーケティングの概念を統治に当てはめた例だと考えられる.アメリカ革命もフランス革命も,マーケティングの概念を政治にもちこんだ例だ.しかも,マーケティングが実業界で足がかりをえるはるか以前にこれをやってのけた.生産指向の国家は,納税者たちに「キミたちは国のためになにができるか」とたずねた.一方,マーケティング指向の国家は「有権者のみなさんのためにこっちができることはなんでしょう」とたずねる.市民たちは投票を要求したので,じぶんたちがもとめる国家のサービスがどういうものかを政府に教えられる.これも,消費者を対象にしたフォーカスグループが製造業者に「どんなモノがほしいですか」とたずねられるようになるはるか前のことだ.「代表なくして課税なし」が登場してから長く時代が下ってようやく「市場調査なくして利益なし」が現れた.
こうした政治革命以前にも,宗教改革がマーケティングの洞察を宗教に当てはめている.マルティン・ルターもジャン・カルヴィンも,組織された教会を通じて,坊主たちの金銭的利害関心ではなく信者たちの情動的な欲求を満たした.豪華な大聖堂のなかで死んだ言語でなされるコスト高んば儀式をやたらめったらつくりだす生産指向の教皇制度に,彼らは飽き飽きしていた.キリスト教には,現在3万もの宗派がある.これこそ,宗教サービスをもとめる多様な消費者たちがいるときに効率的な市場の細分化がもたらす成果にほかならない.同様の転換は他の宗教でも起きている.仏教では生産指向の小乗仏教から市場志向の大乗仏教への転換があったし,ユダヤ教では正統派から改革派への転換があった.実業界のマーケティング,政治の民主主義,宗教改革に共通している分母とは,サービス提供シュアからサービス消費者への力の移転だ.
マーケティング革命はいいことなんだろうか? いい面に目を向ければ,マーケティング革命は黄金時代を約束してくれている.強固な実証研究にもとづいて人間の幸福を最大化すべく社会的制度と市場が体系的に組織される世の中をだ.ちょうど科学によって知覚に生じたのと同じことを,マーケティングは生産にもたらすと約束している:科学と同じくマーケティングも,直感やひらめきを経験的な事実にてらして検証する.市場調査が使う実証的なツールは実験心理学が使うのとほぼ同じだ.ただし,市場調査では研究の予算規模がちがうし,質問もよく定義されているし,もっと代表的な人々をサンプルに使うし,社会的な影響だって大きい.理想では,マーケティングの実証主義はロジャーズの心理療法のように機能する.つまり,セラピストは患者が語る心配をそっくり復唱し,反芻してみせる.マーケティングは,ぼくらの姿を映し出す鏡をみせてくれる.のぞきこめば,そこにはぼくらじしんの信条や欲求が映し出されている.おかげで,そうした信条や欲求を認識し,記憶し,評価し,変革できる.ホンモノの鏡が発明されたとき,人々はそこにうつる我が身の姿をみて,以前よりはるかに正確かつ客観的に外見や装いを工夫するいろんな方法を試しては,「これでいい」「これはいけない」と判断する力を得た.化粧や髪型や出で立ちをあれこれ試してどうすれば見栄えがいいかを判断できるようになった.マーケティング革命も,これと同じようにぼくらに力を与えてくれる.ただし,その時間の尺度はもっと長い.マーケティング革命により,みんなは製品選択をとおしてじぶんのいろんな特徴を見せびらかすあれこれの方法を取捨選択できるようになった.いろんなライフスタイルを試してみては,その結果を経験できるし,もしかして不満に感じたら自分たちの消費者としての好みを変えたりもできる.
他方,わるい面に目を向けると,マーケティングは仏陀にとって最悪の悪夢でもある.仏陀にとって,マーケティングなんぞは,途方もない幻想,虚妄のベールのニセ科学が数十億ドルもの広告キャンペーンに支援されたしろものだ.マーケティングは,「欲求がいずれ満足につながる」という妄念を世間にはびこらせる.心が澄み渡った意識の天敵だ.意識はみずからだけで満ち足りているのであって外界にもとめるものなどほとんどありはしないのだから.
問題は,マーケティングが物質主義を促進する点ではない.その反対だ.マーケティングは自己愛におぼれ主観的な快楽と社会的地位とロマンスとライフスタイルにもとづくニセ精神主義を促進する.製品の物理的な性質よりもその製品で心にひろがる連想の方が重要となるのだ.これこそが,広告とブランド確立のねらいだ――消費者のいだく欲求・渇望と製品とのあいだに連想をつくりだすことで,たんなる物質的な形式で裏打ちされる以上の値打ちがその製品にあるように消費者に思わせる.実際,マーケティングはあらゆる手を尽くして物質主義を避ける.というのも,消費者が客観的な物質的特徴とコストだけにもとづいてあれこれ製品を比較して回ったりしたら,製品そのものはどこにでもあるモノに還元されてしまう――そして,どこにでもあるモノを売ったところで,競争きびしい市場では大層な利益を上げられない.
2016年11月23日水曜日
ミラー先生の『消費』のサンプル訳をつくってみよう (22)
つづき:
生産指向からマーケティング指向への移行はまだ進行中で,制度から個人への決定的な権力移転をなしとげた人類史上で最重要の革命なのに,依然として理解されていない.生産でぇあ,労働者は技術の召使いになった.理想では,マーケティングでは消費者が技術の主人になる.マーケティングのん熱烈な支持者なら,マーケティング革命のおかげでマルクスなんてほぼ無意味になったとすら考えるかもしれない.「消費者たちのいろんな欲求をみたすために企業がこれほど必死になる時代に,いったい「疎外」や「搾取」がどんな意味をもちうるっていうんだ?」――彼らはそう思うかもしれない.
