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非国民通信

ノーモア・コイズミ

東京電力とちょっとだけ仕事で関わった時の話

2011-11-29 23:16:23 | 社会

 以前にも何度か触れたことですが私の勤務先ではKDDIとの取引があり、KDDI発注の工事案件を請け負うこともあります。そしてKDDIは割と東京電力との関係も深いため、KDDIの設備が東京電力の局舎内に置かれていることもあるわけです。なので東京電力館内での工事も希に発生するのですが、これがまた大変なのです。世間的にはどう思われているのか知りませんけれど、東京電力が色々とうるさいので。

 多かれ少なかれ、工事発注元の会社は色々と口を出してくるものです。元請けである我々だって、下請け会社の現場作業員には色々と口を出しますから、何事もそういうものなのでしょう。現場作業員は口やかましい元請け会社の営業を疎ましく思い、元請け会社の営業はアレコレ注文をつけてくる発注元の担当者を陰で毒づくみたいなことは、どこでも見られる光景だと思います。とはいえ、別に嫌がらせで現場に口出ししているわけではありません。何よりもまず、トラブルを起こさず工事を終えてくれとの意図があってのことです。

 現場作業で何か事故が起これば、世間的には工事発注元が責任を問われがちで、それは当然ながら発注元は大いに嫌がります。同様に事故が起きれば、元請け会社は次回から仕事を発注してもらえなくなる恐れがあるわけです。過失であろうともトラブルを起こして発注元に損害を与えるような会社に仕事を頼みたがる企業はいません。そんなわけで、仕事を失わないために元請け会社は現場作業員の一挙手一投足に注文をつけ始めることになります。場慣れした作業員からすれば、営業や管理の人間に現場での行動を細かく指図されることを好まない様子ですが、そうはいっても発注元も元請け会社も必死なのです。

 しかるに、いくら細かく作業規定を設けて杓子定規にルールを守らせたところで、いつかは事故が発生してしまいます。どう頑張ってもなかなか無事故で乗り切るのは難しく、事故0を目指して結構な頻度で会合が開かれたりもしていますが、現場で守るべき制約事項が際限なく増えていくばかりで事故件数はというと「微減」がいいところで空回りしている感も否めません。工事発注元や元請け会社の営業が考え出した「事故防止のためのルール」は概ね作業員から面倒くさいばかりの茶番としか思われていないフシがあり(現に私から見ても冗談みたいな代物もあります)、ちょっと目を離すと無視されたりもしがちです。まぁ、事故を減らすための努力はしなければならないものであるにせよ、そう都合のいい方法は見つかっていないのでしょう。

 ……で、圧倒的にうるさいのが東京電力なのです。KDDIだってアレコレと指図してくるわけですが、東京電力は別次元です。たかが半日の工事(それも東京電力の設備ではなく、東京電力の館内にあるKDDIの設備の工事)であっても、東京電力による監視は大変に厳しく、何度となく事前協議や計画書の提出を要求され、もれなく東京電力もしくは関電工による立ち会いが付いてきます。工事が始まるまでに繰り返された事前協議などに費やされた営業の人件費とかを考えたら、実は赤字なんじゃないかという気がしてなりません。元々セキュリティ関係には異常に厳しく立ち入り制限してきた会社ではありますが、例の原発事故後はその辺の管理がいっそうエスカレートしてきた印象です。

 何せ猛烈な逆風の吹く時代ですから、KDDI所有の設備といえど東京電力の施設内部で事故でも起こされたら、これを足がかりに東京電力への非難を強めようと手ぐすね引いて待ち構えている人も少なくないのでしょう。東京電力としては決して隙を見せられない状況にあるわけです(そうは言っても事故0が不可能であるように、東京電力も落ち度0ではいられないようですが)。ゆえに、自社の館内で作業をする工事会社の人間に対しても、傍目には馬鹿馬鹿しく思えてくるほどの細かい口出しをしてくるのかも知れません。東京電力側としても絶対にこれ以上の事故を起こして欲しくはない、その結果として現場作業員はおろか元請け会社の営業その他が辟易するような状況ができあがるのです。

 全ての会社や現場作業員がそうであるかは私の断言できるところではありませんが、往々にして元請けの営業なり、そして工事発注元の人間なりが現場に居座ることは、作業員にとってはあまり歓迎されていないように思います。もちろん発注元や元請け会社にしてみれば、手順書通りに施工されているかどうか目を光らせる必要があるにせよ、作業員からすれば別に手助けしてくれるわけでもないのにアレコレと文句ばかりつけてくる人でしかなく、率直に言えば邪魔な存在なのかも知れません。だからといって現場作業員に丸投げというわけにも行かないのでしょうけれど……

 そこで頭に浮かぶのは、福島第一原発でのことです。世間では、やれ東京電力社員を現場で作業させろと喚く人が目立ちました。嬉々として東京電力を非難する人たちの言葉とは裏腹に、実際のところ東京電力側では少なからぬ社員を現場に派遣しており被曝量が基準値を超える人も出たわけですが、これは適切だったのでしょうか。もちろん、施設所有者が現場の状況を把握するのは必要ですし、猫の手も借りたい状態であったろうことは想像に難くありません。しかし、工事発注元の人間とはしばしば、現場作業員からすれば口うるさいだけの役立たずです。とりわけ非常時であるほど現場のことは作業員に一任した方が適切、そういう局面もあったのではないでしょうか。

 現場の作業員(下請け会社の人間も多い)に任せてしまえば、当然のように囂々たる非難は輪をかけて強まったであろうと容易に想像が付くところではあります。だからといって、その世間の非難を低減するために、必要以上に自社(東京電力)の社員を、とりわけ現場作業員としての訓練を受けていない人間を事故現場に送り込んではいなかったか(私の勤務先の場合ですと、東京電力の研修を受講した人間でないと施設に立ち入りさせてくれなかったりするのですが)、その辺は批判的に検証されるべきだと思います。それは世論に応える行為ではあったかも知れませんが、決して正しいことではありませんから。

 

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都合よく使われる世界の基準

2011-11-27 22:59:26 | 社会

 先日の記事でも軽く触れたところですが、日本の放射線基準値は緩いなんてヨタ話があるわけです。カラクリは至極簡単なことで、要は「条件を揃えて比較しない」「一部だけをピックアップして比較する」ことによって、あたかも日本の放射線量の基準が緩いかのような主張が繰り出されてきました。こういう手法は別に放射線量を巡るものに限らず、官民の給与格差なり日本と諸外国の法人税課税等々でも、読者(視聴者)をミスリードすべく使われてきた常套手段でもありますね。今更、こんな稚拙なやり方に惑わされる方がどうかしていると思わないでもありません。

 たとえばベラルーシの場合、事故1年目の線量限度は年間100ミリシーベルトに設定されており、事故から3年目となった1988年の段階ですら、子供用食品の基準値は1850Bq/kgだったそうです(参考、ベラルーシの25年 段階的な対策に学ぶ | FOOCOM.NET)。事故から四半世紀が経過した今は概ね厳しい基準値を設けるベラルーシですが、乾燥キノコの基準値は2500Bq/kgであり、事故から半年も経っていないのに乾燥キノコや乾燥茶葉などの乾物から500Bq/kgを超える線量が検出されただけで大騒ぎの日本とは隔世の感があります。もちろんチェルノブイリと福島の原発事故では全く程度が違うわけですけれど(両者を同列に扱うとしたら、それはチェルノブイリの被害者に対する冒涜であるように思います)、少なくとも日本の基準値が緩いと言うのは非常に偏った見方だとわかるはずです。

