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非国民通信

ノーモア・コイズミ

リスクは比較されなければならない、ということ

2013-03-31 13:36:11 | 社会

原発事故で避難、死亡率2.7倍 南相馬、施設の高齢者(朝日新聞) 

 東京電力福島第一原発事故直後の2011年3月、福島県南相馬市の介護施設にいて長距離の避難を余儀なくされた高齢者は、1年の死亡率がそれ以前の2・7倍になっていた。東京大などが分析した結果で、避難方法や避難先のケア状態が悪い場合、死亡率が高かった。

 東大の渋谷健司教授(国際保健政策学)、大学院生の野村周平さんらのチームが26日付米科学誌プロスワンに発表した。

 原発から20~30キロ圏内の南相馬市にある特別養護老人ホームなど5施設の協力で、事故前5年間と事故後の死亡率を比較した。事故時の入所者は合計328人いて、事故後1年間で75人が亡くなった。

 入所者はバスなどで神奈川県や新潟県などへ避難し移動が300キロ以上になる場合もあったが、移動距離と死亡の間には関係はなかった。一方で、施設別にみると差が大きくて死亡率が4倍になる場合もあり、ケアを十分しながら計画的に避難した場合は死亡率が上がっていなかった。チームは「高齢者の避難では医療や食事などのきめ細かい対応が必要」としている。

 

 この調査結果については複数紙が報じており、web上で公開されている範囲ではこの朝日報道が割と詳細な部類に入りますが、少しばかり欠けている部分もあるでしょうか。それは時事通信のいつもながらに素っ気ない記事に載っている部分です。

 

原発避難で死亡2.7倍=施設の高齢者、介護や食事不足―東京大(時事通信)

 東京電力福島第1原発事故で避難した老人介護施設の入居者の死亡率は、事故前の約2.7倍に上ったと、渋谷健司東京大教授らが27日、米科学誌プロスワンに発表した。

 渋谷教授は、避難の際に介護や食事、暖房が不足すると死亡率が高まると分析。「残る場合のリスクと比較し、避難するかどうか判断する必要がある」としている。 

 

 新聞によっては「見たくない」「見せたくない」ものがあるのかな、という気がします。他紙に比して多めに紙面を割いたはずの朝日新聞ですが、「残る場合のリスクと比較し、避難するかどうか判断する必要がある」との調査班のコメントを掲載対象から外しているわけです。「今後」を考える上では、最も重要な指摘であろうと私には思われるのですが、人によっては違うのでしょう。「第一に責任があるのは行政と東電」云々と責任の何もかもを「悪者」に転嫁しては満足してしまうような人々にとっては、単純に死亡率が上がったと、そういう結果さえあれば十分なのかも知れません。しかし、なんであれ被害を最小限にするためには何が必要なのか、それを前向きに考えるのであれば「残る場合のリスクと比較」することに焦点を当てた検証が求められます。

 「無計画な避難はあなたの健康を損なうおそれがあります」と、少なくとも拙速な避難を抑制するような動きがあっても良さそうに思うのですが、実態はどれほどのものだったでしょう。1年間の死亡率がそれ以前の2.7倍では、放射線被曝によって考え得る健康被害など足下にも及びません。避難「しなければ」負の影響は大きく抑えられたと、結果を見れば明らかにそう言えるわけです。本当に避難を急がなければならなかったのか、むしろ避難を急ぐ方が被害は深刻化するのではないかと、そうした面から検討、熟慮が求められるところ、せめてこの教訓を今後に活かして欲しいと願います。

参考、As Low As _________ Achievable

 ところが、特定のリスクだけを騒ぎ立てる一方で、別のリスクからは頑なに目を背ける人もいるわけです。Aというリスク(冒頭の例で言えば被曝)を避けるために、Bという新たなリスク(避難による負担増)を高めてしまう、この場合にA>Bであるならば避難は正しいと言えますけれど、A<Bであれば避難は誤りだったと言えます。結果がどうなるかすぐには分からないとしても、最低限AとBのどちらのリスクが高いのか、それを慎重に検討した上で実際に行動することが求められるのですが――ロクに考えもせずリスクAだけに狂奔してリスクBの危険に人々を晒してしまったとあらば、それは大いに反省が求めらるべきであり、このような意思決定のプロセスやリスクというものの考え方は将来に向けて検証されなければならないはずです。

 

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他人にアドバイスするのは簡単だけれど

2013-03-29 00:04:20 | 雇用・経済

<はたらく>非正規職員の相談員ら ハローワークで大量雇い止め(東京新聞)

 雇用の安定を目指すはずのハローワーク(公共職業安定所)で、相談員などとして全国で働く非正規職員のうち、約一割に当たる二千二百人が、この三月末で職を失う。突然「雇い止め」を告げられた職員たちは、業務で失業者の相談に乗りつつ、自らも勤務時間外や休暇に職を探す事態となっている。四月以降、窓口が混乱しないか懸念する声も上がる。

(中略)

 厚生労働省によると、二〇一二年度の全国のハローワークの職員は三万一千七百六十五人。うち、非正規職員が二万百七十六人と全体の63・5%を占める。部署によっては、正規職員の十倍以上の非正規職員がおり、主なサービスの担い手となっている。

 

 上記のニュース、結構な話題になったようです。このブログでは何度かネタにしたところで私にとっては何を今さらのことではありますが、ハローワークの職員は非正規が多く、そして非正規である以上は(まぁ正規雇用であろうとも安泰とは限らないのが現代日本の労働市場ですけれど)必ずや切り捨てられる日が来るものです。何ら、驚くには値しません。