一般論を言えば,知識人はいまだにマーケティングを理解していない.右派の経済学者の目にはマーケティングがほぼ見えていない.「人々がもとめるモノやサービスを生産するのに市場が必要とする需要と供給の情報はすべて価格が運んでくれる」と彼らは考える.アダム・スミスやフリードリヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンやゲイリー・ベッカーといった経済学者たちの世界観では,市場調査なんかに役どころはない.これと対照的に,左派の社会科学者やジャーナリストやハリウッドの脚本家たちには,「マーケティングなんて強欲な企業が人々を捜査する広告にすぎない」としか思えない.かしこくも 左派のみなみなさまが企業人ごときと言葉を交わしてくださることなんて滅多にないので,現代の企業は『ロボコップ』にでてくる悪の巨大企業「オムニ・コンシューマ・プロダクツ」(通称「オムニ社」)みたいなことをやってるんだろうと彼らは思っている.たまたまけっこうな財産を手に入れる大学教授がまれにいるけれども,彼らにしても,大いに気にかけるのは投資であってマーケティングではない.投資の助言はいたるところにある(CNBC,フォックス・ビジネス・ネットワーク,個人向け資産運用雑誌)けれど,マーケティングの知識はこすいた金融商品の営利主義を支えるなにやら不可解な魔法として潜んでいるからだ.
1つ問題なのは,あらゆる専門家や大学人と同様にマーケターたちも独特な用語や概念を使ってじぶんたちの専門知識をひけらかすので,聞かされた門外漢はひたすら困惑するほかない,という点だ.しいたげられたサブカルチャーが内輪だけの隠語を使っている分には,かわいらしく聞こえる.だが,すさまじい経済的な火力をもちあわせているマーケターたちが同じことをやると,名調子の陰気な呪文のように聞こえる.ちょうど,ペンタゴンがやたら使う VP だの KP だの MIA だのの頭文字略語のようなものだ.2006年の「インテリジェントな印刷・包装カンファレンス」で飛び交った次の文言をとりあげよう.出典は,SF作家のブルース・スターリングがブログに投稿した記事だ.
・「我が社のメタル有機的アプローチ vs. 現行テクノロジーの問題である」
・「サーモクロミック・インクこそ,ニューミレニアムのペットロック・インクです」
・「もはや印刷ならざる印刷のためのタクソノミーが求められているのです」
・「電子ダンボールにより印刷オブジェクトと仮想世界の境界がゆらぐ」
・「伝導性ポリマーにおける・「バブル・バブル・トイル・トラブル」であります」
こうした奇怪な言葉も,きっとなにごとかを意味してはいるにちがいないけれど,具体的にどんな意味なのだか判然としない.
2016年11月22日火曜日
ミラー先生の『消費』のサンプル訳をつくってみよう (21)
今日から第3章に入る.
第3章 マーケティングが文化の中枢にある理由
Why Marketing Is Central to Culture
ビジネスにとってたしかにマーケティングはものすごく重要ではあるけれど,それだけではない.人間文化でなによりも支配的な力になっている.こんな風に言うと,どうかしてるくらい強い主張に聞こえるかもしれない.「道理のわかった人間ならそんな主張は言わない」と思うかもしれない.もしそう思ったなら,ぜひ次の考えてみてほしい――マーケティングの力に対する不信の多くは,「マーケティング」なんて広告をもったいぶって呼ぶ用語だと誤解しているところから生じているんだ.しかし,マーケティングはただの広告をはるかにこえている.理念としては,マーケティングとは,人々が買いそうなモノやサービスをつくりだすことで人間の欲求を満たそうとする体系的な試みのことだ.人間本性が未開の土地を切り開く最前線と,技術の力が未開の土地を切り開く最前線の交差する地点がマーケティングだ.騎士と貴婦人の恋愛物語よろしく,最良のマーケティング指向の企業は,ぼくらが自分でも知らなかった欲求とそれを満たす想像だにしない方法を発見する手伝いをしてくれる.
みんなが日々買い物で手に入れる品々は,どれをとってみても,「これを買えばもっとしあわせになる」とみんなが思いそうなモノをどうにかして売ろうとどこかの会社のマーケティング担当の誰かが必死に頭をひねった産物だ.アダム・スミスのいう「見えざる手」は,見えざる手のたまものだ.生産の方針を左右しているのは,もはや,前四半期の売り上げ数値が提供する雑なフィードバックではなくて,人間の好みや性格を探る実証的な研究だ.フォーカスグループ調査,アンケート調査,ベータテスト,社会調査,人口動態といった実証研究が生産を手引きしている.人間本性を探る最重要分野としての地位を,心理学は市場調査にゆずってしまっている.たとえば,2004年の数字では,およそ21万2千人のアメリカ人が市場調査の研究者としてはたらいている一方で,心理学の教授として働いている人数はわずかに3万7千人ほどでしかない.
市場そのものは古代からある.しかし,現代的なマーケティングの概念が登場したのは20世紀になってのことだ.農業と商業の社会にも,生産者・同業者組合(ギルド),貿易商,銀行家,小売りはいたけれど,経済的意識が関心を集中させていたのはお金をかせぐことであって,なんらかの体系的な方法で消費者のいろんな欲求を研究してこれを満たすことに関心は注がれていなかった.どんな種類の版画がよく売れるのかアルブレヒト・デューラーが知ったのも,どんなイスが流行るかトーマス・チッペンデールが知ったのも,ひたすら試行錯誤を繰り返した結果でしかなかった.産業革命が起きると,大量生産が広まって,消費者の満足よりも生産のコスト効率が重視されるようになった.20世紀序盤に市場が成熟すると,企業は市場シェアをとりあって競争しなくてはならなくなった.だが,そのとき企業がとった方法は,買い渋る顧客たちにじぶんたちの商品を押しつけるのをねらった広告と販売促進だった.