 それでも尚、日本の放射線基準は緩すぎる、世界の基準に合わせろと叫ぶ人は少なくありませんでした。まぁ、公務員の給料が(民間より)高いとか日本の法人税が(各種控除や社会保障費負担などの実際の企業負担を考慮せず)高いとか言う人と同じで、自分の思想信条を主張するために事実を都合良くつまみ食いして理解しようとする人も少なくないわけです。一方、あるときには「世界の基準に合わせろ」と声を張り上げておきながら、また別の局面では諸外国を日本を脅かす侵略者と見なし、日本独自のものを守れと説いているとしたら、それはまた苦笑させられるのではないでしょうか。原発事故とTPP参加を巡って沸き上がった声の多くには、そうした御都合主義としか言えないものも多いように思います。

 グローバルスタンダードと呼ばれるものもピンキリで、中には日本独自のスタイルの方が適切である場合もあるでしょう。一方で諸々のILO条約を批准していないことで知られる我が国でもあります(1号条約/一日8時間・週48時間制、47号/週40時間制、132号/年次有給休暇、等々)。教育に費やされる公的予算は先進国中で最低であり、同様に男女格差も先進国中で最低(最大)を争っているわけです。一刻も早く、日本独自のあり方は放棄して国際基準に合わせて欲しいと思います。しかるに国際機関からの勧告を受けることも珍しくない我が国ですが、状況が是正される気配は一向にありません。

 他にも調査捕鯨と称し湯水のごとく税金を投入しては遙か彼方の南極海まで遠征して鯨肉在庫を膨れあがらせる行為など世界的な非難を浴びてきたことですが、日本政府が態度を改める様子はなさそうです。国民から絶大な支持を集めている死刑制度もまた国際的には存置する方が少数派(お仲間にはなりたくないロクデナシ国家ばっかりです!)と言えますが、これもまた日本は堅持する気配です。結局のところ、良かれ悪しかれどの国も自己流を貫くときは自己流を貫いてしまうもので、どこかの国と条約を結んだからと言って全てが条約相手国の流儀に統一されるなんてことはあり得ないのですが、まぁいろいろと被害妄想を強めてしまう人もいるようですから困ります。

 一方では「外国」「世界」「国際基準」を持ち出しながら、別の局面ではそれに対して強い警戒感を露わにする人もいるわけです。時に権威として外国を持ち出し、返す刀で夷敵として外国を持ち出す、まぁ忙しないことですが、その辺はあまり気にしない人もいるのでしょう。「是々非々で」とか、「良いものは取り入れる、悪いものは拒む」とか言っておけば聞こえはいいですけれど、どうも違うような気がしますね。批判的に検証するのと最初から否定してかかるのは違うとか以前に書いたものですが、それと同じことです。原発事故(放射線の影響)を巡っては、政府や専門家への全否定と、ある種の活動家やジャーナリストへの盲信が目立ちました。信じるものと信じないものを区別する、当人は是々非々で判断しているつもりでも、何かが間違っているはずです。それと同じことが、放射線量の基準からTPPを巡るネット世論に対しても当てはまるように思います。

 

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ジャパニーズ・ビジネスパーソン

2011-11-25 22:05:54 | 雇用・経済

世界で最も長時間勤務者多い国は?(日経ウーマンオンライン)

 世界有数の残業大国と考えられている日本だが、世界で最も長時間勤務者が多いのはブラジルだった。また日本だけが長時間勤務における男女の差がほとんどなく、唯一「残業の男女平等」が進んでいる。

 レンタルオフィス事業を手がけるリージャスが世界のビジネスパーソン約1万2000人を対象に調査を実施したところ、長時間(1日あたり11時間以上)勤務するビジネスパーソンの割合が最も多い国はブラジル(17%)で、次いで日本、フランス、南アフリカ(いずれも14%)が並んだ。

 男女別で長時間勤務者の割合をみると、日本は男女とも14%で、平等に残業しているといえる。これは他国では見られない特徴で、日本以外の長時間勤務者の割合は男性の方が女性より明らかに多い。

 また仕事を家に持ち帰るかとの問いに対しては、日本以外の国は「週に3回以上持ち帰る」という人が「週に1回」「数週間に1回」「持ち帰らない」のいずれよりも多かったのに対し、日本は「持ち帰らない」(34%)が最も多かった。他国では家で仕事をすることが一般化されつつあるが、日本は会社に残って仕事を仕上げる傾向が強い。

 記事の冒頭でも触れられているように日本は世界有数の残業大国と考えられており、現に従来の労働時間調査において日本は常に世界の最上位に君臨してきたわけです。ところが引用元では「世界で最も長時間勤務者が多いのはブラジルだった」と、これまでの調査結果とは異なる報告がなされています(そうは言っても日本は世界平均を悠々と上回っているのですが)。なぜでしょうか? 基本的に、こういうデータは何らかのバイアスがかかっているものと見ておくのが無難です。

 たとえば官民の給与格差云々です。人事院調査だと差はないのに、不思議と公務員の方が圧倒的に高給となっている統計が張り出されますが、これは公務員の給与平均が非現業(≒ホワイトカラー)の正規職員のものであるのに対して、民間の給与平均はパートタイマーなどの非正規や短時間労働者を含めた平均であることが一般的です。あるいは日本の放射線基準値は緩いなんて主張は、国によって品目ごとに緩いものと厳しいものが分かれている中から、日本より基準値が厳しいものだけを選び出したり、事故直後の暫定基準と平時の基準を並べるなど、例によって条件を揃えない比較として不適切なものでしかありません。だいたいにおいて「隠された真実」なんてものはなく、目新しく見えるデータは往々にして偏っているだけだったりするものです。

 そこで今回の報道の元になっている調査は、何が偏りを生んでいるのでしょうか。別に難しいことではなく、引用記事にあるように「レンタルオフィス事業を手がけるリージャスが世界のビジネスパーソン約1万2000人を対象に調査」したためと考えられます。つまり「レンタルオフィス事業の対象となるようなビジネスパーソン」という限定された職種の話であるが故に、一般的な調査結果(日本人の労働時間は長い)とは異なる結果が導き出されたわけです。そして日本が世界有数の残業大国と言われるのと同じくらい、「どこの国でもビジネスエリートは長時間働いている」とも言われてきました。今回の調査は、その従来通りの見解を裏付けるものであって、決して覆すものではなさそうです。

 日本で長時間労働と言ったら、飲食・小売業界の店長だったり、タクシーやトラックの運転手が真っ先に思い浮かびますが、この辺が「ビジネスパーソン」としてリージャス社の調査対象に含まれたとは考えにくいところです。末端のSEなんかも長時間労働で名高いですけれど、こちらもどうなんでしょうね。いずれにせよ、エリートはバリバリ働いてバリバリ稼ぐ、薄給の労働者はお気楽に働く、というのであればバランスが取れているように思うのですが、日本の場合は薄給の労働者でもエリートと同レベルのクォリティを要求され、責任を負わされがちなところに問題があるような気がします。ここは「ビジネスパーソン」ではなく、そこに含まれない人々の調査も望まれるところです。