 少し以前に失業していた頃、地元のハローワークはいつでも入場を待つ長蛇の列が隣の建物の入り口をふさいでしまうような有様で、まぁ国によっては列に並ぶ人に水を売るのが仕事として成り立ちそうな印象でしたけれど、多少なりとも状況は変わったのでしょうか。ただ率直に言ってハローワークがどれほど求職者の役に立っているのやら。(非正規であろうと)ハローワークで働く職員に職を提供しているのがハローワークの最大の功績なんじゃないかと思えないでもありません。もうちょっと他のことにリソースを割いた方が建設的なのではとも。

参考、21世紀型の公共事業

 これまた以前にも書きましたけれど、「求人開拓業務」という求人に応募したことがあります。要するに「求人を出してくれませんか」と圏内の事業者に掛け合う仕事です。ちなみにこの求人を出していたのは、ある人材派遣会社でした。中には自治体が直接雇用で、求人開拓業務に携わる「非正規職員」を募集しているところもあるとは思いますが、目にする機会が多かったのは、派遣会社による求人だったのです。これはどういうことかと言えば、行政が派遣会社に「求人開拓業務」という公共事業(コンクリートから人へ!)を丸投げして、それを請け負った派遣会社が登録している派遣社員「候補」に求人開拓業務を打診していたからなのですね。まぁ、それなりに人気があるのか私(当時は失業中)は応募しても不採用でしたが、それ以前に「失業者に紹介する仕事か?」と思ったものです。再就職先を見つけられないで困っている人に、新規求人を開拓させようという、その企てが有望と感じる人はあまり多くないことでしょう。

 似たようなことはハローワークにも当てはまりそうです。まぁ非正規雇用であることを理由に職務能力に不安を抱くわけではありませんけれど、就職先を探して相談する相手が、いつ自らもまた職を失うか分からない非正規雇用というのも、結構な笑い話ではないでしょうか。失業者にあれやこれやとアドバイスしていたはずのハローワークの職員が、次の日には失業者の仲間入りをしているかも知れない、日本ではよくあることだとしても、それは何か奇妙な光景だと疑問を持たれてしかるべきです。

参考、ハローワークの求人広告が最も信用できない

 さて、職を失うハローワークの相談員たちは次なる就職先を「どこで」探すのでしょうか。まさか、ハローワークで? ハローワークが頼りになると思っている人が、当のハローワーク職員の内でどれほどいるのか、ちょっと興味深いところです。ハローワークと言ったら悪質な事業者も誰でもウェルカム、求人広告は虚偽記載の塊、見せかけ上の求人倍率を改善させるためのカラ求人も盛りだくさん、ハローワークの求人を見て応募したら詐欺に遭って金銭を騙し取られたなんてケースだってあります。いつ失業者の仲間入りをするのか分かったものではない非正規職員の助言を当てにする元・非正規職員の姿というのも、なかなか想像に苦しみますかね。本当に就職のための知識が豊富で求職者の就職に役立ってきた人なら自分の就職のために何が必要かも分かりそうなものですが、そういう人ばかりでもないでしょう。首を切られた人々の「それから」に注目したいところです。

 

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「同じ仕事」であることが許されなくなっているのが問題

2013-03-26 23:09:40 | 雇用・経済

正社員と同じ仕事で給料半分。なんとかならないか(プレジデントオンライン)

毎年契約を更新して勤続10年の契約社員Aさんの悩み。「正社員と同じ仕事をしているのに、給与は半分。正社員には出ている通勤手当も出ない……」。

総務省の統計によると、契約社員、パート社員、派遣労働者等の非正規労働者が労働者全体に占める割合は、35.2%と過去最高となった(平成23年男女平均)。この非正規労働者の大半が、雇用の期間を数カ月や数年と定められた有期契約の労働者だ。「有期」とはいっても、更新によって勤続年数が5年、10年と長期に及ぶ者も少なくない。

正社員と非正規労働者の年収分布を比較すると、前者が200万円から999万円の層に幅広く分布しているのに対し、後者はその80%近くが100万円から299万円の層に集中しており、その差は歴然だ。

もっとも、非正規労働者の多くは就業場所や従事する業務の内容等を限定され、短時間勤務のこともあるので、会社の命令で転勤や配置転換、業務内容の変更等がなされる正社員と単純に比較することは難しい。

 

 よく聞く話ですけれど、今や「正社員と同じ仕事をしている」というケースはかなりの少数派だとも思います。むしろ「非正規雇用と同じ仕事をしている」正社員の方が絶滅危惧種と言った方が正しいですかね。昔も今も、そして将来もまた職務自体は継続して存在する中、その「担い手」を正社員から非正規雇用へとシフトさせるのが近年の「改革」なわけで、正規雇用でありながら「非正規雇用と同じ仕事をしている」人となりますと、90年代前半よりも前に就職した人が専らではないでしょうか。会社でも、私より年上の一般職採用の女性と、総合職として採用された年下の女性陣とでは単なる世代の違いを超えた文化の差が感じられるところです。

 「正社員と同じ仕事をしているのに、給与は半分」という非正規雇用からの不満に対する回答として「非正規雇用とは違う働き方」を今まで以上に正社員に求めていくというのが、これまた近年では一般的とも言えます。先日は人事異動の話を書きましたけれど(参考、異動の季節)、以前に在籍した会社では元々が一般職採用で転居を伴う異動はないという条件であったにも関わらず、当たり前のように飛ばされた人もいたものです。転勤もなしに派遣社員と机を並べて働いているのなら派遣社員に置き換える、正社員である以上は一般職採用であろうと地方へ行けと、そんなところだったのでしょうか。本人の意思に寄らない形で転居を余儀なくされるという点では、正社員と非正規雇用とで「同じ仕事をしているわけではない」と言えるのかも知れません。