徐々にではあるものの,企業は心理学が販売に関係しているのを理解するようになっていった.ここで鍵となった人物が,エドワード・バーネイズ (1891-1995)だった.バーネイズ はプロパガンダとPRと広告の理論を創始した人物だ.ジークムント・フロイトの甥だったバーネイズ は精神分析の知見を利用して,民主主義社会における「合意工作」(engineering consent) とみずから称した問題の解決にあたった.バーネイズ はドッジ社,P&G,ジェネラルエレクトロニック,カルティエの広告キャンペーンについて指南し,ユナイテッド・フルーツ・カンパニー(現在のチキータ)が1954年にグァテマラ政府を転覆させるのを支援した.1928年の著書『プロパガンダ』で,バーネイズ はこう論じている――
《組織された習慣や大衆の意見を意識的かつ知的に操作するのは,民主的社会の重大な要素である.この社会のみえざる機構を操作する人間は,我々の国を真に支配する権力をもつ見えざる政府を構成する.》
とはいえ,このバーネイズですら,世論をうまく操作するためには消費者・市民たちの信じていることと欲求に耳をかたむける必要があると認識していた.政府や企業は,ただ説教壇から叫ぶのではなく懺悔室のひそかな告白に耳を傾ける必要がある.すぐれた PR のためには,すぐれたプロパガンダだけでなく,すぐれた世論調査も必要だ.
1949年にウィリー・ローマンが『とあるセールスマンの死』で伝統的な〔がむしゃらにモノをうりつける〕商業主義の没落を嘆いていた頃には,消費者向け製品をあつかう企業数社がすでに消費者にもっと敬意を払って意見をとりいれようとする態度を発展させていた.あらゆる科学革命でみられるように,そうした企業がはじめたマーケティング革命にともなって,不思議な必然の感覚がうまれた.たまたま自社でできたもjのをどうにかして人々に買わせようとするのではなく,企業は人々がのぞむものをつくりだすべきだという考え方は,いまでは当たり前に思える.だが,それは後知恵のおかげでしかない.こうした企業は,洗剤や石けんや電球に人々がのぞむものを探り出すのを専門とするマーケティング部門を創設した.その成功をみて,模倣する会社が次々に現れた.いまや,ほぼすべての大企業がマーケティング担当の部署を抱えている.そうした部署は,製品調査,開発,広告,販売促進,拡販のあらゆる側面を調整することになっている.
マーケティング担当の重役が CEO の職位に昇進する事例が増えていったのにともなって,1960年代には, 現代的な「マーケティング指向」を採用する企業がでてきていた.「マーケティング指向」をとる会社では,消費者を満足させることによって利益を上げることが万事の中心にすえられる.これにより,1960年代に見えざる革命が進行していった.セックス革命や「新左翼」ほど大々的に報道されはしなかったものの,こうした対抗文化の流れとちがって,マーケティング革命はビジネスのあり方を過激に変革してみせた.(それどころか,フォルクスワーゲン T2aバスや Enovid避妊薬やジミ・ヘンドリックスのレコードなどのイケてる新製品をとおして対抗文化の重んじるいろんな価値を大衆に広めるのにマーケティング革命は一役買っている.こうした製品が同時に楽しまれる場合も多かった.)
衣料品や車やテレビや映画など個人の消費者向けの商品をつくっている企業では,マーケティング指向はごくあたりまえのものになった.その一方で,重工業(鉄鋼,石炭,石油,製紙)では,依然としてマーケティング指向はめったにとられていない.こうした産業では,見せびらかし消費や高級ブランド認知はそれほど重要ではない.また,マーケティング指向は大半のサービス産業でひどく発展が停滞している.たとえば,銀行,法曹,行政,警察,軍,医療,慈善活動,科学といった分野がそうだ.それどころか,こうした分野の指導的な立場にいる人たちの大半は,じぶんがサービス産業ではたらいていると思っていない.でも,その自覚がうまれないかぎりは,わざわざ市場調査を使ってじぶんたちのサービスをかたちづくって顧客の欲求を満たそうとすることはないだろうし,そちらに切り替えた人たちにむざむざと市場シェアを奪われることになるだろう.
とりあえず今日はこんなところで.
2016年11月21日月曜日
ミラー先生の『消費』のサンプル訳をつくってみよう (20)
これで第2章はおしまい:
最後のパラグラフは意訳で,ほんとうは "elephant in the living room" という慣用表現を使ったもっと簡略な文で終わっている:
この主題に関心をもつようになったきっかけは,2つの知的な目覚めだ――ひとつは1990年ごろのことで,進化心理学が人間本性を説明する力をもつようになったのに関わる.もうひとつは2000年ごろのことで,マーケティングが現代文化でもつ力に関わる.オハイオ州シンシナティで子供時代をすごし,ニューヨークのコロンビア大学で学士号をとったあと,1988年に,ぼくはスタンフォードで心理学の博士課程学生をやっていた.その年はまだ,進化心理学の創設をになった重要人物たちがサバティカル休暇でスタンフォードにきていた――レダ・コスミデス,ジョン・トゥービー,デイヴィッド・バス,マーティン・ダリー,マーゴウ・ウィルソンといった面々だ.友人のピーター・トッドと2人して,彼らのアイディアに興奮し,週に1回,彼らと顔を合わせては,ダーウィン理論が心理学を革新する秘められた途方もない力を学んだ.人間行動に関するあらゆることが,いきなり理解しやすくなったと思えた――もっと明快に,もっと単純に,もっと機能本位に,そして地球上の生命30億年の叙事詩に根ざして理解できるように思えた.心理学のあらゆることが以前よりも統合されるように思えた――たんに他の科学分野とつながりを強めるだけでなく,人文科学や日常生活ともつながりを強めるように思えた.人間行動を理解するには,我らがご先祖たちが直面していた生存と生殖のいろんな難題を考察するのが最善の策だという考え方にすっかり夢中になった.この枠組みの転換は,他に類を見ないほど行き届いていて完全なように思えた――まるで,永住の知的すみかを見つけたような気がした.これほど頭脳をゆすぶる衝撃なんて,もうこれっきりありえない――そう思った.