 日本人があまり仕事を家に持ち帰られないとの調査結果に関しては、昨今の日本企業はセキュリティに煩く社員による情報の持ち出しへの警戒感が強いとか、要は会社が社員をコントロールしたがる文化なのかなという感じもしますが、やはり「ビジネスパーソン」限定の話ですので、その辺は保留することとしましょう。それよりも明らかに日本と「その他すべて」の国とで顕著な差が出ているのが、女性の長時間労働です。世界経済フォーラムによるジェンダー・ギャップ指数では常に先進国中の最下位を争い、とりわけ政治と経済の分野での男女差の大きさを指摘されて久しい我らが日本ですけれど、なぜか「ビジネスパーソン」の労働時間となると、日本「だけ」が男女平等なのです。

 最近は知りませんが、ソ連崩壊後のロシアでは「絶対に女性の方がよく働いている」と聞かされてきました(問題の調査でロシアが対象に含まれていないらしいのが悔やまれるところです)。どうにもロシアの男性は環境の変化に弱いのか男性ばっかり平均寿命が急速に縮んだり(その結果、男性が少なくなるから一夫多妻制を導入しようなんて法律が提出されたくらいです、もちろん否決されましたけれど)、色々とネタ要素もあるのですが、日本の場合はどうしてなのでしょうか。むしろ夫婦の役割に関しては男女の分業傾向が強い日本だけに、職場では男性の方が長く働いて当たり前のはず、しかるに結果は逆ですから驚きます。

 まぁ、この辺は純然たる憶測ですけれど、男女格差が大きいほど女性も二極化するのかな、と思います。一方は男性を外で働かせて有閑マダムを目指す人々、もう一方は男性を相手に肩肘張って生きる人々で、男性優位の社会(組織)の中でのし上がるべく、男性以上に男性的に働いている感じの人も多いのではないでしょうか。男性優位の日本の会社で女性が男性に負けない評価を得るためには、男性以上にバリバリ働かなければいけない、そうなると女性の労働時間も「ビジネスパーソン」みたいなエリートっぽい階層に限っては長くなるものなのかも知れません。甲斐性のある男を捕まえるか、男と張り合って長時間労働かの二択で、まったりマイペースで働くというのが難しいところもありそうな気がします。もっともマイペースで働くというのは男性にとっても難しいです。バリバリ働いて会社に認められないと、無能な中高年だのノンワーキングリッチだのフリーライダーだの罵倒された挙げ句「あいつらを簡単に解雇できるようにしろ」「若者に席を譲れ」とか言われちゃいますので。

 

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しまむらの方が好きです

2011-11-22 23:14:20 | 雇用・経済

ユニクロ、新卒一括採用を見直しへ 大学1年で採用も(朝日新聞)

 カジュアル衣料最大手のユニクロを展開するファーストリテイリングは、来年にも大学新卒の一括採用を見直す検討に入った。従来の慣行にとらわれない採用方式が、企業に広がる可能性がある。柳井正会長兼社長が朝日新聞のインタビューで明らかにした。

 現在、同社は国内では年1回採用を行っている。新しい方法では、採用時期を通年とし、選考する学年も問わない方式を検討している。柳井氏は「一括採用だと、同じような人ばかりになる。1年生の時からどういう仕事をするか考えて、早く決められる方がいい」と話す。

 具体的には、1年生の時点で採用を決め、在学中は店舗でアルバイトをしてもらい、卒業と同時に店長にするといったコースが想定されるという。

 さて、ユニクロが大学1年の時点でも採用を決めるとかで、結構な話題を攫っているようです。色々と奇妙な採用方式ですが、社長が言うには「一括採用だと、同じような人ばかりになる。1年生の時からどういう仕事をするか考えて、早く決められる方がいい」とのことです。( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェーヘェーヘェー これを取材した朝日新聞では「従来の慣行にとらわれない採用方式」などと持ち上げています。まぁ、とかく新卒一括採用は日本の因習として批判されることも多いだけに、それと違うことをやれば新進的であるかのごとく感じられるものなのかも知れません。もっとも、頻繁に人が辞めて絶えず人員補充の必要に迫られているブラック企業の類いは昔から通年採用が当たり前なんですけどね。

 通年採用は別に日本でも珍しくないので何を今更ですが、「選考する学年も問わない方式」はどうでしょうか。ある意味で究極の護送船団方式と言えるアメリカのメジャーリーグなんかは、これが普通の採用方式みたいです。大学卒業を待って指名するのではなく、在学中でも球団側が「欲しい」と思ったら、ドラフトで指名されるわけですね。採用する側(球団)にとっては都合がいい制度ですが、在学中の学校を中退してプロの世界に飛び込むのはやはりリスクが大きいと選手側は感じるのか、拒否されることも多いと聞きます。まぁ、スポーツでプロ入りを目指すのと超長時間労働で有名な小売業界で店長を目指すのとでは、全く趣も違うので参考にはならないでしょうか。

 それはさておき、大学1年すなわち高校を卒業してすぐの段階で採用を決めることも想定されているわけです。だったら高卒を雇っても同じではないかと思うところですが、そうならないところに学歴差別という慣行にしがみつくユニクロの保守性が表れていると言えます。何でも「卒業と同時に店長にするといったコースが想定される」とのことで、要するに大学で勉強する必要はない、ユニクロで丁稚奉公していればいい、だけど大卒でなければ駄目だと、そうユニクロは主張しているのです。いかにも代わり映えのしない、典型的な日本企業と言ったところですね。柳井会長の頭の固さ、古さがうかがわれます。

 そもそも「一括採用だと、同じような人ばかりになる」というのがおかしい、同じような人ばかりが集まるのは、同じような人しか採用してこなかった会社側の問題でしょう。同じような人ばかりでは嫌なら、手始めにコミュニケーション能力の低い人でも採用してみればいいのです。採用基準が偏っている、同じような人しか選ばれないような基準のまま、単に採用時期を前倒しにしたところで会社側が期待しているような青い鳥が飛んでくるはずがありません。結局のところ満たされるであろうものは、将来の就職を餌にして大卒(候補)者を自店舗で扱き使ってやろうという雇用側の思惑だけです。

 一般に、成熟した社会ほど将来が決まる時期は遅いと言えます。逆に未熟な社会ほど児童労働が横行したり、産まれたときから属する階級が決まっていたりするものです。社会が成長するにつれ高等教育が実質的に義務教育化して就労開始年齢も遅くなる、自分が選べる進路の数も増えていくのが当然であって、大半は未成年であろう大学1年の内から将来の仕事を決めなければならないとしたら、それは貧しい社会というものでしょう。むしろ自由な大学時代を通して、玉石混淆の体験を積み重ねることでこそ多様性のある人材が産まれるはず、その代わりに学生を特定企業でのアルバイトに縛り付けるとしたら社畜の量産にしかつながらないのは言うまでもないことです。まぁ、それは採用側にとって狙い通りのなのかも知れません。並の社畜ではなく、筋金入りの社畜を選別したいのでしょうから。

 

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人はいかにして真実に目覚めるのか

2011-11-20 23:40:35 | 社会

東日本大震災:環境省に送られた汚染土、職員が空き地に投棄--埼玉の自宅近く(毎日新聞)

 細野豪志環境相は17日会見し、福島市内で採取されたとみられる放射性物質を含む土壌が今月、環境省に2度送りつけられ、そのうち1回分の土壌を同省職員が埼玉県内の空き地に投棄していたことを明らかにした。細野氏は「除染の役割を担っている環境省として決してあってはならないこと。国民に深くおわび申し上げる」と謝罪した。
 
 同省によると8日午前9時ごろ、A4コピー用紙入りの箱よりも一回り小さい段ボール箱が送られてきた。中にはビニール袋入りの土と「福島市の自宅で採取した土で、環境省で保管、処分してほしい」という趣旨の手紙が添えられ、送り主の記載もあった。手紙には自宅周辺の放射線量のデータも記載されていたという。