 もっとも非正規雇用の場合は転勤させられる代わりに契約を打ち切られて他の新たな非正規雇用に入れ替えられるだけなので、異動絡みではどっちがリスクを強く負っているか甚だ微妙なところです。まぁ、概ね正社員の方が会社から無理を要求されやすい、今となっては女性も正社員として入る以上は相応に仕事に縛り付けられることを余儀なくされるわけで、それなりに正社員と非正規雇用とでは負担が違う、給与格差の正当な根拠となるものもあるとは言えるでしょうか。ただ、何が違えばどれだけ給与が違っても正当化されるのか、その辺は問われるべきです。

 前の会社ではエリア採用で転勤は採用された「エリア内」という規定もあったりしましたが、会社の線引きする「関東エリア」には静岡県東部と山梨、長野に加えて新潟まで含まれていました。東京で就職した「エリア採用」の人でも新潟から静岡に転勤させられるぐらい当たり前です。何とも恐ろしい流動性の高さですね。そうでなくとも取引先の担当者が茨城から神奈川に移動するくらいは普通にあります。そういうのを気にしない人もいれば、嫌がる人もいると思うのですが、では「異動あり」と「転居を伴う異動なし」の雇用形態とで、どこまでの給与格差が妥当なのか、あるいは4月には人事から営業に異動してくる人がいるのですが、こういう畑違いの異動もありの雇用形態と、そうでない場合とで、どこまで給与格差が認められるのか。

 両者に給与格差が存在するのは概ね許されると考えますけれど、「どこまで」という問題も当然ながらあるわけです。現状では二極化が過ぎると言いますか、「何でも雇用側の思うがまま」の正規雇用か、あるいは明日をも知れない非正規雇用で給与は半分以下かの二択に近い、しかも「正社員と同じ仕事をしているのに、給与は半分」みたいな声を利用して正社員側への無理を強めることで二極化をさらに進めようとしているフシすらあります。「準正社員」云々と産業競争力会議で提案をした人もいたそうですが、非正規がバイトなら純正社員はバイトリーダーぐらいの待遇で結局は二極化に変わりがないのではないか、就業希望者が二択を迫られる状況を変えるにはもっと別の何かが必要ではないかと思えてくるところです。

 

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学校に苦情を言うときは気をつけないといけませんね

2013-03-24 23:15:06 | 社会

 先週は福島第一原子力発電所でネズミと推測される小動物が接触して配電盤がショート、停電につながるなんてことがありました。電源復旧後も一部のポータルサイトでは「停電続く」云々とのニュースがトップに掲載されたままで復旧を伝える報道が脇に追いやられていたりして、まぁそれが「ニーズ」というものなのかなと思ったり。ちなみに勤め先では、電力会社ではなく通信事業者相手ですが、鼠害対策を売り込んでいたこともあったんだよという話を聞きました。残念ながらどこからも採用されなかったそうです。結局は「どのレベルまで」ということにもなるのですけれど、鼠害対策にもコストはかかる、コストに見合った結果が得られない、鼠よりも他のリスクを考慮した保安策の方が優先順位が高いと判断されてしまったのでしょう。

 

「娘の骨折、担任のせい」強要未遂容疑で父親逮捕 東京(朝日新聞)

 長女が骨折したのは担任の教師のせいだと小学校に不当な要求をしたとして、警視庁は23日、東京都葛飾区鎌倉1丁目、職業不詳亀山順一容疑者(35)を強要未遂の疑いで逮捕し、発表した。「電話はしたが強要はしていない」と容疑を否認しているという。

 葛飾署によると、亀山容疑者は、葛飾区内の小学校に通う長女が昨年12月に転んで骨折したのは担任が重い荷物を持たせたためだ、として2月20日、50代の女性副校長に電話し、実印を押した文書を出せなどと脅して義務のないことをさせようとした疑いがある。

 亀山容疑者は12月以降、学校を訪れたり電話やメールをしたりして、副校長や担任に「教育委員会に行く」「殴り込みに行くぞ」と伝えてきていたという。

 

 モンスターペアレント、というのは便利な言葉なのかも知れません。このマジックワードを使えば、その人の頭の中では問題が片付いてしまうようですから。なおモンスターペアレントのものとされる逸話の一つに「指揮者役の子供が背中しか見えないから、こちらを向かせろという親」がいたとか。この都市伝説のルーツはどこにあるのでしょうか。意外にオーストリアの名指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン辺りだったらおもしろいなという気がします。カラヤンも演奏中に自身の背中しか見せられないことに不満を持っていたそうで、まぁモンペ云々と喧しくない世界では、ちゃんとカラヤンの不満は解決されるに至ったのですが。

 それはさておき上のニュースはどうでしょう。なんと学校側に不問を訴えた保護者が「逮捕」されるに至ったそうです。どの程度まで学校に「迫った」のかにもよりますが、これで「逮捕」とは随分と酷い話に思えます。昨今はいじめや体罰による生徒の自殺で学校教員側が責められるケースも目立ちますけれど、今回の発端はどれほどのものだったのやら。実際、教員の不適切な指導や不作為によって児童が危険にさらされるケースは珍しくありません。死亡などの重大事故に至れば当然ながら裁判沙汰に発展したり学校に警察が乗り込んだりもするわけで、今回は幸いにして骨折で済んだとしても児童や保護者が深刻な危機を感じていたとしても不思議ではないでしょう。

 その辺は本人の主観に左右されるところが大いにせよ、生徒の怪我に対して学校側の対応は誠意あるものだったのか、もし各種のいじめ/体罰を発端とする自殺事件の舞台となる学校が往々にしてそうであるように、問題を隠蔽しようとするばかりで謝罪も今後に向けた改善策もない、ロクな説明もないとあらば話がこじれるのは当たり前、時には感情的な言葉が飛び出すのも当たり前です。「実印を押した文書」の提出は義務ではないかも知れませんが、それ以前に生徒の安全管理には学校側の責任があります。私だって職務上は、支払いが大きく遅れた顧客に念書の提出を求めたりしたことがあるくらいで(まぁ会社の指示ですけれど)、そこで念書を提出する義務はない!などと言われたら、それはどうなんだろうかと思うところです。