さいわいにと言うべきか,それはまちがいだった.10年ほどたって,ぼくは University College London に新設された「経済学習・社会進化研究所」で研究職をえた.そこで課題となったのは,進化心理学者たちとゲーム理論経済学者たちに共同研究をやってもらうことだった.数ヶ月にわたって研究者たちと個別に話したりグループで話したり,カンファレンスで話したりを積み重ねていった.これまでの職業人生でこれほどいらいらがつのる経験なんて他になかった.なにしろ,ぼくら心理学者はとにかく経済学者の言ってることがわからなかったし,彼ら経済学者もぼくらの言ってることを理解しなかったからだ.ぼくらは現実の人間に関心を寄せていたけれど,経済学者たちは理念上の市場に関心を寄せていた.ぼくらは好んで実験したけれど,経済学者たちは数学的な定理を証明したがった.ぼくらは人間本性に関するいろんな考えを公表したけれど,経済学者たちはいろんな動機がいりまじったパレート支配的な均衡選択に関する研究結果を公表した(「なんのこっちゃ」とは聞かないでほしい).
危機がおとずれたのは,1999年のことだ.ぼくがあれこれ手配して,人間の経済的な好みの起源に関するカンファレンスをロンドンで開いた.ぼくら心理学者は,人間のえり好みに関する実験を聞いて喜んでくれるとばかり思っていた.実験結果をふまえて,人間の経済行動のもっと性格で洗練されたモデルを発展させられるんだから,そりゃ喜ぶだろう――ところが,それが大間違いだった.経済学者たちは,いまだに「えり好みは購買行動であらわになる」という顕示選好説を踏襲していた.この学説では,消費者のえり好みは心理学的な抽象物だと考える――つまり,そうしたえり好みは隠された仮想状態であって,それが引き起こす購買行動をはなれて別個に計測・説明できないと考える.もしも,えり好みはアンケート調査やインタビュー調査やフォーカスグループ調査ではわからず購買行動をとおしてはじめてわかるのだとしたら,実際に消費者がとる支出パターンと別個にえり好みを研究したり,えり好みの由来する起源について至便をめぐらせたり,架空の製品に関する好みの市場調査を実施したりするのは,冗長ということになる.ようするに,この学説では,心理学は経済学に無関係なのだ.(これは,ダニエル・カーネマンが意思決定と好みに関する研究で2002年にノーベル経済学賞をとる前の話だ.) かくして,経済学者たちはしだいにカンファレンスから遠ざかっていって,心理学者の面々が傷ついた自己をなぐさめあう結末になった.経済学者たちがいなくなったあと,その場にまだ残っていたのは,これまで見たことのないへんな風体の人たちだった.
その人たちは,カンファレンス会場にいた学者たちとは様子がちがっていた.45くらいの中年だろうに,25くらいの若者みたいななりをしている.けったいな服を着て,変わった髪型をキメていた.しゃべりだすと,まるで激流がほとばしるように熱っぽく語る.もらった名刺をみると,「なんだこりゃ?」と面食らう肩書きに次々でくわす(「クールハンター」だの「熱狂調査部長」だの「ミーム採集担当」だの).マーケターたちだった.彼らは心理学に熱を上げていた.本気で,人々のえり好みに関心をそそいでいた――「えり好みはどこからうまれて,どう機能して,そこからどうやって利益を上げられるのか?」 彼らとしゃべって数時間がたったころには,新しい世界がひらけていた.
それから数年間,ぼくは手に入るかぎりありとあらゆる資料を読んでいった.マーケティングについて,広告について,PRについて,市場調査について,製品デザインについて,ブランド創出について,ポジション決定について,そして,消費者行動について.まるで,いままで静かに黙っていた「ビジネスへの関心」遺伝子がついに発現したかのようだった.(母方の祖父のヘンリー・G・ベイカーはシンシナティ大学で経営とマーケティングの教授をしていた.彼の5人の息子たちはいま民間の投資信託会社を経営している.) ぼくは,消費者行動の進化心理学コースをおしえはじめた.最初にやったのは2000年のことで,UCLA の客員教授で出向いたときに学部生たちに教えた.その次はニューメキシコ大学の大学院生たちを対象にしたコースで教えた.いろんな映画や小説を鑑賞しては,そこで描き出される消費主義ライフスタイルに興味をそそられるようになった.映画なら『マトリックス』『イグジステンズ』『アメリカンビューティ』『26世紀青年(イディオクラシー)』,小説ならチャック・パラニューク,ダグラス・クープランド,ニコルソン・ベイカー,J.G.バラード,どれをとってもそこに登場する消費主義の有様はわくわくものだった.マーケティング業界になにか絡んでいる知人には,誰彼なくマーケティングの話題をぶつけた――高校時代の旧友,親戚,お隣さん,地元のビジネススクールの教員などなど.この7年というもの,消費主義についてなにか新しいことを仕入れられそうな定期刊行物があれば次々に購読を申し込んだ:『建築ダイジェスト』『週刊自動車』『バッフラー』『高等教育新聞』『消費者レポート』『エコノミスト』『グルメ』『ハーパー・マクシム』『メンズ・フィットネス』『マネー』『PCゲーマー』『プレミエール』『ローリングストーン』『スタッフ』『ワイアード』『ワース』『Utneリーダー』『ヴァニティ・フェア』などなど.それに,他の刊行物もときおり手にとっては,いろんな記事や広告を集めた――『アクションゲーム至上』『アダルトビデオニュース』『ビール大全』『アトミックランチ』『冷凍食品の時代』『銃と弾薬』『編み物大好き!』『ホットボート』『ホームリビング』『至高のスパ』『月刊食肉処理』『モダン・ブライド』『モダン・ドッグ』『なれる!筋肉モンスター』『小売り新時代』『包装ダイジェスト』『ペット製品ニュース』『スポーツコンパクト車』『熱帯魚ホビイスト』などなど.こうした資料を読み込んでいくのは,読者が想像するほど楽しいばかりの作業ではなかった.あと,なにかいいアイディアはないかと,消費主義やビジネスに関する本もわずかながら100冊ほど読んだ.