(中略)

 細野環境相は、「何人も汚染土壌をみだりに投棄してはならない」と定めた福島第1原発事故による放射性物質汚染の対処に係わる特別措置法(来年1月施行)に違反する可能性があり、極めて不適切として、官房総務課長を異動させるなど、関係職員の処分を検討、自身の監督責任も検討中としている。

 なにやら環境省職員の処分が検討されているそうですが、それよりもまず土を送りつけた方が威力業務妨害の類いで罪に問われるのが筋ではないかという気がしないでもありません。公務員(官僚)が相手なら何をしても許される、放射「能」への恐怖を理由とすれば何をしても許されるわけではないはずですから。「福島市の自宅で採取した土で、環境省で保管、処分してほしい」とのメッセージが添えられていたとのことですけれど、ビニール袋一つ分の土を処分したところで福島の放射線量に影響などあるわけがなく、純粋に環境省への嫌がらせが目的であったものと推測されます。こういうケースには、もうちょっと厳しく対処しても間違いではないでしょう。

 それはさておき、「安全だというのならおまえが(福島で)暮らしてみろ」みたいなことを宣う人もいるわけです。放射「能」の恐怖を煽ることに荷担せず理性的な発言を続けたが故に囂々たる非難を浴びた山下俊一教授などは原発事故後に福島医大に赴任していますが、その手の発言が収まることがなかったのは、やはり嫌がらせや挑発の類いであって問題解決を求めるものではなかったからでしょうか。ともあれ、環境省の職員は福島から送られた土を自宅の近くに捨てました。政府が「そこまで危険ではない」とのメッセージを発すれば怒り出す人も未だに少なくないのかも知れませんが、実際に環境省職員は自宅の近くに福島の土を捨てたのです。担当の官僚は別に福島近隣住民を欺くために危険ではないと説いているわけではないのでしょう。自分の家の近くに捨てても問題ない、そこまで恐れなければならないものではないと考えている、その知見を行政に反映させているだけです。今回の件は要するに、国の中央にいる人間が自ら安全だと証明しているようなものと言えます。


無関係の生徒の写真、容疑者としてブログに(読売新聞)

 傷害致死事件と無関係な中学生の写真などを容疑者としてブログに掲載したとして、千葉東署は15日、広島市東区矢賀、自営業藤原茂容疑者(40)を名誉毀損の疑いで逮捕した。

 発表によると、藤原容疑者は、千葉市内で5月16日に中学2年の男子生徒(当時14歳)が死亡した傷害致死事件に関連し、翌17日に自身のブログに、事件とは関係ない千葉市内の中3男子生徒(15)の写真と名前を、事件の容疑者の1人として掲載し、名誉を毀損した疑い。

 男子生徒が掲載に気がつき、同署に相談。同署から要請を受けた運営会社が数日後、写真などの閲覧を停止した。男子生徒が15日、告訴した。

 藤原容疑者は「インターネットで男子生徒の名前と写真を入手した。他のサイトでも事件について掲載していたので、自分も掲載しようと思った」などと供述しているという。

 さて、こちらにもまた困った人がいるようです。40にもなって、と思わないでもありませんが、決して氷山の一角ではなさそうです。ネットで見つけた(事実無根の)情報を「真実」として広めようとする、そういう人は至る所にいますから。ネットに限らず週刊誌報道の類いでもそうですけれど、自分が見かけた情報の真偽とかは、あまり気にしない人もいるのでしょう。政府や専門家の発表は信じないけれど、自分で見つけてきた情報に関しては絶対の自信を持つ、そういう人も多いように思います。とかく政治不信など諸々の「不信」が語られますが、むしろ逆の「盲信」もまた大いに問題視される水準に達しているのではないでしょうか。

 上記引用元のケースで容疑者は「インターネットで男子生徒の名前と写真を入手」し、それを検証することなくブログに掲載することを選んだわけです。そんな真偽の疑わしいものを載せたら信用を失うだけだろうと私などは思うのですけれど、往々にしてデマをまき散らす人ほど自信満々です。その情報の確からしさよりも自分の背中を押してくれるような「都合の良さ」の方が重んじられると言うことなのかも知れません。何であれ事態は自分の思い通りには進まないものであり真実とはしばしば不都合なものですが、それでも自分の考えに合致する言説を(ネットなどで)探し出し、それを見つけるや否や信頼できるものかどうかなど問うこともないまま「やはり自分(の考えていたこと)は正しかった」とばかりに舞い上がってしまう人も多いのでしょう。

 定説のある中でも珍説を唱える人もいる、政府の中でもポジションや理解度の違いからてんでにばらばらの主張を掲げる人もいる、そして全くの事実無根の妄想を垂れ流す人もいる、こうした中では「探せば」何かしら自分に都合のいい情報が見つかるものです。そしてこれを「見つけた」時に、果たしてはこれは信頼に足るものなのかどうか、あくまで参考にとどめておくべきなのか、政府や専門家の総意とみていいのか、それとも個人や特定部門の見解として受け止めるべきなのか等々、諸々の検証を飛ばして「真実」を見つけた気分になってしまう人もいるのではないでしょうか。ネットで真実に目覚めた人ってのは、基本的にそういうものなのだと思います。

 そしてこの「真実」に目覚める人々、ちょっと前までは一部の分野に限られていたところもあったはずが、原発事故後、加えてTPP問題が取りざたされるようになってからは左右問わず広範な広がりを見せているフシがあります。とかく自分のイデオロギー的な立場を補強してくれるような「真実」を探してしまう、そこで「見つけた」真実を堅く信じて他の情報を頭から否定するようになる、そういう人も少なからず見かけるわけです。そんなソースを全面的に信用していいのか、本人は是々非々で判断しているのだと自信満々でも、その実は自説に都合の良いときは検証の過程を飛ばしているだけみたいな人も少なくありません。自分で能動的に情報を探す姿勢は結構ですけれど、その結果がデマの拡散であったり、より内向きに自説に沿ったものだけにしか目を向けないようになることだったりするのであれば、まぁ色々と残念なことです。

 

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製造業を守るため

2011-11-18 23:09:46 | 雇用・経済

製造業派遣「原則禁止」削除…民自公が大筋合意(読売新聞)

 政府提出の労働者派遣法改正案に盛り込まれた「製造業派遣」と「登録型派遣」をそれぞれ原則禁止する規定について、民主、自民、公明3党が両規定の削除で大筋合意したことが15日、分かった。両規定に反対する自公両党に民主党が譲歩した。

 同改正案は修正のうえ、今国会で成立する見通しとなった。
 
 同改正案は派遣労働者の待遇改善を目指し、2010年の通常国会に提出された。改正案には、〈1〉派遣元企業が得る手数料の割合を明示するよう義務づけ〈2〉製造業への派遣は原則禁止〈3〉仕事がある時だけ派遣元と雇用契約を結ぶ登録型派遣は秘書や通訳などの専門26業種以外で原則禁止――などを規定した。
 
 このうち、製造業派遣と登録型派遣の原則禁止には、経済界に「急な仕事の発注に対応できない中小企業が影響を受ける」などと反対意見が強い。自公両党も経済界の懸念を踏まえて政府案を批判。同改正案は衆院で継続審議となり、今国会でも実質的な審議に入れないままになっている。