 まぁ逮捕されたからには、保護者側の「迫り方」が相応に度を越したものだったのではないかと推測されます。ただ、その辺は報道されていません(他紙にはもう少し詳しいものもありますが、逮捕する程か?もっと酷いことが学校内では普通に繰り返されていないか?とも)。報道する必要なし、と判断されてしまったのでしょうか。率直に言って、純粋に伝えられた内容だけでは逮捕は過剰な反応に見えます。なぜ逮捕にまで至ったのか、例えば自称経済学者の高橋洋一氏が時計や財布など30万円相当を盗んで警察に取り押さえられるなんてこともありましたが、これですら書類送検のみで「逮捕」には至らずに済んでいるわけです。「逮捕」というのは世間で思われているよりも重いもの、その「逮捕」にまで至るには相応の理由が求められます。しかし、それだけの理由が今回の一件では報道されているのでしょうか? 子供が怪我をして、それで学校と一悶着起こしただけで逮捕? しかも堂々の実名報道ですから家族(児童)にも類は及ぶことでしょう。そこまでしなければならないものとはとうてい考えられないのですが、なんとなく「モンスターペアレントなんだな」というニュアンスを臭わせておけば十分、逮捕(生徒ではなく学校が被害者になるときは随分と早い対応ですね!)も納得と、そういう感覚で話が進められているように思えてなりません。

 

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定年を延長しても新卒採用は減らなかったし、正社員の給与が上がればパートの給与も上がった

2013-03-22 23:12:08 | 雇用・経済

新卒採用「前年並み」38社 14年春、100社調査(朝日新聞)

 4月に、定年後も65歳まで働く場を確保するよう企業に義務づける「改正高年齢者雇用安定法」が施行される。このことが新卒採用数に影響を与えるか聞いたところ、「変えない」が84社を占め、「増やす」も4社あった。「景気の変動によらず一定数を継続して採用する」(住友化学)、「新卒と再雇用者では役割が違う。若手の採用は企業の活力の源泉」(食品)などとする企業が多かった。

 経団連は法改正について、「高齢者を優遇すれば若者を雇いにくくなる」と主張していた。今回の調査で、新卒を「減らす」としたのは1社だけだった。

 

パート時給アップ相次ぐ 大手流通、正社員の賃上げ波及(朝日新聞)

 今春闘では、大手流通やサービス業のパートでも時給を引き上げる動きが続いている。産業別組織UAゼンセン傘下で14日までに妥結した大手労働組合の平均引き上げ額は昨年実績を上回った。正社員で賃上げが実現したことの波及効果が出ている。

(中略)

 この流れを引き出したのが、正社員で相次いだベースアップなど月額賃金の引き上げだ。ゼンセン傘下で14日までに妥結した90労組の引き上げ額は、単純平均で491円(定期昇給相当分をのぞく)。前年同期と比べて162円増えた。

 

 この十数年来の日本経済の衰退を導いてきた改革派に概ね共通する特徴として「分配の問題を労働者間で完結させたがる」というものがあるでしょうか。つまり、人件費の総枠は一定で誰かの賃金が上がれば他の誰かの賃金が下がる、故に正社員が保護されることによって非正規雇用が犠牲を強いられるので正社員は既得権を捨てよ、高齢者の雇用を延長することで若年層の雇用機会が損なわれる、若者が爺婆の犠牲にされている!と説くのが常でした。この世界設定に基づき、非正規雇用の立場を慮る風を装って正規雇用の待遇切り下げを正当化し、若者の味方のフリをして中高年層を罵倒して本当の問題から目を背けさせてきた、これが日本経済において長年続いた「改革」の精神だったと言えます。

 先月には公明党が「労働分配率を高めていくことが大事だ」、今月の頭には財務相の麻生が「労働分配率を考えてもらわないと」と経団連に申し入れたりもしたわけで、まぁ政権交代の前であろうと無能な民主党内閣に変わって動いてくれていても良かったのではないかと思わないでもありませんが、ともあれ「分配」はまず労働者(人事権などない!)間ではなく労使間の問題であるわけです。非正規雇用や若年層の取り分ではなく、労働者全体の取り分が一貫して減らされ続けてきたこと、それこそが最大の癌であり、是正されるべきことなのですから。

参考、自民の方が頼りになっているという現実

 一方で変わらない民主党の細野幹事長は「連合だけを示しているわけではない」「連合だけに依存するのはいいことではない」云々と語り、連合と距離を取る姿勢を強調していました。あくまで分配は労働者間の問題とする日本的改革派の世界観の持ち主にとっては、連合(所属の組合員)を重視することは、そこに所属しない労働者の利益を損ねると言うことにもなるのでしょうか。だから、連合の声を「聞かない」ことが公明正大な振る舞いに思えるのかも知れません。

 しばしば現実は経済誌に書かれた物語とは大きく異なる展開を見せます。冒頭に引用した二つの事例はどれほどのものでしょう。当面の年金支給開始年齢となる65歳までの定年延長を決めた結果は、経団連に限らずコンサルの類や経済誌の受け売りを得意げに披露するだけの人気ブロガー諸々の予想とは全く異なるものです。「高齢者を優遇すれば若者を雇いにくくなる」と、訳知り顔に語る人が幅を利かせてきた一方で、実際に新卒を「減らす」としたのは1社だけだったことが伝えられています。そして正社員の賃上げに引っ張られる形でパートの時給も引き上げる動きが相次いでいることもまた報道されているわけです。