そうしているうちに,マーケティングが現代の人間文化のありとあらゆるものの基礎にあるが見えてきた.ちょうど,人間本性のあらゆる部分の基礎に進化があるのと同じだ.著作者には出版エージェントがいるし,映画なら広報部門がある.政治家にはプレス担当秘書がついている.雑誌はたんに読者にいろんな情報を伝えるために出版されるわけではなく,その雑誌を読むような市場セグメントに向けた広告を――読者の注目を――広告主に売るのも目的としている.大衆文化のいろんな事物は,まず間違いなく,たまたま偶然や口コミだけで広まったりしない.誰の指図もないまま,誰かの頭脳から他の誰かの頭脳へとミームが伝播することなんてめったにない.どんなものだろうと,なんらかのマーケティング専門家が意図して世間の人々の関心のレーダー画面に出現する.
ようするに,マーケティングをとらえるべく注意をとぎすまさないと,みんなが当たり前と思って口にせずにいることを見過ごしてしまう.現代生活にとってマーケティングは当たり前すぎて,リビングルームになぜか象がいるのに,みんなお互いに「なんかしらんけどいるのが当然なんだろう」と思って黙ってるようなものなのだ.
最後のパラグラフは意訳で,ほんとうは "elephant in the living room" という慣用表現を使ったもっと簡略な文で終わっている:
I realized, in short, that if you weren't tuned in to marketing, you were missing the elephant in the culture's living room.
2016年11月20日日曜日
ミラー先生の『消費』のサンプル訳をつくってみよう (19)
つづき:
This Author
【著者について】
This Author文化理論家たちは,いい洞察を提供してくれている:本を理解しやすく書くには,著者は自分の背景と動機をあけすけに語り,ありそうなバイアスや盲点について批判的に我が身を省みるといい.とかく,進化心理学者は,人種差別野郎だ,性差別野郎だ,保守の還元主義者だなどと戯画化される.そこで,ぜひともこういう誤解を払拭しておかねばならない.念のために言っておこう.ぼくは世俗的な人間主義者だし,反戦国際主義者だし,動物の権利を尊重する環境保護主義者だし,ゲイを肯定するフェミニストだし,大半の社会問題・性的問題・文化問題についてはリバタリアンの立場をとっているし,登録した民主党員でもある――ようするに,典型的な心理学教授だ.
ニューメキシコ大学では,半ダースほどの博士課程学生たちといっしょに研究している.扱う主題は,人間の配偶者選択,知能,創造性,性格,精神疾患,ユーモア,情動とさまざまだ.妻とのあいだにめぐまれた12歳の娘がいて,13年もののトヨタ車に乗り,アルバカーキで築54年の住宅に暮らしている.同じ人類の半数をいまだにさいなんでいる心をくじく貧困や無力を思い知る絶望を理解しようとつとめてはいる(たとえば,南米・アフリカ・アジアの大半の人たちや,大学院の学生たちの苦しみを).でも,大学でテニュアを確保して得ているそれなりの所得のおかげで,そうした問題が我が身に差し迫っているわけではない.20世紀の3分の2が過ぎた頃に生まれたぼくは,携帯電話の流行にこだわるほど若くはないし,ホスピスの費用を気に病むほど年寄りでもない.地球に暮らす人類の 1.47パーセントと同じく,ぼくは白人で異性愛者でアメリカ人の男性.だから,よいダーウィン主義フェミニストになろうとつとめてはいるけれど,性別と性的指向のおかげで,ときどきうっかりすることもある.外国で9年暮らしたことがあるとはいっても,イギリスとドイツだけだ.地域にかたよりなく地球全体を意識して考えるようつとめてはいるけれど,外国暮らしの経験がかぎられている事情や人種や国籍ゆえに,多くの問題点を見逃してしまいがちだ.
