12月25日の記事の続きです。
前回は、韓国には古くから半島最北端の白頭山から半島南部まで至る山並みを1筋につながっている白頭大幹という地理概念があったこと、それが日本統治下、日本の学者による山脈図が学校で教えられる一方で忘れられてきたこと、ところが近年再び白頭大幹が注目されるようになったことについて記しました。
再び注目されるようになったきっかけは、1980年冬に山岳人&古地図研究家のイ・ウヒョンさん(1933~2001)が仁寺洞の古書店で1冊の古書を見つけたことだそうです。
※イ・チャンウォン「大東輿地図」等には<仁寺洞の古書店>の店名は書かれていませんが、<「風のように生きたイ・ウヒョン>と題されたイ・ウヒョンの略伝(→コチラ。韓国語)によると、彼はその頃あの有名な通文館(→関連記事)で売り物として出ていた(!)「大東輿地全図」を借りたりしているのでそこかもしれません。
で、その古書の名は「山経表(산경표)」。申景濬(シン・キョンジュン.1712~1782)が書いたと伝えられる地理誌で、山の体系を族譜のように記述したものですが、イ・ウヒョンさんが通文館で偶然見つけたのは崔南善(チェ・ナムソン)や朴殷植(パク・ウンシク)等が古文献の整理・保存のため1910年に設立した朝鮮光文会から1913年に刊行されたものです。
【朝鮮光文会刊行の「山経表」。朝鮮半島の山々の<始祖>というべき白頭山が最初のページ冒頭に記されています。】
※韓国版ウィキペディアの申景濬(신경준)の項目(→コチラ)によると、「山経表」が彼の著作というのは必ずしも明確ではないようです。
この山の<系図>によると、たとえば智異山(チリサン)は123世の子孫となっています。そして最後は、全羅南道光陽市の白雲山(백운산.ペグンサン)で、171代目の子孫となっています。
「山経表」を入手した6年後、イ・ウヒョンさんはその書物で朝鮮半島のすべての山が1大幹・1正幹・13正脈という1つながりの系譜のように分類されていることを公表します。
※「14正脈が正しい」との異論も提起されています。(→コチラ。韓国語)
イ・ウヒョンさんは、また現在使用している太白山脈、小白山脈等の名称ははいつから使われ、白頭大幹はなぜ消えたのか疑問を持つようになり、日本の国会図書館にまで行って結論を出します。それが前の記事でも書いた20世紀初頭の小藤文次郎による朝鮮半島の地質調査と、山脈図の作成でした。
こうした事実を知った彼は、それを学校教育に反映させるため教科書作成にも関わります。
1990年代に入って、月刊誌「人と山(사람과 산)」が白頭大幹に関する記事を連載し、白頭大幹の概念はより広く知られるようになりました。
以後、白頭大幹を縦走する登山家が増えていきます。イ・チャウォンさんの本「大東輿地図」によると、「イバラに覆われた道なき道をさまよったり、炎天下でばてて倒れたり、前も見えない大雨に見舞われたりといった苦労を経ながら、白頭大幹は表面的な概念ではなく、実在する朝鮮半島の骨格であることを全身で確認した」とのことです。
白頭大幹復活に大きな役割を果たしたイ・ウヒョンさんは2001年67歳で世を去ります。
その翌々年の2003年12月「白頭大幹の保護に関する法律」が成立します。→コチラのニュース記事によると、白頭大幹の自然環境保護のため建築物の新築や土石採取等々の開発を規制することを目的とした法律で、関係諸業者や地主等の反対、山林庁と環境省の所管をめぐる対立等のため成立に至るまでいろいろ調整に難航したとのことです。
つまり、その頃にはすでに白頭大幹は地理の分野だけでなく、環境行政にも関係するキーワードになっていたということですね。
そして私ヌルボが思うには、2005年頃から白頭大幹はまた新たな段階を迎えるようになります。それは自然や環境に対する意識の高まりという風潮とも相まって、観光や町起こし等と結びつけられたり・・・といったように、一般の人々の間にも白頭大幹への関心が広がり、さまざまな取り組みが行われるようになってきたことです。
その具体的なあらわれについては続きで、ということにします。
☆上記イ・ウヒョンさんの略伝はとても興味深くて、つい読みふけってしまいました。
自動翻訳は→コチラです。
→ <[韓国]民族主義の色濃い伝統的な地理観? <白頭大幹>をめぐって③>