 非正規雇用なり若年層の立場を引き合いに出す手口は、正規雇用者なり中高年層なりを「黙らせる」上で便利に使われてきたとも言えます。非正規雇用のことを考えよと説いて正社員(労組)を引き下がらせ、若年層の雇用機会を奪うなと唱えて中高年以降の雇用を疎かにしてきた、その結果として日本の悲惨な経済衰退があるわけですけれど、この誤りを直視しなければならない時は既に訪れて久しいように思うところです。定年を延長したからと言って若年層の雇用機会が減ったりはしない、正社員の給与が上がったからと非正規が割を食ったりはしない、若年層や非正規雇用が希望の見えない状況に置かれているとすれば、その理由は中高年層や正社員ではなく、もっと他にあるという現実を受け入れた上で、進むべき道が考えられなければいけません。

 

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雇用の無法地帯

2013-03-19 23:14:30 | 雇用・経済

 先日は外国人「研修生」がぶち切れて雇用主を撲殺するなんて事件がありました。率直に言って外国人「研修生」を働かせている事業者は九分九厘が悪質と見なして差し支えないような気がするのですけれど、どうなんでしょうか。NHKの報道によると、福井労働局が県内54の事業所を調べた結果、全ての事業所で労働基準法などの違反が見つかったそうです。とはいえ日本人が働くところでも、うどん店を対象とした香川労働局による調査では40店中36店で労働基準法や労働安全衛生法違反が見つかったとのこと。そんなネタ色を前面に出した調査は別にしても、厚労省の調査によると労働基準法及び労働安全衛生法に違反している企業は約7割程度とされています。まさに日本は雇用の無法地帯ですね。

 日本は雇用(解雇)規制が厳しいなんて、経済誌を読むばかりで外へ出たことがないんじゃないかとしか思えない妄言を繰り返す人もいます。その筋の主張をよくよく聞いてみると、どうにも「合理的な理由があれば解雇できる」とされる国を解雇自由と呼び、「合理的な理由なく解雇できない」とされる日本を解雇禁止の国だと言い募っているようで、まぁ相手にしても仕方ない気がしますけれど、そもそも制度上の問題以前に日本では労働に関する法律が全く以て守られていない無法の世界なのですよね。殺人が禁止されている国で殺人が発生しないかと言えば決してそうはならないように、不当な解雇を制限する規定があるから解雇される人がいないかと言えば、それは全く違うわけです。

 雇用主が責任を持って解雇する代わりに、自主退職に追い込むパターンも非常に多いのですが、「殺人が禁止されているから自殺に見せかけた他殺が多発するのだ!」と主張しては、殺人が許される基準作りを進めよ、殺人規制を緩和せよと説く人がいたら、まぁ頭がおかしいと思う人が多いでしょうか。でも、経済誌や旧態依然たる改革論者の思考パターンはそんなもの、解雇が禁止されているから自主退職への追い込みが起こるのだと説くわけです。自殺に見せかけた他殺がなくなっても、それが公然たる殺人に変わるだけで余計にタチが悪いということを理解したがらない人もいるものです。金融/財政政策では十数年来の方向性をようやく転換して成果を上げつつある安倍内閣も、成長戦略に関しては舵取り役の人選に十数年来の失敗を直視できない従来型の改革論者が目立つところですが……

 何度か書いてきたことですけれど、「なかったこと」にされようとしている日本の過去の一つに、「リストラ」という言葉が流行りだした時代の記憶があります。リストラという言葉が専ら首切りの意味合いで使われ出したとき、真っ先に標的とされたのは中高年正社員でした。そしてリストラの嵐が過ぎ去った後に残されたのは、急増する非正規雇用だったわけです。単なる事業の再編、再構築が目的なら雇用側の裁量権が強く畑違いの異動が当たり前で人員配置の流動性が極めて高い日本で従業員を解雇する必要はありません。しかし人件費の削減、つまりは日本で働く人を貧しくすることが目的となると話は違います。給与の高い層を切り捨てて、安価な非正規への置き換えが進めるのが改革になってしまうのです。

 端的に言って、「正社員が守られなかった」分だけ非正規雇用が増えるわけです。正社員が(雇用だけでも)守られていれば、異動はあっても人の入れ替え即ち非正規への置き換えは必然性を失いますから。しかるに正社員の雇用が守られず、会社の外に放り出された分だけ「代わりに」非正規雇用で補充される、そうして非正規雇用の飛躍的な拡大が続いてきたと言えます。例によって旧態依然たる改革論者は正社員の利益が非正規の不利益につながるかのように見せかけたがるところ、そこから非正規雇用の立場を慮るフリをして正社員の「既得権」とやらを批判するのが常です。しかし、日本の正社員が今以上に法制度上の保護を失えばどうなるのやら。トウの立った元・若者の正社員を解雇して新たに非正規雇用で置き換える、こういう動きが進んだところで非正規雇用で働く人々の地位は改善されるのでしょうか。確実なのは、単に非正規雇用者の割合が増えると言うことだけです。これを「仲間がふえるよ!」「やったねたえちゃん!」と喜べる人はもいるのかも知れませんが、その結果に付き合わされるのは御免ですね。

 

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反原発は遠きにありて思ふもの

2013-03-17 22:58:09 | 社会

岡山への避難者が中四国最多 復興庁まとめで905人(山陽新聞)

 復興庁のまとめ(2月7日現在)によると、東日本大震災で岡山県内への避難者は中四国最多の905人。1年前と比較した伸び率は40%で、中四国で突出して高い。東北地方の被災者の割合は下がり、安心や安全を求める関東地方からの自主避難者が増える中で、災害の少なさや暮らしやすさで岡山が選ばれているようだ。