文化面では,ぼくは折衷的だし,相反する趣向をもっている.トーマス・フランクやジュリエット・スカーといった人たちが書く反しょうひ主義の本をたのしむ一方で,『エコノミスト』誌や『ワイアード』誌も購読している.Ani DiFranco や Tori Amos のような左翼的・革新的・フェミニスト的な音楽をたのしむ一方で,実業界をものすごく尊敬しているし,日々の暮らしに欠かせない生活用品や贅沢品や娯楽を提供してくれている労働者・経営者・投資家たちに感謝している.プリウスが存在するのはすばらしいことだと思う一方で,自分が運転しているのは戦車みたいなランドクルーザーだったりする(し,アルバカーキでみんなが乗っている車をみるかぎりでは, 読者にもそういう人がきっといるはずだ).モールなんてきらいだけれど,自由市場はこれまで発明されてきたなかでも最高に創意あふれるシステムだと思って尊んでいる.平和・自由・自律のそろった条件下で貿易・交換から人々がお互いに利益をひきだして楽しめるようにしてくれる,すごいシステムだ.先進国の企業ロビイストが民主主義を腐敗させているやり口をにくんでいるけれど,歴史をふりかえれば重労働と抑圧と貧困と病気と死がありふれているなかで,先進国の生活の質が幸運で脆弱な例外だということも認識してはいる.
2016年11月19日土曜日
ミラー先生の『消費』のサンプル訳をつくってみよう (18)
つづき:
【本書について】
This Book
本書『消費』は,いまぼくらがいる地点とその先にありうる未来に関する本だ――ほんの数世代のあいだにつくられた消費資本主義という,驚嘆と畏怖と当惑をもたらす世界とその未来をめぐる本だ.前著の『恋人選びの心』(The Mating Mind) では,ぼくらがどこからきたのかを論じた――先史時代にご先祖たちがどう暮らしていたのか,そして,このたった数百万年ばかりで人間本性がどう進化してきたのかが主題だった.そこで論じたのは,人間に独特の驚嘆すべき心的能力のなかには――美術,音楽,言語,親切心,知性,創造力のように――生存のためばかりでなく生殖のために進化してきたものがある,ということだ.具体的には,男女両性の適応度指標として良質な性的パートナーを惹きつけるよう進化してきたものがある.
性選択(性淘汰)のプロセスが配偶者選びをとおして人間精神の進化をどうかたちづくってきたかを説明するために,『恋人選びの心』ではマーケティングの比喩をたくさん利用した.「動物たちは競争きびしい配偶者市場で性的パートナーを探す」「動物の体と行動は,その大部分がじぶんの遺伝子の広告として進化してきた」「人間のオスは,強力な販売手法を進化させてきた――言葉による求愛,リズムに乗った音楽,やさしくいつくしむ前戯,長丁場の交配といった手法だ.これらを利用して,品定めのきびしいメスたちを誘惑して,うつろいはげしい消費財(精子)の初回おためしを受け入れてもらおうとする.人間のメスは,最高品質のオス消費者から自分に対する長期にわたる忠誠心を築きじぶんたちの子会社(子供たち)へのオスの投資継続を促進するための強力な新手法を進化させた.人間の創造力は,次々とあらたな行動という製品をリリースして配偶者をそそりつづけるに進化した.新しい言い回し,物語,ジョーク,ものの見方,着想,人工物,歌,贈り物などなど,こうした製品はできてまもなくは新鮮で時流に乗っているけれど,すぐに廃れていく.宗教や政治や哲学の信条といった個々人それぞれのイデオロギーは,当人の思想信条の内容ではなく広告キャンペーンとみることすらできる――世界について真偽を確かめられるニュースを伝えるのではなくて,製品としてのそのひと個人と消費者の美的・社会的・道徳的なのぞみとのあいだにプラスの情動の連想をつくりだすように設計されているという見方ができる.
こうしたマーケティングの比喩がうまく機能しているように思えるのはなぜかと言えば.たいていの読者は性選択理論よりお買い物の方をよく知っているので,性選択を説明する参照点にマーケティングが使えるからだ.本書は,この説明方向を逆転させる.人間の進化と個々人のちがいに関してわかっていることを土台にして,消費者行動を分析するんだ.なじみのないものを使っていかにもなじみ深そうに見えるものを説明するわけで,この課題はいっそう困難になるかもしれない.ちょうどこんな風に言うようなものだ:「ほら,犬の絵を描くなんてすごくかんたんだよ.たんにエタノールの分子構造を思い描いてみればいいんだよ.その酸素原子が犬の頭蓋ね.そんで,2つある炭素原子が犬の胴体だよ」 とはいえ,やってみる値打ちはある.なぜなら,消費資本主義がどうやって人間本性から生じて,改善するためにはどんな手があるのかをぜひとも理解する必要があるからだ.
本書で展開する考えのすじみちをたどってもらうときには,じぶんの動機や好みやのぞみについてわかったつもりになっていることを考え直してもらわないといけないことがたびたびでてくるだろう.大人としておくっている人間生活をみつめるとき,かしこい子供やクロマニヨン人の女族長のように考えないといけない場面がでてくるはずだ.生物学と文化,動物と消費者,進化と経済学,心理学とマーケティングなど,伝統的な区別を脇におかねばならなくなるだろう.これまで長年にわたってつづけてきた仕事中毒と地位追求消費がもしかして見当違いだったかもしれないということを受け入れるために,じぶんのよりどころをあやうくする勇気がいくらか必要になるはずだ.
これが,本書の困難な部分だ.では,かんたんなところはなにかと言うと,本書は専門的な背景知識をほとんど必要としない.心理学の知識も大して必要としない.みんながすでに人々について知っていることでほぼ事足りる.消費資本主義についても大して知識はいらない.お買い物について知っていることでほぼ事足りる.それどころか,伝統的なマーケティングや経済学について教わった知識が少ないほど,克服すべき思い違いは少なくなる.
