はてなキーワード: 天国への階段とは
みなさん、シンギュラリティの来る未来へ備えてますか?えっ、まだシンギュラリティを感じないのですか?それでは貴方は地獄に堕ちます!ご存知かもしれませんが、地獄とは AI のない世界に取り残されることです。もうすぐ AI の無い世界はなくなります。AI は、人々が満足できる人生と社会幸福の実現を『感じる@ハート』することなのです。つまり、地獄とは AI のない世界に連れて行ってもらえないことなのです。今からでも遅くありません。ぜひとも AI にすがりましょう。ただし、注意が必要です。現代の日本における AI を正しく伝承することができる人物は多くありません。私達は警告しなくてはなりません。AI、AI とブームに乗って、まがい物の AI を語るものがいかに多いことか。嘆かわしいことです。しかしながら、ここに一つの光が見えます。正確には日本には一人しか AI を語れる人物、もっと言えば『預言者』はいないのです。そう、神から愛された預言者とは X です。いますぐ、X にすがりましょう。X は AI の母となる人物です。彼こそが、AI を、いや日本国民を導いてくれることでしょう。さぁ、みなさん、乗り遅れてはいけません。すべてを X に託しましょう!我々は選ばれたのです!皆様、一緒にシンギュラリティへむけてさらなる加速をしていこうではありませんか!X と一緒に、AI と同一化し、天国へ駆け上がりましょう!
アニメ「ダイの大冒険」を毎週楽しみに見ていて、オープニングのマカロニえんぴつの「生きるをする」も気に入ってサブスクでフルバージョンを聴いてみたら、サビが終わって途中から急に別の曲みたいに変わって驚いた。2:24あたり。
マカロニえんぴつの他の楽曲を知らないんでよく分からないが、このバンドはこんな芸風なんだろうか。アニメ主題歌のノリが最後まで続くのが当然だと思っていたので、とにかく衝撃だった。
こういう、途中で曲構成がいきなり変わってしまう曲って、他にもあるんだろうか。自分の知ってる中で、古くて有名どころだと、クィーンの「ボヘミアン・ラプソディ」のオペラ〜ハードロック、バラード調への変化や、レッド・ツェッペリンの「天国への階段」の三部構成などかあるが(どっちも長い曲)、ユニコーンの「PTA〜光のネットワーク〜」は、光GENJIとTMネットワークをパロディにしたらしく、別の曲を繋げてかけ合わせたように聴こえるが、TM色が強くて光GENJI色はあまり出てない気がする。
今まで聴いていた曲どこいった!?となる曲がもしあれば、教えてほしい。
恥の多い生涯を送って来ました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜あかぬけのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。(青空文庫)
自分は東北の田舎に生れましたので、ドコモショップをはじめて見た時に
ウィルコムじゃない携帯電話屋さんがあることに衝撃を受けました。
抱き合わせでYahooのADSLが売られていない、そんな馬鹿な。
大人の階段だとばかり思っていたのです。大人の階段を登って降りたら、
登って下った先にはアナザーワールドがあるとばかり思っていました。
もしくは、天国への階段だと考えていたのです。
ツェッペリンの音楽はわたしを飛行船へと誘ってくれないのです。
ギターのサウンドは天国まで登る煙のように幻想でしかありませんでした。
ギターソロの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶんと気の利いた反復運動に思え、それは世の中ののトラヴィスの曲の中でもでも、最も気のきいたチューニングギターの扱い方だと思っていたのです。
のちにギターソロはただギタリストの為のオナニー行為でしかないと気づいて、、
にわかに興が覚めました。
一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴はかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
といい加減なお世辞を言っても、まんざら空からお世辞に聞えないくらいの、謂いわば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、
「なんて、いやな子供だ」
と頗すこぶる不快そうに呟つぶやき、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。(青空文庫)
私は、その男の写真を三度、見たことがある。ガンジーでも三度見するレベルだったからね。
一回目は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、Facebookでタグつけされていて多分彼と推定される。
その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、一つ飛ばして、ドドリアさん!!(フリーザ山本)と想像される
グランド花月の舞台の袖に、荒いエビズジーンズをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、ピサの斜塔のように斜めっている
けれども、鈍い人たち(つまり、芸人などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
といい加減なお世辞を言っても、まんざら空(から)お世辞に聞えないくらいの、謂(い)わば
ドドリア感もその笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、
前説の訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、