 復興庁の統計は、市町村の窓口で避難者登録した人が対象。県内への避難者は、昨年2月には646人で、その後も着実に増えてきた。

 中四国の他県では、広島578人(前年比11%増)、鳥取203人(同7%増)など4県が微増か横ばい。徳島88人(同47%減)山口163人(同18%減)など4県では減少している。全国的にも減少する中で、岡山県の伸びが際立つ。

 元の居住地が把握できる総務省・全国避難者情報システム(7日現在)によると、関東からの避難者は55%を占め、東北からの44%を上回る。12年6月に初めて人数が逆転し、関東と東北の人数差は拡大を続けている。

 関東の内訳では、東京、千葉、神奈川、埼玉など南関東が上位を占める。地震や津波の住居被害は少ない地域であることから、大半が福島第1原発事故を受けた放射線被害などを懸念する自主避難者とみられる。

 

 岡山県市町村の窓口で避難者登録した人の数が挙げられているわけですが、「着実に増え」ているそうです。そして「関東からの避難者は55%を占め、東北からの44%を上回る」「関東と東北の人数差は拡大を続けている」「東京、千葉、神奈川、埼玉など南関東が上位を占める」とのこと。南関東は住んでいる人も多い分だけ、おかしな人も多いとも考えられますけれど…… う~ん、「反原発は遠きにありて思ふもの」とでも言った方がピッタリ来るでしょうか。東北地方、中でも福島など原発事故地に近いところでは否応なしに現実に向き合わざるを得ない、一方で南関東となると懸念されているとされる放射線被害云々は想像の中でしか接することのできないものです。そして現実ではなく想像上の産物であるからこそ、際限なく肥大化することも多い、その結果として南関東からの「避難者」が着実に増えているのかも知れません。

 前にも書いたことですけれど、反原発の盛り上がりは、少なからず原発事故そのものの推移とはタイムラグがあったように思います。本当に事態が深刻であった内よりも、福島第一原発そのものが小康状態に落ち着いてからの方が反原発論は沸騰していったのではないでしょうか。東北や福島と、関東中でも南関東との温度差は、そんなところにもあるような気がするのです。現実に向き合わねばならなかった時期あるいはそうせざるを得ない地域と、妄想をたくましくしていられる余裕の生まれた時期及び余裕のある地域、より過激な反応を見せているのは明らかに後者ですよね?

参考、「『脱原発』の人」とは

 ここで一口に「反原発(あるいは脱原発)」との単語が指し示すものも、原発事故後に様変わりしてしまったまま戻ることができていないと言えます。近年、「保守」という言葉は極右レイシストを指して使われることが専らです。かつては「保守本流」などと呼ばれた人々が自民党ひいては日本国政府の中枢で権勢を振るっていたものですけれど、往年の「本流」は現代における「保守」の枠組みから完全に外れてしまっているようで、むしろ現代の「保守」な人々からは諸々の罵倒を浴びせられる対象となっていることが多いほどです。それと似たようなことが「反原発」という肩書きの世界でも起こっているわけですが、これはどうしたものでしょうかね。

 発電手段としての原子力利用に反対であれば「反原発(脱原発)」かと言えば、少なくとも原発事故以降は明白に「違う」と言えます。昔年の保守本流の政治家が現代において保守ではないのと同じ意味で、単に原子力利用に否定的であることが「反原発」であることを指し示さなくなっているわけです。昨今の「保守」な人々が元・保守本流の政治家を罵倒するように、原発事故後の反原発な人々もまた、「単に原子力利用に否定的である人」を誹謗中傷の対象としてきた、その過程で繰り返されるデマやヘイトスピーチの類を容認してきたのですから。

 原発と電力会社に対するネガティヴなイメージを植え付けるためならデマを厭わなかった人もいれば、その誤りを指摘してきた人もいる、放射能の恐怖を煽るべくあれやこれやと話を盛っていった人もいれば、既にこれまでの研究で明らかなことを説明してきた人もいる、脱原発のために犠牲となる諸々から目を背けて原発の脅威を語りたがる人もいれば、そっちの方が余計に危険が増すだろうとリスクを比較する人もいる、そして根も葉もない健康被害の可能性を憂慮するフリをして風評被害を広める人もいれば、市場に出ている産品や宮城/岩手のガレキは何ら問題がないことを説明する人もいました。そしてここで挙げたような振る舞いこそが、現代における「反原発(脱原発)」であるか否かを分けているわけです。

 原子力利用そのものには否定的であっても、原発の脅威を煽るのに協力的でなければ、あるいは脱原発のためにと叫ばれる諸々のフィクションやヘイトスピーチに「それは違う」と声を上げれば、その人は「御用学者」なり「原発推進勢力」「工作員」等々と「反原発」を掲げる人々からレッテルを貼られてきたのが原発事故後2年を経ても尚変わらない現状と言えます。反原発のためにデマを率先して流さずとも、そのデマの誤りを正そうとする人を咎め立てしたり、あるいは「第一に責任があるのは行政と東電であり、第二に責任があるのは原発推進に加担した人々」などと称して風評被害を広めることを正当化したりする人々、これが原発事故後に「反原発」として世間から承認されてきた人々と言えますが、それでいいのでしょうか。まぁ、それを自省するような人であったら、保守本流のハト派政治家が近年の「保守」な人々から浴びせられているような敵意を、同様に反原発な人々から向けられていることと思いますけれど。

 

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もしJR東日本のアナウンスが正直だったら

2013-03-16 23:03:16 | 文芸欄

「次の電車をご利用ください、電車続いてまいります」

 

 

 

「次の電車をご利用ください、電車続いてまいります」と言ったな。あれは嘘だ。

 

 

 

電車は来る・・・・・・!
電車は来るが・・・
今回 まだ その時と場所の
指定まではしていない

そのことを
どうか諸君らも
思い出していただきたい

つまり・・・・
我々がその気になれば
次の電車が来るのは
10分後 20分後ということも
可能だろう・・・・・・・・・・ということ・・・・!