 「製造業派遣」と「登録型派遣」との原則禁止が盛り込まれないのであれば、現行法からは実質的に変更なしとしか思えないのですが、まぁ民主党も改正には元から乗り気ではないのでしょうね。ここで報道された3件の眼目の内、2件は削除と言うことですから笑うしかありません。かろうじて成立が見込まれるのは「派遣元企業が得る手数料の割合を明示するよう義務づけ」とのことですけれど、こんなものはマトモな派遣会社ならとっくにやっているわけです。要するに今回の改正案が意味するのは、「何も変える必要はありません」という形で現行法を再確認、追認するだけと言えます。

 報道側にも関心の薄さがうかがわれるところで、「登録型派遣は秘書や通訳などの専門26業種以外で原則禁止」などと書かれていますが、これはあまりにも実態からかけ離れています。たしかに秘書や通訳は専門26業種に含まれているにせよ、この「専門26業種」で働く派遣社員の内、果たしてどれだけの人が秘書や通訳などの専門職として働いているか、考えてみるべきです。派遣期間の定めがない「専門26業種」として働く人の大半は「5号:事務用機器の操作」であり、代表例として挙げられるべきはこちらではないでしょうか。秘書や通訳と行った、ちょっと珍しい職種の人の問題であるかのような誤解を与える報道ですけれど、実際は「5号:事務用機器の操作」すなわち普通の事務職として働く人の問題なのです。

 ちなみに私自身、この「5号:事務用機器の操作」に属します。というより、それしかやったことがありません。ホワイトカラーの派遣社員の仕事と言ったら、普通は「5号:事務用機器の操作」のことですから。そして「専門26業種」に属するが故に派遣期間の定めはなく、何年でも非正社員として働かせ続けることが法律上は可能になっているわけですが、普通に首を切られますね。私に限らず、私の同僚でもそうです。よく「派遣社員としての雇用は3年までと法律で決められているために派遣社員は3年で解雇されてしまう。彼らの雇用を守るために派遣期間の制限を無くすべきだ」なんてヨタを素面で口にする人もいますけれど「普通の」ホワイトカラーの派遣社員は元から「専門26業種」として派遣期間の制限を受けておらず、にもかかわらずトウが立ったらより若い派遣社員に入れ替えられるために3年を待たずして契約を打ち切られるものなのです。

 そんなわけで「専門26業種」という名の「例外」に「5号:事務用機器の操作」という名の「普通の事務職」が含まれている限り、最初から派遣法改正案はザルであったとも言えます。そして原則禁止という「規制緩和以前の本来の形に戻すだけ」の案に関しては「急な仕事の発注に対応できない中小企業が影響を受ける」との反対意見が出されたとか。どうなんでしょうね、規制緩和で今のように何でも派遣でOKになる前の日本の方が色々と元気だったはずですが、時代に慣らされた、制度に甘やかされた企業には色々と難しいのでしょうか。

 中核となる企業が必要な在庫を持つ場合もあれば、自分で在庫を持つ代わりに下請けに在庫を持たせるカンバン方式というものもあります。これですと立場の強い企業は楽ができますが、在庫を押しつけられる側は大変です。そして、このカンバン方式を人間に置き換えたのが登録型派遣制度なのではないでしょうか。企業が通期に渡って在庫ならぬ社員を確保していると高コストになる、一方で「急な仕事の発注」などがあったときなど、必要なときに必要なだけ労働力を調達できる形を整えるために好都合だったのが登録型派遣というシステムだったと言えます。これは「働かせる」側にとっては楽のできる制度です。しかし、労働力を在庫するコストは、個々の労働者に押しつけられているわけでもあります。


「早すぎる…」パナソニック工場撤退に困惑 千葉県と茂原市 補助金90億円で誘致(産経新聞)

 パナソニックがテレビ事業の大幅縮小に伴い、千葉県茂原市にある液晶パネル工場の平成23年度中の操業停止を決めた。県と市が企業立地の助成制度で90億円の補助金を準備して誘致し、18年5月に開業してから5年余り。県の担当者は「こんなに早い撤退は予想していなかった」と頭を抱えている。

 県や市によると、補助金は15年間の分割交付で、制度の対象事業としては最大規模。長期雇用の確保や地元への経済効果を見込み、県が50億円のうち20億3000万円、市が40億円のうち13億5000万円を支出済みだった。

 一方でこんなニュースもあるわけですが、まぁ別に珍しいことではありませんね。「普通の」企業とはそういうもの、よくある話です。電力会社であれば多少の良心は期待できて、逆に自治体に寄付金を出してくれたりもするのですが、「普通の」民間企業は甘くないのです。補助金などちらつかせようものなら、毟り取られるだけ毟り取られた挙げ句、速やかに捨てられるのがオチです。誘致するなら電力会社(発電所)だけにしておくべきでしょう。金を出してまで工場を招く必要などありません。

 それでも日本は製造業が大好きです。働く人の犠牲を厭わず製造業派遣も野放しにすることが決定されましたが、これもまた製造業を守るためなのでしょう。しかし、先のリーマンショックに端を発した金融不安で最大級の打撃を被ったのは、金融依存と呼ばれる国ではなく「ものづくり」を旗印に掲げる日本だったわけです。にもかかわらず日本は自分のやり方を改めようとしない、製造業へのこだわりを持ち続けているように思われますが、いい加減に考えを改めるべき段階に来ているのではないでしょうか。

 たぶん日本は輸出依存というよりも、「貿易黒字依存」とみるべきなのかも知れません。新興国の段階をとっくに通り過ぎた後も一貫して貿易黒字大国であり続け、そして貿易黒字の多寡によって命運を左右される度合いを強めるばかりなのですから。ただ貿易黒字によって国を支えるという発想は、いわゆる重商主義であり、これは新興国にはふさわしくとも資本の蓄積を終えた先進国にとっては少なからず微妙なところがあるように思います。

 ゼロサムゲームの論理では、収入が20万円で支出が20万円の暮らしも、収入が40万円で支出が40万円の暮らしも同じものになるのでしょうか。両者の「違い」が理解できるかどうかが、経済を理解できるかの分かれ道になるところもありそうです。そこで喩えるなら日本は収入が20万円で支出が19万円、常に貯金を増やし続けるような状態にあります。一方でアメリカは収入が30万円で支出が31万円みたいな状況と言えるでしょう。慢性的な貿易赤字を掲げるアメリカが輸出を増やそうと考えるのは、バランスをとるという意味では間違っていませんが、逆に恒常的な貿易黒字の日本が輸出を増やすことを望む一方で輸入が増えることに警戒感を抱くとしたら、それはバランス感覚に疑問を感じるところです。

 日本が目指すべきは収入を21万円にして支出を19万円のままに保ち、黒字を増やそうとするようなことでしょうか? それとも、収入も支出も30万円を目指すべきでしょうか? 昨今の吹き上がるTPP反対論から推測されるのは、おそらく前者の方が声が大きいと言うことです。その前者を実現させるための方策として、「ものづくり」を続けて海外に輸出する、一方で内に向けては自給自足を唱えて輸入を抑える、みたいな発想につながってくるように思います。