前回は、韓国には古くから半島最北端の白頭山から半島南部まで至る山並みを1筋につながっている白頭大幹という地理概念があったこと、それが日本統治下、日本の学者による山脈図が学校で教えられる一方で忘れられてきたこと、ところが近年再び白頭大幹が注目されるようになったことについて記しました。
再び注目されるようになったきっかけは、1980年冬に山岳人&古地図研究家のイ・ウヒョンさん(1933~2001)が仁寺洞の古書店で1冊の古書を見つけたことだそうです。
※イ・チャンウォン「大東輿地図」等には<仁寺洞の古書店>の店名は書かれていませんが、<「風のように生きたイ・ウヒョン>と題されたイ・ウヒョンの略伝(→コチラ。韓国語)によると、彼はその頃あの有名な通文館(→関連記事)で売り物として出ていた(!)「大東輿地全図」を借りたりしているのでそこかもしれません。
で、その古書の名は「山経表(산경표)」。申景濬(シン・キョンジュン.1712~1782)が書いたと伝えられる地理誌で、山の体系を族譜のように記述したものですが、イ・ウヒョンさんが通文館で偶然見つけたのは崔南善(チェ・ナムソン)や朴殷植(パク・ウンシク)等が古文献の整理・保存のため1910年に設立した朝鮮光文会から1913年に刊行されたものです。
【朝鮮光文会刊行の「山経表」。朝鮮半島の山々の<始祖>というべき白頭山が最初のページ冒頭に記されています。】
※韓国版ウィキペディアの申景濬(신경준)の項目(→コチラ)によると、「山経表」が彼の著作というのは必ずしも明確ではないようです。
この山の<系図>によると、たとえば智異山(チリサン)は123世の子孫となっています。そして最後は、全羅南道光陽市の白雲山(백운산.ペグンサン)で、171代目の子孫となっています。
「山経表」を入手した6年後、イ・ウヒョンさんはその書物で朝鮮半島のすべての山が1大幹・1正幹・13正脈という1つながりの系譜のように分類されていることを公表します。
※「14正脈が正しい」との異論も提起されています。(→コチラ。韓国語)
イ・ウヒョンさんは、また現在使用している太白山脈、小白山脈等の名称ははいつから使われ、白頭大幹はなぜ消えたのか疑問を持つようになり、日本の国会図書館にまで行って結論を出します。それが前の記事でも書いた20世紀初頭の小藤文次郎による朝鮮半島の地質調査と、山脈図の作成でした。
こうした事実を知った彼は、それを学校教育に反映させるため教科書作成にも関わります。
1990年代に入って、月刊誌「人と山(사람과 산)」が白頭大幹に関する記事を連載し、白頭大幹の概念はより広く知られるようになりました。
以後、白頭大幹を縦走する登山家が増えていきます。イ・チャウォンさんの本「大東輿地図」によると、「イバラに覆われた道なき道をさまよったり、炎天下でばてて倒れたり、前も見えない大雨に見舞われたりといった苦労を経ながら、白頭大幹は表面的な概念ではなく、実在する朝鮮半島の骨格であることを全身で確認した」とのことです。
白頭大幹復活に大きな役割を果たしたイ・ウヒョンさんは2001年67歳で世を去ります。
その翌々年の2003年12月「白頭大幹の保護に関する法律」が成立します。→コチラのニュース記事によると、白頭大幹の自然環境保護のため建築物の新築や土石採取等々の開発を規制することを目的とした法律で、関係諸業者や地主等の反対、山林庁と環境省の所管をめぐる対立等のため成立に至るまでいろいろ調整に難航したとのことです。
つまり、その頃にはすでに白頭大幹は地理の分野だけでなく、環境行政にも関係するキーワードになっていたということですね。
そして私ヌルボが思うには、2005年頃から白頭大幹はまた新たな段階を迎えるようになります。それは自然や環境に対する意識の高まりという風潮とも相まって、観光や町起こし等と結びつけられたり・・・といったように、一般の人々の間にも白頭大幹への関心が広がり、さまざまな取り組みが行われるようになってきたことです。
その具体的なあらわれについては続きで、ということにします。
☆上記イ・ウヒョンさんの略伝はとても興味深くて、つい読みふけってしまいました。
自動翻訳は→コチラです。
→ <[韓国]民族主義の色濃い伝統的な地理観? <白頭大幹>をめぐって③>