 

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京大は総長の考えが浅はかに過ぎる

2013-03-14 22:48:16 | 社会

京大:教養科目の講義 半分を英語で…5年かけ教員増(毎日新聞)

 京都大は13年度から5年間で、欧米などの外国人教員を約100人増員し、主に1、2年生が学ぶ教養科目の講義の半分を英語で行う方針を決めた。文部科学省によると、国立大では全国初の試み。同大学が取り組む教養教育改革の柱と位置づけ、国際的に活躍できる人材育成を目指す。学内の教員からは「物事の本質を理解させるためにも日本語での授業を減らすべきではない」と反対の声も出ており、議論を呼びそうだ。

 京大によると、現在1、2年生が履修できる教養科目(人文・社会・自然科学)は約1100科目あり、うち約5%の60科目は外国人教員11人が英語で講義している。13年度から国の補助金を活用して英語を母語とする外国人教員を海外の大学などから招き、段階的に英語による講義を増やす。

 京大は93年、「教養部」を廃止し、新たに教養科目を担う総合人間学部を創設した。しかし、学生の学力低下に加え、教養教育が軽んじられる傾向もあり、教養教育の改革に着手。松本紘学長は昨年、改革の目標を「専門分野だけでなく、幅広い教養を身につけ、英語で語ることができる研究者を育成する」とし、教養科目の充実と英語教育の強化を打ち出した。今春、新組織「国際高等教育院」を設置し、教養科目のカリキュラム作成や講義の英語化を進める。

 こうした構想に対し、総合人間学部の広野由美子教授(英文学)は「大学入学直後に日本語ですら難しい教養の講義を英語で理解できるのか。逆に英語コンプレックスを抱きかねず、真の国際人育成につながらない」と疑問を投げかける。

 

 京都大学の総長と言えば、今年の初めには「文明=利便性や技術は進んでいるが、文化=心の世界は必ずしも進歩していない」「今、子どもの育ち方がひずんでいると思います。偏差値一辺倒で、入試の技術だけ身につけて大学に来る」云々とカビの生えた文明論&俗流若者論を披露しては、ちょっとばかり世間の話題を攫った人でもあります。こういう頭の悪い人に上に立たれると、まぁ色々と大変ですね。そしてこの京大総長が改革の名の下で行おうとしているのが、教養科目の講義の半分を英語で行うことだとか。楽天やユニクロの後追いでしょうか。西日本の雄たる京都大学なら、もう少し独自性の一つも出して欲しいところですけれど、まぁトップがアレだと世間の流行廃りに振り回されることにもなるのかも知れません。

参考、京大総長の志が低すぎて痛々しい件

 まぁ、学生の英語力を高めるには良いことなのではないでしょうか。京都大学を巷の英会話学校と肩を並べる存在にしようと、そう松本学長(と毎日に新聞には書いてありますが、正しくは総長のはず。「社長」と「代表取締役」みたいなもの?)は野心を滾らせているようです。しかしまぁ、せっかく京都大学にまで入って、やることの過半が実質的に英語の勉強となろうものなら、私は少なからず損をした気分になりますね。英語を勉強するために京都大学を目指してきたんじゃないぞ、と。確かに民間企業の多くは(マイクロソフトの元日本法人社長が語るように実際に英語を必要とする場面はなかろうとも!)英語のできる人材を欲しがる、有名大学卒の肩書きを持ちつつ中身は英会話学校卒業みたいな新卒を求めているのかも知れません。世間で高い点数が付けられる人物の育成を目標とするのなら、京大総長の方針は間違っていないのでしょう。

 

マイクロソフト元社長が“英語社内公用語化”を批判(新刊JP)

 また、楽天やファーストリテイリングで導入された英語社内公用語化も厳しく批判する。そもそも20代、30代は仕事で覚えなければいけないことが山のようにもある。それにも関わらず、英語の勉強に時間を取られたら、仕事に集中することができなくなる。そんなことよりも、若いうちに身に付けなければいけないのはビジネスマンとしての基礎体力だ。

 

 英語を学ぶのは悪いことではありませんが、それは決して京大でなければできないことではないわけです。普通にやっても目立てない三流大が卒業生の英語力をウリにして色々とアピールしようというのならいざ知らず、京大がやらなければならないことではないだろうと。英語の巧みさみたいな通俗的な価値よりも別の、世間のニーズは狭かろうとも他に類を見ないような独自の価値を打ち立ててこそ、最高学府としての存在価値は示せるのではないかなと私などは思うところです。まぁ京大の総長とは目指しているところが根本的に違うとしか言えませんね。

 ともあれ、従業員の英語力が上がっても仕事ができるようになるわけではないように、学生の英語力が上がったからといって教養が身につくかと言えば、そう都合良くは行かないものなのです。むしろ英語を理解することの方に手一杯で、他に手が回らない学生も多いことでしょう。英語の文献が読めれば研究範囲も広がりますけれど、若いうちに身に付けなければいけない研究者としての基礎体力は決して語学力だけではありません。ただ単に諸々を英語化すれば世間のウケが良いからと学生や社員を振り回したところで、話題を攫うことはできても望み通りの結果を出せるとは、とうてい考えられないところです。むしろ「幅広い教養」云々は、英語というメジャー言語への集約で損なわれるものではないかという気もします。学ぶべきことが無尽蔵にある中、語学の負担割合ばかりを増やした結果が産むのは、英語だけは達者だけれど……みたいな人ではないかと。

 