 ただ、これが持続可能なモデルなのかどうか、私は大いに首をかしげるところです。国内が「モノ」の消費地であるならば色々と有利で、まだ「モノ」が行き渡っていない新興国や浪費癖のある国民性であるなら、まず国内が有力な市場になる、「ものづくり」とは相性が良いことでしょう。しかし、「モノ」が行き渡った後は必然的に海外に市場を求めるほかない、しかし当然のことながら低コストな新興国の製品との競合に巻き込まれるわけです。それでも外国に「モノ」を売り続けるためには、新興国に負けないくらいコストを下げる必要が出てくる、その結果が給与水準の低下→国民の購買力低下→国内市場の衰退ですし、製造業派遣の野放しもまたここに含まれるのではないでしょうか。同時に貿易黒字国の日本の代わりに貿易赤字を受け入れてくれる「お客様」だって必要とします。ですが、日本ばかりが一方的に黒字でいることを永遠に認めてくれるような、そんな都合のいい相手がどこにいるのか、それを考えるなら色々と改めるべきことがあるはずです。新興国へと後ろ向きに階段を駆け下りるのではなく先進国であり続けるためには、新興国とは競合しない分野を開拓すること、貿易黒字(=金を蓄積させること)を是とするのではなく、輸出入双方の増大(=金を循環させること)へとシフトしていくことが求められます。

 

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いかに交渉するかは問われるべきだけれど

2011-11-16 23:30:20 | 政治・国際

 話し合いで(国家間の)問題を解決するためにまず必要なのは、当たり前ですが自ら積極的に話し合いの席に着こう、相手を着かせようとする姿勢ですね。そうしなければ話し合いも何もないわけです。一方で、話し合いの席を蹴っては対岸から相手を罵ることに専念しているみたいな失敗外交もまた日本では珍しくありません。典型的な例が対北朝鮮政策であり、その頂点が拉致問題と言えます。小泉純一郎のほぼ唯一と言っていい業績として北朝鮮訪問と拉致被害者の帰国がありましたが、その後に拉致被害者家族会や救う会の絶大な支持を得た安倍晋三は何一つとして交渉を進めることなく、ひたすら相手を非難するばかりに終始しました。日本国内で日本人へ向けて北朝鮮の非を語る、それで国民からも一定の評価は得た、家族会や救う会からは今でも高く評価されているようですが、結果として拉致問題が進展したかどうかは、まぁ言うまでもありません。

 その後の自民党内閣も民主党内閣も拉致問題に関しては安倍晋三の路線を継いでいますけれど、当然ながら進展は0です。しかし、こうした外交姿勢によって支持を失った首相はいないように思います。たぶん、日本国民の大多数は(とりわけネット上などで政治を語りたがる人ほど)話し合いで物事を解決するより、国内では自身の正当性を声高に主張し、相手国への悪口を重ねる方に居心地の良さを感じているのでしょう。そして戦争(軍事的衝突)は話し合いによって回避できる、解決できると説く人もいるものですが、こうした人々が経済的衝突あるいは制度面での衝突の可能性に対してどのような態度をとっているかは、興味深いと同時に失望を感じさせるところでもあります。戦争は話し合いで避けられると説きながら、昨今取りざたされている類いの問題ではむしろ他国との間に壁を設けたがっているとしたら……

 EUとかユーロ導入って、日本からはどう評価されているのでしょう。何事も(とりわけ規模が大きくなるほど)当初の思惑通りには進まないもの、成功した面もあれば弊害の目立つ部分もあるわけです。それは何にでも共通することですね。あらゆる面でうまく行く、なんてことはあり得ませんから、失敗した部分は地道に解決の道を模索していくしかありません。ところが事業仕分けなんかで典型的に見られたように、今日の日本において問題点とは改善されるべき点ではなく、全体像を否定するための突破口になっているように思います。官僚の天下りで美味しい思いをしている人がいれば、その事業もろとも全否定などなど。そして原発やTPPの評価も同様で、何か問題点が見つかれば、それを修正しようとするよりも先に、露見した問題点を強調し、それを足がかりに全体をまとめて葬り去ろうとする声が先立ってはいないでしょうか。

 TPP交渉参加によって起こると噂されているものに関しては、大半がTPP加盟の有無にかかわらず起こりうる、というより既に起こっているものが大半です。アメリカから年次改革要望書を突きつけられたり、その他諸々の国からも規制緩和を求められたり、諸外国の低コストな商品に国内産業が押されたり、そうした問題はTPP参加の有無にかかわらず対処しなければならないものでしょう。それ以前に日本の「今」の枠組みが、どうしても維持しなければならないほど上手くできたものであるとは到底思えないところもあります。アメリカの方が日本より厳しく規制されている、きっちりルールが設けられている部分だって少なくありません(そして当然のことながら、アメリカ「以外」の国の思惑だって絡んでくるわけです)。日本のガラパゴス・スタンダードよりはグローバル・スタンダードの方がマシな部分も多いはずですが、日頃は日本の国内企業の横暴を非難している人の中にも、にわかに外国を日本を脅かす侵略者と見なしだしては奇妙な愛国心を発揮している人が多そうです。

 外交関係に限らず人間関係でも同様ですけれど、自分のやり方を変えることなく貫き通す、他人の干渉は受けない、なんてのは限界があって、どこかしら他人と折り合いをつけない訳にはいきません。その辺は「お互い様」なのですが、ここで「自分だけが一方的に相手に合わせることを要求されている」と思い込んでしまうと、言うまでもなく関係は早期に破綻してしまうわけです。個人のつきあいであれば、それもアリでしょうか(まぁ、結婚したりして一緒に暮らそうというのなら、お互いに譲り合いが必要なことはご理解いただけますよね)。しかるに国家間の関係とあらば「アイツとは付き合いたくない」では済まされない部分も出てくるものです。気に入らないときは相手を無視していれば、諸外国が日本をそっとしておいてくれる、今のままの日本でいられるなんてことはありません。「絶対に日本は傷つかない」条約を結んでくれる国なんて、どこかを軍事的に制圧して傀儡国家でも作らない限り存在し得ないでしょう。結局のところは周りの変化について行けなくなるだけです。

 時に放射能で人間が死に絶えて、その一方でゴキブリとかが巨大化するみたいな妄想を抱く人がいます。なぜ一方の生物には有害で、もう一方の生物にとっては生命力を強化する方向に作用すると想定できるのか理解できませんが、そういう設定で話を進めた方が被害者意識も高めやすいものなのでしょう。どっちに転ぶかわからないものを(ことによると転ぶどころか微動だにしないかも知れないのですが)、自分の世界観に合致するように都合良く使い分けてしまうわけです。放射能は人類には有害で、害虫にとっては有益、みたいな想定は都合が良すぎる、馬鹿げているとしか思えませんが、それを自然に受け入れてしまう人もいると言うことです。それと似たようなことがTPPの影響に関しても見られるように思うのですが(たとえば官僚が作成した収支予想なんて日頃は全否定されてばっかりなのに、被害者意識を駆り立てるのに有効となるや錦の御旗のごとくに掲げられたり等々)、ちょっと付いていけません。

 

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とりあえず清武代表は休職すべきだと思った

2011-11-14 23:05:00 | 社会

巨人:清武代表が渡辺会長を告発「人事介入は人権侵害」(毎日新聞)

 プロ野球・巨人の清武英利球団代表兼ゼネラルマネジャー(GM)は11日、文部科学省内で会見し、巨人軍の渡辺恒雄球団会長(読売新聞グループ本社会長・主筆)が球団人事に介入し「球界で生きる選手、コーチ、監督の基本的人権をないがしろにした」として内部告発した。
 
 清武代表によると、岡崎郁1軍ヘッドコーチとの契約が内定しているにもかかわらず、今月9日、渡辺会長から「1軍ヘッドコーチは江川卓氏とし、岡崎コーチは降格させる」と告げられたという。
 
 清武氏は会見趣旨を説明する文書の中で「巨人にもコンプライアンス(法令順守)が要求される。それを破るのが、渡辺氏のような最高権力者であっては断じてならない」と痛烈に批判した。