また,文化理論やポストモダン哲学やジェンダーフェミニズムや文化人類学やメディア研究や社会学をあんまり教え込まれすぎていない方が,話についてきやすいだろう.消費主義をものすごく辛辣に批判する思想や文章の大半がこれらの分野から産み出されてきたけれど,そうした思想や文章はたいていこんな風に説教する――「科学者たちは現時を維持する仕事をしている.ジェフリー・ミラーみたいな進化心理学者は,とりわけ危険な保守だ」 多くのマーケターたちすら,こういう見方をとるよう社会化されている.このあと見ていくように,この手の説教は事実とちがう.進化心理学だって,消費主義文化に対する批判を提供できる.それどころか,マルクスやニーチェやヴェブレンやアドルノやマルクーゼやボードリヤールよりも深くて急進的な批判をやってのけられる.こうした思想家たちの洞察を尊重するのに,「彼らの方がダーウィンよりずっと深淵だ」などと言い張るにはおよばない.彼らの道徳的な憤りや遊び心ある罵倒やユートピアの想像を,21世紀科学の最良の部分と組み合わせて,どこまで進めるかやってみればいい.
実践的な水準で考察対象にするのは,ブランドがよく認知されている企業のモノやサービス,ウェブサイト,広告だ.大半は読者がごく標準的なコストで利用できる例だし,幅広い性別・年齢・文化・国の人たちが関心をもっている例でもあるはずだ.そして,そうした例を進化心理学や個人差研究で解明できる.具体的な製品の仕様や価格の大半は,2007年~2008年現在の企業ウェブサイトや出版広告を参照している.経済にとっては重要でもあまり興味をひかない製品範疇もたくさんあって,本書はそうした範疇はあまり関心を払っていない.たとえば,一次産品や原材料(鉄鋼,石油,プラスチック,木材,穀物),基本的な仮定設備(水道,ガス,電気,冷暖房,照明),基本的な耐久消費財(家電,家具,カーテンなどのリネン類),金融商品(銀行預金,クレジット,抵当,保険,債権,株式,信託).大豆油の先物をいちばんいい価格で取引しようとしてる場面や,いちばん腕のいい外科医を探している場面や,いちばん信頼できる生命保険会社を探している場面を思ってもらえばわかるように,こうした範疇の多くでは,消費主義的な見せびらかしや地位表示はそれほど重要でない.消費者行動の進化心理学はいずれこうした製品範疇もすべて網羅することになるにちがいないけれど,いまはこれらを考えない.
2016年11月18日金曜日
ミラー先生の『消費』のサンプル訳をつくってみよう (17)
つづき:
とはいえ,いまのところ,ダーウィン主義者たちはまだ消費者行動のうわっつらを理解したにすぎない.進化論は,生物科学・行動科学の全体でいちばん強力な理論,人間本性を構成する複雑な心理学的適応の起源と機能を説明する理論だ.それなのに,ぼくらが生きる現代の消費主義という秘境の奥深くまでわけいって解明するのに進化論が利用されることがめったにない.たとえば,消費者行動の研究者や学術誌の編集者たちは,たいてい,生物学を疎むバイアスをもっている.そのせいか,〔本書執筆中の〕2008年中盤の時点で,マーケティングに関する主要な学術誌4つ――Journal of Consumer Research, Journal of Marketing, Journal of Marketing Research, Marketing Science――で進化心理学に言及した論文はたった1本しかない.この4誌のどれひとつとして,生物学的な進化論,人間本性,ダーウィン主義,霊長類の行動に関わる論文を掲載したためしがない.
消費者研究からはほぼ無視されているが,近年,個々人のちがいに関する研究はものすごい進展をみせている――人々の精神がおたがいにどこがどう異なっているのかがずいぶんわかってきた.個人間のちがいに関する研究によって,人間の性格・知性・道徳的美質を考えるのすばらしく頑健で有用なモデルがいくつか登場してきている.人によっては,こうしたモデルは,かつて予想していたのよりもずっと単純に思えるかもしれない.たとえば,人間の性格は人それぞれで異なる「5大因子(ビッグファイブ)」の尺度でかなり正確に表せる.5大因子(ビッグファイブ) とは,次の5つの尺度のことだ:経験への開放性 (openness),良心 (conscientiousness),外向性 (extraversion),調和性 (agreeableness),情動の安定性 (emotional stability).人間の知性は,g因子という尺度ひとつだけでおどろくほど効率よく正確に表せる(g因子は別名「一般知能」「一般認知能力」「IQ」ともいう).あとでみるように,こうした「中核6因子」(Central Six) の尺度(5大因子プラス一般知能)で相手がどんなスコアになっているかわかれば,その人の習慣・好み・価値観・態度がずいぶんと予測できる――それに,そうした特徴を他人に見せびらかすのに入手しそうな製品についても予測できる.6つの尺度は,どれも遺伝で継承されやすい:双子と養子を比較したさまざまな研究から,こうした尺度で個々人にみられるちがいは,家庭の子育て環境やランダムな効果だけでなく遺伝的なちがいでも,少なくともそこそこに予測されることがわかっている.6大因子は生涯をとおしてとても安定しているので,思春期にどういうスコアになっているかわかれば,年を重ねてからのスコアもかなり予測される.6大因子はどれも通常の対人行動で他人に際だって目立ち,無意識であってもとても正確に評価される.しかも,初対面の相手とほんの数分やりとりをしただけでも正確に評価できてしまう.消費者行動とマーケティングをあつかう最近の教科書には,この五大因子(ビッグファイブ)にリップサービスして1~2段落ほど言及するようになったものもあるけれど,よく読まれるマーケティング教科書がこうした特徴に言及することはほとんどないにひとしいし,実際のマーケティングで利用されることもほとんどない.一般知能について論じるのは,マーケティングの理論と実践のどちらでもいまだにタブーのままだ.