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異動の季節

2013-03-12 22:56:25 | 雇用・経済

 さて、3月から4月にかけては異動の季節でもあります。私の勤務先もまた例外ではなく通常業務に加えて引っ越し支度や引き継ぎ作業に忙殺されている人も目立つところです。会社都合で住むところまで変えなきゃいけないなんて堪らないなと、それからついでに都心部の大型書店やPCパーツ取扱店から引き離された生活なんて受け入れがたいと学生時代は思っていたもので、そもそも転勤先となる支社/支店が存在しない小さな企業に敢えて応募したりもしていました。昨今は学生に中小企業を勧めるのがトレンドで、考えの足りない政治家までもがコンサルの真似をして「中小企業にも目を向けてはどうか」みたいなことを言い出す時代ですけれど、大企業に入れる機会(新卒の時期を逃せば……)がありながら中小を選ぶメリットなんて、この転勤リスクの多寡ぐらいのものではないでしょうかね。もっとも私は小さい会社に応募しても、やっぱり不採用でした。中小に目を向ければ解決されるとか、そういう問題ではないですから。

 もはや若くもない今となっては大企業など縁遠い存在ですが、住環境や通勤環境への不満は募るばかり、かつ実店舗より通販やダウンロード販売を利用する機会が専らとなりつつあるだけに、むしろ地方都市も悪くないかな、と思えてきたところです。農村部はともかくとして、県庁所在地周辺の地方都市ならどうだろう、福島辺りには良い感じに入り込む余地がないかなとも考えたのですが――web上で求人事情を見る限り、そんなことはありませんでした。う~ん、人が集まらない地域には理由があると言いますか、復興特需云々で見せかけ上の求人倍率が上がっていても、一時的な仕事ばかりで将来の展望が見えないようでは、敢えて選ぶのは難しいです。

 とりあえず今の自分は非正規雇用なので人事異動とは無関係――と言い切れれば良いのですけれど、実のところ上司(部門長)の異動は派遣社員などの非正規雇用が入れ替えられる契機となりやすいのです。折り合いの悪くない上司が取り仕切っている内は何の変化もない日々だったのが、新たな部門長の着任で一転、変革の名の下で非正規雇用が入れ替えとなる、担当業務はそのままに、既存の派遣社員を雇い止めにして新たな派遣社員に置き換える、謂わば「雇い替え」が結構な確率で行われるわけです。私としても遠からぬ未来に備えて次の職場を探さねばならないところ、しかるに何か条件が好転するような転職先となるとこれまた絶望的で……

 有期雇用の期間制限のために派遣社員や契約社員などの非正規雇用が職を失っているかのようなファンタジーを語る人も目立ちます。もっともホワイトカラーの派遣社員の世界では期間制限の対象外となる業種で働く人が多数派を占め、私も期間制限対象外の枠でしか働いたことがありませんし、知り合いもだいたいはそうです。しかし、実際は3年も雇用が継続されることなどなかったりします。事前面接の際には「できるだけ長く働いて欲しい」などと言われるもの、ナイーブな人はこの口約束を信じて、法律上の期間制限が撤廃されれば「永遠に非正規のまま」雇用が継続されるかのような幻想を抱いてしまうのでしょうか。少なくとも、そう信じ込ませたがっているコンサルタントやエコノミストの類は後を絶ちません。しかし、期間制限どころか人員削減以上に非正規で働く人々の雇用を危うくしているのは、実は組織変更であり、経営陣の改革ごっこであるように思えます。

 正社員の異動は何度となく見てきたところですが、往々にして余剰人員を人員不足の部署へ移したり、将来有望な新規プロジェクトに人を集めたりするのではなく、単に社員を振り回しているだけ、単に従業員のシャッフルになっているだけではないかと首を傾げるケースが専らです。本社と支社間で人を入れ替えするだけ、顔ぶれを変えているだけで組織の比重や役割は変わらない、ただただ負担を増やし職場をかき回しているだけの無駄な異動が、あまりにも目立つのではないかと。実際、異動によって各部署の業績が向上したかと言えばさにあらず、結果は何も変わらないまま異動の対象となった社員が苦労するだけで終わっていることも多いです。

 畑違いの異動も、割と多いように思います。総務部門から営業職に異動してきたり、あるいは技術部門から管理業務に移ってきたりと、必ずしもそれまでのキャリアの延長線上にあるとは言いがたいポジションへの異動も決して珍しくないわけです。ヨーロッパですと特定の仕事を同じ人が担当し続けることが多い云々とも聞くところ、一方で日本は「総合職」ですから基本的に「何でもアリ」なのでしょう。特定業務のスペシャリストとして異動とは無縁のキャリアを築くことは日本では難しい、あくまでゼネラリストとして雇用主の命じるところはどこへでも飛んでいくことが日本の職場では求められる、自分は技術者、自分は経理が専門などとは言っていられないのです。

 雇用側の裁量権が強く、異なる領域への異動(時には出向/転籍)が容易な日本的雇用の下、必然的に求められるものが大きくなる従業員の負担は増すばかりですが、まぁ経営側から見れば色々とやりやすいのかも知れません。何か業態を変えよう、既存の主力事業は先行きが暗いから成長が期待される分野へ新たに比重を移そうと考えたとき、スペシャリスト集団ではそれに対応するのが難しくなります。しかし日本的なゼネラリストの集まりであれば、新たな分野への人事異動は容易いことです。我が国の雇用の特質として、人員の流動性が極めて高く変革に適している、変革に時間を要さないというものが挙げられるでしょうか。しかるに経営側が単に人を入れ替えただけ、非正規雇用をも巻き込んで従業員をシャッフルしただけで何かを変えた気分に陥ってしまうと、全く以て宝の持ち腐れ、衰退産業から抜け出せないまま後は人件費を切り詰めるばかりというジリ貧状態へ落ち込んでしまうわけです。

 

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