 先日のドラフト会議後には改憲を社是とする新聞社の会長が「憲法違反だ!」などと言い出して面食らったものですが、今度は球団代表がなぜか文部科学省に乗り込んで、やれコンプライアンス違反だの基本的人権をないがしろにした云々とまくし立てては大泣きしたそうです。俗に言うメンヘラって奴でしょうか。仕事の疲れかどうかは不明ですが清武氏には心の病が疑われますので、しばらく仕事を休んで医者に診てもらった方が良いように思います。同時に会見場所を提供した文部科学省にも、もうちょっと良識が求められるところですね。人気球団のお偉いさんだからといって、個人が感情をぶちまけるために公の場を提供するのは適切だったのか、その辺は自省が求められます。

 まぁ、好きな球団を選べないドラフト制度とか球団に選手を縛り付ける契約制度とか、プロ野球の世界には不条理なローカルルールが色々とあります。こうした球界のルールを活用して選手を確保しようとする球団に罪はないにせよ、いざ憲法に照らして考えるとどうなのか、選手側が球団選択の自由や移籍の自由を求めて訴訟に出ればボスマン判決(契約が完了した後はクラブが選手の所有権を主張できない)みたいなことになってもおかしくないところもあるでしょう。他にも外国人枠なんていかにも差別的なものもあります。サッカーの話ですけれどスペインで活躍したヴァレリ・カルピンは自分を外国人選手ではなくEU枠内選手として扱うよう裁判を起こし、勝訴しました。日本でも誰かが声を上げてくれないかなと思わないでもありません。

 それはさておき、今回の清武代表の言う「コンプライアンス」はいかがなものでしょうか。親会社の会長が球団運営に口を出すのはプロ野球の世界に限らず嫌われる行為ですし、往々にして悪い結果に結びつくことの方が多いですけれど、それは法律なり憲法なりによって制限されるものではないでしょう。球団選択の自由を奪ったり選手を球団に縛り付けたり出自を理由に差別的な取り扱いをしたりとか、こういうこととに比べればオーナーの介入に違法性を見ることははなはだ困難であるように思います。それはあくまで球団の内部統制の問題であって、文部科学省という公的機関に場を借りて会見するようなことではないはずです。

 ロシアでは、ゴルバチョフはあまり評価されていないと聞きます。国外に向けてソ連の危機を語ったばかりで、国内に向けてのメッセージには乏しかったようです。では清武代表は、どうなのでしょうか。読売球団内部のゴタゴタを外に向けて暴露した一方で、それを収拾し解決する役割は、清武代表の次か、あるいはその次を待たなければならないのかも知れませんね。世間では憎まれ役の渡辺会長が相手であるだけに、公の場で相手の非を訴えれば世論を味方につけられるとでも踏んだのでしょうか、結果としては単に醜態をさらしただけのようですが……

 いずれにせよ、唐突に「憲法違反」だと言い出すオーナーがいれば、泣きながら「基本的人権」「コンプライアンス」と語る球団代表もいるわけです。何なんでしょう、両者とも憲法なり人権なり法令なりは守るべきものという認識に沿って話しているようですが、特に清武代表の方は法律に関するとらえ方が間違ってはいないかと思わないではいられません。憲法や法律を「正しいもの」として自己正当化のため、相手を非難するための旗印として持ち出すばかりで、実際の憲法や法律を尊重しているかと言えば大いに疑わしい気がします。まぁこの辺は、野球以外でも時に見られるものですね。考えの足りない発言だなぁと思うばかりですが、似たようなことは他でも出てきそうです。

 

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「安全」と「安心」

2011-11-12 23:20:34 | 社会

牛肉輸入規制の緩和検討=BSE対策で理解求める―首相(時事通信)

 野田佳彦首相は9日午後の衆院予算委員会で、BSE(牛海綿状脳症)対策で輸入が制限されている外国産牛肉について「(BSE発生から)ちょうど10年たつ中、しっかりと科学的知見で再評価しようというのが今の日本政府の動きだ」と述べ、厚生労働省が進める規制緩和の検討に理解を求めた。

 政府は、生後20カ月以下の牛の肉に限定している米国などからの輸入を、30カ月以下に広げることを検討。首相は「食の安全安心は国民の最大の関心事で、それに応えていく基本姿勢は変わらない」と強調した。社民党の阿部知子政審会長への答弁。

 このBSE対策を理由とした牛肉の輸入制限については以前にも少し触れたことですが、少なからず乱暴であり過剰でもあったように思います。それは昨今の原発事故の影響を理由として日本産の諸製品が海外でどう扱われることになったかを鑑みれば、理解しやすいのではないでしょうか。福島や周辺域で収穫されたものに限らず、西日本で作られたものですらもが一括りに「日本産」として輸出先の国で忌避されることもあったわけです。日本国内では、「放射能」を過剰に恐れる人ですら東日本産と西日本産は区別していることが多いですけれど、外の国にとっては日本のどこで作られたものであろうと「日本産」でオールオアナッシングの世界でもありました。日本在住者から見ると、これはずいぶんと乱暴な扱いに見えるかも知れません。しかし、日本から「アメリカ産」の牛肉を見たときはどうだったでしょう?

 それはさておき、野田首相によると「食の安全安心は国民の最大の関心事」だそうです。まぁ、そうなのかも知れませんが、これもまた乱暴だなと感じるところです。先日は専業農家と兼業農家を区別しない枝野発言を取り上げましたけれど、同様の問題は今回の首相発言にも見られるのではないでしょうか。「安全安心」と一纏めにして語られていますが、「安心」と「安全」は必ずしも同じではありませんし、とりわけこの半年間は、「安心」と「安全」の両者に大きな隔たりが生まれた半年間でもあったように思います。

 凶悪犯罪が減少を続ける中で、逆に体感治安は悪化していったり、「安全」になる一方で「安心」が失われていくようなケースも少なからずあるわけです。「安全」であればそれで十分かと言えば、残念ながらそうもいかないのです。「安全」でもあるにもかかわらず、「安心」はしていない、そうした人々は少なからずいますし、我々の社会を「安心していない人」の不安感が突き動かすこともまた少なくありません。この結果として、「安全」なはずの社会が逆に乱されてしまう、「安心」を求めるが故に「安全」が狂わされてしまうこともあるのではないでしょうか。

 極論すれば「安心」を感じるかは個人の問題でもあります。いかに「安全」になろうとも、決して「安心」しない、というより「したがらない」としか思えない人もいるわけです。個人的な関係であれば「相手にしない」のが最良ですけれど、そうもいかないのが政治の難しいところなのでしょう。野田首相は「安心安全」と一括りに語っています。「安全」に関しては今のところ問題ないとしても、だからといって国民が「安心」するかどうかは別問題です。この辺を意識的に区別しないと、低迷する日本の農政と同様の不毛さが続けられてしまう可能性があります。

 先だって、東京都知事である石原慎太郎は被災地のガレキの受け入れを表明し、放射能汚染云々を不安視する人は相手にしないと明言したわけです。まぁ、理想的なやり方ではないのかも知れません。少数派の意見も安易に切り捨ててられるべきではない、というのが政治の理想ですから。ただ、一部の人々の「安心」のために、ガレキ受け入れを拒み、被災地の復興を遅らせるような決断を下すよりは、ずっと良かったと思います。放射線量はちゃんと測定するとのことで「安全」は担保されている(もとより気にする必要があるか疑問ですが)、その上で「安心」があれば最良ですけれど、だからといって「安心」のために被災地の復興が犠牲にされてしまうとあらば、それは明白に誤った政治決定でしょう。