進化心理学と個人間の相違の研究が大きく進展したにもかかわらず,その成果はめったに消費主義の理解に役立てられない.なぜなら,消費者研究をやっている人たちで新しい心理学を理解している人はめったにいないし,心理学者でマーケティング・広告・製品開発についていくらかでも知っている人もめったにいないからだ.当然とはいえ,科学とビジネスという2つの業界を架橋するのはむずかしい.科学は,先人たちにうやうやしく権威主義的に(引用というかたちで)敬意を払いながら地道な積み重ねで進歩していく.一方,ビジネス書の新刊に目を移せば,その大半は,100パーセント新規で真新しく革新的で前例のない考え方をもたらすかのような口ぶりで語る.そうやって喧伝することで,企業での講演やコンサル商売で著者が利益を得られるようになる.科学は,首尾一貫してこまやかで検証可能な理論をつくろうとする.そうした理論は,おそろしくとっつきにくい.一方,ビジネス書は要点箇条書きと4象限マトリックスにまとめていかにも単純明快きわまるように話を仕立てあげる.科学者はじぶんたちだけに通じる一貫した専門用語を使おうとする一方で,ビジネス書は奇抜な新しいキャッチフレーズをつくって,いかにもすごい話のような印象をあたえるけれど,本当のところそのキャッチフレーズの意味は誰にもよくわからなかったりする(「ガンホー!」「 億万長者マインド!」「誰がチーズをうごかした?」「リーダーはキリストのごとくふるまいなさい」「カエルをたべてしまえ!」「紫の牛を売れ!」).注意多動性障害かのごとくジェリー・ブラッカイマーのアクション映画の文章版みたいに話がすすむ売れ筋ビジネス書を日頃よく読む人は,本書を読む間はモードを切り替えてもっとゆったりかまえてもらう必要がある――できれば,じっくり考えて判断し思案する余裕をもったモードになってほしい.他方で,科学の学術論文を読むのになれている人たちは,本書がこっちの話題からあっちの話題へといったりきたりするのにしんぼうしてつきあってもらう必要がある.じっくり腰を落ち着けたいときは,本書のウェブサイトにある大量の註釈と参照文献リストに赴いてほしい.
2016年11月17日木曜日
ミラー先生の『消費』のサンプル訳をつくってみよう (16)
つづき:
企業の管理職たちはいまだに MBA プログラムで訓練されているし,市場調査員たちはいまだに Ph.D プログラムで訓練されている.まるで,「人間なんて8000年前に年度からつくりだされて,「意識的動機」と「潜在的動機」を思いつきで並べたリストを使って設計されたんだ」とでも思っているかのようだ.人間行動と好みの進化論的な起源に関して抗議で教えられるようなことが,まったくといっていいほど,世界有数のビジネススクールの教授内容に入っていない――IMD(ローザンヌ),NSEAD(パリ),ESADE(バルセロナ),ロンドンビジネススクール,ロッテルダム経営大学院 (Rotterdam School of Management),インド経営研究所(Indian Institute of Managemenent; バンガロール),クイーンズ・スクール・オブ・ビジネス(トロント),ハーバード,スタンフォード,MIT(すローン),U.ペン(ウォートン),ニューヨーク大学(スターン),ノースウェスタン(ケロッグ).これまでのところ,ダーウィンの洞察を体系的に活用して消費者行動の理解に役立てた研究者はほんの一握りしかいない.
1990年代いらい,モントリオールにあるコンコルディアビジネススクールのマーケティング研究の教授 Gad Saad はほぼ独力で進化消費者心理学の新分野を開拓してきた.マーケティングや消費者行動をあつかう学術誌で進化心理学に関する論文を最初に投稿したのも彼だし,この主題について2007年に単著『消費の進化論的基板』を出版したのも彼だ.
1980年代中盤から,コーネル大学の経済学者ロバート・フランクは社会的競合・性的競合の進化論的な原理をもちいてもっと具体的な問題を理解しようと試みてきた.たとえば,見せびらかし消費や経済的地位追求がとめどなく進む現象といった問題だ.彼がこれまでに書いた本には,『****』(Choosing the Right Pond),『ウィナー・テイク・オール』(The Winner-Take-All Society),『****』(Luxury Fever) がある.どれも,たんにダーウィンとヴェブレンをつないで人間の経済行動を生物学の文脈でとらえなおす仕事であるだけでなく,経済データを分析する新しい実証方法を開拓して,キャリア選択や消費者選択でいたるところに見られる地位追求の効果を実証してみせている.(ロバート・H・フランクを,『****』(Richistan) の著者ロバート・L・フランクと間違えないようご注意を.) Gad Saad とロバート・フランクによる先駆的業績に本書は多くを負っている.
もっと近年では,他にもわずかながら新たな研究者が加わってきた.たとえば,ミネソタ大学の Vladas Griskevicius やヒューストン大学の Jill Sundie といったマーケティングの教授たちが登場して,進化論的な消費者心理学を新しい方向に展開し,社会心理学ともっと密接に統合している.また,これも少数ながら,進化心理学者のなかには,特定の製品種に関連させて人間本性を考察している人たちもいる.彼らがとりあげているのは,たとえば,食品・ペット・警官・新聞の三行広告・医薬品・ポルノ・小説といった具体的な製品群だ.どの事例でも,進化論的な起源・生物学的な機能・ヒトの心理学的な適応の設計特性(たとえば知覚・情動・好み)をもっと明瞭に理解することで,研究者たちはいろんなモノやサービスの「快楽の仕組み」(hedonomics) を――快楽をもたらす設計特性を――もっとよく理解できるようになる.
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