 この放射線あるいは放射「能」こそ、「安全」と「安心」が全く別物と化してしまった領域と言えます。安全の確保はそこまで難しいものではなかった一方で、決して安心したがらない人もまた少なくありません。どれほど検出される放射線量が基準値を下回ろうとも、断固として危険だと吹聴して回り、家族や世間を振り回す、偏見や恐怖を植え付け嫌悪感や忌避感を広めようとする人もいるわけです。「安心」を求めるが故に、逆に「安全」なはずのものが混乱させられる典型的なパターンです。

 政府や専門家を批判的に検証した結果ならまだ理解はできるのですが、往々にして安心「しない」人々は学者と呼ぶには躊躇われるような人やキワモノ系のジャーナリストや市民団体、あるいは煽り系の週刊誌の語ることを固く信じて科学的根拠に乏しいことへとはまり込んでいく傾向が見られます。もし彼らが批判的検証によって政府や専門家への疑義を感じていたのなら、それ以上に大きな疑いを放射能の脅威を説く人々へと向けていたことでしょう。しかし、実際に行われていたのは政府や専門家への不信の裏返しとしての「盲信」でした。そうして放射「能」のイメージを無限に脳内で肥大化させ、被害者意識を募らせるばかりで(この辺はTPPに関しても似たようなところが見られます)決して「安心」しようとはしないわけです。

 こうした人々に政治はどう向き合うべきでしょうか。代替医療を選択したスティーブ・ジョブズは随分と早死にしました。代替医療はジョブズにとって「安心」できる選択肢だったのかも知れませんが、断じて「安全」をもたらしてくれるものではなかったということです。「安全安心」と野田総理は何気なく一緒にしていますけれど、この「安心」と「安全」の違いは非常にやっかいなものなのではないでしょうか。まずは「安全」、「安心」も大事だけれど、それが「安全」を損なうことがないようにバランスをとる感覚が求められます。

 

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就業「圧力」とでも言うべきもの

2011-11-09 23:36:48 | 雇用・経済

 近年の就職事情を表すために、3つのキーワードを考えてみたいと思います。一つは「就業機会」これは説明するまでもありませんね。就業する機会(求人数、採用数)の多寡はもちろん、就職事情を大きく左右するものです。そして就業機会に対比されるものとして、就業しようとする人の数も考慮されます。一口に言えば「就業需要」とでも言ったところでしょうか。就業の「ニーズ」、就業する必要性の度合いもまた大きく関わってくるわけです。これに加えて「就業圧力」みたいなものもあるように思います。つまり、「仕事に就きなさい」という社会的な圧力の存在もまた、就職事情に影響しているはずです。

 そして不況が続く中ではまず、「就業機会」が減少します。では仕事に就かなければ、という「就業需要」や「就業圧力」はどうでしょう。「就業機会」<「就業需要」の場合、就職する必要性に迫られているけれど、就職する機会がないためにあぶれる人が続出することになります。そして「就業機会」<「就業圧力」の場合、就職しなさいと周囲から迫られているけれど、就職する機会がない人が世間に溢れることになるわけです。「就業需要」と「就業圧力」、この両者の違いを念頭に置いて、今の状況はどのようなものなのかを考えていただければと思います。

・就業機会――職に就くチャンスの多寡、椅子が用意されているかどうか
・就業需要――職に就いて給与所得を得るという必要性の度合い
・就業圧力――職に就かなければならない、という周囲(世間)の圧力

 就業需要は、増えているのでしょうか、それとも減っているのでしょうか。昨今の就職難を聞かされるに需要が供給(=求人)を上回っている、つまりは就業需要が増えているように見えるところもありそうです。ただ、配偶者なり子供なり、あるいは老親なり養わなければならない家族がいて資産もないとなればともかく、独身で健康、両親も健在という若者(新卒者)の大多数にとって、本当にそこまでして就職する必要性があるのか、その辺は疑問に感じないでもありません。若いうちは、もっと好きなことをしていた方がいいんじゃないかというのは私見であるにせよ、無理に働かなくても当面は平気でしょ、と思うわけです。

 そこで注目してほしいのが「就業圧力」の方なのです。就職できない新卒者や定職に就いていない若者、あるいは夫の稼ぎで暮らす専業主婦に対する世間の目線を考えてください。そういった人々が働く(給与所得を得る)必要性に迫られているとは限らないはずですが、にもかかわらず「働け」という周囲の圧力は少なからず存在しているのではないでしょうか。職に就いていないと白眼視される、若い内から切れ目なく働いておかないと社会不適合社として将来の就業機会を奪われる等々、給与所得を得る必要からではなく、世間の非難をかわすという目的から職に就こうとする人々もまた多いものと推測されます。

 学校を出たら即、就職するが当たり前という「常識」の元で就職活動に打ち込む人々の中の、果たしてどれほどが「就業需要」から行動しているのでしょうか。むしろ就職しておかないと人生の落伍者になるという恐怖、「就業圧力」に押されての就職活動になっているようにも思うわけです。「外で」働いているのが正しいことで、「外で」働いていないのは正されるべきこと、みたいな文化が就職活動を加熱させているところもあって、それは偏に「就業機会」の減少によるものだけではないでしょう。

 本当に給与所得を得る必要性のある人だけが就職しようとしているのなら、昨今ほどの異常な超・買い手市場にはならないはずです。しかるに「就業圧力」の強さ故に、直ちに給与所得を得る必要性のない人までもが就職戦線に殺到、熾烈な椅子の奪い合いが繰り広げられるようになってはいないでしょうか。採用する企業側からすれば、自分の立場が強くなるだけでいいことずくめなのかも知れません。しかし、この結果として「働く必要性はないのに仕事に縛り付けられる若者」や「何とかして稼がなければいけないのに仕事を得られない人」が出てくるわけです。こうした「ゆがみ」を是正するのが政治の役目ですが……

 たとえば雇用関係の規制緩和で統計上は雇用が増えた、すなわち「就業機会」が増えました。しかるに、増えたのは非正規ばっかりです。非正規でも正規雇用の新入社員と同じくらいの手取りは得られるケースも多いだけに、当座の糧にはなるのかも知れません。ところが非正規ですと、就業していても世間からは低く見られたり、正規雇用への移行は年を追うほどに絶望的になっていったりするものです(そしてトウが立ったら首を切られる、と)。必然的に、正規雇用に就かねばならないという「就業圧力」も高まるのですが、非正規雇用が増えた分だけ正規雇用は置き換えられてゆきますので、ますますもって椅子の取り合いは激化してきたのが失われた十数年というわけです。

 結局のところ「就業機会」を増やすのは経済成長であって、規制緩和で見せかけ上の雇用を増やしても就職事情は改善されないどころか悪化してしまいます。だから経済成長を進めるのは当然として(それができていないのがこの十数年なのですが)「就業圧力」を和らげるための対策も必要なのではないでしょうか。若い内は定職に就かず遊び歩いていても良い、親が定年を迎えたり子供ができたりとか、ある程度まで年をとってからでも新たに安定した仕事に就ける、そういう環境作りもまた必要であるように思います。若者を会社に縛り付ける代わりに遊ばせておけば、「若くなくなった」人が会社に入るチャンスも増えます。そっちの方が両世代どちらにとっても好都合ですから。まぁ、買い手市場が維持できなくなるのが嫌な人も多いのかも知れませんし、近年の「改革」とは真逆の方向性ではありますけれど。

 

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